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205話 :(1873年6月/初夏) 北海道・炭と氷

初夏の札幌は、まだ涼しい風が街を渡っていた。雪解け水を集めた豊平川は勢いよく流れ、川沿いには新しく築かれた氷庫が白く光っている。その巨大な氷庫には、冬の間に切り出して保存した氷が幾重にも積み上げられていた。職人たちは分厚い氷塊を縄で括り、藁で丁寧に包みながら荷車へと積み込んでいく。


 「慎重に扱え! この氷は南の港まで運ばれるんだ!」


 監督役の声に、若い労働者たちは息を合わせた。馬車がきしみを上げながら進み、氷塊は小樽の港へと運ばれていく。そこにはすでに石炭を積んだ船が並び、黒い山と白い山――炭と氷が肩を並べて積み込まれる光景が広がっていた。


 氷を詰め終えた船員が汗を拭いながらつぶやいた。

 「まさか、この北の大地から氷が海を越えて運ばれる時代が来るとはな……」


 彼らの目には、南方へと向かう船隊の姿が未来の象徴として映っていた。



 札幌庁舎の執務室。煉瓦造りの厚い壁の中で、清水昭武は整然と並べられた報告書に目を通していた。


 「氷輸出の初年度収益、二万五千両。炭鉱益と合わせれば年五十万両を超える見込みです」


 榎本武揚が差し出した数字に、部屋の空気が一瞬熱を帯びた。


 「北の資源が、国を潤す時が来たか」


 昭武は深く頷き、机上の地図に視線を移した。そこには北海道全域に広がる炭鉱と氷庫、そして港湾施設が朱で記されていた。彼は養父・松平容保との養子縁組を解消し、清水徳川家を相続したばかり。新たに任されたのは、この広大な北方一帯を治める使命である。


 「榎本君、引き継ぎは順調か?」


 榎本は微笑みを浮かべて答えた。

 「はい、軍事から民政への移行も進んでいます。これからは炭と氷を軸に、北海道を商業と産業の拠点に育て上げねばなりません」


 二人は視線を交わし、無言のうちに覚悟を共有した。



 小樽港では、出航を控えた船の周囲に見物人が集まっていた。黒く煤けた石炭俵と、藁に包まれた氷塊。その対比は、まるで北の恵みそのものを象徴しているかのようであった。


 「炭は火を、氷は涼を運ぶ。どちらも人々の暮らしを支える宝だ」


 そう語ったのは、港を視察していた役人の一人だった。彼の言葉に、近くの商人たちが頷いた。

 「外貨での支払いも期待できる。これで北方の地も、ただの僻地ではなくなる」


 港を見下ろす丘に立つ昭武は、海風に髪をなびかせながら、遠ざかる帆船を見送った。

 「アラスカから樺太、そして北海道。この広大な北方の連なりを、必ず日本の力に変えてみせる」



 一方、江戸城。西の丸の電信室にて。


 「北海道炭鉱益五十万両突破、氷輸出二万五千両見込み」


 電信士が読み上げる声に、藤村晴人は扇を閉じて深く息を吐いた。


 「遠い北の地から、これほどの数字がもたらされるとは……」


 彼は報告書に記された数字を指でなぞりながら、静かに思った。

 ――制度を整え、人材を配置し、資源を生かす。これが遠隔統治の成果だ。


 蝋燭の炎が揺れ、壁に映る影が大きく揺らめいた。藤村の胸には、北方の炎と氷が、確かに日本の未来を照らしているという確信が宿っていた。

江戸城勘定所の広間。蒸し暑い初夏の空気の中、北と南から届いた収支報告が机の上に整然と並べられていた。


 「北海道炭鉱益、年五十万両見込み。氷輸出、二万五千両」


 書役が声を張り上げて読み上げると、広間にどよめきが走った。かつては「北方開発など浪費に過ぎぬ」と冷笑していた者たちも、今は数字に裏打ちされた成果に黙り込むしかなかった。


