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210話:(1873年11月/初冬)冬兆と条約

初冬の玉里港。冷たい北風が吹きつけるたび、白波が埠頭の石垣を打ち、飛沫が細かい霧となって空気を満たした。空は鉛色に曇り、冬の兆しを感じさせる重苦しい雲が垂れ込めている。だが、その港には、これまでにない熱気と誇りが満ちあふれていた。


 港湾の近代化工事がついに完成したのだ。


 巨大な石造埠頭が海へと突き出し、鉄のレールが敷かれて荷車が滑らかに行き交う。巨大なクレーンが吊り下げられ、荷役作業は人力頼みから一転して効率的な機械作業へと変貌した。外国からの大型帆船、蒸気船も接岸できる水深が確保され、港全体は新しい時代の象徴として立ち上がっていた。


 その光景を見渡す高台に、藤村晴人は立っていた。裃姿の役人たち、各州から派遣された視察団、そして地元商人や漁民たちが続々と集まり、彼の言葉を待っている。


 「今日、この玉里港において、新しい日本の物流の心臓が打ち始める」


 藤村の声は、風を切って港全体に響いた。


 「かつては波と風に翻弄され、夜間の航行は危険と隣り合わせであった。しかし、今や埠頭は堅固に築かれ、灯台が光を放つ。船は昼夜を問わず入港でき、荷は時を違えず運び出される」


 聴衆の顔が次々と上がる。彼らは港の新しい姿を目にして、言葉以上に説得力を感じ取っていた。


―――


 竣工したばかりの玉里灯台は、港口の岬にそびえていた。白亜の石造りの塔は、空を裂くように高く、夕刻になれば太陽の代わりに光を放ち、海を行き交う船を導く。今日、その火が初めて灯される。


 「灯を掲げよ!」


 号令とともに、点火役の技師が手にした松明を油槽へ近づけた。次の瞬間、灯台の巨大な反射鏡が光を弾き、鋭い光条が灰色の海を切り裂いた。


 港の喧騒が一瞬止み、誰もがその光を見上げた。


 「これで……夜でも航路が生きる」

 「嵐の日も、道を失うことはあるまい」


 老漁師が涙を浮かべながら呟き、若い船乗りが拳を握りしめた。灯台は、単なる建造物ではなかった。人々の生命を守り、国家の経済を動かす「灯」であり、日本が列強に伍して立つ証であった。


―――


 その日発表された数値は、さらに人々を驚かせた。


 「関税収入、年三百四十万両」


 勘定方の報告が高らかに響くと、会場はどよめきに包まれた。


 数年前、幕府財政が破綻寸前の頃には想像もできなかった数字だ。港湾の近代化と交易拡大の成果は、机上の理論ではなく、現実の帳簿に刻み込まれていた。


 「財政目標を大きく上回った。この収益は、ただの数字ではない。全国の道を延ばし、学校を建て、兵を養い、民を潤す力となる」


 藤村の言葉に、集まった人々の胸に新しい誇りが芽生えた。


―――


 荷役作業は実演形式で進められた。蒸気クレーンが鉄の鎖を唸らせ、巨大な砂糖の俵を船倉から引き上げ、荷車へと降ろす。港湾鉄路に乗せられた荷車は、馬に引かれることなく人の手で軽々と押され、倉庫へと運び込まれていった。


 「これまで三十人がかりで一日かかった作業が、わずか数時間で終わる」


 監督役の技師が誇らしげに説明すると、商人たちは顔を見合わせた。


 「ならば、船の回転も速くなる。利益も倍増だ」

 「港の停泊料も減る。商いはもっと楽になる」


 経済は単なる理論ではなかった。汗をかく労働の場において、目に見える速度と効率こそが、国力を形作っていた。


―――


 藤村は灯台を背に立ち、改めて聴衆を見渡した。


 「港とは単に船が停まる場所ではない。港は国の入口であり、出口である。ここから入る物資が国を養い、ここから出る商品が国を豊かにする。玉里港は日本を動かす心臓であり、この灯は未来を照らす松明だ」


