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207話:(1873年8月/晩夏)郵便と電信

晩夏の江戸は、蝉の声に包まれていた。空は蒸し暑く霞んでいたが、人々の心を震わせる一報が城下に響き渡っていた。


 ――「日本全国、郵便制度と電信網、ついに開通」


 江戸城西の丸の執務室。藤村晴人の机には、全国各地から届いた報告が積み重ねられていた。越後から、九州から、四国から、津軽から。赤い印が押された電報用紙には、たった数十文字の報せが記されている。


 「電報、無事到着」

 「郵便、定時配達確認」

 「沿岸線、接続完了」


 読み上げられる声は短い。しかしその短さこそ、革新の証であった。わずか数年前まで、江戸から大坂までの往復には数週間を要した。それが今や、数刻のうちに確実に届く。距離の壁を打ち破った瞬間であった。


―――


 江戸城電信室。蒸気機関を用いた送受信機械の前で、通信士たちが慌ただしくキーを叩いていた。金属の打鍵音が規則正しく響き、白い紙片に黒々とした記号が浮かび上がる。


 「江戸発、大坂行き。午前十時発信、午前十時三分着」


 読み上げられた声に、部屋中がどよめいた。三分。江戸から大坂までの情報伝達が、たった三分で完了したのだ。


 窓の外では、夏の日差しに照らされた電信柱の列が延々と続いていた。城門を出て町を抜け、街道に沿って整然と立ち並ぶ木柱。その先には銅線がぴんと張られ、空を切り裂くように伸びている。


 「これで、時間は国を縛らぬ」


 藤村はそう呟いた。背後に控えていた渋沢栄一が大きく頷く。

 「殿、もはや商人も官も、同じ時間を生きることになります。米の値も、株の値も、遠く離れた地で同じ時刻に伝わる。商いは一変いたします」


 藤村は扇を閉じ、鋭い眼差しで答えた。

 「商いだけではない。政治もだ。国境を越えても、言葉が一瞬で届く時代になる」


―――


 江戸城を出た藤村は、城下の新設郵便局を訪れた。


 局舎の前には行列ができていた。町人、農夫、商人、武士の姿まで混じっている。木製の窓口で、制服を着た若い配達人が次々に手紙を受け取り、仕分け棚へと投げ入れていく。


 「一里も百里も同じ値段で届くんだと?」

 列の後ろから声が上がる。

 「そうだ。どこへ出しても一銭五厘。江戸から函館でも、大坂でも同じだ」


 ざわめきと驚きが走った。これまで、遠方へ手紙を送ることは金も手間もかかり、多くの庶民にとって縁遠いものだった。それが今や、誰もが等しく手を伸ばせる距離となったのだ。


 窓口を出た若い商人が手にしたのは、新しい切手であった。鮮やかな藍色で刷られた富士山の図柄。細やかな波線の模様が、偽造を防ぐ工夫であることを藤村は知っていた。


 「これが……切手か」

 商人は光にかざし、しばし見とれた。そして懐から手紙を取り出し、裏にしっかりと封をした。


―――


 昼下がり。郵便馬車が局舎を出発した。赤く塗られた車体の側面には「郵便」と大きく記され、御者の掛け声とともに馬が走り出す。後ろには革製の大きな郵袋が積まれていた。


 通りの子どもたちが歓声を上げて追いかける。

 「おーい、俺の手紙も運んでくれよ!」

 「切手貼ったら、どこへでも届くんだって!」


 郵便馬車は土煙を上げ、街道へと消えていった。その姿は、江戸の町人たちにとって新しい時代の象徴であった。


―――


 夕刻、江戸城に戻った藤村は報告を受けた。


 「大阪からの返電です。江戸発の電報に対し、わずか五分で応答が届きました」

 「長崎からの郵便到着、予定通り二日で完了」


 報告官の声は誇らしげだった。机の上には、整然と積まれた電報用紙と郵便袋。


 藤村は深く息をつき、窓の外の夕焼けを眺めた。

 「時間と距離を制する国は、必ず強くなる。――これが、日本の新しい鼓動だ」


 蝉の声はなおも響いていた。しかしその声を掻き消すように、どこか遠くで電信のキーを叩く音が、確かに未来のリズムを刻んでいた。

翌朝の江戸城西の丸。会議室には、分厚い帳簿と収支報告が山と積まれていた。机の中央に置かれた一枚の紙には、赤字で大きく数字が書かれている。


 ――「郵便収益 歳入二十万両」


 読み上げられた声に、室内の役人たちはざわめいた。わずか数か月前まで、郵便は「出費ばかりの新事業」と陰口を叩かれていた。だが今や、教育や道路の整備に回せるほどの黒字を生み出していたのだ。


