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209話:(1873年10月/秋)収穫と黒字

秋の陽光が、金色に輝く稲穂の海を照らしていた。常陸州の平野はどこまでも黄金色に染まり、風が吹くたびに波のように揺れる。その光景は、まるで大地そのものが光を放っているかのようであった。農民たちは田に入り、鎌を手にして稲を刈り取りながら、互いに声を掛け合い、笑い声を響かせていた。


 「今年はすごいぞ。見ろよ、この粒の揃い方を!」

 「殿のおかげで灌漑が整った。稲がここまで育つとはな」


 声は誇らしさに満ちていた。新しい農業技術の導入、改良された品種、そして灌漑水路の整備――すべてがこの収穫に結びついたのだ。農民たちの汗と努力に、政策が寄り添い、結果として史上最高の収量を記録した。


 藤村晴人は、羽鳥の村落を見渡せる小高い丘に立ち、その景色を目に焼き付けていた。彼の隣には渋沢栄一が立ち、手帳に数字を走らせていた。


 「報告によれば、常陸州全体で例年の一・五倍の収穫量です」

 「数字が示すよりも、この笑顔こそが証明だ」


 藤村はそう言って、鎌を振るう農民たちの姿に視線を落とした。



 正午過ぎ、村の広場では収穫祭が催されていた。稲束が高く積まれ、太鼓と笛の音が響く。子どもたちが踊り、女たちが新米を炊いて握り飯を配っている。香ばしい米の匂いが辺りを包み、祭りの熱気は秋風さえ温かく感じさせた。


 「この米で江戸にも送れる。台湾へも船で運ぶことができる」

 商人の一人が声を張り上げた。


 豊作は食を満たすだけでなく、国の経済を潤し、余剰を輸出へと回す力を持つ。藤村はその声を聞き、心の中で頷いた。――農業の安定が、すべての発展の基礎であると。



 夕暮れ、藤村は江戸城から届いた最新の報告に目を通していた。各地から寄せられた収穫量の数字は、驚異的な成果を示していた。


 「米収量、常陸州で二百万石超。信濃州、百五十万石。奥羽諸州も豊作続き……」


 報告を読み上げる書役の声に、周囲の役人たちは感嘆の声を漏らした。


 「まさに豊作の奇跡でございますな」

 「いや、奇跡ではない。努力の結実だ」


 藤村は静かに言葉を差し挟んだ。政策の導入から数年、ようやくその成果が大地に根を下ろしたのだ。



 その夜、農民の一人が酒を酌み交わしながら藤村に言った。


 「殿、この稲はただの米じゃありません。我らの誇りです。子も孫も、腹を空かせずに済む。それがどれほどありがたいことか……」


 その言葉に、藤村は胸を打たれた。金の数字では表せぬ価値――人の安心と希望。それがこの収穫の本質だった。



 翌朝。秋霧に包まれた田畑の中で、義信が初めての稲刈りに挑んでいた。


 「こうか……こうすればいいのか?」


 農民に鎌の持ち方を教わりながら、ぎこちなくも真剣な表情で稲を刈る。額に汗が流れ、鎌の先に稲穂が次々と倒れていく。その姿を見ていた久信は、稲束を背負わされ、ふらつきながらも歩みを進めていた。


 「こんなに重いんだな……!」


 小さな背中に積まれた稲の重さが、労働の大変さと達成感を同時に教えていた。


 義親は乳母に抱かれ、刈り取られた稲の山に近づけられていた。黄金色の稲穂の匂いに小さな鼻をくすぐられ、くすぐったそうに笑い声を上げた。


 篤姫はその様子を見つめ、微笑んだ。

 「収穫の恵みが、この子らの未来を育んでいるのですね」


 家族全体が、大地とともに実りを分かち合っていた。



 その日の夕刻、江戸城では黒字報告儀の準備が進んでいた。藤村は豊作の数値が記された報告書を手に取り、心の中で静かに言葉を刻んだ。


 ――農業の安定が国を支え、黒字が未来を築く。


 秋の空は澄み渡り、収穫の喜びとともに、新しい時代の気配が江戸に満ちていた。

収穫の喜びが冷めやらぬ中、江戸城西の丸では、もうひとつの「実り」が確認されようとしていた。勘定所の大広間に集められたのは、勘定奉行や代官、各州からの財政担当者である。机の上には山のような帳簿が積み重なり、硯の墨が次々とすり減っていく。


 「歳入総額、前年比三割増。……歳出を差し引いた黒字額、六十万両」


 読み上げられた数字に、広間がざわついた。わずか数年前、幕府の債務は一千二百万両に達し、国の屋台骨を揺るがしていた。それが改革と産業収益、そして豊作の後押しによって、いまや残高は一六〇万両台まで減少していたのだ。


