223話:(1875年3月/春) 春の港、玉里改修
春の潮風は柔らかく、海面を渡って玉里港へ吹き込んでいた。空はどこまでも青く澄み、沖合では白い蒸気を吐く大型船がゆっくりと湾内に進入してくる。岸壁に集まった人々の眼差しは、その船と背後に広がる新しい港湾施設に注がれていた。
長らく改修工事が続けられてきた玉里港は、この日、ついに完成の姿を現した。従来は浅瀬のために大型船の入港は難しく、荷揚げも小舟に頼っていた。しかし今や港には深水岸壁が築かれ、黒々とした石組みが海の底深くまで延びている。岸壁の上には、巨大な鉄製クレーンが屹立していた。長い腕を海に突き出し、鎖の先端には重量物を吊り下げる鉤がきらりと光る。その姿はまるで海の怪物が獲物を待ち構えているかのようで、港湾労働者たちは畏敬を込めて「鉄の龍」と呼んでいた。
その日、藤村晴人は港の一角に設けられた臨時の観覧台に姿を見せた。裃ではなく、動きやすい羽織姿。背後には慶篤、渋沢栄一、藤田小四郎らが並び、そして役人や商人、外国からの来賓までが集っていた。港湾改修の完成は一地方の出来事ではない。日本全体の経済、ひいては国際的な交易の行方を左右する国家的事業であった。
「入港開始!」
監督役の声が響くと、沖合の蒸気船が汽笛を鳴らした。白い蒸気が青空に弾け、低く唸る音が湾内に反響する。ゆっくりと、しかし確実に船体は新しい岸壁へと近づいた。船員たちが甲板で綱を操り、港の労働者がそれを受け取る。これまでなら数時間を要した接岸作業が、ものの数十分で済んでしまう。見守る商人たちの顔が次々と驚きと喜びに変わった。
「なんと早い……」
「これなら荷を傷めずに済む」
ざわめきの中、クレーンがゆっくりと動き出した。鉄の腕が軋みを上げ、船倉から木箱が吊り上げられる。二人がかりでも動かせぬ重量の荷が、空を舞うようにして岸壁へと運ばれる。その光景に、子どもたちが歓声を上げ、老人たちはただ口を開けて見つめた。
藤村は静かにその光景を見つめ、隣の渋沢に声をかけた。
「これで帆船の時代は終わったな。蒸気の力と港の力が結びつけば、物流はまるで別のものになる」
渋沢は頷きながら帳簿を開いた。
「はい、殿。港湾使用料の見込みは、昨年比で三割増。大型船が常時入港できるようになれば、さらに倍増も可能です」
数字が告げる現実に、藤村は満足げに目を細めた。港湾改修は莫大な費用を要したが、投じた資金は既に確実に成果となって現れていた。関税収入は押し上げられ、港湾使用料も増収。歳入は確実に膨らみ、累積債務の削減も一層加速する見通しであった。
―――
午後、港の広場では改修完成を祝う式典が開かれた。壇上に立った藤村の背後には、真新しい灯台の白い姿がそびえていた。先日完成したばかりの石造灯台は、昼は太陽光を反射して白く輝き、夜には灯火を高々と掲げ、遠くの船を導く。これで夜間航行も安全に行えるようになり、港は名実ともに二十四時間体制で稼働できるようになった。
藤村は群衆に向かって声を張り上げた。
「この港は、もはや一地方のものではない。日本の経済を支え、世界と結びつける扉である! 港は物流の拠点であり、産業の心臓だ。ここから生まれる富が、農を潤し、工を育み、学を支えるのだ!」
群衆から歓声が上がった。農民は自らの米が遠く異国へ運ばれることを想像し、商人は取引の拡大を夢見、職人は新たな需要に胸を膨らませた。人々の顔に浮かぶ期待は、まさに新しい時代の光そのものだった。
その後、式典では外国の来賓も祝辞を述べた。イギリス領事は「玉里港は東アジアの新たな交易の要となるだろう」と評し、オランダ商館長は「日本の港湾技術は欧州に匹敵する」と賛辞を送った。国際的評価はすでに高まり、日本の海洋国家としての地位は確実に押し上げられていた。
―――
夕刻、日が傾くと港は黄金色に染まった。岸壁に並ぶ荷物が光を浴び、船の煙突からは白い蒸気が漂う。藤村はその光景を胸に刻みながら、静かに言った。
「この港が開いたのは、ただ物を運ぶ道ではない。人と人、国と国を結ぶ道だ。これを守り、育てることこそ、我らの責務だ」
潮騒と汽笛が重なり合い、玉里港は新しい鼓動を打ち始めていた。
春の潮風が吹き抜ける玉里港の埠頭。完成したばかりの巨大なクレーンが船腹に伸び、砂糖の俵や茶の木箱を次々と積み込んでいった。蒸気船の汽笛が鳴り響くたびに、荷役人夫たちの掛け声が合わさり、港全体が一つの生き物のように脈打っていた。