 藤村晴人は前に進み出て、扇で机を軽く叩いた。

 「見よ。北からは炭と氷が、南からは砂糖と茶が、それぞれ富をもたらしている。南北は遠く隔たっているように見えるが、どちらも日本を支える両輪だ」


 代官の一人が感嘆交じりに声を上げた。

 「炭は工業を、氷は生活を、砂糖は交易を、茶は文化を潤す……。殿の言葉通り、すべてが一つの循環をなしておるのですな」


 藤村は頷き、続けた。

 「だからこそ、財政も南北で一元化する。北海道で得た益を関東の鉄路に投じ、台湾で得た益を北方の移住支援に回す。資源の流れを国土全体に循環させれば、日本は単なる島国ではなく、広大な経済圏となる」



 その夜、西の丸の小広間。勝海舟、渋沢栄一、榎本武揚、清水昭武らが集まっていた。机上には北と南の地図が並べられ、赤い線で航路と鉄路が記されていた。


 勝が扇を鳴らし、にやりと笑った。

 「おい藤村よ。北の煙突から立つ黒い煙と、南の港に積まれた白い砂糖俵。どうだい、日本も随分と“派手”になったもんだ」


 藤村は静かに微笑んだ。

 「派手ではなく、必然です。北と南、両方の資源を活かしてこそ、国は長く続く」


 榎本が地図上の北海道に指を置いた。

 「炭と氷は軍港にも不可欠です。冬の航海に氷を積めば食糧が保ち、炭は艦を動かす。北方の開発は、単に経済だけでなく軍事にも直結するのです」


 渋沢は羽鳥を指し示しながら言葉を継いだ。

 「その利益を鉄道に投じれば、物流網はさらに広がる。循環は一層加速します」


 静かな議論の輪の中で、清水昭武は北方担当として重い声を発した。

 「北の資源は冷たく厳しい。しかしその冷たさこそ、国を鍛える炉でもある」


 室内に一瞬沈黙が落ち、その後、全員の視線が自然と藤村に集まった。


 藤村は深く息を吸い込み、断言した。

 「炭と氷、砂糖と茶。北と南の恵みを一つに束ねる。それが我らの役目だ。数字はその証であり、人心はその力となる」

江戸・学問所。四月の柔らかな光が障子を透かし、春風が庭の白梅を散らしていた。広間に集ったのは、若い官僚志望の書役、各地から派遣された州の代官、そして数名の外国人顧問まで。机には分厚い帳簿と測量地図が積まれている。壇上に立つ慶篤は、凛とした声で講義を始めた。


 「諸君。資源は掘り出すだけでは国を養えぬ。炭は燃え尽き、氷は溶け去る。大切なのは“いかに掘り、いかに蓄え、いかに売るか”だ。自然の恵みを数字に変え、循環させてこそ、初めて国を潤す」


 黒板に白墨で描かれたのは三つの円――「資源」「管理」「循環」。その矢印は一方向ではなく、ぐるりと輪を描いて互いをつないでいた。


 「例えば、炭鉱で五万俵を産出したとする。ただ売り払えば一度きりの利益だ。しかし氷庫を整え、港に運び、外貨に換えれば、利益は季節を越えて残る。資源をただ掘るのではなく、資産として生かすのだ」


 聴衆の間にざわめきが走った。これまで「自然は取るもの」と考えてきた彼らにとって、資源を「管理し循環させるもの」という発想は新鮮だった。


 慶篤はさらに続けた。


 「ドイツは炭をもって鉄を鍛え、イギリスは石炭と蒸気で海を制した。我らもまた、北の大地に眠る黒き石と透明な氷を、未来の糧とせねばならぬ」


 その言葉に若い書役が挙手した。

 「殿、しかし氷は夏には溶けてしまいます。どうすれば資源として計算できましょうか」


 慶篤は微笑み、黒板に「氷=米」と記した。

 「氷は米と同じだ。収穫して備蓄し、必要な時に市場へ放つ。保存の技術を高め、輸送の道を整えれば、溶けることは恐れにあらず。むしろ“季節を超える財”として計算できるのだ」


