228話:(1875年8月) 朝鮮遠征、夏の議会
八月の江戸は、蝉の声に包まれながらも、どこか緊張感を孕んでいた。蒸し暑い空気の中で、江戸城西の丸に集まった人々の視線は一つの大広間に注がれていた。この日、議場にかけられるのは「朝鮮遠征」の是非であり、そして新体制となって初めて二重権威システムが本格的に試される瞬間であった。
障子を通して射し込む夏の光は白々しく、畳の上に浮かぶ影をくっきりと刻んでいた。壇上には三人の姿が並ぶ。孝明天皇は高御座に座し、その視線は静かに議場を見渡している。慶喜は裃姿で中央に立ち、淡々とした表情ながらその眼差しは鋭い。そして藤村晴人は、近代的な背広に似せた紋付羽織をまとい、資料の束を手にしていた。
まず、勅使が玉座の前に進み、声高に読み上げた。
「皇帝としての我が使命は、東アジアの安寧を守り、諸国と対等に交わることにある。よって朝鮮国王に対し、我が国の誠意と責任を示すべく親書を送る」
厳かな言葉が広間を満たした瞬間、議場の空気は重く、そして誇らしげに変わった。これまで朝鮮を「属国」と見なしてきた中華帝国の伝統を打破し、日本が皇帝の名で直接親書を送るということは、国際法上の正統性を堂々と主張する宣言にほかならなかった。
次に慶喜が立ち上がった。黒漆の文机の前に進み、扇を閉じて言葉を発する。
「諸卿、今我らが問われているのは軍事力の誇示にあらず。政治の責任として、我らの通商と治安を守ることである。遠征はそのための手段であり、皇帝陛下の威を傷つけぬための務めである」
声は静かだったが、言葉には重みがあった。かつて幕末の動乱の中で政治を担い続けた彼の存在は、依然として人々に圧倒的な信頼を与えていた。議場のあちこちで頷きが見えた。
そして最後に藤村が前に進み出た。手にしていた資料の束を広げ、次々と数字を示しながら語り始めた。
「諸君、ここにあるのは遠征に必要な経費の詳細である。艦隊の維持、兵站の補給、現地での賠償請求を見込んだ収支計画――すべてを数字で明らかにする。遠征は感情でも虚勢でもなく、科学的計算と政治的合理性に基づいて行われるのだ」
扇子の先で指し示された紙には、兵糧米の俵数から船舶の石炭消費量に至るまで、細かい数値が整然と並んでいた。その徹底ぶりに、列席していた老中や大名たちの表情が次第に和らいでいく。
「遠征費はすべて特会から支出する。新造艦の建造費も、港湾の補修費も、この場で承認された分だけに限る。――私はここに誓う。無駄な一両も使わせはしない」
その宣言と共に、広間にどよめきが走った。かつて藩債に苦しんだ記憶を持つ人々にとって、透明性ある財政運営の約束は何よりの安心だった。
議論が進むにつれ、議場の空気は次第に「承認」へと傾いていった。朝廷、国家元首、内閣総理大臣――三者の役割分担が明確に機能していることを、誰もが実感していたからである。
その時、一人の若い議員が立ち上がり、声を張った。
「陛下、将軍公、そして総理大臣殿。これまでの戦は、いつも一人の権威に負担を背負わせてきた。しかし今日は違う。三者がそれぞれの責務を果たし、我らに道筋を示してくださった。これこそが新しい国家の形でありましょう!」
拍手が広間を包んだ。誰もが、もはやこの流れを止められないことを悟っていた。
やがて採決が行われた。多数の賛成票が集まり、「朝鮮遠征承認」の文字が高らかに読み上げられると、議場は歓声に包まれた。
その声を背に、藤村は静かに思った。
――これは単なる遠征ではない。三者分権システムが真に機能するかどうかを試す試金石なのだ。
広間の障子が風に揺れ、夏の光が差し込む。その光は、まるで新しい時代の夜明けを告げているかのようであった。
議会での採決が終わり、江戸城の喧騒が収まったその夜。藤村晴人は城内の一室に北里柴三郎と後藤新平を呼び寄せていた。まだ二十代前半の若者たちは、広い畳の間に正座してもどこか落ち着かず、緊張の面持ちを隠せなかった。
