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227話:(1875年7月)夏祭りと黒字会計

七月、江戸の空は陽炎に揺れ、真夏の熱気が石畳を包み込んでいた。だが、その暑さすら人々の昂揚を抑えることはできなかった。今日、江戸で催される夏祭りは、単なる年中行事ではない。新体制発足後、初めて国家規模で行われる祝賀祭であり、同時に債務が遂に一二〇万両まで削減されたという歴史的快挙が公表される日でもあったのだ。


 城下の大通りには色鮮やかな幟が立ち並び、町人たちは色とりどりの浴衣を纏って押し寄せた。露店の呼び込みが威勢よく響き、焼きとうもろこしの香ばしい匂いと団子の甘い香りが入り混じって漂う。子供たちは提灯を手に駆け回り、鼓笛隊の音色が祭りの始まりを告げると、群衆のざわめきは一層大きく膨らんだ。


 その中心に設けられた大舞台は、江戸城の濠を背に建てられた特設のものだった。金箔をあしらった幕が張られ、紅白の幕が風に揺れる。舞台の左右には大太鼓と笛の奏者が控え、正面には「新体制祝賀・黒字会計発表」と墨書された巨大な額が掲げられていた。


 やがて時を告げる太鼓が三度鳴らされ、場内は静まり返った。人々の視線が一斉に舞台へと注がれる。そこに姿を現したのは、藤村晴人であった。白地に紺の羽織を纏い、扇を手にした彼の姿は、政務の場で見せる厳格さよりもどこか華やぎを帯びていた。背後には慶喜、さらに新体制の大臣たちが整列し、国家の中心が揃い踏みしていた。


 藤村は扇を広げ、ゆっくりと群衆を見渡す。炎天下にもかかわらず、その声は凛として響いた。


 「諸君――本日ここに、我らは歴史の新たな頁を刻む。数年前、我が国は七千両を超える藩債と、膨れ上がる幕府債務に苦しんでいた。しかし今、藩債はすべて政府が引き受け、幕府債務も遂に一二〇万両にまで削減された!」


 群衆から一斉にどよめきが起こった。ざわめきはやがて拍手へと変わり、熱気は舞台を包み込む。農民は鍬を掲げて喜び、商人は帳簿を掲げて涙を流した。債務削減の成果は数字だけではなく、人々の生活に直結していたのだ。重税の負担が軽くなり、商いの活気が戻り、農村に安堵の笑みが広がっていた。民衆はその成果を直に感じていた。


 藤村は人々の声を受け止めるように頷き、続けて声を張り上げた。


 「この成果は、国民一人ひとりの汗と努力の結晶である。藩札を引き受け、税を納め、労を惜しまなかったからこそ、ここに黒字会計を報告できる。――これは皆の勝利だ!」


 その言葉に合わせて舞台の幕が上がり、巨大な算木が掲げられた。算木には、歳入と歳出の数字が明確に記されている。歳入三六〇万両、歳出二四〇万両、差し引き一二〇万両の黒字――その数字は炎天下の空よりも眩しく、人々の目を奪った。


 「黒字だ……!」「本当に黒字になったのか!」

 群衆から歓喜の声が湧き起こる。中には膝をついて天を仰ぎ、感極まって涙を流す者もいた。長らく借金に苦しめられた人々にとって、この数字は希望そのものだった。


 舞台の後方で、渋沢栄一が帳簿を抱え、誇らしげに微笑んでいた。彼の改革が実を結び、財政運営が近代化した証が、まさに今ここに示されていたのだ。


 太鼓が鳴り響き、鼓笛隊が勇壮な演奏を始めた。紅白の幕が翻り、舞台の上には五色の紙吹雪が舞い降りる。祭りの熱気と黒字発表の興奮が重なり、江戸の空は祝祭一色に染まっていた。


 「今日の祭りは、債務に勝った記念の日である!」

 藤村の宣言に、人々は一斉に万歳を叫んだ。波のような歓声が江戸の街に広がり、遠く隅田川の水面までも震わせた。


 この日の夏祭りは、単なる娯楽ではなく、国家の勝利を祝う場であった。人々の心には「我らの国は変わった」という確信が芽生え、その熱気は未来への希望となって燃え上がっていた。

