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214話(1874年4月/春)春の議会と黒字決算

四月の羽鳥。春爛漫の風は桜の花びらを舞い上げ、田畑を見渡す丘からは薄桃色の霞が一面に広がっていた。常陸州の城下町には春市の賑わいが訪れ、通りには色とりどりの幟がはためき、人々の声が絶え間なく響いていた。


 市の中心には羽鳥織の反物を並べる店があり、町人や旅商人が手に取りながら値を交渉していた。昨年から導入された新しい織機のおかげで、布地は滑らかで丈夫。色鮮やかな染めも施されており、京や大坂の商人たちも「江戸で売れば倍の値で捌ける」と目を丸くするほどだった。


 「殿、今年の出来は格別ですな。染めの発色も長持ちいたします」


 職人頭が誇らしげに胸を張り、藤村晴人に声をかけた。藤村は粗布の羽織姿で町を歩き、民の声を聞いていた。彼は反物を手に取り、指で生地を確かめると微かに笑んだ。


 「この布一枚が人々の生活を彩り、税を生み、国を支える……。数字はこうして大地に根ざしている」


 その言葉に職人頭は深々と頭を下げ、周囲にいた商人たちも頷いた。



 市の一角では笠間焼の器が並べられていた。白地に藍の文様を描いた皿、釉薬の光沢が美しい壺。買い物客は手に取って光に透かし、口々に感嘆の声を漏らしていた。


 「西洋の磁器にも負けぬな」

 「これが常陸で焼かれたとは信じられぬ」


 農産物加工品の屋台も人だかりであった。干柿、味噌、醤油、そして新しく工夫された砂糖菓子が並ぶ。台湾から輸入された砂糖を用いた甘味は、子どもたちが群がって買い求めていた。


 藤村は立ち止まり、景色を見渡した。かつて凶作と不況に苦しんだこの土地が、いまや活気に満ち溢れている。数年前の財政危機を思えば、奇跡に等しい変化だった。


 「豊かな実りと商いの声……これが黒字を支える基盤だ」


 彼の呟きは、春の風に乗って市の喧噪に溶けていった。



 午後、江戸城の議場では厳かな空気が漂っていた。桜の枝を活けた花瓶が壇上に置かれ、春の市の賑わいとは対照的な静謐さが広がっている。今日は黒字決算の報告が正式に行われる日であった。


 書役たちが分厚い帳簿を机に並べ、渋沢栄一が壇上に立った。彼は眼鏡を直しながら声を張った。


 「本年度の決算、歳入は関税収入を中心に著しく増加。歳出の節減と合わせ、純黒字を記録いたしました。債務残高はついに百五十万両台にまで減少。わずか数年前、一千両単位で破綻の危機にあった財政が、いまや健全化への確かな道を歩んでおります」


 場内にざわめきが走った。老臣の目には涙が浮かび、若い官僚は筆を走らせて数字を書き留めた。


 藤村は壇上から一同を見渡し、静かに口を開いた。

 「数字は冷たいようで温かい。かつて我らを苦しめた借財も、努力と信頼があればこのように減らせる。民の汗が米を生み、商いが銭を回し、職人の技が新たな価値を築く。その積み重ねが黒字という形となったのだ」


 彼の言葉に、議場はしんと静まり返った。やがて拍手が湧き起こり、春の光が窓から差し込み、帳簿の上で金のように輝いた。



 議場の外では、桜吹雪が舞い落ちていた。藤村は階段を降りながら空を仰いだ。


 ――数年前、この国は破綻寸前だった。だが今、黒字という確かな証を手にしている。


 その確信が胸に広がり、彼は一歩を踏み出した。春の議会と黒字決算。二つの出来事が重なったこの日、日本は新しい季節を迎えていた。

江戸城の議場は、春の陽を透かした障子越しに明るく照らされていた。桜の花びらが風に舞い込み、机の端に静かに落ちていく。黒字決算の報告を終えた今、次は制度そのものを形にする段であった。


 壇上に立った藤村晴人は、広間を見渡し、深く一礼した。

 「黒字は一時の成果にすぎぬ。大切なのは、この成果を民に示し、未来に続ける仕組みを築くことだ」


 その言葉に呼応するように、渋沢栄一が厚い冊子を広げた。そこには収支報告の詳細が細かく記されている。収入の内訳、支出の分類、余剰金の使途――すべてが数字で明確に示されていた。