藤村は文机の上に並べられた分厚い書籍と資料を指し示した。そこには西洋から取り寄せた顕微鏡図解、都市計画図、統計帳簿が並び、まるで小さな研究所のような光景が広がっていた。
「北里君、君は人類の未来を変える役割を担っている」
そう切り出すと、藤村は一冊の洋書を開いた。そこには微細な挿絵で細菌の存在を示唆する図が描かれていた。
「細菌というものが病をもたらす。これを突き止め、制することができれば、戦よりも多くの命を救える。今日から君には細菌学を叩き込む。病原菌の概念、感染の仕組み、免疫反応、抗体、ワクチン――未来で体系化される知識を、前倒しで君に伝える」
藤村の声は熱を帯び、北里の瞳は徐々に輝きを増していった。顕微鏡の調整法、試薬の扱い、培養の基礎。現代医学の最前線に立つような知識が、目の前で惜しげもなく解説されていく。
「君は必ず、世界の医学界を先導する存在になる。パスツールやコッホを追い越すのだ」
藤村の断言に、北里は深く頭を下げた。若き胸に宿った決意は、すでに揺るぎないものとなっていた。
―――
続いて、藤村は後藤新平に向き直った。机の上に広げたのは都市の地図と統計表である。
「後藤君、君に必要なのは行政の科学化だ。疫学、都市計画、社会保障――すべてを数と理で支配せよ」
藤村は木炭で黒板に書き記した。
① 疫学:病の発生を数字で捉え、拡散を統計で予測する。
② 都市計画:上下水道、道路、公園――生活環境を設計し、人々の健康を守る。
③ 社会保障:保険と年金で国民の安心を制度化する。
「君は医師として人を救うのではなく、行政官として社会全体を救うのだ。国民皆保険も年金制度も、今この国には存在しない。しかし君が学び、築けば、人々は病と貧困から守られる」
後藤は額に汗を浮かべ、必死に筆を走らせていた。藤村の言葉は、単なる理論ではなく、未来を先取りした設計図であった。
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深夜、灯火が揺れる室内で、藤村は二人を前に静かに告げた。
「北里君は医学で、後藤君は行政で、日本を変える。朝鮮遠征も、単なる武の示威ではない。新しい統治理念を実地で試す場となる。君たちの学びは、遠征の成果と直結する」
二人の若者は同時に頷いた。まだ未熟な彼らの瞳には、しかし確かな炎が宿っていた。
障子の外では夏の夜風が葉を揺らしていた。遠征の承認とともに、日本は新しい時代へと歩みを進めていた。そしてその歩みを支えるのは、若き学徒に託された「知」の力だった。
翌朝、江戸城外務庁舎には緊張感が漂っていた。大広間には各国の使節に宛てた外交文書が整然と並べられ、陸奥宗光外務大臣がその最終確認を行っていた。
「皇帝外交を格上げする以上、一言一句が国際法上の証拠となる。孝明陛下の親書は、朝鮮を対等な国家として扱う第一歩だ。これまでの属国扱いを改めさせる。諸君、細心の注意を払ってくれ」
その声に、外務官僚たちは一斉に頭を下げた。親書には孝明天皇の花押があり、日本が名実ともに主権国家として外交の場に臨む姿勢が明確に記されていた。
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一方、横浜の波止場では、坂本龍馬と岩崎弥太郎が賑わう市場を見下ろしていた。遠征軍の兵站物資が次々と船に積み込まれ、帆柱の間から夏空がのぞいていた。
「これで軍需品の供給契約はすべて押さえたぜ。遠征で銭を稼ぐのは俺らの役目よ」
龍馬が笑みを浮かべると、弥太郎も手元の帳簿をぱんと閉じた。
「藤村総理が言った“政商”の意味が、ようやく腹に落ちたわ。国家のために動くことが、商売のためにもなる。……まさに両得ですきに」