 聴衆の中から「なるほど」と声が上がった。資源を単なる物ではなく、数字として循環させる理論に、誰もが心を動かされていた。


―――


 同じ頃、札幌庁舎。石造りの窓越しに白い残雪が輝き、冷たい風が庁舎の暖房煙突からの蒸気を揺らしていた。清水昭武は机に広げた帳簿を指で押さえ、電信士に読み上げていた。


 「炭鉱産出、今月五万二千俵。前年同月比一五%増。氷輸出、一千俵を突破。横浜・長崎・上海に到着済み」


 電信士がキーを叩き、数字が音を立てて江戸へと送られていく。


 昭武は窓の外を見やった。炭鉱帰りの労働者たちが列を作り、煤にまみれた顔で笑いながら仲間と肩を組んでいる。氷庫の前では馬車に氷塊を積み込む若者たちの掛け声が響き、港では帆を張った船が出港を待っていた。


 「ドイツでは炭を基盤に鉄道を敷き、イギリスは氷を“夏の贅沢”として世界に売った。日本もまた、北の大地から富を掘り出すだけではなく、世界市場に打って出るべきだ」


 昭武の声は冷静であったが、その瞳には確信の炎が宿っていた。


 「アラスカから樺太、札幌まで。北方全域を一つの資源圏として動かす。その舵取りを担うのが、我ら清水徳川の責だ」


 机の上には、新たに設けられた北海道・樺太の歳入歳出表が置かれていた。年収見込みは五十万両を超え、既に一つの藩を凌ぐ規模に達していた。


―――


 江戸に戻れば、慶篤の講義の中で昭武の報告が即座に紹介された。黒板の余白に書き込まれる最新の数字。


 「諸君、これが現場の報だ。資源はただの石でも氷でもない。数字に変わり、制度に組み込まれて初めて“力”となる。江戸に座していても、北の大地の息吹を感じよ」


 学生たちは一斉に筆を走らせた。遠い北海道と江戸の講義室が、数字という見えない糸でつながった瞬間だった。


 「資源は未来を支える根。管理と循環が枝葉を伸ばし、国家という大樹を育てる。炭と氷は、その根を養う最初の養分だ」


 慶篤の言葉に、講堂は静まり返った。春の陽光が障子を透かし、その静寂に桜の花びらがひらりと舞い込んだ。


―――


 その日、江戸城西の丸に届いた札幌からの最新報告には、こう記されていた。


 「炭鉱益五十万両突破。氷輸出定着。統治環境安定」


 藤村はその報告に目を通し、扇で静かに机を叩いた。

 「数字が示すものは、希望でもあり責任でもある。北の大地の声を聞き逃すことなく、我らの歩みを未来へとつなげねばならぬ」


 窓の外、桜は満開を迎え、春の風が花吹雪を城内に舞い込ませていた。

初夏の江戸。日差しは強くとも、まだ風は涼しく、庭の楓がさわさわと揺れていた。藤村邸の座敷には、札幌から届いた大きな木箱が二つ並べられていた。ひとつには炭が、もうひとつには氷が詰められている。清水昭武からの直送便であった。