 「殿、収益の半分を教育特会に充てることで、学問の基盤を一層広げられます」

 渋沢栄一が筆を走らせながら進言する。机の上には教育費の新しい配分表が広げられ、各州ごとの学校建設計画まで記されていた。


 藤村晴人は頷き、扇を開いた。

 「よい。税だけに頼らず、事業で得た利益を人材育成に回す。それが未来を稼ぐ仕組みだ」


 役人たちは顔を見合わせ、改めてこの制度の意味を噛みしめた。


―――


 昼下がり、江戸市中。日本橋に新設された「郵便中央庁」は、白い漆喰壁に大きな時計塔を備え、町人たちが足を止めて見上げるほどの堂々たる建物であった。


 内部では、制服姿の職員が列を作り、全国から届く郵便袋を一斉に仕分けていた。棚には「大坂」「京」「長崎」「函館」と地名札が掛けられ、分刻みで袋が運ばれていく。


 「昨日まで一週間かかっていた便が、いまは二日で着く」

 職員の一人が誇らしげに語る。


 別の机では料金表が掲げられ、どこへ送っても一律の値段が示されていた。町人の一人がそれを見て目を丸くする。

 「ええっ、江戸から薩摩まで同じ値段なのか?」

 「そうさ。遠くても近くても、誰もが同じ値段で出せる」


 驚きと安堵の入り混じった声が、庁舎の廊下を満たした。


―――


 夕刻、藤村は中央庁の視察に訪れた。


 館長が深々と頭を下げ、案内に立つ。

 「殿、配達時間は平均で三割短縮されました。料金体系も一律化により混乱なく、庶民の利用が倍増しております」


 扉を開けると、広い大部屋に切手の印刷機が据え付けられ、職人たちが次々と色鮮やかな切手を刷り上げていた。富士山、鶴、桜――一枚一枚が小さな美術品のようだった。


 「切手は信用の証。偽造を防ぐために細工を凝らせ。だが庶民が楽しむ余地も残せ」

 藤村がそう命じると、印刷工は胸を張った。

 「殿の仰せの通り、偽造防止の波模様を織り込みました。だが絵柄は庶民に馴染み深いものを選んでおります」


 藤村は刷り上がったばかりの切手を一枚取り上げ、光にかざした。細い波線が繊細に浮かび、色彩は鮮やかであった。


 「これならば、誰もが安心して手紙を託せる」


 彼の言葉に、庁内の空気はさらに引き締まった。


―――


 夜、城へ戻った藤村は机に収支報告を広げた。郵便収益は教育特会に回され、余剰は道路と港湾整備に充てられる計画が記されている。


 「郵便が文を運ぶだけではない。国の未来そのものを運ぶ」


 彼は蝋燭の火を見つめ、低くそう呟いた。

晩夏の江戸城学問所。外では蝉の声が響いていたが、講義室の中は静寂に包まれていた。黒板の前に立つ慶篤は、白墨を手に取り、素早く数字を書き並べた。


 「通信が一日から一刻へ、そして一瞬へと変われば、政治も、経済も、社会も変わる」


 彼は板書した「一日」「一刻」「一瞬」の三つの文字を指し示し、学生たちに視線を向けた。


 「これまで大坂から江戸への報は五日を要した。だがいまは電信で五分だ。この差を軽んじてはならない。五日の遅れは、戦の勝敗を分け、商いの利を奪う」


 講義室にざわめきが広がる。商人の子弟は驚きに目を見開き、役人志望の若者は真剣な表情で筆を走らせた。


 慶篤はさらに続けた。

 「通信革命の第一の効果は、中央の統治力強化だ。どこで一揆が起きても、即座に知り、即座に鎮められる。第二は経済の効率化。商人は相場を瞬時に知り、損を避け、利を掴む。第三は文化の交流。遠き地にいる友と、心を交わせる。これらすべてを可能にするのが、通信網である」


 学生の中から一人が手を挙げた。

 「殿下、庶民にとっても、電信は必要なのでしょうか」


 慶篤は微笑を浮かべた。

 「必要だ。庶民が訴えを届け、知らせを受け取る。それが民主の基盤となる。情報は権力者の独占ではなく、国民の権利であるべきだ」


 その言葉は、若者たちの胸に深く刻まれた。


―――


 同じ頃、北海道にいる清水昭武からの報告が電信で届いた。そこには「欧州郵便史調査」と題された厚い文書が添えられていた。


 報告を読み上げた役人が声を張る。

 「イギリスのペニーポスト制度は、誰でも一銭で全国に送れる仕組み。庶民の通信を飛躍的に増やし、社会を豊かにした。プロイセンは郵便同盟を築き、国境を越えた統一通信網を作った。フランスでは気送管郵便が都市の血管のように走り、政務を迅速にした」


