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222話:(1875年2月/厳冬)冬の鉄道網、北へ

厳冬の常陸。二月の空は低く垂れこめ、乾いた風が田畑を渡っていく。昨夜降った雪が薄く積もり、朝の光を反射して白銀の景色をつくり出していた。羽鳥から水戸にかけての野は、いまや静寂に覆われている。だがその静けさを破るように、遠くから蒸気の唸りと鉄槌の音が響き渡っていた。


 羽鳥城下から北へ伸びる原野に、長大な工事現場が広がっていた。雪に埋もれた地面を掘り返すために、数十人の工夫が鋤を振るい、汗まみれになって土をかき出す。彼らの脇を、黒々とした蒸気ショベルが唸りを上げて進んでいく。真新しい鉄の巨体が白い蒸気を吐き、硬く凍った地表を掻き割っていく様子は、まるで冬眠する大地を無理やり目覚めさせるかのようであった。


 「雪をかけろ、足元を固めろ!」

 監督役の掛け声が飛ぶ。凍った地盤に熱湯をかけて柔らかくし、すかさず鉄杭を打ち込む。打ち下ろすたびに乾いた衝撃音が響き、白い雪煙が立ち昇った。作業員たちの頬は寒さで赤く、息は白く弾けている。だがその眼差しは熱を帯びていた。自らの手で日本の大動脈を築いているという自負が、彼らを突き動かしていた。


 現場の一角には、設計図を広げた役人と技師の姿があった。図面には「北方延伸線」と大書され、羽鳥から水戸、さらに北へと続く太い線が描かれていた。その線はやがて海を越え、北海道へと結ばれていく構想を示していた。


 「この先、凍土を抜け、海峡を越えるのは容易ではないぞ」

 ひとりの技師が図面を睨みながら言う。

 「だが、蒸気と鉄、それに資金があれば道は開ける」

 隣に立つ役人が静かに応じた。彼の言葉の裏には確かな裏付けがあった。鉄道債――新たに発行された公債が市場で高値を呼び、資金調達は順調に進んでいたのだ。借財に頼らず、黒字を維持しながらの大規模投資。これは前例のない試みであり、同時に幕府、いや日本の近代財政の新たな一歩であった。


―――


 羽鳥城の高台から、藤村晴人は工事現場を眺めていた。風に乗って蒸気の音と鉄槌の響きが届く。彼は手袋を外し、冷たい石垣に手を置いた。指先に伝わる冷気とは裏腹に、胸の内には熱がこもっていた。


 「雪を切り裂き、鉄を敷き、大地を結ぶ……。この鉄路は、ただの道ではない。国をひとつに束ねる背骨だ」


 彼の呟きを、傍らにいた渋沢栄一が聞き取った。渋沢は懐から帳簿を取り出し、数字の列を指差した。

 「鉄道債の購買者は予想以上に増えています。農民も商人も、そして武士でさえ、未来に投資しているのです。殿、これは財政の奇跡にございます」


 藤村は頷いた。

 「数字は嘘をつかぬ。だが、それを活かすも殺すも人の心次第だ。……この鉄路が北へ伸び、北海道へと至れば、我らの国は大陸に手を伸ばす力を得る」


 視線の先、雪に閉ざされた原野の向こうに、彼は確かに未来を見ていた。


―――


 水戸城下でも、鉄道建設の影響は早くも表れていた。新駅の建設地では、町人や農民が物珍しげに資材の山を眺めている。巨大な鉄骨が並び、職人たちが組み上げていく様子は、まるで城の天守閣を建てるかのような壮大さであった。


 「駅とは城のようなものだ」

 現場監督の説明に、人々は目を丸くした。

 「ここから人も物も集まり、国中へ散っていく。駅は鉄道の心臓であり、町の鼓動そのものだ」


 やがて、真新しい駅舎の模型が公開されると、群衆はどよめいた。白漆喰の壁、広い待合室、そして鉄とガラスで組まれた屋根付きホーム。雪を避ける工夫が随所に盛り込まれ、寒冷地でも快適に利用できるよう設計されていた。


