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216話:(1874年6月/初夏)夏の氷と条約港

六月の江戸は、すでに夏の気配が濃く漂っていた。湿った風が隅田川の水面を渡り、町人たちはうちわを手にして往来を急ぐ。だが、同じ初夏の太陽の下でも、北方の北海道は全く異なる表情を見せていた。まだ雪渓を抱く山々の裾野で、氷が切り出され、樽詰めにされ、港へと運ばれていたのである。


 羽鳥城の執務室で、藤村晴人は札幌から届いた分厚い報告書を手にしていた。紙には整然と数字が並んでいる。氷の積出量、輸送費、保存率、売値。すべてが細かく記録され、前年の数値と比較されていた。


 「……氷は、もはや贅沢品ではないな。産業の柱として立ち上がりつつある」


 呟きながら、彼は目を細めた。函館、横浜、長崎、そして南方への輸出。数字の列の奥には、確かに人々の暮らしの熱気が宿っているように感じられた。


―――


 六月初旬、函館港。


 白い息を吐きながら、労働者たちが氷室から切り出された氷の塊を大八車に載せて港へ運んでいた。初夏とはいえ北海道の空気はまだ冷たく、氷は青白い光を放ちながらきらめく。木箱に詰められ、厚く藁で覆われた氷は、船倉に積み込まれるや否や、樹脂で封じられた扉で密閉された。


 「江戸の商人からの注文だ。氷が届けば、酒も魚も傷まずに売れる。夏祭りに合わせれば、倍の値で取引できる」


 船頭の言葉に、若い商人が深く頷いた。


 「しかも、その収益で港を広げ、新しい冷蔵庫を建てる。儲けをさらに儲けへ繋げる仕組みだ」


 彼の指さす先では、函館新築の冷蔵庫施設が堂々とそびえていた。石造りの厚い壁と最新の換気装置。ここに氷を保管すれば、一年を通じて安定した供給が可能になる。


―――


 報告書には、この循環投資の仕組みが詳しく記されていた。氷の売上は港湾整備や船舶改修に再投資され、その港がさらに多くの氷を輸出する。その循環が止まらぬ限り、北海道の氷は日本全土、さらには太平洋全域を潤す資源となるだろう。


 江戸にいる藤村は、机の上に広げられた地図に目を落とした。赤い線が北海道から本州、さらに南方航路へと伸びている。


 「寒冷地という不利を、強みに変えたか。まさに“自然産業”だ」


 慶篤が以前の講義で語った言葉を思い出す。自然の特性を欠点ではなく利点として利用する。その思想は氷産業によって現実のものとなっていた。


―――


 一方、横浜。


 真夏を思わせる陽射しの下、氷を積んだ船が港に入ると、町は一気に沸き立った。魚屋は氷で冷やした鯖や鰹を並べ、菓子屋は氷水に浸した果物を売り出す。子どもたちは珍しげに氷の欠片を口にし、冷たさに驚いて歓声を上げた。


 「これが北の恵みか。まるで雪を食べているようだ」


 見物に訪れた町人は感嘆の声を上げた。氷は人々の生活を変えるだけでなく、夏の風景そのものを塗り替えつつあった。


―――


 羽鳥城に戻ると、商務局の役人が電信を届けた。


 「殿、ハワイ王国との氷貿易協定、正式に調印との報です」


 紙には短く「条約港開設」と記されていた。


 藤村は大きく息を吐き、窓の外を見やった。そこではすでに夏の雲が盛り上がり、太陽が城下を照らしていた。


 「氷で海を越える……不思議な話だが、これが現実になった」


 太平洋を行き交う船団の姿が、彼の脳裏に浮かんだ。南の国の人々が冷たい氷を手に取り、驚きと歓喜の声を上げる光景も。


―――


 その夜。


 藤村家の居間では、義信が顕微鏡を覗き込み、氷の結晶を観察していた。細やかな六角形が光を反射し、彼は息をのんだ。


 「こんなに規則正しい形をしているのか……自然は数式そのものだ」


 久信は隣で氷を小刀で割り、音と感触を楽しんでいた。


 「固いと思えばすぐ溶ける。不思議なものだな」


 義親は母の膝に抱かれ、氷の欠片を手にして冷たさに泣き声を上げたが、すぐに笑みに変わった。家族の笑い声が広がり、氷は単なる商品ではなく、新しい文化の象徴となっていた。