舞台上に設けられた壇に、三人の人物が並んだ。孝明天皇、徳川慶喜、そして藤村晴人である。祭囃子が一瞬途絶え、群衆の間に深い静寂が広がった。子供ですら声を潜め、その場にいるすべての人間が息を呑んで見守っていた。


 最初に立ち上がったのは孝明天皇であった。天皇は薄紫の衣をまとい、扇を軽く広げて朗々とした声を響かせた。


 「我は皇帝として列強と肩を並べ、天皇として国民と共に歩む。これは天の定めであり、我らが時代の使命である。諸卿、国民よ――共にこの国を守り、栄えさせんことを誓う」


 群衆は一斉にひれ伏し、万歳の声が自然と広がった。その声音は雷鳴のごとく、夏空に轟いた。


 続いて立ち上がったのは、国家元首としての慶喜である。威厳ある黒紋付きに身を包み、背筋を伸ばした姿は、長き苦難を乗り越えた統治者の風格を漂わせていた。


 「我が責務は、国家を統合し、国民を守ることに尽きる。武士も町人も農民も、皆が等しく新しい日本の民である。これよりは、国家元首としてその全てを束ね、調和を保つことを誓う」


 彼の声に、かつて敵対した人々でさえ深く頭を垂れた。武士たちの目には涙がにじみ、町人たちの顔には安堵の微笑が浮かんでいた。慶喜の宣言は、分断されていた国をひとつに結び直す象徴であった。


 そして最後に壇上に進んだのは、藤村晴人であった。彼は舞台中央に立ち、群衆を正面から見据えた。扇を閉じ、声を高らかに響かせる。


 「私は内閣総理大臣として、この国を近代国家へと導く責務を担う。これより新体制を発表する!」


 ざわめきが再び広がり、群衆は身を乗り出した。舞台背後の幕が一斉に引かれ、そこに整列していた新閣僚たちの姿が現れる。島津久光、松平春嶽、松平容保、陸奥宗光、清水昭武、榎本武揚――いずれも名門と実力を兼ね備えた人材である。その姿は、夢のように豪華な布陣であった。


 藤村は一人ひとりの名を呼び、その役職を宣言した。

 「島津久光、内務大臣として地方統治を担う!」

 「松平春嶽、財務大臣として財政と税制を統括する!」

 「松平容保、法務大臣として司法制度を刷新する!」

 「陸奥宗光、外務大臣として列強との交渉を導く!」

 「清水昭武、開発大臣として北海道と新領土を開拓する!」

 「榎本武揚、海軍大臣として海を守る!」


 名が読み上げられるたびに、群衆は大きな拍手と歓声を送った。やがて、特別任命としてさらに二つの名が呼ばれる。


 「西郷隆盛、朝鮮総督として半島統治の全権を委ねる!」

 「小栗上野介、財務副大臣として実務を総括する!」


 群衆の興奮は最高潮に達した。かつて敵味方に分かれて戦った者たちが、今や一堂に会し、国を導くために力を合わせている。その姿は奇跡に等しく、人々の心に「新しい時代が始まった」という実感を強烈に刻み込んだ。


 藤村は再び前に出て、最後の言葉を放った。

 「この布陣こそ、新日本の姿だ! 三権威が一つに力を合わせ、国民と共に歩む。――これより先、我らは列強と対等に渡り合い、未来を切り拓く!」


 群衆の大歓声が再び江戸の空を震わせた。提灯の灯が揺れ、紙吹雪が舞い、太鼓の響きが轟く。夏祭りの祝祭は、国家の新たな政治体制の発足を祝う国民的儀式へと昇華していった。

新体制の発表が終わり、祭囃子が再び響き渡る中、藤村は舞台の袖に控えていた若者を呼び寄せた。まだ初々しさの残る青年、北里柴三郎である。濃紺の学生服を着た彼は、東京医学校の一学生に過ぎなかったが、その瞳には常人を圧する熱が宿っていた。


