208話: (1873年9月/初秋) 鉄道と議会
初秋の朝。江戸の空は薄曇りであったが、湿り気を帯びた風は心地よく、秋草の匂いが漂っていた。城下の大通りには早朝から人が集まり、旗を掲げ、拍手を送る群衆の波が延々と続いていた。
その先に鎮座するのは、新築された江戸駅。白壁と赤煉瓦を組み合わせた最新の洋風建築で、正面には大時計が据えられ、刻一刻と秒を刻んでいる。瓦屋根とガラス窓が見事に調和し、日本と西洋の融合を象徴する建築であった。
駅前広場には、旗指物や提灯が林立し、露店には焼き団子や甘酒が並んでいる。武士も町人も商人も、身分の差を越えて同じ場所に集まり、皆が一様に胸を高鳴らせていた。
「江戸から羽鳥までを一気に結ぶ初めての列車が、今日、走る」
その知らせは既に全国に広がり、人々の期待と緊張が渦巻いていた。
―――
午前九時。駅舎二階のバルコニーに藤村晴人が姿を現すと、群衆からどっと歓声が上がった。
彼は静かに手を上げ、群衆を鎮めると、落ち着いた声で語り始めた。
「今日から、江戸と羽鳥が鉄路で結ばれる。この線は物資を運び、人を運び、国を運ぶ。これこそ真の交通革命だ」
その言葉に、歓声が再び沸き起こる。
「鉄道は国の血脈である。これで米は新鮮なうちに江戸に届き、羽鳥の織物も迅速に市場へ運ばれる。交易は活発となり、人の往来は盛んとなる。そして何より、国の未来はこの鉄路の上に築かれるのだ」
扇を閉じる音が小気味よく響いた瞬間、構内から重々しい汽笛が轟き渡った。
「ヒューッ……!」
白い蒸気が立ち昇り、人々の歓声と混ざり合う。黒光りする蒸気機関車がゆっくりと姿を現すと、その迫力に群衆は一斉に息を呑んだ。鉄の巨体、磨き上げられた車輪、眩しい真鍮の装飾。
「おお……!」
どよめきと感嘆の声が響き、子どもたちは親の肩に登って必死にその姿を見ようとした。
―――
出発式が始まる。藤村は駅長から白い手袋を受け取り、線路脇に据えられた金槌を振り上げた。
「この杭を以て、未来を打ち込む」
乾いた音が秋空に響いた瞬間、観衆は歓声と拍手で応えた。列席していた渋沢栄一が声を張る。
「運賃収益はすでに見込みを超えており、鉄道債務の返済が加速しております! 残高、ついに百七十万両に!」
藤村は頷き、短く告げた。
「数字は国の信である。鉄道は負債を返すだけでなく、未来を築く」
その瞬間、群衆の熱気がさらに高まった。
―――
汽笛が再び鳴り響く。
「発車!」
駅員の声とともに、車輪がゆっくりと動き出す。黒煙を吐き出しながら、列車はじわじわと加速し、やがて轟音を響かせて走り出した。
「うわぁぁぁ!」
群衆は一斉に手を振り、帽子を投げ、涙ぐむ者までいた。長年の夢が、いま目の前で実現したのだ。
―――
列車の中。
藤村家は二度目の鉄道体験であった。だが、全線開通の初走行という特別な瞬間に乗り合わせることは、子どもたちにとって一生忘れられぬ出来事になるだろう。
義信は窓際に座り、目を輝かせて車窓を眺めていた。田畑や川、遠くの山並みが驚くほどの速さで後方に流れていく。
「父上! まるで空を飛んでいるようです!」
久信は座席に置かれた記念切符を両手で握りしめていた。厚紙に刻まれた「江戸―羽鳥全線開通」の文字は、彼にとって宝物だった。
「この切符は絶対に残すんだ。僕の子や孫にも見せる!」
篤姫は義親を膝に抱き、響き渡る汽笛に驚いた子が目を丸くするのを見て微笑んだ。
「この子も、鉄道と共に育っていくのでしょうね」
藤村はその光景を静かに見つめながら、心の奥で確信していた。――鉄道は単なる道具ではない。世代を超えて、人と人を結ぶ絆そのものになるのだ。
―――
列車は速度を上げ、やがて江戸を離れた。
田園の中を駆け抜け、秋の稲穂が風に揺れる。川を渡るたびに、鉄橋の下で子どもたちが手を振り、大人たちが見上げる。
「見ろ、江戸から羽鳥まで一気に走るんだ!」
歓声は、沿線すべてを祝福の舞台に変えていた。
―――
羽鳥駅に近づくころには、乗客の誰もが疲れを忘れ、笑顔に包まれていた。蒸気の熱と金属の匂い、揺れる座席と響く車輪の音。それらすべてが「新時代の響き」であった。
