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206話:(1873年7月/盛夏)洋学の夏

盛夏の江戸、真昼の陽射しは容赦なく石畳を照り返し、空気を揺らすように街を覆っていた。蝉の声が響き渡る中、江戸城の一角では異様な熱気が広がっていた。槌音、鋸の音、そして木材と鉄の匂いが混じり合い、そこにはただの工事現場以上の緊張感があった。新しい洋学館の増設工事である。


 高く組まれた足場の上では、大工が汗にまみれながら梁を組み、下では職人たちが巨大な石材を滑車で引き上げていた。作業員の間には「これは学問の殿堂を作る仕事だ」という誇りが漂っていた。普段ならば城下の寺社修理や橋梁工事に携わる者たちが、いまは「化学実験室」や「機械工学棟」といった聞き慣れぬ言葉の建物を築いている。その一つひとつが、新しい時代を形にする礎であった。


 藤村晴人は建設現場に立ち、熱気の中で組み上がる骨組みを見上げていた。関税収入から教育分野への巨額投資を決断してから、すでに数か月。だがその成果がこうして目に見える形で現れるのは、彼にとっても胸が熱くなる瞬間だった。


 「殿、資材の搬入は予定通り進んでおります。来月には化学実験室が、秋までには物理研究棟が完成する見込みです」


 監督役の書役が報告すると、藤村は扇で汗を払いながら静かに頷いた。


 「よい。この暑さの中、よくやってくれている。――だが忘れるな。これはただの建物ではない。ここで扱われるのは火と薬、蒸気と電だ。人を救う力にもなれば、滅ぼす力にもなる。その覚悟をもって造り上げねばならぬ」


 周囲の職人たちが言葉もなく深く頭を下げた。彼らも理解していた。いま自分たちが刻んでいる一打ち一打ちが、未来の日本を変える音なのだと。


 工事現場の隅では、すでに完成した江戸城洋学塔が青空にそびえ立っていた。白壁に大きな窓、頂上には鐘楼を兼ねた塔屋。そこからは江戸の街並みが一望でき、まさに「学問の灯台」と呼ぶにふさわしい姿をしていた。城下の町人たちも、遠くからこの塔を仰ぎ見ては「学問の時代が来る」と囁き合った。


 風に乗って桜の季節とは異なる甘い草の匂いが漂い、蝉の声と槌音とが重なって響く。江戸の空の下で、洋学という新しい大樹の幹が、確かに根を張り始めていた。

夏の日差しを遮るように、洋学館の仮講堂には分厚いカーテンが下ろされていた。室内には蝋燭とガラス窓からの光が交じり合い、黒板の文字を照らしていた。慶篤が講壇に立ち、白衣をまとった姿で実験器具の前に立つ。その背後には、硝子製のフラスコ、蒸留器、試薬瓶が整然と並んでいた。


 「よいか、これから扱うのは“化学”だ。本草学では草木の効能を経験則で伝えてきた。しかし化学は違う。ここにある液体と粉末は、混ぜれば煙を上げ、時には爆ぜる。だが、それは法則に従っている。――法則を理解すれば、恐れる必要はない」


 慶篤は青い液体の入った試薬瓶をフラスコに注ぎ、次に透明な液を加えた。するとたちまち白い煙が立ち昇り、学生たちの間からどよめきが起きた。


 「見よ。これは偶然ではない。必然だ。この反応を記録し、条件を明らかにする。それが科学であり、化学なのだ」


 机に並んだ学生たちは必死に筆を走らせた。汗ばむ額を袖で拭いながら、彼らはこの新しい学問の重みを感じ取っていた。


 その様子を見守る藤村は、講堂の隅に立ち、静かに頷いていた。かつては祈祷や験薬に頼るしかなかった医療や農業が、いまや科学の言葉で語られ始めている。この場で学ぶ若者たちが、十年後には日本の隅々で化学を使いこなす――その未来が鮮明に見えていた。