 「これより、毎年の決算はすべて公開いたします」


 渋沢の宣言に、議場にどよめきが走った。老臣のひとりが立ち上がり、声を震わせながら問う。

 「民草にまで数字を晒すと申すのか。機密が外に漏れれば、国を危うくすることもあるぞ」


 藤村は静かに首を振った。

 「隠すから疑いが生まれる。示せば信が生まれる。政治は信なくして成り立たぬ」


 その断言に、場は再び静まった。



 やがて、慶篤が講義用の黒板を掲げ、議場に立った。まだ若い彼の姿は、しかし凛としていた。


 「議会とは、ただ言葉を交わす場ではありません。議事を記録し、委員を置き、質疑を交わし、最終的に決をとる。この流れを整えることこそが制度の骨格です」


 彼は板書に大きな円を描き、円を三つに区切った。

 「提案」「審議」「決定」――その三段階を太い筆で書き込む。


 「まず、数字と事実に基づき提案を行う。次に、異なる立場から徹底的に議論し、利害を洗い出す。そして最後に、記録を残したうえで多数決をもって結論を出す。これが公正な議会運営の仕組みです」


 その声は澄み渡り、議場を埋める役人や代議員の心に届いた。


 「……数字と記録に裏打ちされた議論なら、民も納得する」

 小声で漏らした代官の言葉に、周囲が頷いた。



 さらに慶篤は、委員会制度の導入を提案した。財政、外交、軍備、教育――分野ごとに委員を置き、議題を整理したうえで本会議に上程する。


 「すべてを一度に議場で議すれば混乱する。小さな場で練り上げ、大きな場で決する。この二段階を設ければ、効率と公正は両立できる」


 彼の説明に、多くの役人が目を輝かせていた。


 藤村は、そんな弟子の姿を見つめながら思った。

 ――議場の透明性は、単なる数字の公開だけでなく、議論の手順そのものを整えることで初めて完成するのだ。


 春の光に包まれた議場で、新しい政治制度の芽が、確かに息吹きを上げていた。

議場の熱気が一段落した頃、清水昭武が静かに立ち上がった。北海道統治の責任者でありながら、この日は江戸に招かれていた。彼の前に置かれた机には、分厚い洋書と翻訳資料が積まれていた。


 「諸卿、我が日本の議会制度は今まさに形を成しつつあります。しかし、この制度をさらに磨くためには、欧州の歴史に学ばねばなりません」


 そう言って、彼は用意してきた資料を開いた。



 「まず、フランスです」


 清水は大きな図表を掲げ、会場に示した。そこには、フランス革命から第三共和政に至るまでの政治制度の変遷が描かれていた。


 「革命の混乱を経て、ナポレオンの第二帝政では議会は形骸化しました。しかし、普仏戦争の敗北を機に、第三共和政が誕生し、二院制と政党政治が根付いた。ここから我らが学ぶべきは、議会制度が国難を経てなお再生できる力を持つということです」


 聴衆はざわめいた。敗戦を機に制度を刷新するという発想は、日本の歴史にはまだ馴染みが薄かった。



 清水はさらに語を続けた。

 「イギリスの議会は中世から続く歴史を持ち、二院制の伝統と政党政治の成熟が並び立っています。プロイセンでは王権と議会の力がせめぎ合い、軍事国家としての統制を保ちながらも、立憲的枠組みを整えてきました。どの国も一つの完成形に至ったのではなく、試行錯誤を重ねながら歩んできたのです」


 その言葉は、会場にいた役人や代議員たちに新しい視点を与えた。議会制度は固定された仕組みではなく、時代ごとに調整し続ける「生きた制度」であるという考えが広まっていった。



 清水は手元の文献を閉じ、深く息を吸った。

 「我ら日本は、幸いにして欧州の数百年に及ぶ紆余曲折を一気に学ぶことができる。失敗を繰り返す必要はない。むしろ各国の成功と失敗を取り込み、日本独自の制度を築くことが肝要です」


 藤村晴人は、その言葉を聞きながら頷いた。彼の胸中に去来したのは、「最初から対等な立場で世界と交わる」という理念であった。


 ――日本は、模倣するために議会を作るのではない。独自の道を切り開くためにこそ、世界の知識を学ぶのだ。


 議場にいた誰もが、その決意を共有するかのように、静かに清水の言葉を噛み締めていた。

議会の熱気が冷めやらぬ夕刻、藤村家の座敷には柔らかな春の光が差し込んでいた。障子越しに見える庭の桜は、昼のうちに散った花びらを縁側に積もらせ、子どもたちの遊び場を彩っていた。


 義信はその桜の下で、昼間に江戸城議場で見学した光景を思い返していた。背筋を伸ばし、膝の上に帳面を広げると、細い筆で「租」「黒」「議」といった文字を一つひとつ書き記した。議場で繰り広げられた議論の言葉が耳に残っており、書くことでその意味を確かめようとしているようだった。


