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225話:(1875年5月)台湾の梅雨と教育庁

初夏の台湾。空はどんよりとした鉛色の雲に覆われ、山から吹き降ろす湿った風が街路の並木を揺らしていた。連日の梅雨雨に晒された赤土の路地はぬかるみ、通りを行き交う人々の笠に雨粒が無数の星のように弾けていた。遠くの茶園の斜面には、青々とした茶の葉が濡れそぼり、若い摘み子たちの手の動きが雨をものともせず続いていた。雨粒が葉に溜まり、光を受けて一瞬だけ銀の珠のように輝く。摘み取られた茶葉は籠に収められ、山道を下る牛車に積み込まれていく。湿気に満ちた空気の中で漂う青葉の香りは、台湾の大地が生む豊かさを雄弁に語っていた。


 その一方、平野の製糖工場では黒煙が立ち上り、雨をも突き抜けて空を曇らせていた。濡れた竹皮を纏った労働者たちが、巨大な石臼を回し、圧搾された甘蔗から濃い汁を流し出す。鍋に注がれた汁は火にかけられ、湯気と共に甘い香りが漂った。溶けて固まる砂糖の塊は白く輝き、やがて遠い欧州へと運ばれる運命にあった。ロンドン、パリ、アムステルダムの市場で高値で取引される台湾砂糖と茶――それは今や「日本統治の産物」として国際社会で確固たる評価を得ていた。


 この日、台南の新政庁前には多くの人々が集まっていた。雨が小降りになった隙を突いて、台湾教育庁の開庁式が執り行われるのだ。白漆喰の壁に洋風の窓を持つ新庁舎は、これまでの木造役所とは一線を画す近代的な建築だった。正面玄関には、濡れた石段を拭き清める役人たちが控え、門柱には「教育庁」と刻まれた黒御影石の銘板が掛けられていた。


 広場には洋傘を差した日本人役人、雨合羽を着た台湾の商人、粗末な衣を纏った農民たちが混じり合い、誰もが新しい施設を見上げていた。開庁式は単なる儀礼ではなかった。統治において、文化と教育を柱とする「開発型統治」の理念を形にする第一歩――その重みを、集まった人々は無意識のうちに感じ取っていた。


 壇上に立った藤村の代理官が声を張り上げた。

 「本日より、台湾教育庁が正式に設置される。ここを拠点に、現地の子らに学問を授け、農業技術を広め、商業の知識を与える。日本語と共に現地語を尊重し、伝統を護りながら新しい知を導入する。それが我らの統治の理念である!」


 その声が雨に濡れた石畳に反響し、群衆は静まり返った。やがて小さな拍手が起こり、次第に大きな歓声へと変わっていった。農民の一人が口にした。

 「我らの子も、この庁舎で学べるのか……」

 隣にいた妻が頷き、子どもの手を強く握りしめた。雨に濡れた瞳に、一縷の光が宿っていた。


 同じ頃、江戸では渋沢栄一が会議室にこもっていた。机の上には紡績機械の図面と財政計画書が散乱し、若い実業家の目は熱に浮かされていた。

 「これが実現すれば、日本の繊維産業は家内工業から近代工場へ飛躍する……」


 決して大げさではなかった。渋沢が推進する「紡績会社」設立は、前月の製紙会社に続く、日本近代工業の第二の大事業であった。イギリスから輸入する最新鋭の紡績機械、蒸気力を用いた大規模な工場建設、雇用される労働者の数――どれも従来の常識を覆す規模であった。工場は昼夜を問わず稼働し、綿糸は大量に市場へ供給される。糸の安定供給は織物業の飛躍的発展を促し、国内需要を満たすばかりか輸出品としても競争力を持つことになる。


 「資本を集め、株式制度を整え、雇用を生む。これが新しい国の形だ」

 渋沢の声には揺るぎない自信が宿っていた。藤村が整えた制度的基盤を背に、彼は経済界を牽引する旗手として大きな一歩を踏み出したのである。


 台湾の雨の匂いと、江戸の会議室の熱気。二つの地は離れていながら、確かに一本の線で結ばれていた。教育庁の設立は統治の正統性を高め、産業育成を可能にする。紡績会社の設立は産業基盤を拡充し、統治の背後に経済力をもたらす。文化と産業――両者は別々に見えて、実際には車の両輪のように未来へと進むために不可欠な要素であった。