 休憩時間、学生たちは机の上のフラスコや天秤に群がった。ある者は「ガラス越しに見る液体の色合いが不思議だ」と呟き、またある者は「これで薬を調合できれば、多くの命を救えるのでは」と目を輝かせた。


 慶篤はそんな学生たちに向かって言った。

 「科学は万能ではない。だが、人を欺かぬ。観察し、記録し、考えれば必ず答えに近づく。これは剣術や農耕と同じだ。繰り返しの中で体に刻まれる」


 その言葉に、学生たちは一層真剣な表情を見せた。黒板には「科学的思考」という四文字が大きく記され、炎天下の江戸に新しい思考の種が蒔かれていった。

同じ頃、北海道・札幌。冷涼な風が石造庁舎の壁を撫で、遠く炭鉱の黒煙が白い雲と混じり合っていた。清水昭武は、机いっぱいに広げた欧州の書簡と統計資料を前に、黙々と筆を走らせていた。


 「ドイツ、フランス、イギリス……教育制度は三国三様だが、共通しているのは“専門教育”に重きを置いている点だな」


 彼の傍らには、留学生から送られてきた大学案内や講義要綱が積まれていた。ベルリン大学の研究主導型教育、パリのエコール・ポリテクニークの技術中心教育、オックスフォードの古典学と実学の融合。昭武はそれぞれを比較しながら、羽鳥や江戸で始まった日本の洋学館との共通点と違いを浮き彫りにしていった。


 「羽鳥の洋学館は、実験を重視する点でフランス型に近い。しかし組織運営ではドイツ式を導入すべきだ。研究者が自ら教育を担う仕組みこそ、学問を強くする」


 ペン先が紙の上を走り、札幌の執務室に小気味よい音が響いた。書き上げられた報告は、電信文の摘要とともに江戸へ送られる手筈になっていた。


 やがて昭武は窓を開け、石狩平野に広がる青緑の大地を見下ろした。そこには屯田兵が訓練を終えて戻る姿、炭鉱から荷を積んだ馬車が進む姿があった。


 「北の地も、学と産業で育てねばならぬ。教育は江戸や羽鳥だけのものではない」


 小声でそう呟くと、彼は再び机に戻り、報告書の末尾に一文を加えた。


 ――「日本の高等教育は、欧州と肩を並べる道を歩みつつある。だがその道は中央だけでなく、地方に広げてこそ真の力となる」


 蝋燭の炎が揺れる中、書き上げられた厚い報告書は封蝋で閉じられ、やがて北の大地から江戸へと送り出された。

夏の午後、羽鳥城の一室。窓を開け放つと熱気と蝉の声が流れ込み、机の上の薬瓶や顕微鏡が光を反射した。


 義信は白衣姿の学士に付き添われ、試薬を慎重に滴下していた。フラスコの中で液が反応し、淡い青色がゆっくりと赤紫に変わる。少年は目を見開き、ノートに素早く記録を書き込んだ。


 「塩基を加えると色が変わる……これは理屈ではなく、目で見て学ぶんだ」


 彼の声は幼さを残しながらも確信に満ちていた。周囲の学生が息を呑み、少年の観察眼の鋭さに舌を巻いた。


 少し離れた机では、久信が顕微鏡を覗き込んでいた。初めて触れる精密な機器に、興味津々で焦点を合わせようとする。レンズの奥に浮かんだ繊維の構造を見つけると、顔を輝かせて振り返った。


 「兄上、布の糸の中にも道があるみたいだ!」


 義信は軽く笑い、「それもまた学問の芽だよ」と答えた。久信の探究心は、数値や理屈ではなく感覚から育っていく。だがその直感は人を引きつけ、教室に温かさを生み出していた。


