219話(1874年9月)秋の豊作
秋風が稲穂を渡り、常陸平野は黄金色の海と化していた。陽に照らされ、揺れる稲は波のようにきらめき、農民たちの鎌がリズムを刻むたびに束が積み上がってゆく。稲架には新米が並び、村の空気は甘く芳しい収穫の匂いに満ちていた。
だが、常陸州の豊かさは米だけではない。羽鳥の街道を進めば、織物問屋が軒を連ね、鮮やかな反物が風に踊る。羽鳥織はこの数年で品質を格段に高め、今や江戸や横浜を越えて欧州まで運ばれる商品となった。織工たちは胸を張り、
「羽鳥の布なら、異国でも値がつく」
と誇らしげに語った。
笠間では窯が絶え間なく煙を吐き、焼き上げられた陶器とガラス瓶が積み出される。笠間焼の茶器はロンドンで高級品として扱われ、Kasama瓶は酒や薬の必需品として国際市場に食い込んでいた。職人たちは夜を徹してろくろを回し、
「我らの器が海を越える」
と笑みを交わした。
さらに鎌倉養生館で製造されるペニシリンは、常陸州の医薬局を通じて全国に供給されている。薬瓶には必ずKasama瓶が用いられ、その組み合わせが「日本の最新医学」を象徴する存在となっていた。医師たちは患者に薬を手渡すたびに、
「これは常陸で作られた」
と誇りを滲ませた。
港には輸入再販の洋酒や、修理を経た武器も並ぶ。専売制による安定収益は州財政を大きく支え、特にたばこ専売の益は常陸州の歳入の柱となっていた。商人たちは帳簿を弾き、
「一箱の煙草が、一里の鉄路を延ばす」
と口々に語った。
その成果は数字に表れていた。常陸州の年間総収益は四十万両に迫り、そのうち一割強を中央政府に上納している。残りは鉄道建設、造幣局、教育基金に再投資され、州内で再び循環する。黒字は確実に積み重なり、わずか数年前まで借財に喘いでいた幕政を支える柱となっていた。
羽鳥城の広間で、慶篤は収穫祭を兼ねた財政報告を読み上げた。
「常陸州の黒字、本年は十二万両」
農民は歓声を上げ、職人は頭を下げ、商人は手を打った。人々は知っていたのだ。田に実る稲も、窯から生まれる器も、薬瓶に収められる新薬も、すべてが「常陸州の財」となり、その富が再び自分たちの暮らしを潤すことを。
藤村晴人はその光景を静かに見守っていた。土間から吹き込む秋風が紙を揺らし、墨の香りと新米の匂いが混ざり合う。彼は深く息を吸い込み、
「これが我らの国を支える力だ」
と胸の奥で確信した。
江戸城西の丸、勘定所の広間。帳簿の山が机に積まれ、火鉢の炭が赤々と燃えていた。年に一度の決算報告の日、各州から届けられた収支簿が広げられ、役人たちの筆が走っていた。
「常陸州、黒字十二万両。羽鳥織、笠間焼、薬品専売、いずれも前年を大きく上回る伸びを示す」
読み上げた勘定奉行の声に、ざわめきが広がった。数字は冷徹だが、その裏には農民の汗、職人の工夫、商人の計算が積み重なっている。
続いて他州の報告が続いた。
「薩摩、会津……いずれも借財完済済み。伊予、肥前も黒字に転じました」
藤村晴人は前列に座し、静かに報告を聞いていた。わずか数年前、幕府の借財は一千二百万両に達し、国は破綻寸前だった。その数字を目の当たりにした日の冷や汗を、今も忘れてはいない。
だが今、債務残高は――。
「幕府債務、百三十万両台」
その一言に、広間の空気が変わった。ざわめきがやみ、しばしの静寂の後、抑えきれぬどよめきが沸き起こった。
「わずか十年足らずで、ここまで……」
「まるで奇跡だ」
年配の代官が思わず声を漏らした。
藤村は扇を軽く閉じ、低い声で告げた。
「奇跡ではない。米一俵を刈る手、布一反を織る手、瓶を焼く炎、薬を調合する知。すべての力が重なり合って、この数字となったのだ」
