233話:(1876年3月)春の開拓、屯田兵の村
雪解けの音が大地に満ちる三月。北海道の長い冬を越えた原野は、まだ白の名残を抱えながらも、確かに春の息吹を取り戻していた。凍りついた川面が少しずつ割れ、流れる水が太陽を映して眩しく輝く。その川沿いに、木材を積み上げ、整然と組み立てられる新しい村の骨組みが立ち並んでいた。屯田兵の村――。日本の未来を守り、同時に拓くための拠点である。
工事現場では、兵士でありながら農夫でもある屯田兵たちが、黙々と作業を続けていた。軍服の上から分厚い羽織を羽織り、片手に鍬、もう片手に銃を置きながら、家屋の基礎を築いていく。農具と武器――相反するはずの二つが、この土地では矛盾なく共存していた。
「杭をもっと深く打ち込め! 霜が降りても揺るがぬように」
監督役の声が響く。鍬を振るう者、斧で丸太を割る者、馬に荷を引かせる者。彼らの額から流れる汗は、まだ冷たい空気に蒸気を立てて消えた。だがその表情に疲労はなく、むしろ「ここが自分たちの家となる」という誇りが滲んでいた。
村の中央には広場が設けられ、そこに建つべき会所と学校の基礎工事が進められている。学校は、兵士の子だけでなく、開拓に加わる民間人の子供たちも通うことになる予定だった。清水昭武開発大臣は、軍事と開拓を融合させた屯田兵制度を単なる防衛策に留めず、「生活共同体」として成り立たせようと設計していた。
昭武は、札幌開拓使庁舎の完成を確認したばかりであった。煉瓦造りの庁舎は北の空に赤茶の輪郭を映し出し、役人たちが次々と出入りしている。彼は窓辺に立ち、遠くに広がる原野を見やりながら、低く呟いた。
「ここから先は、兵だけでは拓けぬ。家族と子供、そして制度が支えねばならぬのだ」
―――
村の一角では、農地を拓く作業が始まっていた。まだ根雪が残る大地に、斧を振るい、鍬を振り下ろす音が響く。太い根を断ち切り、黒い土を露わにしていくと、そこから春の匂いが立ち上った。屯田兵の若者が土を掬い上げ、笑みを浮かべる。
「この土なら、麦も稲もよく育つだろう」
その声に周囲の仲間たちが頷いた。彼らは単に命令でここに来たのではない。江戸から遠く離れた北の大地に、自分たちの未来を築くために集ったのである。
さらに進んだ場所では、仮設の診療所が建てられつつあった。ここには、江戸から北里柴三郎の研究所で作成された「感染症予防マニュアル」と「衛生教育プログラム」が届いていた。現地医官がそれを手に取り、兵たちに講義している。
「まず手を清潔に保て。水が凍る時期でも、必ず溶かして洗浄を欠かすな。食器は煮沸し、井戸は必ず覆いをせよ」
兵士たちは真剣に耳を傾け、頷きながら記録をとっていた。従来、軍隊を最も苦しめたのは敵兵ではなく病だった。しかし、この村では違う。病気を未然に防ぐ仕組みが、制度として組み込まれていたのだ。
―――
昼下がり、広場に兵と民が集まり、清水昭武が姿を現した。背後には完成間近の庁舎と村落があり、その光景を背景に彼は力強く語った。
「ここ北海道は、日本の北の盾である。同時に、新しい生活の舞台でもある。武を以て守り、農を以て生きる――その二つを両立させるのが屯田兵の使命だ」
兵士たちの顔に誇りの色が浮かぶ。子供を抱いた妻たちもまた、その言葉に安心の表情を見せた。
「開拓は厳しい。寒さ、雪、孤独。しかし、お前たちには仲間がいる。国がいる。そして未来がある」
昭武の言葉に、広場は静まり返り、その後に力強い拍手が響き渡った。
―――
日が傾きかける頃、村の子供たちが雪解けの川辺で遊んでいた。氷のかけらを投げ合い、泥にまみれながら笑い合う。その中に、江戸から視察に来た役人が立ち止まり、感慨深げに呟いた。
