211話:(1874年1月/厳冬)新年の鐘と地租改正布告
厳冬の江戸。雪を頂いた城郭の石垣が白く光り、吐く息はすぐに霜に変わるほど冷たい朝だった。江戸の町は正月の賑わいに包まれ、煤払いを終えた町家の軒先には新しい注連縄が飾られ、通りには初売りを目当てにした町人たちの声が響いていた。羽鳥織の反物、笠間焼の壺や茶碗、そして台湾から届いた茶葉が市場に並び、江戸と常陸、さらに南方の台湾までを結ぶ統合経済圏の商品が庶民の生活を潤していた。
「羽鳥の布は丈夫で艶がある。嫁入りの支度にちょうどよい」
「この茶は香りが深い。南の島から来たと聞くが、本当に不思議な味だ」
人々の口々の評判は、ただの商売話を越え、新しい時代の息吹を物語っていた。経済の流れが一つに繋がったことで、庶民は日々の暮らしの中で国家の統合を実感していた。
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正月二日、江戸城大広間。凛と張りつめた空気の中に、正月の装束に身を包んだ役人たちが居並んでいた。その中央に立つ藤村晴人の声は、鐘の音のように響いた。
「本日、ここに布告する。全国一律、地価に基づき年三パーセントを税として納める――地租改正の完成である」
その言葉は広間を震わせ、居並ぶ官僚や代官、書役たちの胸に深く刻まれた。これまで地域や身分ごとに複雑に入り乱れていた税制は、この布告によって一本の筋に貫かれたのである。
「年貢ではない、租税である。これにより、武士も農民も町人も同じ土台に立つ。すべての国民が、土地に応じて国家を支える」
藤村の言葉に、人々の顔には緊張と同時に安堵の色が浮かんだ。複雑な旧来の制度を離れ、公正な基準に基づく新しい時代が始まったのだ。
布告の直後、江戸城内に新たに設置された「地租局」の開庁式が執り行われた。局舎の入り口には「地租局」と刻まれた真新しい木札が掲げられ、内部には各地から届いた地籍台帳と地価評価簿が整然と並べられていた。机上には洋式の算盤や統計表が置かれ、数字で国家を管理する新しい体制の象徴がそこにあった。
局長は深々と頭を下げ、報告を述べた。
「これにより、全国の地租を一元管理し、徴収から会計まで迅速かつ透明に運営できます」
その声には誇りが滲んでいた。
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午後、学問所では慶篤が新年最初の講義を行っていた。黒板に大きく「地租」と書き、その下に「三%」と記す。
「租税は国家の血である。三パーセントという数字は小さなように見えて、国を潤し、未来を育てる力を持つ。これを正しく用いることで、国家は安定し、民は安心する」
学生たちは真剣な眼差しで耳を傾けた。その隣では、清水昭武が欧州地租改革史を手にして解説を加えた。
「フランスは革命後、土地課税を統一することで国家を再建した。プロイセンは地籍調査を徹底し、財政基盤を強化した。イギリスは地租を安定させ、近代化を進めた。日本は、わずか数年でこれを成し遂げたのだ」
比較の中で、日本の改革がいかに迅速かつ的確であったかが明らかになった。
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その夜、藤村邸では家族が集まり、新しい年を祝っていた。囲炉裏の傍らで義信は紙に「租」と大きく書きつけ、得意げに父へ見せた。
「父上、これで合ってますか?」
「うむ、力強い字だ。税を担う者の心構えが表れている」
藤村は嬉しげに頷いた。
久信は算盤を弾き、兄の書いた字を指さして言った。
「もし三パーセントなら、この田からはこれだけ……」
彼の幼い声に周囲は笑い声をあげた。数字で物事を捉える姿勢は、すでに芽吹いていた。
義親は母の膝に抱かれ、無邪気に笑いながら兄たちのやり取りを眺めていた。その姿に、篤姫は目を細めた。
「子らが育つ時代には、この制度が当たり前になっているのでしょうね」
藤村は頷き、杯を掲げた。
「その通りだ。我らの苦労は子らの未来を形にするためのものだ」
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夜半、江戸城の鐘が響いた。冷たい空気を震わせるその音は、新しい時代の始まりを告げていた。
藤村は静かに立ち上がり、窓を開けてその響きを胸に刻んだ。
――国家をひとつに束ねる制度は完成した。だが、これをどう活かすかは、これからの我ら次第だ。
鐘の音は闇に溶けながらも、確かに未来への道を指し示していた。
新年布告の余韻がまだ冷めやらぬ江戸城地租局。広間には各地の代官や書役たちが集められ、帳簿と地籍台帳を広げて初の「統一徴収会議」が始まっていた。
「ここは常陸州の地価評価、昨年比で一割増となっております」
「肥後州では逆に旱魃の影響で、収量が三割減少。地価評価をどう修正すべきか……」