 「これで冬でも旅ができるのか……!」

 農夫の顔に笑みが広がる。商人たちはすでに帳簿を開き、輸送費の削減を計算していた。


―――


 午後、再び羽鳥の工事現場に戻った藤村は、蒸気ショベルの操縦席に腰を下ろした。職人の手を借りながらレバーを引くと、巨体が震え、雪と土を一気に掻き出した。周囲から歓声が上がる。藤村は振り返り、工夫たちに声を張った。


 「これはただの機械ではない! 人の知恵と汗を形にしたものだ! この力で我らは雪を越え、海を渡り、北の大地を掴み取るのだ!」


 その言葉に、作業員たちの目が輝いた。鉄槌の音が一層高く響き、現場全体が熱気に包まれた。


 冷たい風が雪を舞い上げる。だがその中で、人々の息は白く燃え、未来へと続く鉄路を刻んでいた。

雪雲が垂れ込める水戸の町。川沿いには凍りついた氷が白く張り付き、吐く息はすぐに白く散った。その町の一角で、巨大な木材と鉄骨を積んだ荷車がひっきりなしに出入りしていた。ここが、新たに建設される水戸駅の予定地であった。


 現場に立つ町人や農民たちは、打ち立てられた木組みの骨格を見上げてざわめいていた。

 「これが駅か……。城の門のように大きい」

 「いや、門ではなく、国の入口だそうだ」


 設計図を掲げる監督役の役人が説明を加えた。

 「この駅は、羽鳥から江戸を結ぶ鉄路の中枢であり、さらに北へと伸びる基点となる。人も物も、ここから北国へと流れるのだ」


 町人の中からは、輸送費削減や商売拡大を計算する声が飛び交った。農夫は米俵の輸送を思い浮かべ、商人は反物の仕入れを想像し、顔を綻ばせる。


―――


 同じ頃、江戸城の学問所では、慶篤が学生たちに向かって講義をしていた。黒板に描かれたのは、日本列島を縦断する鉄路の図。その線は太平洋沿いに北上し、やがて北海道に至る構想を示していた。


 「諸君、鉄路は単なる便利のための道ではない。軍を運び、米を運び、人を結ぶ――国家の血脈だ」


 彼は白墨を走らせ、三つの円を描いた。

 ① 軍事輸送

 ② 物資流通

 ③ 人的交流


 「この三要素が結びついたとき、国家は初めて統一を得る。鉄道網とは政治的統合であり、経済的一体化であり、文化の交流そのものだ」


 学生たちは真剣に耳を傾け、ノートに筆を走らせた。ひとりが手を挙げて問う。

 「殿下、雪や氷に阻まれた場合、どうなりますか」


 慶篤は頷き、用意していた資料を掲げた。

 「それこそが試練であり、技術を磨く場だ。雪害を克服したとき、その鉄道は世界にも誇れる。自然を敵とせず、挑戦を糧とせよ」


 講義を終えた慶篤は窓辺に立ち、冬空を仰いだ。

 「雪深き北へ鉄路を通せば、この国は大陸と肩を並べる国力を得るだろう」


―――


 その日の夕刻。水戸新駅の現場に、羽鳥からの報せを持った役人が駆け込んだ。鉄道債の売れ行きが好調で、予想以上に資金が集まっているという。工事の手が止まる心配はない。


 町人たちは歓声を上げた。

 「金を出す者が増えている? ならば我らの駅も早く完成するに違いない!」


 雪の舞う中で、鉄槌の音が再び響き始めた。白い冬の景色のただ中に、黒い鉄と木材が少しずつ形を成し、人々の期待が宿っていった。

札幌庁舎の会議室。外は吹雪が荒れ狂い、窓硝子に叩きつける雪が音を立てていたが、室内には石炭ストーブの熱が満ちていた。厚手の外套を脱ぎ、壇上に立った清水昭武は、背後の黒板に欧州各国の鉄道網を描き込んでいた。