車窓の外で待つ人々の姿を見ながら、藤村は深く息を吐いた。
――鉄路が国を一つにする。今日がその始まりだ。
夕刻前、全線初走行の列車は予定どおり羽鳥駅にすべり込んだ。ホームは万歳の声と拍手に包まれ、蒸気が白く立ちのぼる。藤村晴人は家族とともに車両から降り、駅長と固く握手を交わした。駅舎の大時計は、江戸出発からの正確無比な行程を誇らしげに示している。
「江戸からの直行、所要は……」
駅長が懐中時計を掲げる。
「旧来の半分以下に短縮でございます、殿」
藤村は頷き、構内事務所へ向かった。壁には新しい運転時刻表と収支板が掛けられ、白墨の数字が初日の脈動を刻んでいる。窓口では駅員が記念切符の整理に追われ、貨物側では俵や反物の到着処理が慌ただしく続いていた。
「電信、江戸勘定所へ――初日見込み収入、速報だ」
藤村の指示に、電信士がキーを叩く。カタカタという打鍵音が細い銅線を伝い、羽鳥で生まれた数字が瞬時に江戸へと走っていく。ほどなく受信機が返答を吐き出した。紙片を受け取った書役が顔を上げる。
「江戸勘定所より受電。『運賃収入・貨物保管料とも予想超、債務返済計画の前倒し可』と」
事務所の空気が一気に明るくなった。藤村は扇を静かに畳み、散り散りに立つ駅員と書役を見渡す。
「鉄路は走った。――次は運営だ。数字は湧いて出ぬ。段取りと手当で初めて血となる。今夜、羽鳥城にて運営会議を開く。全員、顔を揃えよ」
*
宵の口、羽鳥城大広間。畳の上に長机が二列に並べられ、机ごとに名札と見本の予算書が置かれていた。正面の黒板には白墨で大書が見える。
――「鉄道議会・演習」
常陸州の長である慶篤が司会に立ち、壇から諸注意を述べた。
「ここは議場である。賛否を述べよ、根拠を示せ、相手の意見を聞け――三つが議の基本だ。鉄路の政策は、声高な主張ではなく、数字と暮らしで決める」
開会の合図とともに、書役・代官・駅の現場責任者らが持ち場へ着く。演習の議題は三つ。黒板に、慶篤の手で端的に書き出された。
一、旅客運賃の段階的引下げ案
二、貨物運賃の時間帯別(昼夜)設定案
三、収益の三分割配分(返済・保守・投資)案
最初に旅客運賃の議論が火を噴いた。
「庶民の足として普及させるなら、まず値下げを――」
「いえ、開通直後に値を崩せば、保守費の捻出に窮します」
賛否が交錯する中、慶篤が机上の鈴を鳴らす。
「数で語れ。――書役、現時点の乗車率と弾力性の見積もりは」
呼ばれた若い書役がすっと立ち、短く答えた。
「初日の満席は祝祭効果によるところもございます。平時見込みの乗車率は七割。旅客運賃を一割下げれば、乗車率は一割五分程度の伸び。総収入は微増、ただし保守費を差し引けば効果は薄い……と」
「ならば、旅客値下げは拙速」
藤村が低く結ぶと、賛同のうなずきが幾つも続いた。
次に貨物運賃の時間帯別設定へ。現場から声が上がる。
「夜間に安くすれば、荷主は夜に回す。日中は旅客を優先し、夜は貨物を稼ぐ――駅構内の混雑も分散できましょう」
対して、警備担当が反駁する。
「夜間の荷扱いは事故の危険が増します。灯火・警備の強化が条件です」
慶篤が黒板に「条件付き可」と記し、必要な追加費用を欄外に算入させた。議論は喧々諤々であったが、各人が数字で応酬し、最後には現実的な折衷案が形となっていく。
最後に収益の三分割配分。藤村が立ち、短く提案を置いた。
「返済三、保守三、投資四――当面はこれで行く。返済を怠らず、保守に血を回し、残りで鉄橋・駅・人材に投ずる。未来を削って返済を急がず、返済に逃げて未来を痩せさせぬ」
「投資四は大きすぎないか」という囁きもあったが、慶篤が静かに頷く。
「鉄路は『使って育てる』もの。駅と鉄橋は命綱、保守人員は血肉。投資を渋れば、明日の収益は立たぬ」
異論はやがて鎮まり、配分案は挙手多数で可決された。鈴の音が議了を告げる。広間の空気は熱の残り香を漂わせながら、どこか清々しかった。
*
会議後、城の回廊に夜風が通った。格子窓の向こうでは、駅の灯が点々と列をなし、遠く鉄橋のほうに赤い信号灯が瞬いている。