「この子らが大きくなれば、この村は真の意味で根付くのだろうな」
確かにその姿は、未来の希望そのものだった。屯田兵制度は単なる軍事的な防波堤ではなく、人と土地と制度を結ぶ「共同体」の基礎となりつつあった。
北海道の空は高く、春の光を受けて輝いていた。
札幌庁舎に届いた一通の分厚い封筒は、江戸の北里柴三郎研究所から送られたものであった。封蝋を解くと、中には細かく刷られた「感染症予防指導書」と「栄養管理要覧」、さらに絵図入りの「衛生教育教材」が収められていた。
「遠く離れていても、江戸から我らを支えてくれる……」
医官の一人が感慨深げに呟き、すぐさま屯田兵の詰所へと教材を持ち込んだ。
―――
その夜、屯田兵たちが松明の下に集められ、即席の衛生講義が始まった。黒板代わりに立てかけられた板には「手洗い」「煮沸」「清掃」と大きな文字が墨で記されている。
「まず第一に、手を洗うことだ。冷たい水しかなくとも、必ず洗え。湯を沸かせるなら煮沸しろ」
医官が声を張ると、兵士たちは真剣に頷いた。これまで戦場では、負傷よりも病が兵を奪った。しかし北里の指導書には、病気を防ぐための具体策が体系的に示されていた。
「第二に、食器や調理具は必ず煮沸せよ。井戸の水は覆いをし、雪解け水は濾してから飲むこと」
簡素な言葉でありながら、兵士たちにとっては新鮮な知識だった。
「これでは、軍医がいなくても病気を避けられるな……」
誰かが漏らすと、周囲から同意の声が上がった。
―――
昼間には、栄養管理の指導も行われた。北里がまとめた指導書には、麦や大豆を中心に据えた食事表が描かれていた。
「米ばかりでは体がもたぬ。豆を摂れ、野菜を摂れ。冬には干し大根や漬物を欠かすな」
医官が解説する。兵士たちは配給米袋の横に置かれた大豆や乾魚を見つめ、頷き合った。ある若い屯田兵は、帳面に食事表を書き写しながら呟いた。
「これを守れば、農作業も軍事訓練も力が続くはずだ」
―――
やがて、北里が送った「衛生教育教材」が子供たちの手にも渡った。素朴な絵と簡単な文字で「うがいをしよう」「手を洗おう」と描かれた紙を前に、屯田兵の子供たちが声を合わせて読み上げる。
「う・が・い!」「て・あ・ら・い!」
まだ幼い声が雪解けの空気に響く。大人たちはその光景を見守り、胸の奥で安堵の息を漏らした。病を未然に防ぐ力は、次世代にも着実に伝わり始めていた。
―――
数か月が経ち、札幌庁舎に再び報告が集まった。
「屯田兵村の発熱者、ほとんどなし」「肺病の発症率、江戸より低し」
驚くべき数字が並び、清水昭武は報告書を閉じながら深く息を吐いた。
「兵士の死亡率が一般人口より低い……これこそ北里の功績だ」
昭武はそのまま江戸へ電信を打ち、成果を報告した。江戸城で報を受けた藤村もまた、静かに頷いた。
「兵の命を病から救うこと、それ自体が国防である」
北里が江戸に居ながら築き上げた遠隔医療体制は、広大な北海道に根を下ろしつつあった。
江戸城西の丸の一室。障子越しの春光が畳に柔らかく落ち、文机の上には分厚い原稿束が並べられていた。そこに座るのは、内務省で衛生局を任されて間もない若き後藤新平であった。まだ二十代半ばの青年ながら、その筆は迷いなく走り、次々と条文を書き連ねていく。
「労働時間は一日十時間を限度とすること」
「未成年者は重労働に就かせてはならない」
「女工には休養日を保障すること」
一つひとつの条文が、当時の世の常識を覆す革新性を秘めていた。
―――
部屋の隅に控えていた藤村晴人は、その条文を一瞥すると静かに頷いた。彼の胸には、令和の知識から学んだ産業革命期の悲惨な労働環境が鮮烈に刻まれていた。子供が工場で過労死し、女工が肺病に倒れ、事故で多くの命が奪われた歴史――。その惨状を日本で繰り返すわけにはいかない。