 「君は……北里柴三郎だな」

 藤村が声をかけると、柴三郎は直立し、震える声で答えた。

 「は、はい……。私など、場違いな気がいたします」


 藤村は小さく首を振り、その肩に手を置いた。

 「いや、君こそが必要だ。君は人類を感染症の恐怖から救う運命にある。私が国家の総力を挙げて、君の研究を支える」


 柴三郎は目を大きく見開き、息を呑んだ。人知れず研究に没頭していた青年にとって、それは天啓のような言葉であった。


 「顕微鏡を増やそう。培養室も実験設備も整える。予算も惜しまぬ。江戸城内に専用の研究所を建てる。君には、思う存分に挑戦してもらう」


 柴三郎の頬に熱が走り、深く頭を下げた。

 「必ず……必ずや成果を上げてみせます!」


―――


 さらに藤村は、もう一人の若者を呼び寄せた。須賀川出身の後藤新平である。粗末な羽織姿の彼は、控えめな態度ながらも内に鋭い観察眼を宿していた。


 「後藤新平――君は将来、国家を支える行政官となる男だ」


 突然の指名に、後藤は驚いて目を瞬かせた。

 「私が……ですか?」


 藤村は頷き、言葉を重ねた。

 「内務省衛生局を新設する。その改革を君に任せたい。近代的な公衆衛生制度を整備し、疫病から国民を守る仕組みを築いてくれ」


 後藤は拳を固く握りしめ、胸の奥から声を絞り出した。

 「私のような若輩に、そのような大役が……。ですが……やらせてください!命を懸けても、国のために尽くします!」


 群衆の視線が、舞台袖のこの小さな場面にも集まっていた。彼らは知らず知らずのうちに、歴史を変える瞬間を目撃していたのである。


―――


 藤村は壇上に戻り、群衆に向かって両手を広げた。

 「ここに、新たな才能を発掘した。北里柴三郎は医学を、後藤新平は行政を担うだろう。彼らが育つとき、この国は世界最先端の科学的国家となる!」


 群衆の中から拍手が湧き起こり、やがて大きな波となって広がった。夏祭りの熱気に混じり、新しい世代への期待が江戸の空を震わせた。

夏祭りの太鼓と笛の音が遠くから響く江戸の一角。藤村の周囲では、新体制の発表と若者の抜擢に人々の注目が集まっていたが、その裏側で着実に国家の経済基盤を支える動きが進行していた。


―――


 横浜の港町。坂本龍馬と岩崎弥太郎が、涼やかな潮風を受けながら木机の上に積み重ねられた藩札を数えていた。


 「これで一気に市中の藩札を買い占められるな」

 龍馬が豪快に笑い、手にした藩札をぱらりとめくる。


 弥太郎は眼鏡越しに帳簿を見つめ、唇を引き結んだ。

 「殿が示した方向は間違っていません。藩札をまとめ、信用ある新貨幣へと換える。それが商売にも国の信用にも繋がります」


 龍馬は椅子の背にもたれ、天井を見上げながら言った。

 「金の流れを一つにまとめりゃ、商いも国も強くなる。昔の藩の境目なんぞ、今はただの線に過ぎん」


 二人の前には、買い集められた札束が山のように積まれていた。それは単なる紙切れではなく、新しい金融秩序を築くための礎であった。


―――


 一方、江戸城近くの工場予定地では、渋沢栄一が工事監督と熱心に語り合っていた。

 「この地に瓦斯会社を設立する。街灯をガスで灯せば、夜の江戸は昼のように明るくなるだろう」


 工事監督が驚いたように問い返した。

 「夜が昼のように……まさか」


 渋沢はにやりと笑い、手にした設計図を広げた。

 「夢物語ではありません。瓦斯管を張り巡らせ、街路に灯を灯す。夜の商売も学びも途絶えることはなくなる。都市は眠らずに発展を続けられるのです」


 彼の言葉には確かな自信があり、現場の職人たちの目に火を灯していた。


―――


 さらに北方、札幌では清水昭武が視察団を従えて大地を歩いていた。

 「ここに牧場を広げ、あちらには工場群を建てる。農業と工業を並行して進めねば、開拓の地は根付かぬ」


 彼の視線の先には、広大な原野がどこまでも広がっていた。そこには既に炭鉱からの黒煙が立ち上り、木材を運ぶ馬車が行き交っていた。


 「北の地を生かすのは、人と知恵だ。資源を掘り出すだけでは足りぬ。農と工、そして学を組み合わせてこそ、真の開発だ」


 昭武の言葉に、随行の役人たちは深く頷いた。


―――


 夏祭りの賑わいの裏側で、それぞれの場所で人々が動いていた。藩札を買い占め、都市に光を灯し、北方の大地を切り拓く。


 藤村が舞台で宣言した「新体制」の言葉は、単なる理想ではなく、すでに現実へと動き出していた。

夏祭りの余韻が残る夜。江戸城の一角、藤村邸の庭には提灯が吊され、柔らかな灯が夜風に揺れていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、虫の音だけが涼やかに響く。


