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221話:(1875年1月/新春)新春造幣

新しい年の陽光が、雪解けを待つ羽鳥の城下を柔らかに照らしていた。正月の門松はすでに取り払われ、街道沿いには初市を待つ人々のざわめきが広がっている。その中心に威容を放つのが、完成したばかりの羽鳥造幣局であった。白い漆喰壁と赤煉瓦の組み合わせは西洋風の荘厳さを漂わせ、背後には新築された金庫塔が聳えている。石組みの塔には厚い鉄扉が備えられ、その内部には国家の命脈たる金貨が積み重ねられていくのだと、見物に集まった町人たちは口々に囁き合った。


 この日、ついに「常陸金貨」の本格的鋳造が始まる。前年に藤村晴人と渋沢栄一が推進した銀行制度と連動し、金融インフラの三位一体――造幣、銀行、金庫――が初めて完全に整う歴史的な朝であった。


 造幣局の中庭には、朝早くから人々が集まっていた。裃姿の役人、羽鳥州から招かれた商人、江戸や横浜からやって来た外国商館の代理人、西洋式制服に身を包んだ技師たち。彼らの視線は皆、中央に据えられた新式鋳造炉へと注がれている。炉の表面は鋼板で覆われ、側面には蒸気機関のパイプが複雑に張り巡らされていた。職人たちは煤にまみれた顔を引き締め、炉の温度を確かめながら次々と作業を進めていく。


 「殿、お支度は整っております」


 職人頭が深々と頭を下げた。その声に、藤村は頷き、炉の前に進み出た。彼は黒の羽織の下に、金泥で「造幣」と染め抜かれた羽鳥局の公式装束を纏っていた。両脇には渋沢栄一と慶篤が控え、その背後に新春の白い息を吐く人々が列を成す。


 藤村は炉を見上げた。中から漏れる光は、まるで夜明けの太陽のように赤く眩しかった。鉄扉の向こうには、溶けた金が粘りを帯びながら渦を巻いている。


 「この金は、ただの金属ではない」


 彼は低く、しかしよく通る声で語り出した。


 「人々の信頼、労働の汗、商人の帳簿、農夫の収穫。そのすべてが、この円い貨幣の中に形を変えて宿るのだ」


 聴衆は静まり返り、ただ炉の音と蒸気の唸りだけが場を支配した。


 「今日から我らは、金貨をもって世界と取引を行う。これは武器ではない。国を護るのは軍だけではない。信用こそが最大の防壁だ」


 藤村の言葉に、渋沢は胸を張り、慶篤は深く頷いた。


 号令と共に、鋳型が並べられた。職人たちが鋳口を開けると、赤々と輝く溶融金が滑らかに流れ出し、鋳型の隙間へと吸い込まれていく。じゅっと音が弾け、熱気が一気に押し寄せた。見物人たちは思わず一歩後ずさったが、目はその光景から離れなかった。


 やがて冷却水の蒸気が立ちのぼり、鋳型が打ち割られると、中から黄金の円盤が姿を現した。直径三寸、厚み三分。表には旭日と桐紋が浮かび上がり、裏には「日本国常陸造幣」と刻まれていた。


 「おお……!」


 その瞬間、群衆から感嘆の声が沸き起こった。光を反射する金貨は、一枚ごとに小さな太陽のように輝き、人々の顔に黄金色の光を投げかけた。


 藤村は一歩前に出て、その一枚を手に取った。冷たいはずの金が、掌にずしりと重みを伝えてくる。彼はそれを高々と掲げた。


 「これが、新しい時代の証だ!」


 歓声が爆発した。太鼓が鳴り響き、正月の鼓笛隊が賑やかに演奏を始める。造幣局の鐘楼からも、澄んだ鐘音が響いた。人々はその音に合わせて拍手を打ち鳴らし、まるで祭りのような熱気が場を包み込んだ。


 渋沢が隣で静かに言った。

 「殿、これで銀行と造幣が繋がりました。預金は金貨に裏打ちされ、取引は確実に守られる。金融安定基金も稼働し、預金者の不安は消えるでしょう」


 藤村は微笑み、掲げた金貨を金庫塔の方向へと向けた。

 「あの塔は、国の心臓だ。造幣で血を作り、銀行で巡らせ、金庫で守る。――これで我らは、一つの身体となった」


 再び歓声が上がった。外国商館の代表も手を打ち、通訳を通じて「これで日本は本当に世界の金融国の仲間入りだ」と賞賛を述べた。


 その後、完成した金貨は厳重に箱へ収められ、隊列を組んだ役人によって金庫塔へと運ばれていった。石畳を響かせるその行進は、まるで軍事パレードのように厳粛であった。沿道の町人たちは頭を下げ、子どもたちは興奮した面持ちで「金の行列だ」と囁き合った。