「江戸から羽鳥まで走り抜け、その足で議場に立つ――鉄道は、単なる運搬では終わらぬな」
藤村の独白に、慶篤が隣で微笑む。
「道は物を運び、人を運び、そして“意見”を運びます。今日の演習で、皆の言葉が届くべき場所へ届いた。――道と議が揃えば、国は歩きます」
藤村はしばし黙し、やがて扇を閉じた。
「明日、江戸へ電信を――初日収支の確定と、本日の決議要旨を送る。数字で示し、議で支える。それが我らのやり方だ」
秋の虫が、廊下の下草で小さく鳴いた。鉄の道と、人の言葉の道。二つの道が、この夜、確かに羽鳥で一本になった。
翌朝、羽鳥城の一室。窓から差し込む光は柔らかく、庭の木々は早秋の風にそよいでいた。義信と久信は、前夜の「鉄道議会演習」の議事録を前にしていた。机の上には白墨で線を引いた簡単な表と、子ども用に書き直された収支の数字。
「兄上、ここが“返済三、保守三、投資四”のところだよね」
久信が木の棒で表を指した。
義信は頷き、算盤を指先で弾いた。
「そう。収益を十とすれば、三は借金を返す。三は鉄道を守るために使う。残り四は未来を作る。だから七だけではなく、十全体で考えないといけないんだ」
久信はしばらく算盤の玉を動かし、眉を寄せた。
「でも、返済をもっと増やしたほうが早く楽になるんじゃないか」
義信は静かに首を振った。
「それじゃ未来の芽を削ることになる。返すことは大事だけど、未来を痩せさせたら次の収益が生まれない。昨日、殿が言っていたろう。“返済に逃げて未来を痩せさせるな”って」
久信は目を丸くし、やがて笑みを浮かべた。
「なるほど、兄上は数字だけじゃなく言葉も覚えているんだね」
義信は少し照れたように笑った。幼いながらも、彼の中で「数字は生きて動くもの」という感覚が育っていた。
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広間の片隅では、義親が母に抱かれていた。まだ六か月の彼は、兄たちが動かす算盤の音に耳を傾け、玉がカチリと鳴るたびに小さな手を動かして笑った。篤姫はその姿を見て、優しく語りかける。
「この子も大きくなれば、兄たちのように数字や言葉を学ぶのでしょうね」
藤村は縁側からその様子を眺め、微笑んだ。
「数字を学び、議を学び、人を思う心を育てる――それが次の世代の役目だ」
*
昼過ぎ、羽鳥駅の構内では、多くの子どもたちが集まっていた。昨日の列車に乗れなかった者たちのために、駅長が特別に車両の内部を公開していたのだ。義信と久信も列に加わり、真新しい木の座席に腰を下ろす。
「昨日は走っていて見えなかったけど、こんなに広いんだ」
久信が目を輝かせる。
義信は窓の外を指差し、声を潜めて言った。
「この席一つで、何人が乗って、いくらの収益になるのか――そんな計算もできるんだ」
久信は呆れたように笑った。
「兄上はやっぱり数字のことばかりだ」
義信は笑みを返し、窓枠に手を置いた。彼の瞳には、昨日の議場と同じ確信の光が宿っていた。
*
夕暮れ。城下に戻る途中、藤村は兄弟の会話を耳にしていた。算盤を弾く音、収支の配分を語る声、そして子どもらしい笑い。
「未来は机の上だけでなく、こうして子どもの声の中にも育っているのだな」
藤村の心には、数字と鉄路、子どもたちの笑顔が一つに結びついて響いていた。
秋風が冷たさを帯び始めたある日、羽鳥の城下広間で臨時の「鉄道議会演習」が開かれていた。前回は模擬的な討論にとどまったが、今回は一歩進み、実際の時刻表や収支表を題材にして若い書役や学生たちが議場に並んでいた。
壇上に立った慶篤が、黒板に大きく三本の線を引く。
「議題は三つ。一つ、運賃の適正化。二つ、貨物と旅客の優先順位。三つ、修繕基金の積み立てだ。――では諸君、議論を始めよ」
若い書役たちは互いに顔を見合わせ、やがて一人が立ち上がった。
「旅客の利便を第一にすべきです。庶民が江戸へ往来できるのは国力の証となります」
別の学生が反論する。
「しかし、貨物輸送が遅れれば商人が困窮します。経済の血脈を絶やしてはならない」
議場の空気は一気に熱を帯び、やり取りは白熱していった。
*