 人々の目が熱を帯びた。港に集まった数千の民衆は、ただの労働者や商人ではなかった。彼らは、この国の成長を支える血流そのものだった。


―――


 夕刻、灯台の光が海を照らし続ける中、一隻の大型帆船が入港してきた。西洋の旗を掲げた船は、灯台の光に導かれるように真っ直ぐに港口を進み、無事に接岸した。船長が甲板から敬礼し、集まった群衆が歓声を上げた。


 「日本の港に、夜がなくなった!」


 その声は港全体に響き、やがて拍手と歓声に変わった。


 初冬の寒風はなおも強く吹いていた。しかし、その冷たさを凌ぐほどに、玉里港には熱い希望が満ちていた。


―――


 藤村は胸の内で静かに言葉を繰り返した。


 ――港は国の心臓。灯は未来の証。


 その確信が、寒空の下で揺るぎない温もりとなり、彼の胸を支えていた。

江戸城西の丸、学問所の講義室。初冬の風が障子の隙間を鳴らし、外は冷え込んでいたが、室内は熱気に包まれていた。机を埋めるのは各州から派遣された若い役人たち、商人階層から選ばれた学徒、そして外国語を解する通詞たちである。黒板の前に立つ慶篤は、背筋を伸ばし、チョークを握りしめた。


 「本日の題は、国際貿易である」


 その声は若いながらも確固たる響きを持ち、聴衆の背を自然と正させた。


 黒板に描かれたのは、米、砂糖、鉄、絹布の四つの文字。


 「比較優位の理を説こう。もし常陸州が鉄を造るのに十日の労を要し、米を作るのに五日で済むとする。他方、台湾が砂糖を造るのに三日で済み、米を作るには七日かかる。――さて、このときどう分業すべきか」


 ざわめきが起きる。役人たちは算盤を弾き、商人たちは手帳に数字を記した。


 「答えは単純だ。常陸は米を作り、台湾は砂糖を作る。互いに交換すれば、双方の利益は最大化される。これが比較優位である」


 黒板に矢印が走り、米と砂糖が左右に行き交う図が描かれる。


 「だが、ここに問題がある」


 慶篤は手を止め、聴衆を見渡した。


 「自由貿易は効率を高める。しかし、弱き産業を無防備に晒せば、列強の安価な品が流れ込み、国内の工房は潰れる。逆に過度な保護主義は、国を内に閉じ込め、成長を鈍らせる」


 その言葉に数人の役人が深く頷いた。


 「では、いかに調和すべきか」


 慶篤は机上の報告書を掲げた。そこには玉里港の輸出入統計が記されていた。


 「昨年、輸出総額三百二十万両。今年、三百四十万両を突破した。伸び率は六%。この成長を維持するには、砂糖や茶といった強みを活かしつつ、鉄や織物など新興産業を一定期間保護せねばならぬ」


 黒板に二本の線を引き、一方に「自由」、もう一方に「保護」と書き、その間に大きく「調和」と記す。


 「これが日本の進むべき道だ。自由の旗を掲げつつ、必要な盾を構える。列強の波を受け止め、その力を利用し、同時に自らの産業を鍛える」


 室内の熱気はさらに高まった。ある若い書役が立ち上がり、声を張った。


 「殿下、では税率の目安は!」


 慶篤は微笑みを浮かべた。


 「砂糖と茶の輸出には軽き税を、鉄と織物の保護には重き関税を。数値は――輸出税二%、保護関税一五%。これが当面の均衡である」


 数字が示されると、算盤の玉が一斉に鳴り、記録係の筆が走った。


 「国を富ませるとは、ただ金を増やすことではない。制度をもって人を養い、人を養って国を強くすることだ」


 慶篤の声が静かに響く。


 外の木枯らしが一層強く障子を鳴らしたが、講義室の空気は春のように熱かった。

初冬の江戸城学問所。障子の外では木枯らしが石畳を掃き、冷たい風が廊下を走っていた。だが講義室の中は、暖炉の薪の爆ぜる音と、期待に満ちたざわめきで温かく満たされていた。


 壇上に立つのは、清水徳川を相続し、北方方面の統治を任されている清水昭武である。北の地から久方ぶりに江戸へ戻った彼は、堂々たる姿で黒板の前に立ち、手には分厚い欧州外交史の写本を携えていた。