各地からの報告は一様ではなかった。統一制度の下でも、土地の状況は千差万別である。藤村は卓上の地図を指先でなぞり、代官たちを見回した。
「数字を平らにそろえるのではない。現実を正確に映すのだ。三パーセントという数字は基準であり、杓子定規ではない。評価を誤れば、民は疲弊し、国家は痩せる。正確な記録と調整こそが要だ」
その言葉に、書役たちは緊張した面持ちで筆を走らせた。
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会議の休憩時間。廊下に出ると、年配の代官がため息をつきながら藤村に声をかけた。
「殿、これまで年貢は村ごとの慣習に任せ、帳簿も曖昧にしておりました。それを今や、一軒ごとに地価を調べ、数字で示す……。あまりに厳しいと思われぬでしょうか」
藤村はしばし黙し、障子越しに広間から響く筆音を聞いていた。そして静かに答えた。
「厳しいのは今だけだ。民が納める税が明確であれば、不安も怒りも減る。数字は冷たく見えるが、曖昧さよりもはるかに温かい。国と民が互いに信じ合える仕組みこそ、未来を支える」
代官は深く頭を下げ、ゆっくりと歩み去った。
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その夜、江戸の町でも地租改正の布告が触れ回られていた。町の広場では高札に「全国地価三分の一」と書かれ、人々が群がって声を上げた。
「これで隣村と同じ基準になるのか」
「いや、三パーセントなら、うちの田の収穫なら納めやすい」
「身分で差がないなら、むしろ安心だな」
農民や町人たちの声には、戸惑いも混じっていたが、それ以上に「公正さ」への期待が滲んでいた。
夜更け、藤村は城下を歩き、町人たちの話を耳にしていた。軒先で火鉢を囲む農夫が仲間に語っていた。
「これまで庄屋のさじ加減ひとつで決まっていた年貢が、これからは数字で示される。……それなら、俺たちも納得して働けるってもんだ」
その声を聞き、藤村は心の奥で静かに頷いた。布告は制度の話にすぎない。だがそれを「自分のこと」として受け止める民の声があってこそ、制度は生きるのだ。
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厳冬の空に、再び江戸城の鐘が鳴った。藤村はその響きを聞きながら思った。
――この鐘の音が、制度を人々の心に染み込ませる。冷たい風の中にも、未来を温める力が確かに育っている。
江戸城学問所の大講堂。新年最初の講義は、慶篤による「地租と国家」であった。黒板には「土地=国家の基礎」「税=国の血脈」と大書され、集まった若い官僚や書役たちは静まり返って耳を傾けていた。
「これまでの税は、年貢として“収穫”を基準にしてきた。しかし収穫は天候に左右される。雨が多ければ多く、旱魃なら少なくなる。これでは国の財政が安定せぬ。ゆえに、土地そのものの価値を基準とする――これが地租改正の核心である」
慶篤は指し棒を黒板に打ち、学生たちの目を見据えた。
「土地の価値を三パーセントと定める。数字は冷たいが、裏返せば公平だ。庄屋や代官の胸三寸ではなく、誰が見ても同じ数字になる。ここに信が生まれる」
前列に座っていた若い役人が手を挙げた。
「では、豊作の年には余剰が出て、凶作の年には苦しみが増すのではありませんか」
慶篤は頷き、あらかじめ用意した図表を掲げた。
「そのために備蓄倉庫を整え、災害の年には放出する仕組みを併せて作った。制度は一つではなく、複数が組み合わさって初めて機能する。大事なのは“安定”だ。人も国も、安定なくして成長はない」
広間のあちこちから頷きが漏れた。
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一方、北海道札幌から届いた電信をもとに、清水昭武が北方統治の現場で得た知見を共有していた。大広間に地図を広げ、赤い線で各地の地租制度の導入状況を示す。
「欧州の事例を見ても、地租改正は国の根幹を成す改革である。プロイセンでは農民解放と結びつき、フランスでは革命後の安定財源となった。イギリスでは地主制の強化と表裏を成した。――だが、日本の特色は最初から国家の統一基準で進めた点だ」
学生の一人が口を挟んだ。
「それは列強の圧力を恐れて急いだからでしょうか」
昭武は微笑み、首を振った。
「いや、むしろ逆だ。我らは最初から対等であった。借金に追われ、譲歩を迫られたのではない。自らの判断で、自らの基準を打ち立てた。ここに日本モデルの独自性がある」
静寂の後、拍手が広がった。
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その夜、藤村邸。
義信は机に広げられた戸籍簿を覗き込み、自分の名前を指でなぞっていた。
「僕も、ちゃんと日本国民なんだね」
その横で久信が算盤を弾きながら、「じゃあ、税はいくらになるんだろう」と首をかしげている。数字はたどたどしいが、その真剣さに奉公人たちが笑顔を見せた。