 梅雨空に再び雨脚が強まった。庁舎の屋根を叩く雨音は、新しい統治と新しい産業の始まりを告げる太鼓のように響いていた。

江戸城学問所。雨季の台湾から届いた報告を机に広げながら、慶篤は講壇に立っていた。黒板には大きく「教育統治論」と書かれ、その下に三つの柱が記されていた。


 ① 住民の能力を育成する

 ② 統治の正統性を支える

 ③ 文化を尊重し伝える


 慶篤は筆を置き、集まった若い役人や留学生に語りかけた。

 「教育は単なる知識の伝達ではない。植民地を支配するために剣を振るうのは容易い。しかし、その地の子らが読み書きを覚え、数を数え、歴史を知れば、自らの足で歩き出す。統治とは、その歩みを導き、共に進むことにほかならぬ」


 その声に講堂が静まった。学生の一人が手を挙げて問う。

 「ですが、殿下。日本語ばかりを押し付ければ、現地の言葉や文化は消えてしまうのでは?」


 慶篤は微笑み、答えた。

 「だからこそ、現地語を尊重する。台湾語での授業も行い、伝統を守りながら新しい知を重ねるのだ。文化を奪えば反発が生まれる。文化を認めれば、信頼が芽生える。統治の正統性とは、民が納得し、心を委ねることでしか得られぬのだ」


 学生たちは深く頷いた。黒板に記された三本の線は、やがて台湾統治を支える理念として形を得ていく。


 ―――


 その頃、北の札幌。清水昭武は、窓から差し込む初夏の光を背に立っていた。北海道の教育制度を整える会議の最中である。机の上には地図と人口調査の帳簿が並べられ、屯田兵の村々と新しい学校の位置が赤い印で示されていた。


 「開拓地は特別な事情を抱えている。屯田兵の子らと、一般開拓民の子らを分けてはならぬ。共に学び、共に遊び、同じ未来を描かせねば」


 昭武の言葉に、周囲の役人たちがうなずく。農作業の合間に学ぶ子、雪深い冬に灯火を囲んで読み書きを習う子――彼らにとって学校はただの学び舎ではなく、生きるための術を身につける場であった。


 「識字と算術は必須だが、それだけでは足りぬ。開拓地では農業技術と測量術を、漁村では航海術と算盤を。土地に即した教育を施せば、彼らは必ず根を張り、この北の地を未来へと繋ぐだろう」


 若い書役が感心したように呟いた。

 「教育は兵を強くし、村を豊かにし、国を固める……まさに基盤にございますな」


 昭武は小さく笑みを浮かべた。

 「基盤こそが未来を支える。教育庁の新設も、開拓地の学校も、そのためにある」


 外では、春の雪解けで濁った川の流れが轟き、北の大地が新たな季節を迎えようとしていた。

五月雨に濡れた江戸の町を、渋沢栄一は軽快な足取りで歩いていた。彼の胸には新しい計画が渦巻いていた――「紡績会社」の設立である。


 数年前、藤村の下で財政の基礎を学び、実学の意義を吸収した栄一は、今や実業界の先頭に立とうとしていた。紙幣・銀行・造幣――その仕組みを支えるのは金融だけでは足りない。国家の力は「もの」を生み出す工場から湧き出す。そう確信していた。


 深川の倉庫を改造した試験工場に入ると、そこには英国から輸入された最新式の紡績機械が鎮座していた。鉄の車輪と歯車が組み合わされ、静かに光を放っている。見慣れぬ巨大な機械に、見習いの職工たちは緊張した面持ちで立ち尽くしていた。


