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212話:(1874年2月/厳冬)冬の鉄道、雪の試運転

厳冬の二月。羽鳥から新宿へと延びる鉄道は、一面の雪景色に埋もれていた。灰色の空から絶え間なく舞い落ちる雪が、黒々としたレールを覆い隠し、積雪は人の腰を超えるほどに達している。吐く息は瞬時に白い霧となり、鼻の奥を刺す冷気が肺まで突き刺さる。まさに「試練の季節」が訪れていた。


 その白銀の世界の中に、異様な存在感を放ちながら蒸気機関車が佇んでいた。煙突からは黒煙がごうごうと噴き上がり、雪を押しのけるように舞い上がる。先頭には新たに開発された除雪装置――巨大な鋼鉄製のラッセルヘッドが取り付けられている。三角形に広がるその鋼板は、雪の壁を左右に跳ね飛ばし、線路を切り開く役割を担っていた。


 「点火、開始!」


 指揮官の声が吹雪にかき消されそうになりながらも、機関士たちの手が迷うことなく動いた。火室に石炭が投げ込まれ、真紅の炎が唸りをあげる。蒸気圧力計の針がじりじりと上昇し、機関車全体が低いうなり声を上げ始めた。鉄の巨体がいま、白銀の壁に挑もうとしていた。


 藤村晴人は羽鳥駅の指令台に立ち、その光景をじっと見つめていた。背後には技術者、財政官、そして地元の農民代表までが集まっている。皆の顔には緊張と期待が入り混じっていた。


 「殿、積雪は昨夜の吹雪でさらに増えております。試運転は危険では……」


 隣の技師が声を潜めたが、藤村は首を横に振った。


 「危険を避けては未来は掴めぬ。雪に勝てねば、この鉄路は北方へは延ばせん。今日の試運転は、その覚悟を示すものだ」


 その声に、集まった人々の胸に熱が宿った。冬を克服することこそが、この国の近代化の試金石なのだ。


―――


 汽笛が鋭く空を裂いた。長く響くその音は、凍りついた空気を揺らし、雪原を越えて遠くまで響き渡った。車輪がきしみを上げ、蒸気が白い雲を吹き散らす。機関車はゆっくりと前進し、やがて雪の壁へと突っ込んだ。


 「来たぞ……!」


 見守る群衆から声が上がった。


 ラッセルヘッドが雪を跳ね飛ばし、両側に白い弧を描く。粉雪が舞い、氷塊が飛び散る。轟音とともに機関車は雪の中を突き進み、背後には黒々とした二本のレールが再び姿を現した。線路が蘇り、道が拓かれていく。


 「雪に……勝った!」


 誰かが叫ぶと、歓声が一斉に広がった。農民たちは手を叩き、職人たちは帽子を振り、子どもたちは雪の中で跳びはねた。彼らの目の前で、日本の鉄道が初めて「冬を制する瞬間」を示したのだ。


―――


 列車の内部もまた、試練に備えられていた。車内の壁には防寒材が敷き詰められ、窓には二重ガラスが取り付けられている。中央には新設の石炭ストーブが赤々と燃え、外の極寒を忘れさせるほどの暖かさを生み出していた。座席に腰掛けた人々は、暖を取りながら車窓に広がる雪景色に目を奪われた。


 「外は氷の世界なのに、中は春のようだ……」


 初めて乗車した商人が感嘆の声を漏らす。旅人の頬には安堵の笑みが浮かんでいた。鉄道は単なる移動手段ではなく、人々の命を守る「冬を超える道」になりつつあった。


 機関室では、凍結防止のための新技術が試されていた。車輪に塗布された特製の防氷油が、レールとの摩擦を一定に保ち、滑走を防いでいた。蒸気管には断熱材が巻かれ、凍結による破裂を防ぐ工夫が施されている。これらの技術は、技師たちが夜を徹して試行錯誤を重ねた成果だった。


―――


 藤村は駅の指令室で、雪煙を上げて進む列車を見送りながら深く頷いた。


 「これで、北へ進む道が開けた」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。しかし、そばにいた財政官は力強く答えた。


 「はい。鉄道基金の増額で、さらに建設を続けられます。全国を鉄で繋ぐ日も、遠くはありますまい」


 藤村は微笑みを浮かべ、窓の外の雪原に目をやった。白銀の大地に黒いレールが一直線に伸びている。その光景は、未来をまっすぐに指し示しているように思えた。


―――


 その日、雪中試運転は成功裏に終わった。蒸気機関車は予定通り新宿まで走破し、吹雪にも屈せず安定した運行を示した。夜、羽鳥駅に戻った藤村は、群衆の歓声に迎えられながら静かに言った。