篤姫は義親を抱きながら微笑んだ。
「お腹の子の名前も、やがてここに記されるのね」
灯火の下、家族の団らんの中に、新しい制度が静かに息づいていた。
江戸城西の丸、地租局の執務室。重厚な机の上に山と積まれた新しい帳簿を前に、藤田小四郎が黙々と筆を走らせていた。かつて血気盛んに議論を戦わせた青年は、今や冷静に数字と現実を秤にかける実務官僚の風格を備えていた。
「殿」――そう呼びかける声は、以前の激情とは違い、穏やかで落ち着いていた。
「地租改正は財政を強くする。しかし、同時に民の声を引き出す場ともならねばなりませぬ」
藤村晴人は帳簿に視線を落としたまま応じた。
「……民の声か。税は義務であるが、義務を果たすには納得がいる。数字だけで人は動かぬ。小四郎、お前はそれを肌で学んできたのだな」
小四郎は頷いた。
「農民にとって“租”は銭より重い意味を持ちます。田を守る証であり、暮らしを支える負担でもある。だからこそ、地租は民権とつながる。数字が透明ならば、人々は“我らが支え合っている”と実感できましょう」
沈黙の中、火鉢の炭がぱちりと弾けた。
藤村は筆を取り、机の端に置かれた紙に書きつけた。
「地租は国家の血脈。だが血が流れるには心臓がいる。それは民意だ。……小四郎、民の声を制度に映す道を考えよ。議場での報告、公開の数字、そして訴えを届ける仕組みを」
小四郎の目が光った。
「必ずや実現いたします。数字は人を締めつける枷ではなく、人を結びつける鎖となるべきですから」
藤村は深く頷いた。その瞬間、かつて若き志士であった男が、今や制度の担い手として成熟した姿を確かに感じ取った。
窓の外、厳冬の空気に包まれた江戸の町には、まだ新年の鐘の余韻が漂っていた。
新年の冷たい光が差し込む江戸城大広間には、地租改正布告の写しが整然と並べられていた。白紙に刻まれた「全国一律三パーセント」の文字は、もはや机上の議論ではなく、国家全体を縛る実際の規範となった。
「江戸から薩摩まで、そして北海道から台湾、朝鮮に至るまで――すべてを一つの線で結ぶのです」
慶篤がそう語りかけ、傍らの役人たちが緊張の面持ちで頷いた。彼の声は冷静でありながらも熱を帯びていた。
昭武の送った報告書も読み上げられた。北方の札幌から届いたその文面には、欧州の地租改革との比較が細かに記されていた。
「日本の改正は、欧州のどの制度よりも短期間で実現し、しかも混乱を最小限に抑えている」と。
広間に一瞬の静寂が訪れ、やがて拍手が沸き起こった。
同じ頃、羽鳥城下では農民たちが庄屋の屋敷に集まり、新しい課税帳簿の説明を受けていた。
「これまでの年貢とは違い、土地の値打ちに応じて納める仕組みになった」
庄屋の声に、農民の一人が不安げに問いかける。
「けれど、我らの暮らしはどうなる。米の値が下がれば、損をするのではないか」
庄屋は静かに帳簿を指した。
「土地の値は変わらぬ。だからこそ税も一定だ。豊作の年には余裕が出て、凶作の年にも過度の負担は避けられる」
人々の表情に、わずかな安心の色が広がった。
その夜、藤村邸では義信が帳簿の写しを広げ、真剣に「租」の字を筆でなぞっていた。隣で久信が算盤を弾き、数字を声に出して読み上げる。乳母の腕に抱かれた義親は、母の膝の上で静かに眠りながら、家の中を満たす温もりの気配を受け取っていた。
「一人ひとりの暮らしが、この制度の上にあるのですね」
篤姫の言葉に、藤村は深く頷いた。
地租改正は単なる税制の改革ではなかった。家族の生活、農村の安心、そして国家の未来を結びつける「信の制度」となりつつあった。
江戸城の大広間での布告から数日後。西の丸の小広間に、藤村晴人と藤田小四郎が並んで腰を下ろしていた。机の上には新しい税制に関する布告と、それに付随する意見書が積まれている。
「殿、制度は完成しました。しかし――」
小四郎は指先で一枚の紙を押さえながら言葉を続けた。
「税は人を支えるものであると同時に、人を縛る道具にもなり得ます。民の声を聞かずに数字だけで進めれば、やがて反発を生み、国を危うくします」
藤村は静かに頷き、硯に筆を浸した。
「だからこそ、我らは“数字を生かす”道を選ばねばならぬ。税制は民権と表裏一体だ。民の声が国を動かすと知ることで、この制度は初めて真に根付く」
蝋燭の炎が二人の顔を揺らし、墨の匂いが部屋に漂う。小四郎の瞳には、かつての血気ではなく、冷静に未来を見据える光が宿っていた。
「民権は、税を納めることで生まれる責任と一体です。納める義務があるからこそ、口を開く権利がある。その理を、広く知らしめるべきです」
藤村は筆を置き、真剣な眼差しで小四郎を見つめた。
「小四郎、お前の言葉は重い。この布告の先にあるのは、ただの徴税ではない。国家と民とが共に歩む、新しい秩序の始まりだ」
窓の外では、新年の雪がちらちらと舞い降りていた。その白い静けさの中に、やがて芽吹くであろう民権の声が、かすかに響いているように感じられた。