 「皆、耳を傾けよ。外交とは言葉と記録の戦である。剣や鉄砲よりも、条約の一文が国を左右することがある」


 静まり返った室内に、その声がゆるぎなく響いた。


 黒板には大きく「ウェストファリア1648」と記される。


 「三十年戦争の果てに結ばれたこの条約は、宗教対立を収めただけでなく、『国家の主権』という原理を世界に示した。以後、いかなる国も、他国の内政に無制限に干渉することは許されなくなった」


 学生たちが息を呑む。昭武は続けて「ウィーン会議1815」「クリミア戦争1856」と書き込み、手早く図を描いた。


 「このように、戦争の後には必ず外交の再編が行われる。敗者であれ勝者であれ、条約を結んでこそ国際秩序に居場所を得るのだ。日本も同じである。我らが立つのは、列強の傍らではなく、対等の座だ」


 その言葉に、一人の若い書役が挙手して問うた。

 「清水様、条約を有利に結ぶには、いかなる策が必要でしょうか」


 昭武は微かに笑みを浮かべ、机上の書簡を掲げた。


 「交渉とは、駆け引きである。まず、相手に情報を渡しすぎてはならぬ。次に、複数国を同時に交渉の場に置けば、互いの利害が衝突し、我らに隙が生まれる。そして何より――文書だ」


 黒板に「記録=武器」と太く書き記す。


 「正確な記録があれば、後の時代にまで我らの主張は生き続ける。逆に曖昧な条文は、子孫に災いを残す。だからこそ外交文書館を設けたのだ。未来のために」


 講義室に重い沈黙が落ちた。記録こそ国を守るという言葉が、学生たちの胸に深く突き刺さったのである。


 昭武はさらに、最新の国際情勢に触れた。


 「普仏戦争後、ドイツは統一を果たし、フランスは弱体化した。だが、その陰でロシアは静かに動いている。北方の国境問題を解くには、我らも条約を武器とせねばならぬ」


 視線を鋭くし、最後に言葉を置いた。


 「外交とは、遠い異国の話ではない。港で米を売る農夫の手元から、国境で旗を立てる兵の背まで、すべてを支えている。忘れるな――条約の一文が、農村の一膳の飯を決めるのだ」


 講義室はしばし沈黙し、その後大きなどよめきと筆記の音に包まれた。

初冬の江戸。外では北風が松を鳴らし、庭の池の水面には薄氷が張り始めていた。藤村邸の一室には、灯火の柔らかな明かりが揺れ、暖かな空気が漂っていた。


 義信は机の上に置かれた地球儀を両手で回していた。木製の球が静かに回転し、日本列島が冬の日差しを受けて光る。彼は指先で大西洋をなぞり、やがてヨーロッパに視線を止めた。


 「父上、この国とはどんな約束を交わしているのですか」


 問いかけは素直であったが、その響きにはすでに学問所で習った国際法や条約交渉の知識が滲んでいた。


 藤村は手を止め、静かに答えた。

 「イギリスとは貿易の約束を、フランスとは技術の協力を。国ごとに違う顔を見せるが、大事なのは一つ――すべて対等であるということだ」


 義信は深く頷き、地球儀を再び回した。子どもの目に映る世界は、条約という糸で結ばれた一枚の布のように広がっていた。


 その傍らで、久信は膝に一冊の分厚い帳簿を置いていた。彼が興味を示したのは外交の言葉よりも、印章の複雑な文様だった。朱肉に押された渦巻きや唐草模様を何度も写し取り、紙一面を赤い印影で埋めていく。


 「この模様は、ただの飾りではありません。約束を違えぬ証なのです」


 藤村がそう言うと、久信は目を輝かせて筆を走らせた。彼にとって外交は難解な条文ではなく、目に見える「証拠」として心に刻まれていた。


 火鉢のそばでは、義親が毛布に包まれて母の腕に抱かれていた。幼子はまだ言葉を知らぬ。だが、開け放たれた窓から入り込む港の潮風に鼻をひくつかせ、母の胸に顔を埋めて小さく笑った。その仕草に篤姫は微笑み、そっと子を揺らした。