二人の眼差しはすでに朝鮮半島を越え、広大な大陸と太平洋へと注がれていた。
―――
その頃、渋沢栄一は江戸の会議室で、新たに設立する鉄道会社の計画書を藤村に示していた。
「専売益と関税黒字を基礎に、民間資金を募って鉄路を敷く。国家主導の大路線に民間が枝線を張り巡らせれば、物流は飛躍的に加速いたします」
藤村は頷きながら図面を手に取った。そこには江戸から地方諸都市、さらに港湾都市までを網の目のように結ぶ路線網が描かれていた。
「よい。国家の幹と民間の枝葉、その両方があってこそ大樹は育つ」
栄一は深く頭を下げた。その表情には、金融制度と交通網を結びつける新たな時代の息吹が宿っていた。
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北では清水昭武が札幌庁舎において、軍人や技術官僚を前に北方防衛計画を読み上げていた。
「朝鮮遠征の最中に、北方を空にするわけにはいかぬ。北海道・樺太・アラスカの三正面において防衛拠点を整備し、炭鉱収益を財源にして常備兵を置く。万一、露清が動いても即応できる体制を築くのだ」
会議室にざわめきが広がった。地図には、函館、札幌、大泊、さらにはアラスカ沿岸まで、赤い印が連なっていた。
「我らが守るのは領土だけではない。日本の威信そのものだ」
昭武の言葉に、将兵たちは一斉に胸を張った。北方の冷たい風が窓から吹き込み、地図の端を揺らした。
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外交、経済、軍事――それぞれの場で、国家の柱が着実に組み上げられていった。朝鮮遠征は単なる一戦役ではなく、日本という国家が新しい時代へ踏み出すための「総合演習」であった。
江戸の夏の夕暮れ、藤村邸の座敷には涼やかな簾越しに赤く沈む陽が差し込んでいた。遠征の議会承認が決まった日の夜である。外の庭では虫の声が響き、家の中には穏やかな空気が流れていた。
義信は机の上に広げた分厚い書物を食い入るように読んでいた。それは北里柴三郎に貸し与えた医学書と同じく、顕微鏡の技術や細菌の存在を仮説として記した洋書の邦訳であった。十歳の少年とは思えぬ集中力で頁をめくり、文字と図を次々に頭に刻み込んでいく。
「ここに描かれている“目に見えぬ生き物”こそ、人の命を脅かす敵だと……」
義信は声に出して読み上げ、真剣な顔つきで筆を走らせた。まだ世に広まっていない概念を自然に理解していく姿に、傍らの家臣は思わず息を呑んだ。
久信は兄の姿を横で眺めながら、自分は算盤を弾いていた。遠征費用と賠償金の計算を模した課題を与えられ、九歳の少年は額に汗を浮かべつつ珠を弾く。
「兵糧の費用、船の修理費……兄上、これを全部合わせたら黒字になるのでしょうか」
幼いながらも財政の仕組みに関心を寄せ、政治と数字の関係を自分の言葉で確かめようとしていた。
その二人のやり取りを、母の膝に抱かれた義親がじっと見つめていた。まだ三歳。だが、その瞳は異様なほど深く澄んでいた。兄たちの声を理解しているかのように頷き、小さな指で義信の書物の図を指差した。
「これ……ここ、違う」
驚いたのは義信だった。義親が指したのは、翻訳者の誤記と見られる図表の一部。義信はすぐに原文を確認し、確かに間違いを発見した。
「……義親、よく見抜いたな」
母の篤姫が思わず息をのんだ。三歳にして兄を凌ぐ観察眼を示す義親。その才覚は、ただの早熟を超えたものだった。
藤村は縁側から静かにその様子を眺めていた。子どもたちがそれぞれに異なる才を伸ばし、互いに刺激し合っている。義信の知識、久信の実務感覚、義親の天賦の洞察力――。
「この家だけで、一つの国家の縮図があるようだな……」
藤村は胸中で呟いた。子どもたちの成長が、やがて日本そのものの未来を形づくると確信していた。