 縁側には、義信が算盤と紙束を広げて座っていた。祭りで発表された「債務残高一二〇万両」の数字を思い返しながら、彼は独自に収支表を作り上げていた。まだ十歳の少年の手によるものとは思えない精緻さで、利子率や返済年数を組み込んだ計算が並んでいる。


 「父上、債務の減り方はこうすればもっと早くなります」

 義信が紙を差し出すと、藤村は思わず目を細めた。そこには複利計算を応用した返済シミュレーションが書かれていた。


 「……よくぞ気づいたな。これは財務官でも苦労する理屈だ」

 藤村の声には驚きと誇りが入り混じっていた。義信の眼差しには、もはや子供らしいあどけなさよりも、国家財政に挑む若き学者の光が宿っていた。


―――


 少し離れた場所では、久信が祭りで配られた小さな木札を並べて遊んでいた。それは「米」「織物」「砂糖」と刻まれた商人たちの宣伝札だった。


 「兄上、こっちは“砂糖”の札。あっちは“織物”。これを一緒に並べると……あ、交易になるんだ!」

 久信は楽しそうに札を動かしながら、自分なりの経済ごっこをしていた。義信のように理屈で掘り下げるのではなく、物と物、人と人を結びつけることに喜びを見出していた。


 「久信は、数字よりも人のやり取りの方が得意なのかもしれんな」

 藤村は笑みを浮かべ、兄弟それぞれの資質が異なることに気づかされていた。


―――


 座敷の奥では、義親が母に抱かれていた。まだ三歳の幼子は、祭りの賑やかさに疲れ果てたのか、すやすやと眠っている。小さな手には、昼間に兄から渡された玩具の小太鼓が握られていた。


 篤姫が藤村に囁く。

 「この子も、あの賑わいを胸に刻んだのでしょうね。太鼓の音に合わせて笑っていましたから」


 藤村は眠る子の顔を見つめ、静かに頷いた。

 「義信は知で、久信は心で、義親は純真さで。三人それぞれが国の未来を映している」


―――


 縁側に再び涼しい風が吹き込む。提灯の灯が揺れ、庭の影がさざめいた。藤村は杯を手に取り、声を低めて言った。

 「国の黒字も、子らの笑顔も……どちらも、この国にとっての宝だ」


 夏祭りで示された数字と、家族のささやかな幸福が、静かに結びついていく夜であった。

夏祭りの熱気は去り、江戸の町には静かな夜風が流れていた。昼間の華やぎを残す提灯の灯が、まだところどころに揺れている。


 藤村晴人は、城の高殿に上り、遠くに見える灯火を見渡していた。祭りの場で告げられた「債務一二〇万両」という数字が、改めて胸に浮かぶ。


 ――ここまで来た。だが、道はまだ半ばだ。


 背後で勝海舟が扇を広げて笑った。

 「藤村、お前さん、民の顔をよく見ていたな。数字よりも、あの笑顔が何よりの証拠じゃねぇか」


 藤村は頷いた。

 「ええ。黒字はただの記号ではない。民が安心し、未来を信じる心の現れです」


 やがて渋沢栄一が帳簿を抱えて現れた。

 「殿、次は銀行と工場を結びつける仕組みを整えましょう。黒字の力を未来の投資に転じねば、数字はただの積み上げにすぎません」


 藤村はその言葉に深く頷いた。

 「そうだ。今日の黒字を明日の力に変える。その仕組みを作るのが、我らの務めだ」


 夜空を見上げると、遠い空に花火の残り火がかすかに漂っていた。


 ――夏祭りの火は消えても、国の灯は絶やさぬ。


 藤村の胸に、静かな決意が宿っていた。黒字は始まりであり、未来を形づくる力そのものだった。

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