藤田小四郎は傍らで帳簿を広げ、議論を聞きながら鉛筆を走らせていた。
「運賃を一割上げれば返済速度は早まる。だが乗客は減る。貨物を優先すれば収益は安定するが、庶民の不満が募る。――答えは一つではない」
彼は立ち上がり、数字の入った紙を掲げた。
「私の試算では、貨物六、旅客四の比率が最も効率的だ。これなら収益を確保しつつ、庶民の足も守れる」
ざわめきが広がる。慶篤は小四郎を見つめ、口元に笑みを浮かべた。
「数字は冷たいが、冷たさの中に道がある。小四郎の試算は、まさに議会の成果だ」
*
一方、北からの報せも届いていた。清水昭武が北海道から送った電信には、こう記されていた。
「欧州の鉄道会社は、株主と利用者の双方に説明責任を負う。――日本もまた、議会の場で透明な決定を重ねることが肝要である」
その文を読み上げた藤村は頷き、議場に集う若者たちへ語りかけた。
「我らの鉄道は単なる道具ではない。人と人を結び、数字を人々に返す“民の器”だ。だからこそ議会で議し、責任を明らかにせねばならぬ」
*
夕暮れ、議場を出た若者たちはまだ興奮冷めやらぬ様子で語り合っていた。
「貨物か、旅客か――議論すればするほど難しい」
「でも、皆で考えれば答えは近づく。殿が言っていた通りだ」
義信と久信もその輪に加わり、子どもらしい真剣さで言葉を交わした。
「兄上、今日の議論を聞いて思ったんだ。鉄道は“道”じゃなくて“人の声”なんだ」
義信が呟くと、久信は目を輝かせて頷いた。
「うん。人が声を上げれば、鉄道はもっと強くなる」
その言葉に藤村は心の中で静かに応えた。――鉄路の上を走るのは蒸気機関車だけではない。人々の希望と声もまた、その線路を走っているのだ。
秋晴れの江戸城西の丸。通信室から届いた電報を手に、藤村は大広間に姿を現した。そこには鉄道局の役人や商人代表、農民代表までもが顔を揃えていた。
「殿、台湾での鉄道計画、正式布告との報せです」
電報を読み上げた書役の声に、場内がざわめいた。
藤村は深く頷き、集まった人々に語りかけた。
「羽鳥と江戸を結んだ鉄路は、今や実を結びつつある。だが、この線は日本列島の中だけで終わるものではない。台湾へ、そして朝鮮へと延びてこそ、本当の力となる」
*
農民代表が手を挙げた。
「殿、遠い島まで鉄道を延ばす必要があるのでしょうか。我らの米を運ぶには、江戸まで繋がれば十分では」
藤村は視線を柔らかく向けた。
「確かに江戸までで米は届く。だが、台湾で育つ砂糖や茶はどうか。朝鮮で獲れる米や人参はどうか。それらを一つに結べば、列島全体が大きな市場となる。――米一俵が銭になる道を、さらに遠くへ広げるのだ」
沈黙の後、農民の顔に理解の色が浮かんだ。
*
続いて商人代表が声を上げた。
「鉄道を台湾に? だが費用は莫大だ。江戸の黒字も吹き飛ぶやもしれませぬ」
そこへ藤田小四郎が進み出て、帳簿を掲げた。
「台湾鉄道布告に先立ち、収支試算をいたしました。初期費用は確かに大きい。だが関税益と専売益の余剰を基金に積み立てれば、外債に頼らず十年で回収可能です」
彼の声は落ち着いており、数字の列は説得力を持って響いた。商人たちは互いに顔を見合わせ、次第に頷き始めた。
*
義信と久信も議場の隅で静かに聞いていた。義信は小さな地図を広げ、羽鳥から江戸、そして台湾へと線を引いた。
「父上の言う通りだ。ここを繋げば、日本は一つの大きな輪になる」
久信はその線を見つめ、にっこりと笑った。
「僕も乗ってみたいな。台湾まで鉄道で行けるなら、遠くの人ともすぐに友達になれる」
幼い言葉は、議場に漂う重い空気をやわらげた。
*
その夜、藤村は書斎で筆を取り、台湾統治庁への返書をしたためていた。
「台湾鉄道計画は我らの未来を広げる大事業なり。費用は専売益と関税益にて賄い、民の負担を増やさずに進めること」
筆先を置くと、窓の外から汽笛が遠く響いた。江戸と羽鳥を結んだ鉄路の音は、やがて海を越え、台湾、朝鮮へと広がっていくだろう。
藤村は深く息を吐き、呟いた。
「鉄路とはただの鉄ではない。未来を繋ぐ線だ」
灯火に照らされた地図には、羽鳥から南へ延びる赤い線が鮮やかに描かれていた。