江戸城勘定所に届いた報告書には、驚くべき数字が並んでいた。
「玉里港収入、予想比一四〇%増。関税収益と港湾使用料を合算し、年間黒字幅拡大」
渋沢栄一が声を張り上げて読み上げると、列席した役人たちの間にざわめきが走った。
「債務残高……ついに一二〇万両台に」
年配の書役が、震える手で帳簿を指差した。数年前には一二〇〇万両の負債を抱え、破綻寸前とまで言われた幕府財政が、今やその十分の一にまで圧縮されたのだ。
「もはや借金に怯える日々ではない。港が銭を生み、鉄路が運び、造幣が支える。数字が示すのは、この国が再び立ち上がったという事実だ」
藤村晴人の低い声に、広間の空気は一層引き締まった。
―――
玉里港の改修工事は、単なる港湾拡張ではなかった。深水岸壁と大型クレーンによって停泊時間が大幅に短縮され、貨物回転率は従来の二倍に跳ね上がった。港湾使用料の増加は直接の歳入増に繋がり、同時に貿易量の拡大は関税収入を底上げした。
「港はただの船着場ではない。産業と財政の心臓だ」
藤村は港湾局からの報告書を手に取り、静かに呟いた。
その視線の先には、次の目標がすでに見えていた。
「次は一〇〇万両の壁だ。玉里が、そして常陸が、その道を切り拓く」
彼の言葉に、勘定所の空気が一瞬ざわめき、やがて静かな決意に変わった。
春の江戸城学問所。桜吹雪が舞い込む講堂で、慶篤は黒板に大きく「港と産業」と書き記した。集まった若い役人や学生たちの視線が、一斉にその文字に注がれる。
「港は単なる出入り口ではない。産業の集積点であり、都市を育てる母体である」
慶篤の声は落ち着きながらも熱を帯びていた。
彼は chalk で円を描き、その中心に「港」と書き入れる。円の外周には「造船」「倉庫」「保険」「金融」と次々に書き加えた。
「この円を見よ。船が寄れば造船が栄える。貨物が積まれれば倉庫業が必要になる。危険を伴えば保険が生まれ、銭の流れが増えれば金融が育つ。すべては港を核として発展するのだ」
学生の一人が思わず声を上げた。
「では、玉里港の改修は……単に歳入を増やすだけではないのですね?」
慶篤は頷き、微笑を浮かべた。
「その通りだ。港は都市を呼び、都市は産業を生み、産業は国家を強くする。玉里は、単なる港ではなく“未来の城下町”となるだろう」
―――
その頃、北の札幌では清水昭武が報告書をまとめていた。
「ロンドン港のドックは、専用の倉庫群と保険制度を結びつけ、金融都市ロンドンを支えている。ハンブルク港は自由港制度により、ヨーロッパ中の貨物を集める拠点となった。マルセイユは地中海の玄関口として、アフリカと欧州を結ぶ要だ」
彼は欧州各港の事例を列挙し、玉里港の報告書に赤字で書き込んだ。
「日本は今、これらを模倣するのではなく、超える立場にある。蒸気船時代に対応した最新の港湾設計を持ち、保険・金融と一体で運営すれば、玉里はアジアに冠たる港となろう」
―――
再び江戸。学問所の講堂では、慶篤が講義を締めくくろうとしていた。
「農が国の礎であることに変わりはない。だが港を制する者は交易を制し、交易を制する者は時代を制する。玉里の改修は、わが国が次の段階へ進む証なのだ」
講堂の若者たちは、深く頷きながらその言葉を胸に刻んだ。
桜の花びらが舞い込む静かな空気の中で、港湾都市の未来図が彼らの胸に広がっていた。
春の潮風が吹く玉里港。新しい深水岸壁には大型蒸気船が並び、荷役用の巨大クレーンがぎしぎしと音を立てて動いていた。港湾改修が終わってから、港の景色は一変していた。
藤村晴人は現地視察のため江戸から訪れ、港の全貌を見渡せる櫓に立っていた。背後には渋沢栄一が帳簿を手にして控え、役人たちが随行している。
「殿、ここ数か月だけで港湾使用料は従来の二倍。船舶の回転率が向上し、関税収入も飛躍的に増加しております」
渋沢の声に、藤村はゆっくり頷いた。
「数字は期待通りだ。だが肝心なのは、この港を単なる数字の場に留めぬことだ。ここを通じて人と物と知恵が行き交い、新しい産業を生む――それこそが改修の真価だ」
岸壁では、白い制服を着た少年たちが測量器を覗き、設計図を手にして現場の技術者と意見を交わしていた。学問所から派遣された学生で、実地教育の一環として港湾管理を学んでいるのだ。
「これが教育の場になる……」
藤村は目を細めた。産業と教育が交わる光景は、彼が思い描いていた近代化の縮図そのものだった。