 「殿、北方より到着いたしました」


 奉公人が恭しく報告し、縄を解いて蓋を開ける。ひんやりとした空気が広がり、夏を前にした江戸の屋敷に、一瞬だけ北海道の冷気が流れ込んだ。


 義信が目を輝かせて駆け寄った。

 「これが……札幌の氷か!」


 箱の中には、透き通った氷塊がぎっしりと詰まっていた。削られた面は光を反射し、まるで宝石のように輝いている。義信は手を伸ばしかけて、母の篤姫に制される。


 「冷たいのよ、手袋をおし」


 用意された革手袋をはめ、義信は氷をそっと持ち上げた。掌に伝わる鋭い冷たさに、彼は小さく声を上げた。

 「こんなに重くて、こんなに冷たい……でも、溶けてしまうのか」


 藤村が頷いた。

 「そうだ。だからこそ氷庫を造り、保存の術を磨くのだ。溶けやすいものほど、工夫すれば大きな財となる」


 義信はその言葉を噛みしめるように頷き、氷を日差しに透かして眺めた。屈折した光が畳に模様を落とし、少年の瞳には未来の科学の片鱗が映っていた。


―――


 一方、久信はもうひとつの箱――炭の山に夢中になっていた。黒々とした塊を両手で持ち上げ、煤で指先を汚しながらも嬉しそうに笑う。


 「兄上! 見て、この炭、すごく硬い!」


 畳に軽く打ち付けると、乾いた音が響いた。藤村は微笑んで言った。

 「それが北の黒い石――石炭だ。燃やせば大きな熱を発し、鉄を溶かし、汽車を走らせ、船を進める」


 久信は目を丸くして兄を振り返った。

 「汽車も船も、この石で動くのか?」


 義信が氷を掲げながら答える。

 「そうだ、久信。氷は冷やし、炭は燃やす。どちらも人の知恵で財になる。父上が言ってた“数字は命を映す”って、こういうことなんだ」


 久信はしばらく炭を見つめ、やがて真剣な表情で言った。

 「じゃあ僕は、この炭でみんなを温める役になる。兄上が数字で国を守るなら、僕は火で人を守るんだ」


 篤姫とお吉は顔を見合わせ、思わず頬を緩めた。子どもの素朴な言葉は、時に大人の議論よりも核心を突いていた。


―――


 義親は乳母の腕の中で、氷の冷気に小さな鼻をひくつかせた。母の篤姫が近くで氷をかざすと、幼子は目を丸くし、小さな手を伸ばした。氷片が指先に触れると、ひやりとした刺激に驚いたのか、声を上げて笑った。


 「まあ……この子は、氷を怖がらないのね」


 篤姫は嬉しそうに呟き、乳母と顔を見合わせた。藤村はその様子を見て、胸の奥が温かくなった。北の氷が遠い江戸の赤子を笑わせる――それこそが、資源が人をつなぎ、国をひとつにする証であった。


―――


 夕刻。庭では奉公人たちが氷を砕き、井戸水に浮かべて冷やした甘酒を用意していた。子どもたちが口にすると、ひんやりとした甘さに顔をほころばせた。


 「これが北の恵み……」と義信が呟き、

 「夏になったら、もっと飲みたい!」と久信が声を弾ませた。


 藤村は二人の頭を撫で、静かに言った。

 「北の炭と氷が、こうして江戸の子どもを笑顔にする。数字の報告より、この光景こそが我らの国を動かす証だ」


 庭先には、氷の透明なかけらと炭の黒い塊が並べて置かれていた。冷たさと熱、白と黒――相反する二つが一つの庭に並び、未来の日本の可能性を象徴していた。


―――


 その夜、藤村は帳簿を開き、札幌から届いた収益報告を見直した。氷輸出、炭鉱益――数字は確かに国を潤している。だが彼の脳裏に浮かぶのは、氷を抱きしめて笑う義信と、炭を掲げて誓う久信、そして氷の冷たさに笑った幼子の姿であった。


 「資源とは、子らの未来を支える柱だ」


 藤村は静かにそう記し、筆を置いた。

札幌庁の執務室。窓の外には初夏の陽光に照らされた石造の庁舎が白く輝き、その背後にはまだ雪を抱く山並みが聳えていた。机の上には、榎本武揚が残した分厚い報告書が積まれている。その一冊を手にした清水昭武は、静かに目を通し、唇を結んだ。