 義親は母・篤姫の膝に抱かれ、まだ言葉もわからぬながら、机の上の光景をじっと眺めていた。フラスコの中で揺れる液体の色が変わるたび、小さな手が宙を掴むように動く。


 篤姫はその仕草に微笑み、そっと耳元で囁いた。

 「あなたが大きくなる頃には、もっと不思議な世界が広がっているでしょうね」


 子どもたち三人の姿は、それぞれの年齢なりの方法で学問に触れ、未来を形作ろうとしていた。


 窓の外では風鈴が鳴り、盛夏の陽が庭の木立を揺らしていた。科学という新しい風は、すでに家庭の中にまで流れ込み、次の世代を育てていた。

夕刻、江戸城の洋学館。日中の実験で熱を帯びた室内に、ようやく涼風が差し込み始めていた。机の上には分厚い予算書と留学計画書が積まれ、藤村晴人と藤田小四郎が向かい合っていた。


 「殿、学問は理屈を覚えるだけでは役に立ちませぬ。机上の論ではなく、産業と政治に直結する“実学”でなければなりません」


 小四郎の声音には熱がこもっていた。かつては血気盛んな若者として知られた彼も、今は冷静に数字と制度を語る実務家へと成長していた。


 藤村は頷き、書面を指でなぞった。そこには「欧州留学生団派遣計画」と題された表が並んでいた。派遣人数、専門分野、費用見積。細部まで練られた計画に、小四郎の几帳面さが滲んでいた。


 「語学を学ぶだけの時代は終わった。これからは工学、医学、法学、経済学、それぞれの専門に通じた者を育てねば、日本は欧州に追いつけぬ」


 小四郎の指摘に、藤村は扇を閉じて深く息を吐いた。

 「確かに。人材こそが未来を耕す種だ。鉄路も工場も、動かすのは人の知恵だ」


 壁際では、慶篤が講義の準備をしていた。黒板に大きく「未来会計」と書き、数字と矢印で示す。

 「投資はただ金を費やすものではありません。人材を育てれば、十年後、百倍になって戻る。これこそ最も確実な利益です」


 さらに、北方から送られた清水昭武の書簡も机に置かれていた。そこには「欧州大学制度との比較において、日本の教育は実用性において優れている」との言葉が並んでいた。北海道の地で領国を治めながらも、彼は冷静に国際的な水準を測り続けていた。


 藤村はそれらの意見を合わせてまとめ、短く言葉を落とした。

 「日本の未来を築くのは、剣でも金でもない。学と実の調和だ」


 窓の外からは蝉の声が響き、夏の終わりを思わせる夕焼けが空を染めていた。洋学館に集う者たちの胸には、確かな未来への道筋が描かれつつあった。

その夜。江戸城洋学塔の最上階から見下ろすと、城下の街に明かりが連なり、遠く羽鳥の山並みまでかすかに光が揺れていた。蝋燭の炎を背に、藤村晴人は窓辺に立ち、机の上に積まれた書類に目をやった。


 「化学、工学、医学、法学……それぞれに送り出すべき人材の名が、ここに記されている」


 その紙束には、若き学生たちの名と、派遣先の欧州大学の名が丁寧に書き込まれていた。フンボルト大学、エコール・ポリテクニーク、ロンドンの王立学院。すべてが未知の地であり、だが未来を開く扉でもあった。


 背後で、慶篤が黒板に「学と実」と大きく書きつけた。

 「これが私たちの答えです。理論を学び、実務で試し、再び理論へと還す。これを繰り返せば、日本の学問は必ず世界の先頭に立てる」


 藤田小四郎は頷き、鋭い声で続けた。

 「殿、この仕組みを続ければ、十年後には工場も鉄路も軍制もすべて国産の知識で動かせましょう。借り物の文明ではなく、自分たちの手で築く文明です」


 藤村はしばし黙し、やがて扇を閉じて静かに言った。

 「文明とは、借りるものではない。育て、継ぐものだ」


 窓の外では夏の夜空に稲妻が走り、一瞬、城下を白く照らした。その光の下で、洋学館の屋根や造幣塔の鐘楼、遠くの鉄路までもがくっきりと浮かび上がる。


 ――学問は雷のように空を裂き、未来を照らす。


 藤村はそう心に刻み、眼前の闇をまっすぐに見据えた。

 蝉の声が止み、夜風が吹き抜ける中、日本は確かに「洋学の夏」を生きていた。

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