 学生たちは目を丸くし、口々に囁いた。

 「国境を越える通信……」「都市全体をつなぐ管……」


 慶篤はその反応を見届け、静かに言葉を重ねた。

 「昭武殿の調査は示している。日本の制度は欧州に比して遅れていない。むしろ統一と効率の点では、既に彼らに肩を並べている」


 黒板に「日本―欧州」と大きく書き、両者を線で結ぶ。

 「通信とは、国を結び、人を結び、未来を結ぶ道である。われらはその道を、欧州と並んで歩んでいるのだ」


 教室の空気が熱を帯びた。学生たちの眼差しには、通信網が描き出す未来が鮮やかに映し出されていた。

晩夏の夕暮れ、藤村邸の縁側には涼しい風が流れ込んでいた。庭では虫の声が響き始め、家の中は灯火に照らされて穏やかな空気に包まれていた。


 義信は机に向かい、真新しい葉書に筆を走らせていた。小さな背を少し丸め、真剣な面持ちで文字を選んでいる。


 「……拝啓、暑さの折、いかがお過ごしでしょうか」


 声に出しながら、彼は一文字一文字を丁寧に綴った。宛先は学問所で共に学ぶ友である。初めての葉書に、どんな言葉を添えれば相手が喜ぶかを考え、言葉を選び抜いていた。


 篤姫は隣に座り、微笑を浮かべながらその様子を見守った。

 「義信はもう立派に筆を使えるのですね。友との心も、こうして文字で結ばれるのですよ」


 義信は恥ずかしそうにうなずき、再び筆をとった。


―――


 久信は畳の上に腹這いになり、机いっぱいに切手を並べていた。各地の名所が描かれた色とりどりの切手は、まるで小さな地図のようであった。


 「これは長崎……こっちは札幌……」


 指でなぞりながら、彼は得意げに説明した。切手に描かれた建物や風景を眺めては、まだ見ぬ土地への想像を広げる。


 「兄上、いつか僕も、ここに行ってみたい」


 義信が顔を上げ、優しく答えた。

 「必ず行けるさ。鉄道も船もある。切手はただの絵じゃない。未来への道しるべなんだ」


 二人の言葉に、篤姫の胸は静かに温かくなった。


―――


 義親は母の膝に抱かれ、ゆったりと揺れる郵便袋のそばで眠っていた。袋からは、地方へ届けられる封書が顔を覗かせていた。まだ文字も知らぬ幼子が、すでに通信の網に包まれて育っている――その光景は、未来の日常を先取りするかのようであった。


 お吉がそっと囁いた。

 「殿が築かれた郵便と電信は、もうこの家の暮らしにも息づいておりますね」


 篤姫は義親の寝顔を見下ろし、静かに頷いた。

 「ええ。この子らが大きくなる頃には、遠い国とも手紙を交わせるでしょう」


 郵便の封書を束ねる紙の音、遠くで響く電信室の打鍵の響き――それらが一つに溶け合い、家族の夜を温かく包んでいた。

晩夏の夜、江戸城西の丸。電信室の灯火はまだ消えず、壁際に掛けられた大きな地図には、赤い線が幾筋も走っていた。本土から北海道へ、さらに台湾へと伸びる通信網――そこに新たな線が書き加えられようとしていた。


 「朝鮮へ郵便使節を送る」


 静かな声で藤村が言った。広間に集った役人たちは、一瞬ざわめきを飲み込んだ。


 「本土、台湾、北海道……すでに通信網は一つの体系を成している。しかし、真に統合を果たすなら、朝鮮を外すわけにはいかぬ。手紙が一日で届く、その便利さを人々に知ってもらわねばならん」


 扇で机を叩くと、隅に控えていた藤田小四郎が前に出た。


 「殿、通信は便利な道具であると同時に、民意を動かす武器でもあります。速やかな情報伝達は、人々に“参加している”という感覚を与えましょう。これが新しい政治の礎となるのです」


 小四郎の言葉に、藤村は深く頷いた。


 「そうだ。民の声が遅れて届けば、不満は膨らみ、制度は揺らぐ。だが、声がすぐに届き、返事が返れば、人は統治を信じる」


 その言葉に一同は息を飲み、やがて力強く頷いた。


―――


 翌日、報告を受けた勝海舟は、扇を畳んで笑った。

 「なるほどな。電信は剣より速い。だが使い方を誤れば、剣より鋭く国を裂くぞ。……お前さんの肩にかかる荷は、ますます重くなるな」


 藤村は微笑を返し、地図を見上げた。赤い線は本土から朝鮮半島へ伸び、そこからさらに大陸へと続く未来を指し示していた。


 「この線は国境を越え、文化を越え、人を結ぶ。郵便と電信は利便ではなく、未来を耕す鍬だ」


 晩夏の夜風が窓を揺らし、遠くで電信の打鍵が規則正しく響いていた。その音は、すでに日本の政治を変えつつある未来の鼓動のように聞こえた。

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