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230話(1875年10月)条約と国際展示

秋の江戸は、澄み切った青空と乾いた風が街を包み、城下の並木道には色づいた木の葉が舞い落ちていた。その中心で、歴史的な催しが幕を開けようとしていた。

 国際展示会――。

 日本で初めて、欧米列強と肩を並べる形で開催される大規模な博覧の舞台である。城内の一角を大改装して設けられた展示会場には、国内外から集まった外交官、学者、商人が続々と姿を見せていた。


 正面玄関には「科学と文明の力を世界へ」と金文字で刻まれた額が掲げられ、来場者は一歩足を踏み入れるごとに、これまで抱いてきた「東洋の一国」という先入観を覆されていった。広間に整然と並んでいたのは、日本の最新研究成果と社会制度の結晶であったからだ。


 まず目に入るのは、北里柴三郎の細菌学研究展示。巨大な顕微鏡の模型と、最新式のガラス容器に保存された標本。パネルには「コレラ菌単離成功」と明記され、学者たちが息を呑む。史実よりも十年も早く、日本の若き学者が世界を震撼させる発見を成し遂げたのだ。

 北里は壇上に立ち、透徹した声で説明した。

 「ここに示すのは、肉眼では見えぬ病の原因。人はこれを“見える敵”として扱えるようになりました」


 聴衆の間から驚嘆のざわめきが走る。ドイツの医学使節団の代表は、立ち上がって顕微鏡に顔を寄せると、深い息を吐きながら仲間に囁いた。

 「信じられん……東洋に、我々を凌駕する研究があるとは」


 その隣の展示室では、後藤新平による上下水道改革計画が公開されていた。精密な模型の中には、地下に張り巡らされた水道管と下水管の立体模型が配置され、来場者は水の流れを追体験できる仕掛けになっている。

 後藤は自信に満ちた表情で言葉を添えた。

 「清潔な水の供給こそが文明国の証です。これによってコレラも、チフスも、赤痢も克服できるでしょう」


 欧米から来た行政官たちは互いに視線を交わし合い、口々に評価を漏らした。

 「この設計図は、我々の最新技術をも凌ぐ……」

 「これを各都市で実現すれば、感染症は激減するに違いない」


 展示会の視察を終えた外国の要人たちは控室に集まり、密やかに意見を交わした。

 「条約の更なる強化が必要だ。これほどの国と、旧来の取り決めのままでは不十分だ」

 「互いに利益を拡大できる新たな協定を結ぶべきだ」


 彼らの会話は、すでに日本を「学ぶ側」ではなく「共に協力すべき相手」として扱うものに変わっていた。


 場外では、渋沢栄一による新会社設立の報告も発表された。証券会社、倉庫会社、保険会社……展示会を契機に次々と事業が立ち上がり、来場した商人たちはその度に帳簿を取り出しては投資の可能性を検討していた。

 「条約も、経済も、日本が世界と同じ舞台に立ったのだ」

 藤村はその光景を見つめ、胸の奥に確信を刻んだ。

午後に入ると、展示会場の一角で各国の外交官たちを集めた会合が開かれた。江戸城の外交庁舎から派遣された陸奥宗光外務大臣が正装で現れ、落ち着いた口調で語り始めた。


 「諸君、本日の展示は、単なる技術披露ではありません。我が国が国際社会において、対等な友人であることを示す場なのです」


 言葉は柔らかであったが、その背後には明確な戦略があった。日本が自らの成果を誇示することで、従来の「周縁の一国」から「世界秩序を共に築く一員」へと印象を一変させる――その狙いである。


 陸奥が机上に広げたのは、北里の研究成果と後藤の上下水道計画を組み込んだ「衛生条約案」だった。これは通商に付随して、防疫協力や衛生技術交流を各国と結ぶ新型の条約である。各国代表は顔を見合わせ、やがてイギリス公使が口火を切った。