 金庫塔の鉄扉が開くと、中には既に整然と積まれた銀貨の山が待っていた。その隣に、新たな黄金の山が静かに加えられた。鉄扉が閉じられた瞬間、会場の空気はさらに引き締まった。誰もが理解した――ここに、日本の未来が守られている、と。


 その後の祝宴で、藤村は人々に向かって短く語った。

 「金貨の輝きに酔うな。大事なのは、この金をどう使うかだ。産業を起こし、道を造り、学びを広め、民を豊かにする。金そのものではなく、そこから生まれる力こそが、国を育てるのだ」


 言葉に重みがあり、場内は深く頷いた。渋沢は盃を掲げながら、声を潜めて藤村に囁いた。

 「殿……今年から、本当の意味で日本の金融が動き出しますぞ」


 藤村は盃を静かに掲げ返し、黄金の光を背にしていた。

新春の空気がまだ冷たい朝。羽鳥城の学問所大講堂は、いつになく厳粛な空気に包まれていた。造幣局での金貨鋳造が始まったばかりのこの時期、慶篤による「金融安定」講義が開かれるとあって、州の役人や商人の代表、銀行関係者、さらに若い書生たちまでが詰めかけていた。


 広い講堂の正面には大きな黒板が据えられ、白墨が用意されている。慶篤は黒の羽織を纏い、背筋を伸ばして壇上に立つと、静かに一礼した。その眼差しは聴衆一人一人を射抜くように鋭く、それでいて落ち着いた温かさを帯びていた。


 「諸君。昨日、羽鳥造幣局で鋳造された常陸金貨を手にした者もいるだろう。あの一枚の重みは、ただの金属ではない。国家の信を映す鏡である」


 低く澄んだ声が、張りつめた空気に響いた。聴衆の視線が一斉に壇上へと注がれる。


 慶篤は黒板に三本の縦線を引き、その上に三つの文字を書き込んだ。

 「造幣」

 「銀行」

 「金庫」


 「これが、我らの金融の三位一体である」


 ざわめきが広がった。銀行員の一人が小声で「まるで三本柱のようだ」と呟くと、周囲が頷いた。


 慶篤は続ける。

 「造幣は通貨を造り出す。銀行は通貨を巡らせる。金庫は通貨を守る。この三つが揃って初めて、国の血は滞らずに流れる。もし一つでも欠ければ、国は病む」


 彼は次に三角形を描き、その頂点に「通貨供給」、左下に「金利政策」、右下に「銀行監督」と記した。


 「金融安定の理論はこの三本柱にある。通貨供給量を制御し、過不足なく世に送り出すこと。金利を調整し、民の商いを活発にしすぎず、また萎ませもしないこと。そして銀行を監督し、預金者の信を裏切らせぬこと。この三つがあれば、どれほどの嵐が来ようとも金融は揺るがぬ」


 黒板の図をなぞる慶篤の手は迷いがなく、その言葉には説得力があった。


 後列に座っていた若い商人が手を挙げた。

 「殿。もしも外国から大量の銀貨が流入してきたとき、日本の金貨の価値は揺らぎませんか?」


 会場に緊張が走った。


 慶篤はしばし黙考し、やがて静かに頷いた。

 「確かに通貨は海の波に似ている。他国の潮が押し寄せれば、我らの水位も揺らぐ。しかし、造幣局と銀行と金庫の三位一体制度を築いた今、我らには防波堤がある。まず金庫が準備金を保ち、銀行が流れを調整し、造幣局が新たな供給を制御する。ゆえに、日本の金貨は他国の潮に流されぬ」


 その説明に、商人たちは顔を見合わせ、安堵の表情を浮かべた。


 慶篤はさらに声を強めた。

 「諸君、覚えておけ。信用とは目に見えぬが、最も重い貨幣である。金貨はその象徴に過ぎない。人々が銀行に預け、銀行がそれを貸し出し、また金庫に守られる。そこに不安がなければ、人は銭を巡らせる。信用があれば、商いは三倍に広がるのだ」