 「これが未来を紡ぐ道具だ」


 栄一の声に、場の空気が引き締まる。技師がハンドルを回すと、歯車が噛み合い、紡錘が唸りを上げて回転を始めた。綿が巻き込まれ、白い糸が滑らかに引き出されていく。


 職工の一人が思わず声を漏らした。

 「家で母が糸車で回していたのと……同じ糸とは思えぬ」


 糸は均一で強く、布にすれば従来のものより格段に品質が高い。しかも数十倍の速さで紡がれてゆく。


 「家内工業から工場制へ――これが世界の潮流だ。イギリスでは綿糸が産業革命を牽引した。我らもここから始める」


 栄一は、傍らに置かれた帳簿を開き、資本金・労働者数・生産能力を指で示しながら説明を続けた。資本は銀行からの融資、労働者は農村からの若者、販路は羽鳥織物や台湾茶と共に輸出へ――全てが繋がる計画だった。


 「藤村殿が築いた金融制度と地租改正が、この事業を支える。国家の改革が、工場の糸一本に結び付くのだ」


 その言葉に職工たちは深く頭を垂れた。


―――


 夕刻、羽鳥城では藤村晴人がこの報告を受けていた。机の上には新しい白布の見本が広げられ、その均一な織り目に彼は目を細めた。


 「なるほど……この布ならば欧州品とも競える」


 渋沢は軽く頷き、熱を帯びた声で続けた。

 「殿、製紙に続き紡績を。これで紙と布という二本柱が整います。やがて鉄・船・機械へと進めば、日本は必ず工業国へ変わります」


 藤村は扇を閉じ、静かに答えた。

 「栄一、そなたの事業は単なる利潤追求ではない。国の柱を築く行いだ。忘れるな、富は人を豊かにするためにある」


 栄一は深く頭を下げた。その眼差しには、すでに次なる工場、次なる会社を思い描く炎が宿っていた。


―――


 工場の轟音はやがて江戸の街に響き渡り、農村から出てきた若者たちが集団で働き、賃金を手にして市場に活気をもたらした。

 紡績会社の創設は、渋沢栄一を「実業界の父」へと押し上げる最初の大きな一歩となったのである。

春雨に煙る江戸。藤村邸の書斎では、義信が机に向かっていた。十歳にも満たぬ年齢でありながら、その手元には分厚い洋書と戸籍局から回ってきた統計資料が並んでいた。


 義信は算盤ではなく鉛筆を手にし、紙に数式を走らせていた。

 「父上、この戸籍台帳の人口分布を基にすれば、五年後の徴税総額は現在の一・三倍に達するはずです」


 幼い声でそう告げる義信の前には、複雑な数列と推計式が整然と書き出されていた。大人でも読み解くのに苦労する内容を、彼は迷いなく記していた。


 藤村は書簡を置き、息を呑んだ。

 「お前は……すでに未来を見通しているのか」


 義信は小さく頷き、続けた。

 「この推計に基づけば、黒字財政は三年で定着します。ただ、地方によって出生率に差があるので、教育投資の比率を調整すべきです」


 その言葉は、まるで大学の講義室で語られるような冷静な分析だった。


―――


 久信はその傍らで、兄の計算結果を覗き込みながら「すごいな……僕には難しい」と呟いた。だがすぐに帳簿を手に取り、自分なりに収支を足し引きし始める。

 「兄上のようにはできないけど、数字を一つひとつ積み上げれば、きっと近づける」


 藤村は二人のやり取りを見つめ、目を細めた。

 「知を極める者と、人を支える者――その両輪が揃ってこそ国は進むのだろう」


―――


 その頃、義親は母の膝に抱かれ、墨壺の中をじっと覗き込んでいた。幼い手で硯をつつき、黒いしずくを散らすと、篤姫とお吉は慌てながらも笑みをこぼした。


 藤村はその光景に目を向け、微笑んだ。

 「この子らの笑いもまた、未来を支える力になる」


 外では春雨が途切れ、雲間から一筋の光が差し込んだ。義信の鋭い頭脳、久信の誠実な努力、義親の無邪気な笑顔――その全てが、制度を超えて国を形作る基盤となるのだと、藤村は深く確信した。