 「我が国もアジアに港湾を抱えるが、感染症の流行には手を焼いている。もし日本の衛生工学を共有できるなら、双方に利益がある」


 フランス代表も頷き、資料を手に取りながら言った。

 「水道整備の設計図は、我々の技師にも衝撃を与えた。ぜひ共同研究を進めたい」


 会場に漂う空気は、もはや日本を後進国として指導するものではなかった。対等の相手、時に学ぶべき相手――その視線の変化を、藤村は壇上から確かに感じ取っていた。


―――


 一方、展示会場の商業ブースでは熱気が最高潮に達していた。渋沢栄一が中心となって設立した新会社の説明会には、国内外の商人が殺到していた。


 「我が社は証券取引を開始し、鉄道、造船、医薬、保険など多様な事業へ投資を可能とする。資本の流れを一箇所で管理する仕組みだ」


 渋沢の声に合わせて、大きな黒板に資金の循環図が描かれる。投資が会社を育て、会社が利益を生み、それが再び投資へと還元される。明快な説明に、商人たちの表情は次第に熱を帯びていった。


 「株式……なるほど、これなら大規模な工場建設も可能だ」

 「保険制度も導入するというのか? それならば航海の損失も補える」


 外国人商人すらも驚きの声を上げた。とりわけイギリスの商社代表は帳簿を閉じて笑い、

 「ついに日本も資本主義の舞台に立ったな」

と漏らした。


―――


 夕刻、会場外の広場には大きな人だかりができていた。市民向けに公開された展示スペースには、北里の顕微鏡や後藤の上下水道模型が据えられ、子どもから老人までが熱心に見入っていた。


 「病気のもとは小さな虫なんだってさ」

 「水道を引けば、町の井戸水よりずっと清潔になるんだ」


 人々の素朴な声に、藤村は深い感慨を覚えた。技術や理論は国家を動かすが、それを日々の暮らしに取り入れるのは民衆である。彼らの理解と共感なくして、近代国家は成り立たないのだ。


 夕暮れの鐘が鳴り響く中、藤村は独り言のように呟いた。

 「外交も、経済も、科学も――すべては人の暮らしのためにある」


 その言葉は、夜風に乗って展示会場のざわめきへと溶け込んでいった。

翌日、江戸城の学問所では、展示会の余韻をそのまま持ち込んだような熱気が漂っていた。慶篤が講壇に立ち、黒板に大きく「国際法」と書きつけると、若い書役や学生たちの目が一斉に輝いた。


 「昨日、諸君も目の当たりにしたであろう。日本はすでに、欧州諸国と対等に議論し、協力できる立場にある。だがその力を正しく用いるには、理論が必要だ」


 彼はチョークを走らせながら、三つの原則を示した。

 ① 国家の独立と平等

 ② 条約の拘束力

 ③ 外交の透明性と記録


 「この三つを守らぬ国家は、どれほど強力な軍を持とうとも信頼を得られぬ。逆に、理を備えた小国は、大国をも動かすことができる」


 若者たちは必死に筆を走らせた。昨日見た展示会の光景――欧米の学者や外交官が日本の成果に驚き、協力を求める姿を思い返しながら。


―――


 その頃、北海道札幌では清水昭武が同じく講義を行っていた。広間に掲げられたのは、イギリス、フランス、プロイセンの財政・外交年表だった。


 「イギリスは海を制し、フランスは技術で革新を続けた。だが彼らが歩んだ道には必ず膨大な財政負担があった。国際的地位を保つには、経済の裏付けが欠かせぬ」


 清水は扇をたたきながら言葉を区切った。

 「我らが特異なのは、財政再建と同時に外交の地位を高めつつある点だ。債務はすでに縮小し、展示会で示したのは『国力の余裕』にほかならない。これは世界史的にも稀な快挙だ」


 居並ぶ開拓使や若い技術者たちが頷いた。北の大地での資源開発と、中央での外交・科学の進展が一体であることを、誰もが実感していた。


―――


 夕刻、藤村邸。広間の机には展示会で使われた資料が広げられ、家族もそれを囲んでいた。


 義信は資料を片手に、難しい顔をしていた。

 「父上、この上下水道の設計……圧力計算は正しいのですか? 流速の変化を考慮すると、もっと効率的に水を送れるのでは」


 その言葉に、篤姫も久信も目を丸くした。福沢諭吉の指導の下で学んでいる義信の知識は、すでに大人の議論に迫る鋭さを持っていた。


 久信は条約書の模写をしており、墨で丁寧に署名欄を書き写していた。

 「兄上は計算ばかりだが、僕はこういう書式の重みを感じます。署名一つで国の約束が決まるんですよね」


 藤村は二人のやり取りを微笑ましく眺めながら、幼い義親を抱き上げた。まだ三歳に満たぬ子が、展示会の図版を指差しながら小さな声で「細胞……」と呟いた時、藤村の背筋に戦慄が走った。