 「今日の試運転は、鉄と人の勝利である。雪は大いなる試練だが、それを克服することで我らはさらに強くなる。この鉄路は、未来を運ぶ道だ」


 その言葉に、場にいたすべての人々が深く頷いた。


 雪に覆われた大地を切り拓く黒いレールは、ただの鉄の道ではなかった。それは厳冬を越えて進む日本の姿そのものであり、未来への挑戦を象徴する「冬の鉄道」そのものだった。

羽鳥駅の構内は、試運転の成功を受けてなお、冬仕度の熱気に満ちていた。凍てつく風は相変わらず鋭いが、構内に足を踏み入れた瞬間に感じるのは、刺すような寒さではなく、張り詰めた職人たちの気魄だった。


 ホームの頭上には、新たに架けられた雪避ゆきよけ屋根が端から端まで伸びている。重ね瓦のように段差をつけた木組みは、積もる雪の重さを分散させる工法で、節ごとに鉄のかせで締め上げられ、梁の要所には金具で補強が施されていた。吹き込みを防ぐため、風上側には半透明の板ガラスを嵌めた長い防雪壁。光は取り込み、風雪は遮る設えである。


 「反りを強くすれば雪は滑る。だが風が巻けば屋根が鳴る。――ここが勘どころだ」


 棟の上で大工頭が短く指示を飛ばす。錐の音、鋸の音、金具を打つ槌の音が重なり、冬空に乾いたリズムを刻んだ。屋根の軒先には、溝を兼ねた雪樋ゆきどいが走る。内部には細い鉄管が通され、機関区から供給される低圧蒸気が流れている。凍てつく朝も、この細い温もりが樋を塞がせない。軌間の内側にも細い点々が見える。防氷油を含ませたタンクから微量を滴下する仕掛けだ。油臭は抑えられ、雪の上で光がわずかに艶めくばかりである。


 待合室の扉を押すと、ふわりと温気が肩を包んだ。床下の煉瓦溝に温水管を巡らし、壁には断熱材を張り、二重窓の間に乾いた空気層を抱かせる。長椅子の背もたれは厚く、冷えた背中をゆっくりと温める。掲示板の脇には濡れ雪払いの刷毛と、客の裾を払うための小桶が置かれていた。雪国の駅は、人の動きに寄り添う細工から生まれる。


 プラットホームの端では、腕章をつけた鉄道員が新しい合図旗の扱いを確認している。吹雪の日は灯火の色が潰れる。白黒の縞旗と音響号令の重ね使いが、視界の悪い日の安全を支える。柱ごとに取り付けられた小鐘は、列車の接近を音で知らせるためのものだ。鉄の鳴りは雪に吸われぬ。


 「鉄道基金、二分増……資金は十分に回る」


 事務長が帳簿を閉じた。運賃収益の一部を基礎に、冬季設備の整備費が計画的に積み上げられていく。雪避屋根、防雪壁、温水管、二重窓――一つひとつが即物的でありながら、全部が一つに繋がると「冬を克服する技術」へと姿を変える。支出の欄には赤い印が躍り、同じページの下段には「遅延率 前期比二割減」の細い字が添えられていた。


     *


 午後、学問所の講堂。黒板の前に立つ慶篤は、白墨で大きく三文字を書いた。


 ――「雪 害 利」


 室内の空気が一つ吸い込まれる。「害」を「利」に転ずる、その言葉遊びではない骨太のことわりを聞くために、役人も現場の監督も若い書役も、一同が身を乗り出す。


 「雪は道を閉ざす。人を閉ざし、貨を閉ざす。――だが、閉ざされるからこそ、我らは工夫する。屋根の勾配、風の抜け道、熱の回し方、油の量……。試運転で得た失敗の一つ一つが、次の成功を育てる。雪は“障り”であると同時に“師”である」


 黒板に、駅舎の断面図が素早く描かれていく。屋根の反りと荷重の伝い、窓の間の空気層、床下の煉瓦溝に回る温水の経路。外気温「―七度」、待合室「十六度」。数字が並ぶたび、客席から小さな驚嘆の息が漏れた。