 その場にいた渋沢栄一が頷きながら立ち上がり、声を上げた。

 「私は栄一、銀行を任された者でございます。慶篤殿の仰る通り、信用は銭以上の力を持ちます。我ら銀行は、常陸金貨を裏打ちとした預金証券を発行いたします。これにより、金貨が動かずとも商取引は円滑に進む。信用こそが我らの最大の武器であります」


 聴衆から感嘆の声が上がった。


 慶篤は満足げに微笑み、最後に黒板へと視線を戻した。

 「諸君、昨日から始まった金貨鋳造は、単なる通貨発行ではない。三位一体の制度が完成したことで、我らは金融の安定を手にした。これを守り続ければ、日本は嵐の海を越えて大国と肩を並べる日が必ず来る」


 講堂はしばし静まり返ったのち、大きな拍手が巻き起こった。その音は、まるで新春の雷鳴のように響き渡り、金融の新時代の到来を告げていた。

雪解けのまだ遠い一月。江戸城西の丸の一室では、窓越しに淡い冬陽が差し込み、机の上の帳簿や洋書を淡く照らしていた。大広間には金融に携わる役人や商人たち、そして若い書生らが集まり、重苦しい緊張と期待の空気が満ちていた。


 壇上に立つのは清水昭武。かつて水戸藩の一員として政治の荒波を知り、今は北方総督の職にありながら、欧州からもたらされた知識を携えて江戸へ赴いた青年である。彼は静かに会場を見渡し、一礼すると、手元の分厚い書物を開いた。


 「諸君。本日は、我が国の金融制度をさらに強固なものとするため、欧州諸国の中央銀行制度を比較検討し、日本独自の道を明らかにしたいと思う」


 その声は澄み渡り、広間を埋める者たちの心を一瞬にして掴んだ。


―――


 清水はまず黒板に三つの国名を書いた。

 「イギリス」

 「フランス」

 「プロイセン」


 「イギリスのイングランド銀行は、金本位制を基盤にし、紙幣と金貨の兌換を制度として確立した。彼らの強みは、長きにわたる信頼である。紙幣を手にした者が必ず金に換えられると信じるからこそ、国内外で紙幣は金貨と同じ価値を持つ」


 聴衆の中で、商人たちが小さく頷く。貿易に携わる彼らは、兌換の確実さが取引を支えることを肌で理解していた。


 清水は次に、フランス銀行の例を示した。

 「フランスは国債の管理に強みを持つ。ナポレオン戦争後、莫大な債務を抱えながらも、銀行が国債を整理し、財政の信を保った。紙幣発行と国債管理を一体で担うことで、戦争後の混乱を抑え、経済の安定を取り戻したのだ」


 記録係が筆を走らせる音が、静かな室内に響く。


 「そしてプロイセン銀行。彼らの特徴は産業金融への注力だ。鉄道建設、製鉄業支援――産業への貸付を通じて、国家の近代化を後押しした。軍事大国プロイセンの力の裏には、この銀行制度があったと言える」


―――


 清水は黒板に新たな線を引き、日本の金融制度を示した。

 「では、日本はどうか」


 その問いに、会場はざわめき、皆が身を乗り出した。


 「我らは今、羽鳥造幣局の金貨、銀行の預金証券、そして羽鳥城金庫塔の準備金という三位一体の制度を整えた。欧州の制度はそれぞれが分立し、時に衝突し、時に補い合ってきた。しかし日本は初めから統合を選んだ」


 清水の声は次第に熱を帯びる。

 「イギリスは兌換の確実さを築くまで数百年を要した。フランスは国債処理で血を流した。プロイセンは産業金融の発展に国家の力を注ぎ込んだ。だが、日本は造幣と銀行と金庫を一度に立ち上げ、互いに連携させたのだ。これこそが日本の強みである」


 場内に感嘆の息が漏れる。


―――


 一人の若い書生が手を挙げた。

 「殿、もし戦争で大量の出費が必要になったとき、日本の制度は耐えられるでしょうか」


 清水は黒板に「基金」と書き加えた。

 「そのために金融安定基金を設けた。平時に余剰を蓄え、有事に放出する。銀行は証券を発行し、造幣局は金貨を補い、金庫は準備金を差し出す。三位一体に基金を加えれば、嵐にも揺るがぬ体制となる」