彼の言葉に、広間にいる役人たちの表情が引き締まった。彼らは机に向かうだけの存在ではない。現場を知り、数字の背後にある労苦を理解することこそ、真の財政官の務めなのだ。
「借金の重荷を軽くするのは、天の恵みではない。我らの知恵と汗だ。これからも黒字を投資に回し、鉄路を延ばし、港を築き、学校を広げる。数字を未来に変えるのが我らの役目だ」
藤村の声は力強く響き、広間の隅々まで届いた。
その瞬間、書役の一人が心の奥で誓った。
――自分もまた、数字を扱う者として、この国の未来を担うのだ。
外では秋風が吹き、城の石垣を越えて桜の葉が舞い込んできた。季節は移ろうが、財政の土台は確かに築かれつつあった。
秋の午後、江戸城学問所の大講堂。高い窓から射し込む光が黒板を照らし、ざわめいていた若い官僚志望の学生たちが一斉に静まり返った。壇上に立つのは慶篤である。彼は手にした白墨を黒板に走らせ、大きく「黒字会計」と書き付けた。
「収支が均衡するだけでは足りぬ。真に国を富ますには、“余り”をどう使うかが肝要だ」
彼の声は落ち着いていたが、力強さを秘めていた。黒板には三つの矢印が描かれた。
① 教育
② インフラ
③ 備蓄
「農民からの地租、商人からの関税、専売益――これらをただ歳出に当てるだけでは、国はその場に留まる。しかし黒字を教育に投じれば人材が育ち、鉄路や港に投じれば交易が広がり、備蓄に回せば凶作や戦にも耐えられる。これが戦略的財政運営だ」
学生たちの間から感嘆の声が漏れた。慶篤は板書を指し示しながら続けた。
「つまり黒字は未来への種子だ。撒かなければ腐り、撒けば芽吹く。諸君らはその芽をどう育てるか、常に考えねばならぬ」
講義の後方で、藤村晴人が静かに耳を傾けていた。彼は心の中で頷いた。財政の黒字は単なる数字ではなく、国を進める力なのだと。
―――
続いて壇上に立ったのは、北方から一時帰京した清水昭武であった。彼は分厚い欧州書簡を机に置き、ゆっくりと語り始めた。
「諸君、欧州の歴史を見れば明らかだ。イギリスは産業革命と共に農業余剰を工業に回し、交易で得た富を海軍に注ぎ、世界を制した。フランスは農業生産を増やすため輪作を導入したが、戦争に資源を割かれて黒字を失った。プロイセンは鉄道と農地改革を結びつけ、黒字を軍備に投じて短期間で大国にのし上がった」
黒板には各国の数字が記されていく。
「イギリス黒字、年間約2千万ポンド。フランス、革命後は赤字続き。プロイセン、鉄道収益をもって黒字回復」
学生たちは息を呑んだ。数字は雄弁に国の盛衰を物語っていた。
「日本の財政は、欧州主要国と比しても異例の速度で健全化している。数年前、借財は一千二百万両に達していた。それが今や百三十万両台。これは奇跡ではない。産業の多様化と制度の整備がもたらした必然の結果だ」
昭武は声を強めた。
「だが忘れてはならぬ。黒字は安堵の証ではなく、次の投資の糧である。欧州に学びつつ、日本独自の道を歩まねばならぬ」
大講堂に沈黙が訪れた。学生たちはそれぞれの胸に、未来の国家像を描き始めていた。
―――
その夜、藤村は学問所を後にし、庭に立ち止まった。秋風に揺れる松の枝がざわめき、空には冴え冴えとした月が浮かんでいた。
「黒字は未来の種子……か。ならば私は、それを絶やさぬ土を耕す役目を担わねばならぬ」
藤村は心の奥でそう呟き、歩みを再び進めた。
秋風が吹き抜ける常陸の田園。黄金の稲が刈り取られ、次々と藁束が積まれていく。藤村の子どもたちも、その収穫の場に混じっていた。