 「兄上、また難しい字ばかり……」


 久信が呟きながら義信の帳面を覗き込んだ。その手には算盤が握られており、玉を軽快に弾いては数字を並べ替えている。彼は財政報告で聞いた「歳入」「歳出」という言葉に心を奪われ、算盤を通じて理解しようとしていたのだ。


 「兄上の文字は立派だ。でも、数字がなければ話は動かない。見て、僕ならこの黒字をこう計算できる」


 そう言って算盤をぱちりと鳴らす。義信は顔を上げ、軽く笑みを浮かべた。

 「数字も文字も、どちらも国を支える手だ」


 二人のやり取りに、篤姫は微笑んだ。彼女の膝の上では義親が丸い目を開き、兄たちの声に反応して小さな手を伸ばしていた。赤子には議場の議論も、算盤の玉の音も理解できない。だがその無垢な笑顔は、兄たちの努力を静かに見守る春の証人のようであった。


 「この子の成長を待つ頃には、今の議会もきっともっと大きく変わっているでしょうね」


 篤姫がつぶやくと、藤村は座敷の隅で頷いた。彼の目には、世代を超えて続いていく営みの確かさが映っていた。


 桜の花びらがふと風に舞い込み、子どもたちの帳面や算盤に散った。春耕の大地と議場の討論、そして家庭の温もりが一つに重なり合い、日本の未来を静かに形作っていくように思えた。

江戸城の議場に、再び緊張が走った。机の上には一通の書簡が置かれている。差出人は朝鮮の改革派官僚、内容は「租税制度統一に関する正式合意」であった。


 藤村晴人はそれを静かに手に取り、列席者の前で声を落ち着けて読み上げた。

 「……本土・台湾・朝鮮・北海道を一体とする税制。すなわち全国一律の地租三%を原則とし、土地の価値に基づき正しく課税する。これに異論なく署名された」


 場内がざわめいた。かつては領地ごとにまちまちだった税制が、ついに大きな輪で結ばれたのだ。


 慶篤が筆を取り、条約文の余白に一行を書き加えた。

 「税は民を苦しめる枷ではなく、国を支える絆なり」


 その言葉が広間に響いた瞬間、空気が柔らかく変わった。財政官僚たちは頷き合い、商人代表は胸をなで下ろし、農民代表は深々と頭を垂れた。


 「これで、我らの耕す田も、遠くの海を越えた土地も、同じ秩序で結ばれる」

 藤村はそう語り、条約文に署名した。筆先が紙を滑る音は、静寂の中で妙に鮮明に響いた。


 外は春の陽が傾き始めていた。窓の外に目をやれば、庭の桜は散り始め、石畳に淡い薄紅を敷き詰めていた。その景色を見ながら藤村は思った。

 ――ようやく、この国は「ひとつの体」となったのだ。


 遠く北の寒村でも、南の島々でも、そして朝鮮の田畑でも、同じ規則に従い、同じ税を納める。その一体感こそが国を強くする。


 議場の柱時計が時を告げた。響き渡る鐘の音は、まるで新しい時代の到来を告げる鐘のようであった。

議場のざわめきが収まりかけたその時、藤田小四郎が立ち上がった。まだ若さを残す顔つきながら、視線は確かに前を見据えている。


 「殿、そして諸卿。黒字決算と税制統一は確かに偉業です。しかし、これは終点ではなく始点にすぎませぬ」


 その声は張りを帯び、議場の隅々に届いた。


 「今や議会は、財政を語り、政策を議す場として形を整えました。ならば次は――より広く民の声を集める仕組みを築くべきです。選挙制度の拡充、地方議会の設置、そして国政における民意反映の強化。これなくしては、国はやがて民と乖離し、根を失います」


 重臣たちの顔に驚きと困惑が浮かんだ。大胆な言葉であった。しかし小四郎は怯まず続けた。


 「税を納める民が、政治に参与する道を持つ。それこそが、国家と国民の結び目を永遠に固くする唯一の方法なのです。剣でも財でもなく、議場こそが未来を決する場になる。そのために、今の制度をさらに広げ、磨き上げるべきだと愚考いたします」


 沈黙。だがその沈黙は拒絶ではなく、重みを噛みしめる時間だった。


 藤村晴人はしばし小四郎を見つめ、やがて静かに頷いた。

 「民の声を議場に――か。遠いようで、実は最も近き道かもしれぬ。数字はすでに民を支えている。ならば次は、声そのものを支える番だ」


 その言葉に場内の空気が和らぎ、議場に集った人々は未来を思い描くように目を細めた。


 春の夕陽が議場の窓を透かして差し込み、机上の報告書を黄金に染めた。黒字の数字も、署名された条約文も、そして小四郎の未来への言葉も、その光の中で新しい時代の頁として刻まれていった。

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