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229話:(1875年9月/秋)秋の収穫と鉄道網

秋の風は澄み渡り、常陸の大地を黄金色に染め上げていた。見渡す限りの稲田はたわわに実り、頭を垂れた稲穂が陽光を受けてきらきらと輝いている。筑波山の稜線を背景に、農夫たちが鎌を振るう姿は、まるで絵巻物の一場面のようであった。刈り取られた稲は束ねられ、田の畔に整然と積まれていく。湿った土の香りと、乾き始めた稲藁の甘い匂いが、秋の空気に混じり合って漂った。


 「今年は、史上最高の豊作だ」


 村役人が声を張り上げると、人々の顔に笑みが広がった。農婦たちは泥にまみれた手で額の汗を拭い、子どもたちは稲束を真似て小さく抱え上げては笑い合う。冬の寒さと夏の暑さを越え、ようやく手にした大地の恵み。その喜びが、村全体に満ちていた。


 この稲田の背後を、黒々とした蒸気機関車が轟音と共に走り抜けた。羽鳥から水戸、さらに江戸へと伸びる鉄路はすでに完成し、秋の収穫を待ち受けるかのように整備されていた。蒸気の白煙が青空に立ち上り、車輪のリズムが大地を震わせる。鉄路の両脇には、刈り取られた稲束が次々と積み込まれ、貨車の中へと運ばれていく。


 「この速さだ、数日のうちに江戸の市へ届く」


 農夫の声は驚きと安堵に満ちていた。従来ならば、収穫物を江戸に運ぶのに十日以上を要した。しかし鉄道網の完成により、その行程は大幅に短縮され、鮮度を保ったまま市場へと届けられるようになった。米だけではない。大豆、小麦、野菜、さらには羽鳥織や笠間焼といった地場産業の品々も、鉄道によって一気に全国へ流通し始めていた。


 藤村晴人は、羽鳥駅に隣接する貨物倉庫の二階からその光景を見下ろしていた。


 「豊作と鉄道。二つが揃えば、国の財政は必ず立ち直る」


 彼の言葉に、傍らに控える渋沢栄一が頷いた。栄一の手には新しい会計帳簿が握られている。


 「殿、今期の収支ですが、豊作による税収増と鉄道運賃益を合わせ、債務残高は百十万両にまで減少いたしました」


 数字を口にした瞬間、倉庫内にどよめきが走った。数年前、政府の債務は四百万両を超え、破綻寸前の状態だった。それがいまや三分の一以下にまで圧縮されている。しかもなお減少傾向にあり、返済の道筋ははっきりと見えていた。


 藤村は、秋風に翻る白布のような煙を見上げながら深く息を吐いた。


 「人の汗で実る稲、鉄で繋がる道、数字に映る国の姿……すべてが一つの円環を描き始めている」


 貨物列車が出発する。重く積み込まれた穀物を載せながらも、力強く線路を進んでいく。村人たちはその姿を見送り、子どもたちは興奮した様子で「汽車だ! 汽車だ!」と声を張り上げた。


 羽鳥駅前の市場も賑わっていた。農民が持ち込む米俵と、商人が求める商品とが、駅舎を介して一瞬にして取引される。帳場には算盤の音が鳴り響き、紙幣と新しい常陸銀がやり取りされていた。


 「これで村の暮らしも安定しますね」


 若い農婦が微笑むと、藤村は静かに頷いた。


 「豊作は一時の幸運だ。しかし、それを制度に変え、次の不作に備えるのが政治の役目だ」


 その言葉に渋沢が続けた。


 「すでに余剰米を政府倉庫に買い上げ、価格安定基金に繰り入れております。これで市場の乱高下は抑えられるでしょう」


 藤村は目を細め、遠くに霞む筑波山を見やった。黄金色の稲穂と、黒い鉄路と、白い煙。すべてが一枚の絵のように重なり合い、日本の未来を映し出していた。

秋風が江戸城の石垣を撫でるころ、城内の一角に新しく建てられた煉瓦造りの建物が姿を現した。白漆喰の壁と大きな窓、そして高くそびえる煙突を備えたその建物こそ、世界最先端を志して設立された 北里研究所 であった。