―――


 机に戻った藤村は、改めて報告書に目を通した。


 「自然の恵みを活かし、それを未来へ繋ぐ……氷は一時の贅沢品ではない。太平洋を結ぶ経済の血管となる」


 彼は筆を取り、日誌に記した。


 ――氷は夏を制し、やがて世界を結ぶ。


 その言葉は、初夏の夜の帳に沈む羽鳥城の窓から洩れる灯火とともに、静かに歴史へと刻まれていった。

六月半ばの江戸城。障子越しに射し込む光は強さを増し、広間の空気には早くも盛夏の匂いが混じり始めていた。だが、その場に集う人々の関心は暑さではなく、一枚の報告書に注がれていた。


 「函館港にて新築の氷庫稼働。保存効率八割を維持し、年間供給が安定とのこと」


 読み上げた役人の声に、広間の空気がざわめいた。


 「八割……! 従来は五割に届けば上々だったはず」

 「氷が溶ける前に届けるのが常識であった。それを覆したか」


 ざわめきを制するように、藤村晴人が手を挙げた。


 「数字は誇張ではない。氷の収益はすでに専売益に匹敵し、その一部を港湾整備に再投資している。――氷は単なる商品ではない。循環投資の象徴だ」


 その言葉に、場に重みが落ちた。人々の視線は、もはや氷を贅沢品としてではなく、財政を潤す資源として見つめていた。


―――


 午後、江戸学問所。慶篤が講壇に立ち、黒板に大きく「自然産業」と書きつけた。


 「従来、寒冷地は“不利”とされてきた。作物は育ちにくく、人は少なく、開発の手間ばかりかかる。しかし、北海道の氷はどうだ? 不利と思われた寒さが、むしろ強みとなった」


 講義室に集まった若い官僚や書役が一斉に頷いた。慶篤は指先で黒板を叩きながら続ける。


 「自然を敵と見なせば、常に克服のために銭と労力を浪費する。だが自然を資源として見直せば、国を支える力に変わる。寒さも、山も、海も――すべては活かし方だ」


 机の前列に座っていた一人の若者が手を挙げた。

 「殿、それでは暑さの厳しい南方は……」


 慶篤は即座に答えた。

 「茶と砂糖だ。すでに台湾で実証されている。つまり日本は、北の寒冷も南の熱帯も“資源”として抱えているということだ。世界に類を見ぬ強みだと心得よ」


 ざわめきが起き、熱気は講義室を覆った。


―――


 その夜、藤村は議場の記録を開きながら独白した。


 「氷で港を整え、茶と砂糖で市場を開く。自然を資源に変える術を得た今、日本は単なる工業国を目指す必要はない。多様性こそ、真の強みだ」


 硯の墨がにじみ、筆先から記された言葉は静かに紙に沈んだ。


 ――氷は冷たくとも、未来を温める。

その頃、北の札幌。まだ朝靄の残る庁舎で、清水昭武は分厚い報告書を仕上げていた。机の上には欧州の地図と共に、一冊の英語本が開かれている。表紙には「Frederic Tudor ― The Ice King」と記されていた。