 その説明に、書生の顔が晴れやかなものとなった。


―――


 清水は書物を閉じ、会場を見渡した。

 「日本の金融制度は、欧州を模倣するのではない。我らは我らの道を歩む。三位一体の制度と基金の備えにより、紙幣も金貨も、そして証券も揺るがぬ信を得る。諸君、我らの未来は、信と制度の上に築かれる」


 広間を埋め尽くす拍手が沸き起こった。その音は長く続き、やがて新春の冷たい空気を震わせるかのように響き渡った。


 壇上の清水は静かに頷き、胸の奥で固い誓いを立てていた。

 ――日本の制度は、欧州に伍して立つだけでは足りぬ。必ず凌駕してみせる。

その夜。羽鳥城の居館では、囲炉裏の火が温かく燃え、外の冷たい雪を忘れさせていた。障子の向こうに広がる庭は白一色に染まり、風に舞う粉雪が月明かりにきらめいている。


 藤村晴人は書斎から戻ると、子どもたちが集まる広間に足を運んだ。机の上には、昼間造幣局から持ち帰った試鋳の新金貨が、布の上に整然と並べられていた。まだ世に出たばかりの硬貨である。


 義信(十歳)は真剣な眼差しで金貨を手に取ると、卓上の小さな顕微鏡にかざした。

 「父上、この刻印……線がわずかにずれている箇所があります。これは職人が手で刻んだからでしょうか」


 彼の声は落ち着いており、すでに学者のような観察眼を宿していた。晴人は頷きながら答えた。

 「その通りだ。どれほど精密な型を用いても、人の手が関われば誤差は生じる。だが、その僅かな誤差こそが本物の証だ。偽造は完璧さを装うが、本物には人の息が残る」


 義信は顕微鏡を覗き込み、ノートに観察した模様を写し取った。彼の筆は迷いなく走り、数字や線の意味を自ら解釈していく。


―――


 一方、久信(九歳)は別の金貨を掌に乗せ、刻印の紋様を紙に写そうと夢中になっていた。硯に墨をすり、薄紙を硬貨に当てて、細い筆で輪郭をなぞる。浮かび上がった模様を見て、彼は目を輝かせた。

 「父上、これを正しく描ければ、偽物と本物の違いを見分けることができますね」


 晴人は笑みを浮かべた。

 「その通りだ。絵を描くことはただの遊びではない。観察し、違いを知り、判断する力になる。政治も経済も、人を見分け、言葉の裏を読むことが肝要だ。――その力を養え」


 久信は頷き、さらに別の金貨を取り上げて描き写した。彼の集中力と粘り強さは、兄とはまた違う形で金融の世界に触れていた。


―――


 義親(まだ三歳)は母の篤姫の膝に抱かれ、小さな手で金貨袋をぎゅっと握りしめていた。袋の口から覗く金色の輝きに、目を丸くして見つめている。やがて彼は声をあげ、袋を振りながら楽しげに笑った。


 その無邪気な仕草に、家族の笑い声が広間に満ちた。篤姫は柔らかい微笑みを浮かべ、幼子の髪を撫でながら言った。

 「この子らが大きくなる頃には、この金貨の価値が世界に認められていると良いですね」


 晴人は静かに杯を掲げた。

 「必ずそうする。――金貨はただの金属ではない。信を刻んだ証だ。我らが刻んだ信を、次の世代へ渡していこう」


―――


 囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、金貨の輝きが炎に照らされてきらめいた。外は厳しい冬だが、家の中には新しい時代の温もりが確かに息づいていた。

新年の冷気に包まれた江戸城外交庁舎。白漆喰の壁に朝日が反射し、まるで新しい時代の門出を告げるかのように輝いていた。その大広間では、各国の外交官と幕府高官が一堂に会していた。


 壇上に置かれた机の上には、厚手の羊皮紙と、朱の印璽が整然と並べられていた。書記官が一枚一枚を丁寧に読み上げ、列席者たちの耳に響かせる。

 「金銀通貨交換条約――日本国とハワイ王国は、相互に発行する金貨・銀貨を等価で交換し、太平洋における貿易決済に用いることを承認する」


 その一文が読み上げられると、場内には静かなざわめきが走った。


―――


 藤村晴人は、深い呼吸をしてから起立した。彼の前にはハワイ王国の全権大使が立ち、互いに一礼を交わす。朱肉を含ませた印璽を高く掲げ、羊皮紙に力強く押し当てると、赤い花のような印影が鮮やかに広がった。