その夜遅く、江戸城西の丸の政庁にはまだ灯火が揺れていた。夏の湿気を含んだ風が障子を鳴らし、議会承認直後の緊張が残る空気を運んでいた。
広間の一角で、藤村は机に広げられた分厚い書簡を読んでいた。差出人は藤田小四郎。羽鳥から急ぎ送られてきた意見具申である。
「遠征の大義は明確に。戦は短く、賠償は長く、統治は深く」
小四郎の筆致は鋭かった。若き頃は剣の道に熱を注いでいた彼も、今では数字と理で語る実務家へと変貌していた。彼は遠征を単なる軍事行動としてではなく、統治と民権の拡張の場と位置づけていたのだ。
「殿、遠征の是非を議論する場に民の声をどう取り入れるかが、今後の国を決める要となりましょう」
その一文に、藤村は長く視線を留めた。議会が承認を与えた今、国家は法的にも政治的にも正統性を持つ。しかし、国民にとってそれは「遠い城の中の決定」で終わりかねない。小四郎はそこに鋭く光を当てていた。
「遠征は兵を動かすだけではない。民の生活を守ることでもある。負担がどこに生じ、利益がどう配分されるか……そこを明らかにせねば、国家の信用は続かぬ」
藤村は扇を閉じ、深く息を吐いた。彼の胸中には、二重権威システムの意義とともに、民権の拡大という新しい課題が芽生えていた。
窓の外からは、遠くで祭囃子の余韻が聞こえてきた。人々は夏祭りに酔いしれながらも、明日には遠征に関わる税と物資の話を耳にするだろう。その重みをどう伝え、どう共有するか――。
「小四郎の言葉は、遠征の先にある政治を示している」
藤村は筆を取り、返書を書き始めた。
「民の声を制度に映す。議会の改革は次の段階に進めねばならぬ。遠征は試金石に過ぎぬ。真の戦は、制度の中にある」
墨を置いた時、夜はすでに更けていた。障子越しの月明かりは白く冷ややかで、遠くの朝鮮半島へと伸びる未来の道筋を静かに照らしているように見えた。
翌朝。江戸城の中庭に立つと、朝陽が石畳を黄金色に照らしていた。遠くの空には入道雲が盛り上がり、夏の終わりを告げる蝉の声が響いている。
藤村は静かに庭を歩き、遠征計画の地図を胸に思い描いていた。軍の動き、外交の応酬、財政の配分――すべてはすでに準備が整っている。しかし、彼の心に重くのしかかるのは、戦そのものではなかった。
「この遠征は、剣を振るうためではなく、新しい秩序を試すためだ」
彼は小さく呟いた。二重権威システムが初めて実戦の場で試される。孝明天皇の外交的権威、慶喜の国家元首としての政治責任、そして自らの実務指揮。三者が一糸乱れず機能すれば、日本は列強と並ぶ新しい国家像を示せる。
その時、背後から小さな声がした。
「父上……」
義信が駆け寄ってきた。少年の眼差しは真剣で、昨夜から書き続けていた遠征計画書の写しを差し出した。
「これは僕なりに考えた補給線の案です。港を抑えることが兵を守ることにつながるはずです」
藤村は紙を受け取り、目を通した。細かい数字、地図上の線――幼さを残しながらも、未来の戦略家の芽がそこに確かにあった。
「よく考えたな。……だが忘れるな、戦は数字の上だけでなく、人の心の上で決まる」
義信は深く頷いた。
傍らで久信が口を開いた。
「僕は戦そのものよりも、戦のあとが大事だと思います。負けた人も勝った人も、安心して暮らせる仕組みを作るのが本当の強さだって」
藤村は二人の言葉に、胸の奥で静かな決意を固めた。
「そうだ。お前たちが見ている未来こそが、私の務めを導く光だ」
義親は乳母の腕の中で無邪気に笑い、夏の陽射しに手を伸ばしていた。その姿は、これから築かれる未来の象徴のように見えた。
藤村は空を仰いだ。白い雲が朝鮮半島の方向へ流れていく。
「この遠征をもって、日本の未来を試す。だが剣よりも信を、砲よりも理を――その先にある国家を築くのだ」
蝉の声が高まり、江戸の空気が熱を帯びていった。遠征前夜の決意は、夏空の下で確かな鼓動となり、時代の歯車をさらに大きく回し始めていた。