義信は田の隅に置かれた机の前に座り、村役人の帳簿を覗き込んでいた。刈り取った稲を籠に入れて持ち込む農夫から「三俵」「五俵」と報告を受けると、算盤を弾いて合計を出す。まだ幼いながら、その指の速さと正確さに役人が目を丸くする。
「若様……これなら明日の市に出す量まで計算できますな」
義信は顔を上げ、誇らしげに微笑んだ。数字の中に、農業の営みの全体像を読み取ろうとする瞳が光っていた。
―――
一方の久信は、農民たちと一緒に脱穀場にいた。大人に混じり、杵を両手で握りしめ、掛け声に合わせて束ねられた稲を打つ。稲粒が飛び散り、秋風に舞うと、久信の頬に当たり、笑みがこぼれた。
「いいぞ、久信坊! その調子だ!」
農夫の声援に、久信はさらに力を込めた。重労働に混じって汗をかきながらも、彼の胸には「一緒に働けた」という達成感が広がっていた。
―――
義親は、母に抱かれて田の端に座っていた。稲穂が山のように積まれる傍ら、母が柔らかい藁を布団代わりに敷くと、その上に寝かされた。黄金色の稲の香りに包まれると、義親は小さな手を伸ばし、満ち足りた笑みを浮かべて眠りについた。
―――
夕暮れ。収穫を終えた田には、稲の山と子どもたちの笑い声が残った。藤村は土手からその光景を見守り、深く頷いた。
「数字で耕す者、体で耕す者、そして恵みをそのまま受け取る者――どれも国を支える力となる」
秋空の下で、父の胸には確かな確信が芽生えていた。
秋風が吹き抜ける江戸城西の丸・勘定所の大広間。机の上には分厚い帳簿が幾重にも積まれ、火鉢の炭がぱちりと音を立てていた。集まった役人たちの表情は緊張に満ち、静寂の中に墨をする音だけが響く。
やがて、渋沢栄一が立ち上がり、手元の収支簿を広げて声を張った。
「常陸州歳入、総計――四十万六千両。歳出を差し引き、黒字二十五万両!」
その場にざわめきが走った。わずか数年前、破綻寸前の幕府財政を目の当たりにしてきた役人たちにとって、この数字は信じ難い奇跡だった。
渋沢は続ける。
「専売益、まずタバコ十万両。洋酒五万両。武器輸出八万両。笠間焼・瓶などの工芸品四万両。羽鳥織・農産加工品十万両。さらにペニシリン三万両……。それぞれの部門が黒字を積み重ね、合算すれば天下に誇る大黒字にございます」
役人たちは互いに顔を見合わせ、震える手で筆を走らせた。
藤村晴人は静かに頷き、口を開いた。
「この黒字は、ただの余剰ではない。民の汗と工夫の結晶である。常陸州はもはや一地方ではなく、幕府財政を支える柱となったのだ」
その言葉に、場の空気は一層引き締まった。
年配の代官が、感嘆の息を漏らした。
「これほどの黒字があれば、幕府の債務返済を加速させることもできましょうな……。常陸州は、まさに国の米蔵ならぬ、銭蔵にございます」
藤村は深く頷き、扇で机を軽く叩いた。
「そうだ。財政健全化は夢物語ではない。数字は人を欺かぬ。――常陸の黒字が、国全体を支える」
沈黙の中、確かな希望が広間に満ちていった。
その夜、江戸城の一室。帳簿を前に藤村は渋沢と並び、火鉢の赤い炭を見つめていた。
「常陸州の黒字は二十五万両。これで幕府の借財は百三十万両台まで減った」
渋沢がそう告げると、藤村は深く息を吐いた。
「一時は一千二百万両に膨れ上がった借財も、ここまで来たか……。数字は冷たいが、民の力が刻まれた数字は温かい。彼らの汗が、確かにこの国を救っている」
藤村は窓を開け、夜空を仰いだ。秋風が吹き込み、遠くで収穫を終えた村の祝い囃子が聞こえる。
「黄金の稲穂が米となり、銭となり、国を立て直す。常陸の黒字は地方の余剰にあらず。国の命脈そのものだ」
その言葉に、渋沢は静かに頷いた。
秋の夜、数字と人の力が重なり合い、確かな未来への歩みがそこにあった。