 ――この子は義信をも凌駕するかもしれぬ。


 彼は胸の内に秘めた決意を強くした。未来を担う世代へ、知識と経験を惜しみなく伝えること。それが自らに与えられた使命だと。


―――


 夜半、藤村は右筆を呼び寄せた。机上には、かつて令和の時代に使ったiPadから書き出させた膨大な記録が積まれていた。


 「この知識は秘中の秘。だが、次の世代に託さねばならぬ時が来る」


 炎の揺らめきに照らされた藤村の横顔は、疲労をにじませつつも、確固たる決意に満ちていた。

秋の冷たい風が江戸城外交庁舎の回廊を吹き抜けた。展示会の熱気が収まらぬうちに、各国使節団との条約交渉が次々と進められていた。広間の壁には大きな世界地図が掲げられ、そこに赤線で新しい航路や通商範囲が書き加えられている。


 慶喜は国家元首として正装の裃をまとい、堂々と壇上に立った。

 「本日ここに、我が国と欧州諸国との間で、新たな通商協定が締結された。関税自主権は完全に我が手にあり、輸出入は我らが定めた規則で動く。これは、国際社会における我が国の真の独立を示すものである」


 場内に集う議員や官僚から拍手が湧き上がった。最初から対等であった日本が、今やさらに一歩進んで「主導権」を握る立場に立った瞬間だった。


―――


 その一方で、経済界も動き出していた。


 坂本龍馬と岩崎弥太郎は外交庁舎に隣接する会議室で、商人や官僚を前に演説していた。机上には分厚い契約書が広げられ、鮮やかな朱印が並んでいる。


 「今回の朝鮮遠征と条約締結で、軍需品や交易品の流れは爆発的に増える。われらが担うのは、その物流を独占的に支える事業だ」


 岩崎は扇を閉じながら、淡々と数字を読み上げた。

 「大砲、船材、薬品、衣料……供給を一括で引き受けることで、価格は安定し、利益は国家と我ら双方に還元される」


 坂本は力強く付け加えた。

 「これはただの商売じゃない。国を背負う商売だ。日本の交易を我らが守り抜く」


 若い商人たちはその言葉に奮い立ち、席を立って次々に契約書へ署名していった。


―――


 別室では渋沢栄一が静かに語っていた。机上には新設予定の「国立銀行」の設計図と帳簿が広がっている。


 「これまでの造幣と通貨制度に加え、銀行が本格的に機能すれば、資金の流れは格段に効率化される。商人も農民も、預けた金が安全に運用され、必要なときに融資を受けられる。これこそ産業を飛躍させる装置だ」


 藤村が横で頷き、扇で机を軽く叩いた。

 「渋沢、君が吸収した知識をここで爆発させよ。銀行が機能すれば、鉄道も造船も産業も、すべてが一つの血脈で繋がる」


 渋沢の目が燃えた。

 「はい。造幣局の金貨、港の収益、保険や証券と連動させて、近代的な金融体系を作り上げます」


―――


 夜、外交庁舎の窓越しに月が照らし出す中、藤村は深く息を吐いた。


 「条約改正は終わりではない。これからは我らが条件を示し、他国がそれを受け入れる。金融、産業、軍事、外交……すべての歯車を一つに組み合わせ、日本は世界を牽引する国となる」


 その言葉に居並ぶ者たちは一斉に頭を垂れた。


―――


 この日、日本はもはや「新興国」ではなかった。

 条約交渉の場で堂々と条件を突き付け、銀行制度を創設し、商人と政治が一体となって動き出す。


 その光景は、数年前には誰も想像できなかった近代国家の姿だった。

秋の夜、江戸の藤村邸。障子の外からは遠く祭囃子の残響と、外交庁舎の灯がまだ煌々と輝いているのが見えた。国の政治と経済が劇的に動いているさなかであっても、家の中には柔らかな灯火と家族の温もりが満ちていた。