「後藤、これはただの条文ではない。人の命を守り、国の力を未来へつなぐ礎だ」
藤村の言葉に、後藤は筆を止めて深く頷いた。
「はい。労働が搾取ではなく、生きる支えとなる世を作りたい。働く者が誇りを持てる国こそ、真に強い国だと思うのです」
―――
数日後、江戸城内の会議室に諸役人や商人代表が招集され、「労働基準草案」の読み合わせが行われた。木札に墨で書かれた条文が壁に掛けられ、後藤が朗々と読み上げる。
「事故が起きた際、工場主は医療費を負担すること」
「賃金は銀貨で直接労働者本人に支払うこと」
場内にざわめきが広がった。ある商人が顔をしかめ、声を上げた。
「これでは我らの負担が増えるではないか。利益が削がれては商売が立ち行かぬ」
すかさず藤村が扇を畳んで一歩前に出た。
「短視眼的な利益は国を弱める。事故や病で働き手を失えば、結果として商売も立ち行かぬのだ。労働者を守ることは、商人自身を守ることに通ずる」
その言葉に会場は静まり返った。やがて別の商人が口を開いた。
「……確かに、働き手を守れば熟練の技も守られる。ならば長期的には利益となろう」
小さな同意の声が次々と広がり、反対の空気は少しずつ溶けていった。
―――
やがて後藤は、法の序文に自らの筆でこう書き加えた。
「労働は国の礎なり。これを守るは国を守るに等し」
その筆跡を見届けた藤村は、胸の奥で静かに確信を深めた。
「この青年こそ、日本を近代的な社会国家へ導く存在になる……」
外では桜の蕾が膨らみ始めていた。新しい法制度の芽もまた、確かに膨らみ、やがて花を咲かせようとしていた。
春の空気が江戸にも漂い始めた頃、常陸から届いた便りと並んで、経済界をざわつかせる知らせが広がっていた。渋沢栄一が新たに「建設会社」を立ち上げ、全国規模でのインフラ整備事業に本格参入したのである。
その日の江戸城議場、財務・開発両部局の役人たちが集められ、藤村晴人の前で渋沢が立ち上がった。
「殿。これまで鉄道・港湾・上下水道、それぞれ個別に請け負われてきた事業を、私は一つにまとめたいと思います。専門の技師と資本を集約し、効率的に進めるための『建設会社』でございます」
机の上には洋書から写し取った図面や、費用試算の書付が並んでいた。蒸気機関を用いた掘削機、石造橋梁の施工法、西洋式排水管の敷設図――すべて最新の知見を咀嚼し、日本流に適用したものであった。
藤村は扇を軽く叩き、静かに問う。
「資金の調達はどうする」
「鉄道債と同様に、民間からの出資を募ります。ただし政府の監督を受け、乱発を防ぎます。利益は出資者に配分しつつ、余剰を再投資する循環を作ります」
その明快な答えに議場がざわめき、やがて肯定の声が広がった。藤村は短く頷き、決裁の朱印を押した。
―――
一方、北の札幌。清水昭武は新設の開拓使庁舎にて、屯田兵制度の統括会議を開いていた。雪解けの季節を迎え、開拓と農耕の準備が一斉に始まろうとしていた。
机上には北海道全域の地図。赤線で区切られた区域が、屯田兵村の予定地を示していた。
「まず石狩平野に十村を配置する。農地と防衛を兼ねるため、道路を碁盤の目に敷き、中央に兵営兼集会所を置く。村落の周囲には林を残し、風雪を防ぐと同時に資材供給源とする」
昭武の声は冷静でありながら熱を帯びていた。彼は開拓だけでなく軍事をも統合する制度設計を、現場の経験と欧州からの報告書とを突き合わせながら進めていた。
傍らに控えていた榎本武揚が感嘆の息を漏らす。
「流石は殿。村の配置そのものが防衛線となりましょう」
昭武は頷き、さらに続けた。