 正面玄関には「細菌学研究所」と金文字が掲げられ、開設式には学者や官僚、そして若き医学生たちが集まっていた。建物の内部には、ドイツから輸入した真新しい顕微鏡が並び、フランス製の培養器やイギリス製の温度制御装置が整然と配置されている。机の上には、まだ日本では珍しいガラス製の試験管やピペットが陽光を受けてきらめき、その光景に出席者たちは息を呑んだ。


 壇上に立った藤村晴人は、静かに周囲を見渡した。


 「この研究所は、人類を救う最前線である。ここから、病を打ち破る理が生まれる。北里君、君にすべてを託す」


 その声に、まだ二十代半ばの北里柴三郎は深く頭を垂れた。目は真剣で、揺らぎはない。


 「殿、必ずやこの場所を世界に誇れる研究の拠点といたします」


 藤村は頷き、続けた。


 「既に最新の顕微鏡は二十台、培養器は五十基、試験室は十室整えてある。さらに研究員のための宿舎と図書室も建てた。予算は惜しまぬ。必要なものはすべて申せ」


 北里の胸に熱いものが込み上げた。これほどまでに科学に理解を示し、惜しみなく資金を投入する政治家を彼は見たことがなかった。


 集まった学生たちは、顕微鏡を覗き込みながら驚きの声を上げていた。


 「血球が、こんなに動いている……!」

 「細胞の一つ一つが、生きている……」


 顕微鏡のレンズ越しに見える微細な世界は、人々に新しい宇宙を垣間見せていた。


 藤村はその様子を眺め、静かに言葉を添えた。


 「人は知によって恐怖を克服する。恐怖を克服すれば、冷静に備えられる。――医学もまた、国家の武器である」


 その言葉に、北里は強く頷いた。


 式が終わると、研究所の中庭で顕微鏡の実演が始まった。陽光の下、薄いガラス板に載せられた菌が顕微鏡を通して姿を現すと、集まった人々は息を呑み、未来への希望を感じた。