 「産業も同じだ。自然が与える試練を克服した技術は、温い地でも必ず生きる。雪に勝てたなら、風にも波にも勝てる。――雪害は、工学を強くする」


 最前列にいた現場監督が手を挙げた。


 「殿下、防雪壁はどの高さが最も効きますか」


 慶篤は迷うことなく、図の脇に三本の線を描いて答えた。


 「風雪は地に沿って走る。人の肩より少し高く、屋根の基部までを隠す高さ――視界を奪わず、吹き込みを絶つ高さだ。数字で定めよ。『勘』ではなく『則』で行け」


 もう一人、若い書役が恐る恐る口を開いた。


 「講義の末尾に“国際競争力”とございます。雪害の克服が、なぜ……」


 慶篤は微かに笑み、板書の隅に細い文字で二行を記した。


 「雪は世界に普遍ではない。だが、厳しい环境に適う技術は普遍だ。――『安全』『定時』『快適』の三つを冬で証明できた国は、四季すべてで優る」


 講堂の空気が一段と引き締まった。冬の駅と、世界の市場が一本の線で繋がる。雪はもはやただの白い障壁ではない。


     *


 夕刻、羽鳥駅に戻ると、雪避屋根の軒から溶けた雫が細く音を立てて落ちていた。防雪壁の内側は風が弱く、ホームの端に据えられた石のベンチには、湯気の立つ茶壺が置かれている。外は氷の刃でも、内に春を作る設え――それが寒冷地の駅の答えだった。


 「夜の出発は――」


 駅長が予定表を確認する。雪崩の危険がある切通しには監視を置き、山腹の柵の点検を済ませた印が朱で並ぶ。鉄路は単に鉄だけではない。木と石と火と水、そして人の目と手で織り上げられた「道」である。


 端の事務室では、鉄道基金の帳簿に新しい数字が書き加えられていた。「冬季設備費 充当 二分増」。保守班の人員表には新たに二名の名が加わっている。数字は冷たく見えて、誰かの手袋や灯油、夜食の握り飯に化ける。駅の隅々まで「冬に耐える仕組み」が巡り出していた。


 ホームの鐘が二つ鳴り、白い息を吐く人々の間を列車の灯がゆっくりと近づいてくる。ラッセルヘッドには薄く雪が貼りつき、今しがた掻き分けてきた道の白さを物語っていた。


 「次は、新宿」


 短い構内放送に、乗客の肩がほんの少し緩む。しんと冷えた空気の中に、鋼の匂いと人肌の温もりが同居している。冬という厳しさが、駅という「居場所」をはっきりと浮かび上がらせていた。


 藤村は灯火に照らされた雪の壁を一度振り返り、静かに呟いた。


 「雪は敵ではない。――今日からは、師だ」


 白い吐息が空に溶け、鐘の音が小さく二度、夜の底に吸い込まれていった。

羽鳥駅の翌週、江戸学問所では「雪中試運転」の成果を題材にした特別講義が開かれていた。壇上に立ったのは清水昭武である。黒い外套を肩にかけ、手には分厚い欧州鉄道史の資料を携えていた。彼は北海道統治の合間を縫って江戸に戻り、この講義のために直々に壇上に立ったのだった。


 「アルプスを越えるスイスの鉄道は、わが羽鳥鉄道と同じように厳冬を相手にしている。ゴッタルド峠、ベルニナ峠――積雪は深く、気温は零下十度を下回ることも珍しくない」


 板書に描かれたのは険しい山岳地帯に走る線路の図。雪崩を防ぐ覆道、斜面を守る石垣、勾配を克服する歯車式レール。学生たちは目を凝らしてその細部を見つめた。


 「彼らは“雪は敵ではなく、共にあるもの”と考えた。雪崩の危険地帯には長大な覆道を設け、雪を受け流す。急勾配では車輪の摩擦に頼らず、歯車を噛み合わせて列車を引き上げる。高度二千メートルを越えても、人は技術で道を開いたのだ」


 聴講席に並ぶ書役や若い技師たちが一斉に頷く。その表情には驚きだけでなく、確かな決意が宿っていた。羽鳥で試みられた除雪ラッセル、温水管による融雪、油滴による凍結防止――それらが決して孤立した工夫ではなく、世界の鉄道が積み重ねた叡智の一部であると理解した瞬間だった。


 昭武は言葉を続けた。


 「だが、ただ真似るだけでは足りぬ。アルプスの解決策をそのまま日本に移せば、資材の過不足や地形の違いで歪みが生じる。重要なのは“比較して、取捨し、適合させる”ことだ。雪国の羽鳥、風の強い新宿、湿気の多い長崎……。それぞれの土地に合った“最適解”を導き出すのが我らの責務である」


 講堂の後方で藤村晴人は静かに聴き入っていた。昭武が地図の上に赤線を走らせるたび、その背中には北方を預かる領主としての矜持が漂っていた。彼の言葉は単なる海外紹介ではなく、日本という国土に根ざした実践的知恵として響いていた。