「江戸からは北里の衛生指導が届き、後藤の労働法制が支えてくれる。こちらは寒冷地に適応した住居と農具を工夫せねばならぬ」
窓の外では、屯田兵とその家族が雪をかき分け、木材を組み上げていた。煙突からは白い煙が立ちのぼり、凍てつく空気に生命の気配を添えていた。
―――
江戸と札幌。渋沢と清水――。それぞれの現場で新しい体制が動き出していた。
藤村は報告を受け取ると、深く息を吐き、心の中で静かに言葉を結んだ。
「産業と開拓。両輪が噛み合えば、この国はさらに遠くへ進める……」
江戸の藤村邸。庭には梅の花がほころび、春の香りが漂っていた。遠く北海道の報せを受けたその夜、藤村は家族と共に食卓を囲んでいた。
義信(11歳)は手にしていた屯田兵制度の報告書を机に広げ、真剣な眼差しで父に問いかけた。
「父上、この制度では村の配置が防衛線になるのですね。兵力の数字だけでなく、地形や補給を組み合わせて戦略を考える……まるで現代の軍制そのものです」
その口調は既に少年を超えていた。彼は北里から送られてくる衛生指導要綱にも目を通し、軍事組織運営と医学的支援を結びつける分析を始めていた。藤村は頷きながらも、義信の鋭さに一瞬戦慄を覚えた。
久信(10歳)は別の机で、後藤新平が起草中の「労働基準」草案を読み解いていた。指で文字を追いながら、難しい顔をして母に話しかける。
「母上、この法律ができれば、子どもや女性も守られるのですね。みんなが安心して働ける仕組みを作ることが、国を強くする……僕はそう思います」
その言葉は幼さを残しつつも、すでに行政官の萌芽を感じさせた。篤姫は微笑み、「久信、お前の目は人を守る目だね」と優しく撫でた。
その横で義親(4歳)が地図帳を広げ、小さな指で北海道の石狩平野を指した。
「父上、屯田兵村の配置は効率的ですが、防風林を交互に配置した方が雪害を防ぎやすいのではありませんか」
大人顔負けの発言に、一瞬その場が静まり返った。義信と久信が顔を見合わせ、藤村も思わず苦笑した。だが心の奥では冷たい衝撃が走った。
――四歳児の言葉ではない。この子は、既に未来を見通している。
藤村は内心で呟いた。
「義信は軍略を、久信は法を、義親は理を……。この三つの力が揃えば、国家を導く三本柱となる」
障子の外では、春の夜風が庭の梅を揺らしていた。家の中の子どもたちの声と外の自然のざわめきが交錯し、藤村の胸に確かな未来の鼓動を刻んでいた。
その夜更け、藤村は書斎に籠り、蝋燭の火を見つめていた。机の上には、清水昭武から届いた開拓報告、北里からの衛生指導書、後藤の労働法草案、そして子どもたちの走り書きしたノートが並んでいた。
「江戸にいながら、北海道の鼓動が聞こえる……」
彼は静かに呟いた。屯田兵制度は軍事と開拓を兼ね備え、北里の衛生理論は兵の命を守り、後藤の法制度は労働者を守る。すべてが糸のように繋がり、ひとつの網を編み上げていく。
思い返せば、わずか十数年前までは、内戦の影と借財の山に押し潰されかけていた国であった。それが今や、北方には屯田兵の村が芽吹き、中央には労働法制の種が蒔かれ、医学と衛生の光が人々を照らしている。
藤村は胸の奥で、子どもたちの言葉を反芻した。義信の軍略、久信の法理、義親の理知――幼い声のひとつひとつが、未来を先取りするように響いていた。
「国家の舵取りは、もはや私一人の手には余る。だが、次の世代が必ず担うだろう」
墨をすり、和紙に筆を走らせる。宛先は清水昭武。そこにはただ一行、力強く書き記された。
――北の村々は未来の礎である。軍と民を共に守り、労働と理を育てよ。
筆を置いたとき、蝋燭の火が大きく揺れた。春の夜風が障子を鳴らし、どこか遠くで太鼓の音が響いた。北も南も東も西も、この国全体が新しい律動を刻み始めていた。