 「マサチューセッツの氷が、カリブ海に、インドにまで運ばれた……」


 昭武は独りごち、記録された航路を指でなぞった。ボストン港を発った船が赤道を越え、はるか東洋へ氷を届ける図を前に、目を細める。


 「氷は、ただ冷たいだけの水ではない。大洋を越える“商品”なのだ」


 その言葉は、部屋に控える書役にも深く響いた。


―――


 昼下がり、昭武は執務室に人々を集め、短い講義を始めた。机の上には日本海から太平洋にかけての海図が広げられていた。


 「アメリカでは氷の貿易で莫大な利益を得た。問題は保存と輸送だ。厚い氷を切り出し、藁で包み、密閉した船倉に積むことで、赤道を越えても氷は残った」


 参加していた若い技師が驚いて口を開いた。

 「赤道を越えても……? 常識では考えられませぬ」


 昭武は笑みを浮かべた。

 「常識を越えたからこそ、彼らは“氷王”と呼ばれた。だが我らは北の大地を持つ。ボストンよりも氷の質は良く、海路も太平洋に直結している。つまり、条件はむしろ日本の方が優れているのだ」


 会議室はざわめきに包まれた。氷が国際商品として、茶や砂糖と肩を並べる未来が、具体的に浮かび上がった瞬間だった。


―――


 夕刻、昭武は完成した報告書を電信に託した。


 《氷輸出は日本の新しい柱となる。米国の先例を越え、太平洋全域を市場とすべし》


 その文面は即座に江戸へと送られ、藤村の手に渡ることになる。


 北の窓を開けば、まだ残雪の気配が風に混じっていた。だがその冷たさこそが、未来を切り拓く資源であることを昭武は確信していた。


 「氷の輝きが、太平洋を結ぶ……」


 彼は静かに呟き、灯火を落とした。

江戸の藤村邸。庭の木陰に据えられた桶の中には、北から運ばれてきた氷が涼やかな音を立てていた。初夏の陽射しにきらめき、透明な塊はゆっくりと水滴を零している。


 「これが北海道の氷か……」


 義信は顕微鏡を机に運び込み、氷の小片を丁寧に載せた。目を覗き込むと、複雑な六角形の結晶が姿を現す。

 「美しい……雪の結晶と同じ形だ。融けて水になる前に、全てを記録しておかねば」


 小さな手が素早く筆を走らせ、観察記録の紙には結晶の図が次々と描き写されていく。その集中した横顔に、使用人たちは思わず息を呑んだ。


―――


 一方、久信は氷割りを任されていた。木槌を握り、桶の縁に置かれた塊を思いきり叩く。

 「よいしょっ!」


 乾いた音と共に氷が砕け、白い飛沫が辺りに散った。頬に当たる冷たさに、久信は驚きと喜びが入り混じった声を上げた。

 「固いけれど、脆い……。これが氷の不思議なんだね」


 割れた氷片を掌に載せ、太陽にかざしてみる。透き通る輝きはまるで宝石のようで、久信の瞳にきらめきを映した。


―――


 その傍らで、乳母に抱かれた義親は初めて氷に触れた。小さな手を伸ばし、指先がひやりとした瞬間、驚いた顔で声を上げる。泣きそうになったかと思うと、次の瞬間には笑顔に変わった。氷の冷たさが、未知の遊びとして彼の心をくすぐったのだ。


 「泣くのかと思ったら、笑いましたよ」

 乳母が安堵の笑みを浮かべると、篤姫も膝の上から見守りながら微笑んだ。

 「新しいものに触れるとき、人は誰しも不安と喜びを同時に覚えるものなのね」


―――


 縁側に座っていた藤村は、三人の子どもの姿を静かに眺めていた。顕微鏡に没頭する義信、氷割りに夢中な久信、冷たさに触れて無邪気に笑う義親――。それぞれの関わり方が違っても、皆が同じ氷を通じて何かを学んでいる。


 「氷一つにも、未来を学ぶ道がある」


 藤村はそう呟き、ゆっくりと目を細めた。氷桶の表面から立ち上る冷気が、初夏の空気に混ざり、庭全体を涼しく包んでいた。

同じ頃、北海道・函館港。白い冷気を漂わせながら、巨大な氷塊が倉庫から次々と運び出されていた。新設された冷蔵庫施設の内部は、夏でありながら冬のような静けさと冷気に満ちている。木箱に詰められた氷は、艀に積み込まれ、やがて外洋を渡る船に移されていく。