     *


 休憩時間。義信と久信も特別に講義を見学していた。義信は机に広げられた欧州鉄道の図面を覗き込み、歯車式レールの仕組みを一目で理解すると、手元の紙に自分なりの改良案を描き始めた。


 「もしここに蒸気の圧を分配する管を加えれば、もっと滑らかに登れるはずだ」


 その理路整然とした説明に、横にいた若い技師が目を見張った。


 一方の久信は、講堂に展示されたスイス製の古い鉄道用ランタンを手に取っていた。色ガラスの透かし模様に見とれながら、「日本の雪国にも、こんな光を灯せば心が温まるだろう」と屈託のない笑みを見せる。彼の視点は理論ではなく、人々の暮らしに寄り添った素朴な想像だった。


 その姿を眺めながら、藤村は胸の奥で思った。

 ――義信は技術で未来を拓く。久信は心で未来を結ぶ。その二つがあれば、どんな雪も越えられる。


     *


 講義の最後に、昭武は静かに言葉を結んだ。


 「雪を克服するとは、自然をねじ伏せることではない。受け入れ、導き、制御することだ。鉄道はその象徴である。羽鳥の雪に挑んだ技術は、やがて世界に誇る日本の力となるだろう」


 その言葉に、教室は深い静寂に包まれた。窓の外では雪がまだしんしんと降り続いていたが、その白さはもはや寒さの象徴ではなく、未来を照らす光のように思われた。

雪の羽鳥での試運転と江戸での理論講義がひと区切りついた夜、藤村晴人は西の丸の執務室に戻り、灯火に照らされた報告書を広げていた。分厚い紙束には、試運転で記録された速度、燃料消費量、除雪時間の詳細な数字がびっしりと記されている。煤の匂いがまだ残る紙面を指でなぞりながら、彼は深く頷いた。


 「数字は冷たいようでいて、人の汗と工夫の結晶だな……」


 そこへ藤田小四郎が入室した。彼は分厚い帳簿を抱え、額には雪解けの水滴が残っていた。


 「殿、試運転の経費と効果をまとめました。一見すると燃料費は増加しておりますが、除雪による遅延がなくなった分、輸送効率が一五%向上。貨物収入を加味すれば、差し引きで黒字を確保できます」


 差し出された帳簿には、炭の使用量、油の購入額、雪中遅延時間の推移が整然と記されていた。小四郎は数字を指先で押さえながら続ける。


 「一トンの石炭にいくらの収益を生ませるか。雪国の鉄道は、その一点に尽きます」


 藤村は扇で軽く帳簿を叩き、満足げに笑った。

 「お前はかつて理想に燃える青年だったが、今は数字で理想を語るようになったな」


 小四郎は一瞬きまり悪そうに目を伏せ、それから静かに答えた。

 「人心も数字も、軽んじれば国は傾きます。ですが、共に秤にかければ国は安定する。私はそのためにここにおります」


     *


 同じ夜、清水昭武は札幌からの長文電報を江戸に送り届けていた。そこには北海道鉄道計画の構想が記されていた。


 「小樽から札幌を経て石狩へ至る幹線。さらに将来は函館と旭川を結ぶ。冬は深雪に覆われるが、雪国こそ鉄道を必要としている」


 電報を読み上げた渋沢栄一が感嘆の声を上げる。

 「北方を鉄道で結べば、炭も木材も一気に運べる。輸送効率が倍になれば、開発の速度も倍になる」


 藤村は電報を握りしめ、地図に赤線を走らせた。

 「羽鳥から江戸へ、江戸から北へ。やがて北海道を貫く。線路はただの鉄ではない。国を一つに結ぶ筋だ」


     *


 翌日、慶篤の講義室では「雪害と産業」という新たな黒板の題目が掲げられていた。学生たちの前に置かれたのは、雪で倒れた倉庫の図と、羽鳥で完成した雪避屋根の設計図だった。


 「雪を障害とみなすか、それとも資源とみなすか。問題は視点だ。羽鳥では雪避屋根を設けることで、倒壊被害を防ぎ、作業効率を維持した。これは災害対策であると同時に、技術革新でもある」