 「借財が、ここまで削れるとは……」

 年配の代官が思わずため息をついた。


 藤村晴人は、静かに扇を開き、机を軽く叩いた。

 「数字は嘘をつかぬ。黒字は一時の偶然ではない。制度と努力が結びついて初めて生まれる果実だ」


 その言葉に、書役たちの背筋が伸びた。彼らもまた、この奇跡を支える一員であることを実感していた。



 やがて黒字報告儀が始まった。広間の中央に幕臣や各州の代表が並び、勘定奉行が壇上から収支の詳細を朗読した。


 「専売益による歳入増、四十万両。関税収入、百二十万両。鉄道運賃収入、十五万両……」


 列席者はそれぞれ記録を取り、驚きと安堵の入り混じった表情を浮かべていた。中には、わずか数年前に「財政破綻寸前」と噂された国が、いまや黒字を誇る姿に涙ぐむ者さえいた。


 「この調子なら、あと数年で借財はすべて返済できる」

 勘定奉行の声は震えていた。


 「完全返済……夢ではないのだな」

 若い書役が呟くと、広間の空気が熱を帯びた。



 藤村は立ち上がり、壇上に進んだ。視線は一人ひとりを確かめるように巡り、声は力強く響いた。


 「我らが目指すのは、黒字そのものではない。その黒字を未来に投ずることだ。教育に、鉄道に、産業に――そして人々の暮らしに」


 沈黙が広がったのち、誰からともなく拍手が起こり、それは次第に大きな波となった。


 藤村はその音を受け止めながら、心の中で言葉を重ねた。

 ――黒字は終着点ではない。未来への通過点だ。



 報告儀が終わると、広間を出た藤村は、廊下に並ぶ窓から秋の夕陽を眺めた。庭の木々は赤く染まり、稲の香りを乗せた風が城内に吹き込んでいた。


 「数字が人を救うことを、人々はやっと信じ始めた」


 独り言のように呟いた声は、静かな決意を帯びていた。

翌日、江戸城学問所の大講堂は、秋の光を反射する障子の白で輝いていた。豊作と黒字の報告を受け、今日は慶篤による特別講義が行われる日である。壇上に立った慶篤は、机に分厚い帳簿と統計表を並べ、黒板に大きな円を描いた。


 「黒字とは、単に収入が支出を上回るというだけではない。余剰をいかに未来に投じるか――そこにこそ国家の力がある」


 白墨の円は四つに分けられた。教育、交通、産業、備蓄。それぞれに黒字の矢印が流れ込む様を描くと、学生たちが息を呑んだ。


 「収支の均衡は最低限の条件だ。しかし、黒字を将来の柱に注げば、その余剰はさらに新しい収入を生む。これが持続的成長の会計哲学だ」


 机に座る若い役人が手を挙げた。

 「黒字をすべて返済に回すべきではないのですか」


 慶篤は頷き、柔らかく答えた。

 「返済は大切だ。しかし未来への投資を怠れば、再び借財に戻る。教育を怠れば人材が枯渇し、交通を怠れば産業が滞る。黒字とは未来への責務だと心得よ」


 学生たちの目が輝きを増した。


―――


 続いて壇上に立ったのは、北海道から一時帰府した清水昭武であった。彼の手には、欧州各国の財政報告書が携えられていた。


 「ご覧いただきたい。これはプロイセン、これはフランス、これはイギリスの収支記録だ。いずれも黒字を維持するのに数十年を要した。だが日本は、わずか十年足らずで劇的な回復を成し遂げた」


 会場がざわめいた。昭武は冷静に数字を指で示す。


 「例えばイギリス。ナポレオン戦争後の負債は二十年以上返済にかかった。フランスもまた、戦後の賠償金に苦しんだ。しかし日本は、戦争に代わる産業と制度改革により、異例の速度で黒字を確保している。国際比較の上でも、この成果は異例であり、世界が注目している」


 慶篤が補足するように言葉を添えた。

 「つまり、我らは単に借財を減らしたのではなく、新しい会計哲学を提示したのだ。『黒字は未来の糧』――この理念は、やがて国際的規範となろう」


 広間の若者たちの表情には、自国への誇りと、未来を支える自負が浮かんでいた。


―――


 講義を終えた慶篤と昭武は、並んで庭に出た。秋風が銀杏の葉を揺らし、黄金色の光が差していた。


 「兄上、数字は冷たいようで、実は最も人を熱くさせるものですね」

 昭武が微笑むと、慶篤も頷いた。

 「数字の背後には、民の汗と喜びがある。それを忘れなければ、黒字はただの記録ではなく、未来を紡ぐ力となる」


 遠くからは、農民たちが黒字の恩恵として配られた新しい農具を手に笑い合う姿が見えた。制度と理論が、すでに人々の暮らしに息づき始めているのだった。

秋の夕暮れ、藤村邸の広間には新米を炊く香りが満ちていた。窓の外には刈り取られた稲束が整然と並び、藁を干す姿が遠くに見える。豊作の恵みが、城下と家中をまるごと包んでいるようであった。