 「ここから、疫病で失われる命を救う知識が広がっていく」


 藤村の声は、秋空に吸い込まれるように響いた。

江戸城内務省の一角。まだ若い後藤新平が広げた設計図には、従来の形ばかりの衛生局からは想像もつかない新しい組織図が描かれていた。


 「ここを見てください。疫学調査部。まずは数字です。病気の広がりを正しく把握しなければ、対策は打てません」


 机に並べられた資料には、各地の人口統計や死亡率が細かく書き込まれていた。後藤の声は熱を帯び、同席していた役人たちも思わず身を乗り出した。


 「次に都市衛生部。上下水道、道路、公園――町の仕組みを衛生の観点から整えなければ、いくら薬を配っても無駄です」


 江戸の町に新しく引かれた水道管や、計画中の下水溝の設計図が広げられる。役人の一人が小声で「まるで都市の心臓を組み替えるようだ」と呟いた。


 後藤はうなずき、さらに強調した。


 「感染症対策部では、病原体の監視と隔離施設の整備を行います。病気を恥として隠すのではなく、科学で対処する仕組みを作るのです」


 傍らの藤村晴人は、その言葉に静かに頷いていた。


 「よい、後藤君。その理論は北里研究所の研究とも結びつく。医と行政が両輪となれば、疫病は国を揺るがす脅威ではなくなる」


 後藤の眼が輝いた。


 「そして最後に――社会保障設計部です。病に倒れた者や老いた者を社会全体で支える仕組みを作らなければ、この国は近代国家とは言えません」


 居並ぶ役人たちがざわめいた。「年金……保険……そんなことが可能なのか」と疑問を投げかける声もあった。


 だが藤村は扇を畳み、静かに告げた。


 「可能だ。豊作の余剰、関税の黒字、鉄道収益――資源はある。要は人の知と決意で、それを未来に回せるかどうかだ」


 その場の空気が一気に引き締まった。後藤は深く頭を下げ、声を震わせながら言った。


 「殿、私にこの任をお与えください。必ずや、この国を病から守る盾を築いてみせます」


 藤村は頷き、短く答えた。


 「任せよう。これは単なる役所の改組ではない。――人々の命を守る革命だ」


 その瞬間、秋の風が窓から吹き込み、机の上の図面をめくり上げた。そこには「衛生局 改組案」の四文字が力強く記されていた。

秋の夕暮れ、江戸の新築された倉庫街には、米俵や織物、砂糖、茶葉が山のように積み上げられていた。その中心に立つのは渋沢栄一であった。


 「ここからだ……物流を制する者が国を制する」


 彼の指先が示したのは、江戸から横浜、横浜から新港湾、そして羽鳥鉄道へと繋がる輸送ルートの図。最新の倉庫会社設立により、全国から届いた貨物は整理され、効率的に国内外へ送り出される仕組みが整ったのだ。


 帳簿には、倉庫使用料や保険料、運賃収益が細かく書き込まれている。渋沢は筆を走らせながら、隣に座る藤村へ報告した。


 「これで鉄道と倉庫、港と商人が一体となります。滞留は減り、収益は増える。商人は安心して投資し、農民は確実に代価を得られるでしょう」


 藤村は静かに頷き、短く言った。

 「数字が流れれば、国も流れる」


 その言葉に、渋沢は深く頭を下げた。


―――


 その頃、遠く札幌では清水昭武が北の統治総督として大局を見据えていた。大講堂に広げられた地図には、北海道を南北に縦断する太い線が描かれていた。


 「ここから小樽を経て、稚内へ。そして樺太、さらにアラスカへ」


 その声に、出席していた技術官僚や開拓民代表がどよめいた。


 「殿……本当にアラスカまで?」


 清水は揺るがぬ声で答えた。

 「そうだ。我らは北方を背にして立っているのではない。北方を抱えて未来へ進むのだ」


 その場にいた榎本武揚も、腕を組みながら低く唸った。

 「海軍が北を護り、鉄路が北を繋ぐ。これぞ大日本の北方戦略だ」


―――


 一方、三大財閥の動きも目覚ましかった。坂本龍馬と岩崎弥太郎は、新設の商社を通じて朝鮮遠征での軍需品供給を独占契約で獲得し、その利益を国内鉄道網拡張に投じていた。


 龍馬は豪快に笑いながら言った。

 「銭は回してこそ生きる。俺たちの儲けも、結局は鉄道に戻る。国と商いは二つで一つだ」


 岩崎は冷静に補足した。

 「そして国の信用があれば、我らは海外からも資本を呼び込める。日本の未来は、信用経済にかかっている」


―――


 江戸に戻った藤村は、各地から届いた報告を一枚ずつ目を通した。倉庫会社の収益、鉄道運賃の黒字、北海道鉄道計画の進捗、財閥の投資状況。すべてが一本の線で繋がっていくのを感じた。


 「農の実りが財政を支え、鉄路がその実りを運び、倉庫がそれを守り、財閥が資金を流す。……これで国は動く」


 窓の外には、夕焼けに染まる江戸の町と、遠くを走る蒸気機関車の黒煙が見えた。


 その煙は、ただの煤ではなかった。

 ――日本という国の未来を描く線だった。

秋の東京。築地の福沢邸の書斎は洋書と辞典で埋め尽くされ、ランプの光が黄金色に広がっていた。福沢と藤村、そして義信・久信・義親が並び、静かな学びの時を過ごしていた。