梅雨空の下、台北の街路には新設された教育庁舎が堂々と姿を見せていた。白壁に赤瓦を載せた洋風と漢風の折衷建築で、雨に濡れてなお威厳を放っていた。正面の扉には「台湾教育庁」の金文字が掲げられ、開庁式の日を迎えていた。


 広間では、現地の子どもたちが並んでいた。藍色の衣を着た少年や、髪を長く結い上げた少女たち。彼らの前に立った官吏は、手に教科書を掲げて言った。

 「母語を尊びつつ、日本語も学ぶ。ここは知を授け、未来を育む場だ」


 子どもたちの瞳に、好奇と不安が入り混じった光が揺れた。その様子を見守る住民の中には「我が子に新しい知識を」と期待する者も、「文化を奪われはせぬか」と眉をひそめる者もいた。


―――


 庁舎の周囲では、近藤勇と土方歳三の率いる治安部隊が巡回していた。武装した姿でありながら、彼らの振る舞いは威圧的ではなかった。子どもに話しかけ、老人に道を譲り、雨漏りする屋根の修繕を手伝う者までいる。


 「教育を施すなら、治安も守らねばならぬ。だが恐怖ではなく、信頼でこそ秩序は保たれる」


 近藤は部下にそう告げ、雨に濡れた街路を歩き続けた。土方も頷きながら言葉を添える。

 「剣は抜くためではなく、鞘にあることで意味を持つ。民が安心して庁舎に通う、その背を守るのが我らの務めだ」


 人々の視線は、次第に恐れから安堵へと変わっていった。


―――


 江戸に届いた報告を手にした藤村は、書斎で静かに読み上げた。

 「……教育庁設置、無事に完了。治安も安定。雨の中にも、笑顔が見えると」


 その背後で義信が報告書に目を走らせ、数字の欄に指を置いた。

 「生徒数の増加率は予想以上です。三年後には倍増するでしょう。教育は統治を強固にし、同時に交易の担い手も育てます」


 藤村は頷き、硯に筆を浸した。

 「教育と治安、その両輪が揃ったとき、台湾は真の意味で我らの一部となる」


 雨音が障子を打ち、静かな余韻を残した。日本の統治は、収奪ではなく共栄を目指す――その理念が、海を越えて形になりつつあることを、藤村は確かに感じていた。

梅雨明け間近の江戸。藤村邸の縁側には、湿った風が吹き込んでいた。机の上には台湾から届いた茶葉の束と、渋沢栄一が手掛ける紡績会社の計画書が並んでいた。


 藤村は報告書を手に取り、じっと目を通した。そこには、台湾の教育庁が本格稼働し、住民の識字率が着実に向上している数字が並んでいた。

 「教育は産業の母だ。学ぶ子が増えれば、工場を支える手も、商いを担う知恵も育つ」


 渋沢は深く頷き、笑みを浮かべた。

 「殿、台湾は茶と砂糖で黒字を出しています。そして日本本土では紡績工場が回り始める。両者は離れているようで、実は一つです。教育が人を育て、産業が力を与える。そうして国全体が立ち上がるのです」


 その声は、義信と久信の耳にも届いていた。義信は即座に計算用紙を取り出し、茶と糸の収益モデルを走り書きした。

 「台湾の輸出益を工場の資本に転じれば、五年で回転率が倍に……」


 久信は兄の計算に目を丸くしながらも、真剣に頷いた。

 「兄上が考えるなら、僕も工場の人たちが安心して働けるような仕組みを考えたい」


 幼い義親は、机の上の茶葉を手に取って匂いを嗅ぎ、くすりと笑った。

 その無邪気な仕草に、大人たちの顔がふと和んだ。


―――


 その夜、藤村は灯火の下で日記に記した。

 「教育と治安、産業と金融。すべての線が交わり、日本の未来を形にしていく。――次は、この基盤をさらに広げ、国を丸ごと新しい時代へと導く番だ」


 窓の外では、梅雨雲が切れ、月が静かに顔を覗かせていた。

 その光は、台湾の子どもたちが学ぶ教室にも、江戸の工場にも、未来を描こうとする若き兄弟たちにも、等しく降り注いでいた。

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