―――
港の奥では、職人たちが新設された倉庫の扉を開け放ち、貨物の整理に追われていた。木箱には「羽鳥織」「笠間焼」「台湾茶」と墨書きされ、どれも国内外に出荷を控えた品々である。
「以前は、波止場で雨ざらしにして傷むことが多かったが……」
傍らで荷役を監督する古株の商人が声を上げた。
「今では乾いた倉庫で守られる。損失が減り、商売も計算が立つようになった。ありがたいことです」
彼の顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。港の改修は単に船舶を呼び込むだけでなく、商人たちの日々の安心をも支えていた。
―――
夕刻。港の外れに新しく建てられた灯台が、春の薄闇を押し分けるように光を放った。船乗りたちが歓声を上げる。
「これで夜でも安全に入港できる!」
「嵐のときも、この光があれば心強い!」
藤村は灯火を見上げながら、静かに呟いた。
「灯台は、ただ海を照らすものではない。人の心を照らすものだ」
港湾改修は終わった。だが、それは始まりでもあった。港を中心に、産業が芽吹き、人々の暮らしが変わり、やがて国の形そのものを変えていく――藤村には、その未来が鮮やかに見えていた。
春の夜、玉里港の新庁舎会議室。壁にかけられた大地図の前で、藤村晴人は渋沢栄一、慶篤、技術官たちと並んで座していた。机の上には、港湾改修後の収支報告と、今後の航路拡大計画が広げられている。
渋沢が筆で数字を示した。
「本年、玉里港使用料と関税収益を合わせ、二十五万両の増収です。加えて倉庫利用料、保険料も上乗せされました。改修費用の回収は、予定より五年も早く終わる見込みです」
ざわめく一同。藤村は扇を畳み、静かに答えた。
「数字が示すのは、港が“収入の場”となったこと。だが我らの狙いはそれだけではない。港は交易を呼び、人を集め、学びを生む。港が都市をつくり、都市が国をつくる」
―――
慶篤が席を立ち、黒板に「港と産業」と題して書きつけた。
「港湾の整備は物流効率を上げるだけではありません。造船業、保険業、倉庫業、金融業が港に集い、互いを支え合う。ここに“産業の核”が形成されます。つまり港は、経済の要石にして学問の実験場でもあるのです」
学生たちが熱心に筆を走らせ、会議に参加した若い商人たちも身を乗り出して聞き入った。
―――
そこへ、北方から戻った清水昭武の書簡が読み上げられた。
「北海道の石炭輸送に玉里港を拠点とすれば、年間収益をさらに十万両上乗せできる。炭と茶と砂糖が港で交わる時、日本は真の海洋国家となるだろう」
藤村は地図に視線を落とし、赤い線で玉里から台湾、朝鮮、フィリピンを結んだ。
「港が道を開く。次はこの線を現実に変える番だ」
―――
夜更け。会議を終えて港に出ると、新しい灯台が海を照らし、出港する蒸気船の帆柱を銀色に浮かび上がらせていた。
藤村は潮風を受けながら独り言のように呟いた。
「港を磨けば、国が磨かれる。玉里はもはや一地方の港ではない。東南アジアと太平洋を結ぶ“海の玄関”だ」
波の音が静かに響く中、その言葉は確かな確信となり、一同の胸に深く刻まれていった。
翌朝の玉里港。陽光を浴びた蒸気船が汽笛を鳴らし、白い煙を空へと吐き出した。港の岸壁では、荷役人夫が砂糖俵や茶箱を船倉へ積み込み、掛け声が響き渡っている。新たに設けられた倉庫群は整然と並び、港湾都市としての風格を日に日に強めていた。
港の一角に立った藤田小四郎は、帳簿を手にしながら港湾会計を記録していた。彼は眉間に皺を寄せながらも、どこか誇らしげに呟いた。
「収益、支出、投資、返済……すべてが数字の環になり、国を回している。ここに学びを見出せぬはずがない」
小四郎は、港湾会計を教材化する計画を胸に抱いていた。若き学生たちに、机上の算術ではなく、実際の港の数字を用いて経済を学ばせる――これこそが藤村の説く「実学」の形であると。
―――
その頃、藤村は灯台の麓に立ち、朝日に照らされる沖合を見渡していた。
水平線の彼方には、すでにフィリピン航路へと向かう定期便が白波を切って進んでいた。
「港は人を結び、海は国を広げる。玉里が輝く限り、日本は必ず太平洋の道を開くだろう」
その呟きに、潮風が応えるように吹き抜けた。
新しい港、新しい航路、新しい学び――すべてが繋がり、一つの国を未来へと押し出していく。玉里の海は今や、日本の未来を写す大きな鏡となっていた。