 「まず、プロイセンだ」


 白墨が走り、ドイツの地図に鋭い線が刻まれる。

 「普仏戦争で彼らは鉄道を軍事に用いた。兵をわずか数日で国境に送り込み、フランスを圧倒した。鉄道とは兵站の革新であり、勝敗を左右する武器でもある」


 会場には北海道開拓使の役人、工部省の技師、そして現地の若い学生までが集められていた。昭武の声は、雪に閉ざされた北の地にこそ強く響いた。


 「次に、イギリスを見よ。産業革命の母国は、鉄道を『産業の動脈』とした。炭鉱から港へ、工場から市場へ――鉄道が全てを繋ぎ、工業と商業の利益を爆発的に増やした」


 黒板に描かれた線は蜘蛛の巣のように広がり、点と点を結んでいく。そのたびに聴衆の顔が引き締まった。


 「そしてフランス。中央集権の政府は、鉄道を国家の直轄とした。パリを中心に放射状に路線を敷き、首都と地方を強固に結びつけた。だが一方で、地方の独自性は削がれ、経済の偏りを生んだ」


 昭武は白墨を置き、両手を組んだ。

 「この三つの事例から学べるのは、日本の道が単純な模倣であってはならぬということだ。軍事の効率性、産業の発展性、中央の統合力――それぞれを学び、統合し、わが国の地理と社会に合う形で築き上げねばならぬ」


 聴衆の一人が立ち上がった。寒さに赤くなった頬の若い技師だった。

 「殿、厳寒の北海道で鉄道を走らせるには、欧州のどの国を手本とすべきでしょうか」


 昭武は一瞬考え、地図の隅に太い線を加えた。

 「ロシアだ。彼らのシベリア鉄道計画はまだ途上にあるが、極寒の地を貫く構想自体が示唆に富む。我らが先んじて雪と氷に挑むなら、やがて北の海を越えて大陸と肩を並べる日が来よう」


 沈黙が広間を包み、そののち静かな拍手が湧き起こった。


 昭武は最後に言葉を結んだ。

 「鉄道はただの線路ではない。国家の意思を運び、人々の夢を運ぶ道だ。北海道と本州を結び、さらに朝鮮、満州、大陸へと伸びる未来を思え。その先にこそ、日本の真の国力がある」


 窓の外では、吹雪がやや収まり、厚い雲の切れ間から淡い月光が差し込んでいた。雪に覆われた広大な北の大地は、昭武の言葉に呼応するように、静かに未来の姿を待ち望んでいるようだった。

厳冬の朝。江戸から北へ向かう列車の一番車両に、藤村家の一行が乗り込んでいた。窓外には、雪をまとった家並みが次々と後方へと流れ、やがて一面の白銀に変わっていく。


 義信は車窓に額を近づけ、食い入るように外を眺めていた。

 「兄上、見てください! 川まで凍っている……まるで大地が眠っているみたいだ」


 久信は頷きながら、懐から取り出した小さな帳面に急いで走り書きをしていた。

 「雪原が続くと、どこに村があるのかわからないね。でも、線路があるから迷わず行ける……」

 その一言に、周囲の大人たちが思わず笑みをこぼした。幼い感想の中に、鉄道の本質を捉える鋭さが光っていた。


 乳母に抱かれた義親は、窓越しに響く汽笛の音にぴくりと反応した。大きな黒い瞳を見開き、次の瞬間、嬉しそうに手を叩いて笑い声を上げる。その姿に、篤姫は胸をなでおろした。