 義信は茶碗に盛られた白米をじっと見つめていた。

 「一粒一粒に、人の汗が詰まっている……」

 稲刈りで汗を流した記憶が、炊き上がった米の湯気と重なって胸に迫る。彼は真剣な顔で、まるで米粒の向こうに未来の国の姿を見ているようだった。


 久信はその横で、藁を編んで縄を作る作業に夢中になっていた。

 「米を刈るだけじゃないんだな。藁だって大事な役目がある」

 手に残る稲藁のざらつきと、少しずつ形になっていく縄に目を輝かせる。農業が「収穫」だけではなく、暮らしを支える素材を生み出す営みであることを、小さな手で学んでいた。


 義親は米俵に掛けられた布の上に寝かされ、柔らかな香りに包まれて安らかな寝息を立てていた。母の篤姫はその姿を見つめながら微笑み、藤村に静かに言った。

 「この子も米の匂いに安心しているようですね。……やはり稲は国の命です」


 藤村は頷き、家族の光景を胸に刻んだ。田畑での収穫は数字となり、国を潤す財源となる。しかしこうして炊き上がった一膳の飯、藁を編む手の感触、そして米俵に眠る子の安らぎこそが、豊作の真の意味であると感じられた。

秋も深まった江戸城の西の丸会議室。障子越しの光はやわらかに黄みを帯び、机の上に積まれた報告書の表紙を照らしていた。帳簿を抱えた渋沢栄一が立ち上がり、落ち着いた声で読み上げた。


 「本年の豊作を背景に、余剰米の輸出が正式に開始されました。第一船は長崎を経て、マニラへと向かいます。取引額は当初予測を大きく上回り、今後は定期輸送が見込まれます」


 その言葉に、広間の空気がざわついた。


 「日本が……ついに米を輸出する国となったか」


 ある老代官が感慨深げに呟くと、周囲から低い感嘆の声が上がった。これまでの日本にとって米は命をつなぐ糧であり、いかに備蓄するかが課題だった。それが今や、海を越えて貨幣と同じ価値を持ち、国の富を築く資源となったのだ。


―――


 藤村晴人は静かに扇を畳み、机に置いた。


 「食料の自給を確保したうえで、余剰を海外に売る。これは国家が成熟した証である。飢饉に備えつつ、豊作の果実を広く生かす……この循環こそが、我らの進むべき道だ」


 その言葉に頷きながら、藤田小四郎が一歩前に進んだ。まだ若さを残す表情ながら、瞳は確固とした光を宿している。


 「殿、輸出益をただ蓄えるだけでは国は強くなりませぬ。豊作の恵みは、農民へ、町人へ、広く還元されねばならぬと思います。村々の道を整え、橋を架け、子らの学び舎を増やす。そのためにこそ、この富を使うべきでは」


 室内が静まり返った。書役たちが筆を止め、誰もが小四郎の言葉を噛みしめた。


 渋沢がゆっくりと頷く。

 「確かに。数字の上では黒字を積み上げられるが、それを民が実感できねば、数字はただの線に過ぎません。収穫の喜びを人々の生活に結びつけることが、真の政策でありましょう」


―――


 藤村はしばらく沈黙し、やがて目を閉じた。彼の脳裏には、先日の常陸州の光景が浮かんでいた。黄金色に染まった田を駆け回る子どもたち、稲束を背負って笑う久信、鎌を振るって真剣な眼差しを見せた義信。そして、刈り取られた稲の香りに包まれて無邪気に笑う義親の姿。


 ――収穫とは、数字ではない。命の糧であり、未来への希望だ。


 藤村は再び目を開き、きっぱりと告げた。


 「よい、小四郎。お前の言うとおりだ。この輸出益は単なる国庫の黒字ではなく、民の暮らしを潤すための黒字とする。農村には新しい水路を、町には学び舎を、道を整え、橋を強くせよ。豊作の恵みを国の隅々にまで行き渡らせるのだ」


 会議室にどよめきが広がった。代官や書役の顔に、驚きと同時に力強い決意の色が浮かぶ。


―――


 その数日後、江戸の町では早くも変化が表れた。農村に送られた資金で水路工事が始まり、田畑へと新しい水が流れ出した。農夫の一人が鍬を握りしめて言った。


 「これで来年も安心して稲を育てられる。収穫は国の恵みとして返ってくるだろう」


 町の子どもたちは、新設された学舎の前で声を弾ませていた。新しい机と黒板、そして窓から差し込む光。そのすべてが、豊作と輸出益の賜物だった。


 藤村の決断が、机上の数字を超えて人々の暮らしに形を与え始めていた。


―――


 江戸城の夜。藤村は書斎で報告書を閉じ、静かに杯を掲げた。


 「収穫と黒字。この二つを人々に還元できる限り、この国は必ず強くなる」


 障子の外では秋の虫が鳴き、遠くで祭囃子が響いていた。


 藤村は杯を傾けながら、民の笑顔と国の未来を重ねて見つめていた。

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