 「この子もやがて、遠い国々とつながる時代を生きるのでしょう」


 その言葉に、藤村は三人の子を見渡し、深く頷いた。


 ――条約は机上の文字ではなく、人々の暮らしに息づくものだ。子らが感じるこの小さな芽が、未来を動かす大きな力になる。


 灯火が揺れ、障子の外に冬兆の月が昇っていた。

十一月の冷たい雨が石畳を濡らし、江戸城西の丸外交館の窓を曇らせていた。その広間には、洋装の外交官たちと和装の幕臣が一堂に会し、厚い絨毯の上に緊張した空気が張り詰めていた。机上には朱の印章と、分厚い羊皮紙の条約文書が並んでいた。


 「条文、全て確認済み。関税率、輸出入の扱い、技術協定――いずれも日本の主導にて」


 渋沢栄一が低く告げると、場の空気がさらに重くなった。


 藤村晴人は文書に視線を落とし、墨を含ませた筆を握った。かつては「不平等条約」という枷に苦しんだ国々の歴史を知る彼にとって、この瞬間は一つの到達点であった。


 「我らは最初から対等であった。そして、これからも対等であり続ける」


 筆が羊皮紙に走り、力強く署名が刻まれた。列席の欧米代表たちも次々と署名を加え、やがて最後の一筆が終わると、場に大きな拍手が湧き起こった。


 「技術協力においても、日本は主導権を持つ」

 「これで互いの利益は均衡する」


 英仏の代表がそう言葉を交わす姿に、藤村は小さく息を吐いた。もはや「片務的な条約」ではない。完全な対等関係が、ここに実現したのだ。


―――


 式典を終えた後、江戸城の一室で藤田小四郎が筆を執っていた。彼の机の上には、条約文の写しと統計資料が広がっていた。


 「日本は、西洋列強に屈することなく、初めから対等の立場で歩んできた。その姿勢は、同じアジアの国々にとっての希望であり、模範である」


 筆先が紙面を走り、論説は熱を帯びていった。


 「屈辱を前提とせず、独自の近代化を遂げた日本。その道は、単なる経済的成功ではない。民族の尊厳を守り抜く近代化の証である」


 小四郎の眼差しは真剣であった。条約の締結は外交官だけの業ではなく、国の進むべき姿を示す政治哲学でもある――その思いが一行一行に込められていた。


―――


 外は冷たい雨。だが城内の広間には、未来へ向かう灯火が確かに灯されていた。藤村は条約文書を手に取り、静かに呟いた。


 「記された文字は雨に滲まぬ。これこそが日本の力だ」


 その声に応じるかのように、玉里港の灯台が遠くで光を放ち、冬兆の空を切り裂いていた。

初冬の江戸城西の丸、外交館の広間にはまだ熱気が残っていた。分厚い羊皮紙に朱と墨で押された署名と印章が、燭台の光を受けて鮮やかに輝いていた。


 藤村晴人は文書を手に取り、深く息をついた。重さは紙切れにすぎぬはずなのに、手の中には国の未来そのものが宿っているように思えた。


 「これで、対等な約束が永く残る。雨に滲むことも、人の記憶に消えることもない」


 彼の声に、場にいた役人や通訳たちが頷いた。


―――


 一方、別室では藤田小四郎が机に向かっていた。ろうそくの炎に照らされた紙面には、条約文の写しと膨大な統計資料が広がっている。小四郎は筆を取り、迷いなく文字を綴った。


 「日本は最初から対等であった。その姿勢は、屈辱を前提とした近代化に苦しむ他のアジア諸国にとっての希望となる。民族の尊厳を保ちつつ世界と結びつく道が、ここに示されたのだ」


 彼の書く論説は、外交の成果を超えて、一つの政治哲学として熱を帯びていた。


―――


 夜更け。城の外では雨がしとしとと石畳を濡らしていた。だが外交館の窓からこぼれる光は力強く、冷たい空気を押し返していた。


 藤村は窓辺に立ち、遠くの玉里港の方角に目を向けた。灯台の光が雨を切り裂き、闇の中に道を示している。


 「記録は消えぬ。これが我らの力だ」


 彼の胸には、確かな手応えと未来への静かな確信が宿っていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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