 義信は机に広げた分厚い条約文の写本に目を通していた。漢文と和文が並記され、所々に外国語の表記も添えられている。

 「父上、条約文というのは、言葉一つで意味が大きく変わるのですね」


 藤村は頷き、扇を閉じながら答えた。

 「そうだ。だからこそ慎重に書かれねばならぬ。誤れば一国の未来を縛る。義信、お前がその重みを理解しているなら、すでに半分は学者の域に達している」


 義信は誇らしげに微笑み、再び筆を走らせた。わずか十歳にして、すでに国際法の基礎を自分の言葉でまとめようとしていた。


―――


 傍らでは久信が、渋沢から渡された帳簿の抜粋を広げていた。数字がびっしりと並んだ収支表に、彼は一心に算盤を弾いている。

 「父上、ここが黒字なら、この事業は続けられるってことですよね」


 「そうだ、久信。数字は嘘をつかない。だが、数字をどう読むかは人の才覚次第だ」


 藤村の言葉に久信の目が輝いた。兄と違い、彼は理論よりも数字と人心の結びつきを直感で掴む。誰に教わるでもなく「この数字が示す未来」を思い描こうとする姿は、人望家としての素質そのものだった。


―――


 義親は母の膝に座り、展示会から持ち帰られた分厚い冊子を指でなぞっていた。まだ三歳の幼子が、コレラ菌の図解に目を止め、細い声で言葉を発した。

 「ここ、どうして壁があるの?」


 その問いに篤姫もお吉も一瞬息を呑んだ。幼い子の問いかけは、まるで研究者が投げかける専門的な疑問に酷似していたからだ。


 藤村は扇を膝に置き、静かに義親の頭を撫でた。

 「壁……そうか。お前にはもう、細胞の構造が見えているのだな」


 家族は言葉を失った。父だけが、令和から持ち込んだ知識ゆえに、この幼子の稀有さを理解していた。――この子が真に育った時、日本は世界の科学をも超えてしまうのではないか。


―――


 障子の外では秋風が木の葉を散らしていた。藤村は静かに杯を掲げ、家族に向かって言った。

 「条約も銀行も科学も――それらは遠い話のようでいて、この家から始まっている。お前たちが学び、問い、未来を描けば、それがこの国の力となる」


 義信と久信は深く頷き、義親は小さな声で「うん」と答えた。


 その瞬間、国家の未来と家庭の温もりが一つに結び付いた。外の外交の灯と、家の内の灯火が、同じ明るさで夜を照らしていた。

江戸城の石垣を撫でる夜風は、秋の深まりを告げていた。国際展示会の熱気はまだ町中に残り、宿に戻った各国の使節は一様に「日本の時代が来た」と語り合っていた。


 藤村晴人は議場を後にし、静かな城の回廊を歩いていた。背後からは外交官たちの声、研究者たちの笑い、商人たちの算盤をはじく音が微かに響いてくる。それらすべてが、この国の未来を支える新しい鼓動に思えた。


 「北里の発見、後藤の改革、渋沢の銀行、そして清水の開発……」


 彼は独りごちた。あらゆる分野で若き才能が芽吹き、それぞれが国家の柱となりつつある。自分が令和から携えてきた知識が、確かに形となり、人々の力と交わりながら実を結んでいるのだ。


 だが、胸の奥に最も強く残ったのは、家で見た義親の姿だった。三歳にして菌の構造に疑問を投げかけ、誰も追いつけぬ速度で概念を理解する幼子。


 ――この子に、いつか秘中の知を託さねばならない。


 藤村は懐から小さな帳面を取り出した。それは、かつてiPadに記録されていた膨大な知識を、右筆に命じて長年かけて写させた秘録の一部だった。文明が壊れる前に残しておいた、未来を生き抜くための知識の断片。


 「義親が成長したとき、この秘録を渡そう。だが、それまでは誰にも知られてはならぬ」


 決意は固かった。日本の行く末を左右するのは、条約でも銀行でもなく、最後には人の知と信頼だ。そして義親の天才性は、いずれその知を受け継ぐ唯一の器となるだろう。


―――


 秋の夜空に鐘の音が響いた。外交の灯、医学の実験灯、銀行の会計灯、そして家庭の灯火。江戸の町を包む数多の光がひとつに重なり、まるで「新しい文明の夜明け」を告げているかのようであった。


 藤村は立ち止まり、夜空に誓った。

 「我らが築くのは、単なる強国ではない。人類の未来に貢献する、科学と正義の国だ」


 そしてその視線は、遠い未来を見据えるように揺るぎなく定まっていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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