 「この氷が太平洋を越えるのだな」


 港を視察していた清水昭武は、腕を組みながら遠くの海を眺めた。彼は先ごろ松平容保との養子縁組を解消し、清水徳川家を相続して北海道を含む北方方面の統治を任されていた。北の地を守り、開発する責務を背負った新たな統治者として、その視線は確かに未来を見据えていた。


 傍らに立つ榎本武揚が、氷の積み込み作業を指さす。

 「これまでは石炭が主力でしたが、氷が加わったことで北方資源は二本の柱となりました。収益はすでに年間七十万両に達し、港湾や道路整備の財源にも十分使えます」


 昭武は深く頷いた。

 「自然の寒さすら資源に変える……。北の地を不利とせず、むしろ利として活かす。それが日本の強みとなる」


―――


 一方、南の海。ハワイ王国の港に、日の丸を掲げた日本船が初めて氷を積んで到着した。甲板に並んだ木箱から白い蒸気が立ち上り、現地の人々は目を見張った。


 「夏に、これほど冷たいものがあるとは……!」


 氷塊を割って渡されたハワイの商人が、手のひらに乗せて驚きの声を上げる。火照った肌に触れる冷たさは、まさに未知との出会いだった。瞬く間に取引が成立し、日本の氷は南洋市場に新たな道を拓いた。


―――


 江戸城西の丸では、その報告が藤村晴人に届いていた。帳簿を広げ、氷収益が確かに記されているのを確認した藤村は、静かに呟いた。

 「北の氷が南の海で富となる……。これが太平洋を結ぶ第一歩だ」


 藤田小四郎が隣で補足する。

 「ただし、氷は自然の恵み。乱獲のように切り出せば数年で資源は枯渇します。持続可能な開発を――それを制度に組み込む必要があります」


 藤村は頷き、筆を取り返書を書き始めた。

 「短期の利益ではなく、長期の繁栄を。我らの使命は、自然を搾り取ることではなく、次の世代に渡すことにある」


 蝋燭の炎が揺れ、紙面に映える文字が確かな理念を刻んでいった。

江戸の町にも、北海道からの氷が届き、夏の暮らしを彩り始めていた。浅草の茶屋では桶に張られた氷が涼やかに光り、通りを行き交う人々の足を止める。


 「まるで冬のようだ……」

 誰かが感嘆すると、店先で削られた氷に蜜がかけられ、真新しい菓子として差し出される。客は驚きと共に頬をほころばせ、江戸の夏に新しい風物詩が芽吹いていた。


―――


 その夜、藤村邸の縁側。氷を入れた桶を囲んで、家族が夏の涼を楽しんでいた。


 義信は紙と筆を手に取り、氷が入った桶を俯瞰で写生していた。

 「氷はただの冷たさじゃない。形、光、時間で変わっていく……」

 彼の写し取る線は、理論のための記録ではなく、氷が生み出す「変化」を捉えようとする観察の試みだった。


 久信は氷水を柄杓ですくい、庭の草花にそっとかけた。

 「冷たい水だと花も驚いてるみたいだ」

 葉の上で小さな氷片が光を受けて溶け、夜の闇に小さな星のように輝いた。久信の瞳もまた、その光を追っていた。


 義親は篤姫の膝で氷片を握り、最初は冷たさに泣き出したが、やがてきらきらした光に目を奪われて笑顔を見せた。その変化に家族の誰もが顔を綻ばせた。


―――


 藤村はその光景を見守りながら、ふと胸の内でつぶやいた。

 「氷は遠い北の大地から運ばれてきた。だが今や、江戸の暮らしを潤す恵みとなっている。資源を活かすとは、こうして人々の心を豊かにすることなのだ」


 桶の氷は月明かりに照らされ、夏の夜にひんやりとした息吹を放っていた。家族の笑い声と涼やかな水音が重なり、初夏の夜は穏やかに更けていった。

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