 「汽笛が怖いのかと思ったけれど……楽しんでいるのね」


 列車は雪深い峠へと差し掛かり、機関車の吐き出す蒸気が白煙となって渦を巻く。窓外には、凍りついた木々の間に小さな集落が点在し、雪道を歩く農夫の姿が遠くに見えた。


 義信はその光景を指差し、声を弾ませた。

 「人が暮らしている! この寒さの中で……。鉄道があれば、ここにも物資が届くんだ」


 久信は帳面に「雪中の村」と書き付け、横に小さな絵を添えた。汽車の煙と雪の線路、そして小さな家々。幼い筆跡ながらも、そこには確かに「北国の暮らし」を理解しようとする気持ちが込められていた。


 篤姫は二人の様子を見つめ、柔らかく言葉を漏らした。

 「遠い北の地も、こうして近くなる。学びも商いも、鉄路が結んでくれるのね」


 藤村は黙って頷き、子どもたちの姿を目に焼き付けた。窓の外に広がる無限の雪景色は、ただ厳しいだけでなく、新しい未来を試す舞台のように思えた。


 列車はゆっくりと北上を続け、雪煙の中を突き進む。義信の目には「未知の大地」への憧れが、久信の帳面には「記録すべき未来」への熱意が、そして義親の笑顔には「どんな時代も受け入れる幼い無垢」が宿っていた。

江戸城の会議室に並べられた報告書の束をめくりながら、藤村晴人は深く息を吐いた。表紙に記された数字は揺るぎない事実を示していた。鉄道債の発行による資金調達、寒冷地技術の導入、そして北方延伸工事の進捗――いずれも安定した成果を挙げている。


 「これでよい。長州征伐で国内はまとまり、もはや誰も大規模な内乱を想像すらしない。今後は開発と改革に力を尽くすだけだ」


 藤村の声に、室内にいた役人たちは一斉にうなずいた。彼らの表情には、戦に怯える影はなく、数字と計画に基づいて未来を築けるという確信があった。


 北方から届いた榎本武揚の電信もまた、希望に満ちた内容であった。

 ――札幌・小樽間の鉄道調査、順調。厳冬下における測量も無事終了。樺太炭鉱より供給安定。


 「北の大地を結べば、石炭も木材も、そして人も流れる。北海道は本州と並び立つ柱となろう」


 藤村は電信文を握りしめ、遠い北の地に思いを馳せた。窓の外には、羽鳥の雪を払い、杭を打ち、線路を繋ぐ工夫たちの姿が見える。そのリズムは新しい時代の心臓の鼓動のようであった。


 「戦に勝つことよりも、国を築くことが大事だ。……我らはその道を選んだ」


 藤村はそう独りごちると、報告書に署名を入れた。墨の匂いと共に、確かな歴史の一頁が記されていった。

夜。羽鳥城の一室で、藤村晴人はランプの火を前に腰を下ろしていた。机の上には北方から届いた地図と、榎本武揚が送ってきた鉄道調査の報告書が広がっている。札幌から小樽、さらに旭川へ――白地の上に赤い線が伸び、未来の鉄路を描き出していた。


 障子の向こうからは、義信と久信の声が聞こえてきた。義信は算盤を弾きながら、「線路が延びれば石炭の値も下がる」と熱を込めて語り、久信はその横で「僕は駅の絵を描く」と楽しそうに答えている。幼い義親は母の腕に抱かれ、汽笛の真似をしては笑い声を上げていた。


 藤村はふと顔を上げ、窓越しに北空を仰いだ。雲間に覗く星の光は、まるで北方の大地を照らしているかのようだった。


 「雪を切り開く鉄路、海を渡る交易、そして人々の暮らし……。すべてを結ぶのは戦ではなく、知恵と信だ」


 墨を含んだ筆を取り、彼は榎本宛ての返書を書き始めた。

 ――資源と交通を一体にせよ。北海道は日本の未来を支える柱となる。


 筆を置いた時、彼の胸には不思議な温かさが広がっていた。過去に囚われるのではなく、未来を描くことにこそ意味がある。雪深い北の地であろうと、希望の鉄路は必ず続く――そう確信していた。

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