 義信は黒板に稲作の収量計算式を描きながら、鉄道輸送による米価安定を論じた。

 「地方の米を江戸に運ぶのに従来十日。鉄道を使えば三日。市場価格の変動は大きく減ります」


 久信は算盤を鳴らし、補足した。

 「輸送費も半分以下。差額を教育や医療に回せます」


 福沢は「見事だ」と目を細めた。しかし、その視線はすぐ横の幼子――義親に吸い寄せられた。


 三歳の義親は、分厚い独和辞典を抱えながら、滑らかな発音で英語・独語・仏語を交互に使い分け、解説していた。

 「鉄道……Railway。独語ならEisenbahn。仏語ではChemin de fer。でも意味は単なる“道”ではない。国家の血管。物資が流れ、人が動くから国が生きる」


 幼子とは思えぬ口調と抽象化の飛躍に、大人たちは息を呑んだ。


 さらに義親は義信の板書をじっと見つめ、粉チョークを小さな指に挟むと、すらすらと数式を書き直した。

 「兄上の式は単純化しすぎている。人口増加率、輸送効率、価格変動率……それらを入れないと現実には使えない。これは一次方程式じゃない。多変量解析が必要」


 その言葉に義信の手からチョークが落ち、久信も算盤を止めて口を開けた。


 福沢は呻くように言った。

 「三歳で……抽象理論を経済に応用している……?」


 藤村はその場で全身に寒気が走るのを覚えた。

 (――多変量解析。統計学の概念すら、この時代には存在しない。ましてや三歳児が……。令和でも大学上級レベルでようやく触れる領域を、この子は直感で掴んでいる)


 義親は黒板に「Equilibrium」と書き、振り返った。

 「均衡。需給は点ではなく曲線で示すべきだ。兄上の式は線形だけど、実際は非線形で動く」


 藤村は思わず息を呑んだ。

 (需要曲線と供給曲線……グラフ理論……! これは経済学の核心そのものだ。アダム・スミスの先も、ケインズの先すら……三歳で到達している……?)


 手が震えた。

 「義親……お前は……」


 幼子は大人たちの驚きを気にも留めず、笑顔で新しい数式を黒板に描き始めた。


 福沢は額の汗を拭い、静かに藤村を見やった。

 「この子は……人類史上稀に見る天才だ。教育を誤れば、国にとっても人類にとっても損失になる」


 藤村は目を伏せ、胸の奥で呟いた。

 「令和を生きた私ですら、この才は恐ろしい……。義親の頭脳は、未来の科学者をも越えるかもしれぬ」


 秋の夜、義親の小さな手が黒板に刻んだ数式は、時代を超えて光を放っていた。

秋の夜、藤村は一人、江戸城の書斎に籠もっていた。机の上には厚い帳簿の山と、右筆に長年かけて書き写させた一冊の膨大な写本が並んでいる。


 それは他の誰にも知られてはならない「秘中の秘」だった。

 ――iPadに保存されていた膨大な知識を、漏れなく紙に移し替えたもの。


 ページを繰ると、顕微鏡の構造、細菌の姿、鉄道網の設計図、電気通信の理論……未来の叡智が、墨跡として残されていた。


 藤村はその書を撫で、深く息を吐いた。

 (義親……あの子はこのままでは、人の尺度を越えすぎて壊れてしまう。だが、この知識ならば……正しく導けば、天才を孤独にせず、国家を支える柱にできる)


 その時、障子の向こうから幼い声が響いた。義親が寝言で、聞いたことのない数式を呟いている。三歳児の口から出るはずのない論理。それを耳にした瞬間、藤村の背筋に冷たい戦慄が走った。


 「……待ってはならぬ」


 彼は小声で呟いた。

 「義親が壊れる前に、この秘本を渡し、導かねばならぬ。未来を変えるのは、あの子しかいない」


 藤村は灯火の下で筆を執り、義親に最初に伝えるべき知識を選び出し始めた。


 ――基礎数学、科学的思考、そして人を守るための医学。


 彼の目は固く閉ざした決意に燃えていた。

 「義親には、これを託す。誰にも知られてはならぬ……この国の行く末すら変える知識を」


 秋の虫の声が遠く響き、障子に揺れる灯が、まるで新たな時代の火種のように燃え続けていた。

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