 慶篤の声は熱を帯びていた。学生たちは雪の結晶を顕微鏡で観察し、その融点や水量を計算する。自然を敵とせず、理解し、利用する発想が、学問の現場で確かに芽生えていた。


     *


 夕暮れ、藤村邸。義信と久信は学問所での話を母に伝えていた。義信は紙に雪国鉄道の改良案を描き、久信は「駅に大きな雪灯籠を置けば、旅人の心も温まる」と笑顔で語った。


 篤姫は義親を抱きながら微笑み、藤村に向き直った。

 「子らの言葉は理論ではなく、暮らしに根ざしていますね。殿の制度と共に、この素直な心が国を支えるのだと思います」


 藤村は子どもたちの横顔を見つめ、静かに頷いた。

 「剣や銃だけでは国は守れぬ。数字と制度だけでも足りぬ。――未来を紡ぐのは、人の生活そのものだ」


     *


 夜の帳が下り、江戸の町は静けさに包まれていた。だが藤村の机の上では、雪中試運転の記録、北海道鉄道計画の電報、慶篤の講義資料が並び、灯火に照らされて輝いていた。


 「雪は試練であると同時に、我らの技術を磨く師だ。これを克服したとき、日本の鉄道は世界に誇れるものとなる」


 藤村はそう書き記し、筆を置いた。障子の向こうには、まだ幼い義親の寝息が響いていた。その静けさの中に、未来の列車の轟音が確かに聞こえるような気がした。

江戸城の大広間。冬の冷気が石壁に染み込む中、各地からの報告を受け取った幕臣たちが集まっていた。机の上には羽鳥鉄道の雪中試運転の記録、北海道からの炭鉱と氷の収益報告、そして北方鉄道計画の設計図が並んでいる。


 渋沢栄一が立ち上がり、冷静に読み上げた。

 「鉄道基金、今月の増額は五万両。除雪車両開発と凍結防止設備に投じつつも、収支はなお黒字。雪中試運転により、貨物輸送効率は一五%改善しました」


 ざわめきが広間を走った。雪国での鉄道は赤字を覚悟せねばならぬと誰もが思っていた。だが現実は逆だった。試練がむしろ利益を生んだのだ。


 「これが……冬の鉄道か」

 年配の代官が思わず声を漏らした。


 藤村晴人は静かに立ち上がり、机に広げられた地図に手を置いた。赤線は江戸から羽鳥、さらに北へ延び、海を越えて北海道を縦断していた。


 「雪は障害ではない。克服すれば、それは我らの力を証明する鏡となる。羽鳥の試運転は、その第一歩にすぎぬ。次は北海道だ」


 小四郎がうなずき、冷静に補足した。

 「炭と氷の収益をもってすれば、北方鉄道建設の資金は確保できます。厳冬を制する技術を積み重ねれば、国際市場でも日本は唯一無二の存在となりましょう」


 沈黙のあと、誰もがその言葉に深く頷いた。


     *


 その夜、藤村邸。雪明かりが庭を照らし、障子の向こうに子どもたちの笑い声が響いていた。義信は机に向かい、雪中試運転で学んだ機関車の仕組みを図に描き留めていた。久信は試運転の切符を大事そうに箱にしまい、「これは未来の宝だ」と誇らしげに言った。義親は母の膝で安らかに眠り、汽笛の夢を見ているかのように口元を動かしていた。


 篤姫は藤村の隣で小さな声でつぶやいた。

 「雪の夜にこうして家族が揃っていられるのも、殿が国を温めてくださっているから……」


 藤村はしばらく子どもたちを見つめ、それから静かに答えた。

 「いや、国を温めるのはこの子らの笑顔だ。私の役目は、その笑顔を未来に残す仕組みを築くことにすぎぬ」


 火鉢の炭がぱちりと弾けた。その音は、まるで雪を切り裂いて進む列車の響きのようだった。

翌朝、江戸城西の丸。冷たい空気を切り裂くように、電信室から一通の速報が届いた。


 ――羽鳥鉄道、雪中運行二日目も異常なし。貨物到着、時刻通り。


 その短い文面を読み上げた通信士の声に、室内の空気が張りつめた。藤村晴人は報告紙を手に取り、しばし沈黙ののちに静かに言った。


 「雪に打ち勝ったのではない。雪を受け入れ、その上で道を作ったのだ」


 勝海舟が隣で笑みを浮かべた。

 「障害と思えば止まるばかり。利用すれば力になる。お前さんの財政もそうやって建て直したな」


 藤村は小さく頷き、地図に視線を落とした。赤い線は羽鳥から江戸へ、さらに北へ延びていた。その線はやがて北海道を貫き、樺太を越えて大陸へと広がる。


 「雪の白は、未来を描く余白だ。その余白に、我らは鉄の線を刻む。やがてこの国は、どの冬にも閉ざされぬ」


 その言葉に、場の誰もが深く息をついた。雪を恐れる国から、雪を力に変える国へ。時代の転換点が、確かにそこにあった。

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