 「これで、日本の貨幣は太平洋の公海を渡り、異国の港でもそのまま通用する」


 藤村の声は落ち着きつつも力強く、大広間を包み込んだ。


―――


 慶篤が傍らで小さく頷き、低くつぶやいた。

 「金貨とは、ただの金属ではない。国家の信用そのもの……。この条約で、それが世界に証明されたのです」


 渋沢栄一もまた感慨を込めて言葉を続けた。

 「これで銀行と造幣局の仕組みは、世界の商館と繋がります。手形を切れば江戸からホノルルへ、金貨を鋳造すれば羽鳥からサンフランシスコへ――資金の流れは国境を越えましょう」


 清水昭武が地図を指し示した。日本列島から台湾、朝鮮、そしてハワイを結ぶ赤線が引かれている。

 「この線が、やがて太平洋の環となる。貿易だけではない、外交も文化も、この環で結ばれるでしょう」


―――


 藤村は窓の外に視線を向けた。冬の陽光に照らされた江戸の町は、人々の往来で賑わい、商人たちが荷を担いで走り回っていた。その一人一人の暮らしに、今日の条約が静かに影響を及ぼすことを思った。


 「金貨の輝きが、ついに海を越える……」


 その言葉に、場内は静かに、しかし確かに熱を帯びた。


―――


 こうして、日本は初めて国際通貨体制に名を連ねた。銀行制度・造幣制度・国際通貨協定の三要素が結びつき、近代国家としての金融システムは完成に近づいたのである。


 冬の冷たい空気の中、外交庁舎の屋根に積もった雪が溶け、静かに雫となって落ちていた。それは、過去の重荷を洗い流し、新しい時代を告げる透明な滴のようであった。

外交庁舎の熱気が収まりきらぬまま、夕刻の江戸城西の丸では小さな会合が開かれていた。円卓を囲んでいたのは、藤村晴人、渋沢栄一、慶篤、そして藤田小四郎である。机の上には条約文書の控えと、造幣局から運ばれたばかりの新金貨が並べられていた。


 小四郎は掌に載せた金貨をじっと見つめた。陽にかざすと、精緻な刻印が光を受けて輝いた。

 「殿、そして皆様……」と口を開いた声には、かつての血気盛んな若さよりも、今は冷静な響きが宿っていた。


 「この一枚が、世界で通用する。確かに偉大な一歩です。しかし――この制度を人々が理解せねば、本当の力とはならぬでしょう。金貨が世界を繋ぐなら、その仕組みを学び、使いこなす者が育たねばならぬのです」


 藤村が静かに頷いた。

 「つまり、制度を作るだけでは足りぬ。人材教育が伴わなければ、金貨はただの飾りにすぎぬ、と」


 小四郎はさらに続けた。

 「条約交渉の過程、銀行の会計簿、造幣局の鋳造簿……これらを教材に用いるのです。机上の算術ではなく、実際の数字と仕組みで学べば、民も士も制度を『自分のもの』として理解できます。やがては議会で財政を論ずる時代が来ましょう。その時に備え、今から“数字を読む力”を国民に授けるべきです」


 その言葉に、渋沢が扇を軽く叩いて賛意を示した。

 「まさに実学ですな。銀行設立も、造幣も、条約も、全ては人に理解されて初めて生きる。私は商人を育てることを考えていましたが……小四郎殿の言うように、士農工商を問わず、皆に学ばせるべきです」


 慶篤も頷き、板書用の紙に走り書きをした。

 「“金融は政治を支え、教育は金融を支える”。これを次の講義の冒頭に掲げましょう」


 藤村は三人の言葉を聞きながら、金貨を指先で弾いた。澄んだ音が部屋に広がる。

 「国の未来は、この音に宿っている。だがそれを響かせ続けるのは、民の理解と信頼だ。――小四郎、そなたの言葉は重い。必ず制度に組み込もう」


 小四郎は深く頭を垂れた。


―――


 その夜、藤村邸。書斎の奥では、義信が算盤をはじき、久信が帳簿に模写をしていた。幼い義親は母の膝に抱かれながら、父の帰りを待ちわびるように金貨の袋を握っていた。


 藤村は子らの姿を眺め、ふと胸中でつぶやいた。

 ――制度は作った。条約も結んだ。だが次は、この子らが数字と制度を使いこなす時代だ。


 彼の眼差しには、国を強くするのは制度でも金貨でもなく、教育によって育つ人そのものである、という確信が深く宿っていた。

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