 「炭鉱収益、年五十万両を突破……」


 声に出した途端、部屋の空気が引き締まった。報告には、石狩炭鉱、夕張炭鉱の産出量が詳細に記され、運搬用の索道や港湾整備の進捗まで添えられていた。炭はただの燃料ではなく、鉄道の動脈であり、造船の血肉であり、都市を温める灯火でもある。その数字は、北方の未来そのものを映していた。


 「氷輸出、五万両前後。漁業・毛皮取引で十万両……。すべて合わせて六十五万両規模か」


 昭武は深く息を吐いた。かつてヨーロッパで学んだ統計の知識が、今この北の大地の現実と結びついている。数字は冷たいが、そこに働く人々の汗と命が宿っていることを、彼は知っていた。


―――


 午後、庁舎の会議室。石壁に囲まれた広い空間に、開拓使の役人や現地の商人、炭鉱労働者の代表までが集められていた。机の中央には、札幌から小樽へと延びる輸送路を描いた大きな地図が広げられている。


 「まず炭だ。北海道の基幹収益はこれに尽きる」


 昭武は指先で地図の黒い印をなぞった。そこには主要炭鉱の位置と、そこから伸びる運搬路が描かれていた。


 「榎本殿の努力により、年産五十万両を超える規模となった。この数字は帝国の背骨を支えるに足る。鉄道も造船も、すべて炭が動かす」


 重苦しい沈黙の後、商人の一人が頷いた。

 「確かに、江戸や横浜へ送られる石炭の質は評判です。火力が強く、煙も少ない。外国商人からも引き合いがあるほどで」


 「それだけではない」


 昭武は紙をめくり、別の表を示した。

 「札幌氷庫の稼働により、氷の輸出益が五万両に達した。夏季の東南アジア市場に出荷すれば、まだ伸びる余地がある。そしてアラスカからの漁業・毛皮取引が十万両前後。合計すれば、北方全体で六十五万両規模の収益だ」


 ざわめきが会議室を走った。代官の一人が信じられないように声を上げた。

 「六十五万両……一藩の石高に換算すれば五十万石以上に相当しますぞ」


 昭武は静かに頷いた。

 「そうだ。もはや北方は、辺境ではない。帝国の屋台骨を担う一大領国だ」


―――


 夕刻、炭鉱の現場を視察に訪れた。坑口からは熱気と煤が吹き出し、汗にまみれた労働者たちが鉱車を押し出していた。赤黒い顔のまま、彼らは新しい統治者を見て帽子を脱いだ。


 「殿、今年は雪解けも早く、産出量は例年を超えるでしょう」


 鉱夫頭の声は力強かった。昭武は坑口の奥を見つめ、深く頷いた。


 「諸君の汗が、この国を動かしている。炭は冷たい石ではない。君たちの命そのものだ」


 その言葉に、労働者の目が光り、胸に刻むように頷いた。


―――


 夜、札幌庁の執務室に戻った昭武は、報告書の余白に短く書きつけた。


 ――北方方面収益、年六十五万両。

 ――炭五十万、氷五万、漁業・毛皮十万。

 ――石高換算、五十〜五十五万石。


 蝋燭の炎が文字を照らした。彼の胸に浮かんだのは、ただ数字の達成感ではない。その先にある未来、すなわち炭で動く鉄道、氷で冷やす都市、漁業で潤う港、そしてそれらを結ぶ北方経済圏の完成であった。


 「北は決して、帝国の辺境ではない。ここからこそ、未来の礎が築かれる」


 窓の外では、夏至を過ぎても白み残る空に星が瞬いていた。その光は、炭鉱の炎と氷庫の白さを照らし合わせるように、北海道の未来を暗示していた。

江戸城西の丸、勘定所の一室。分厚い書状の封が切られ、硯の墨の香りが漂う中で報告の声が響いた。


 「北方方面収益、年六十五万両に達し、内訳は炭五十万、氷五万、漁業・毛皮十万――」


 読み上げたのは、札幌庁から届いた最新の電信を写した書役だった。紙には数字だけでなく、現場の様子を伝える短い一文も添えられていた。


 ――坑口は活気に満ち、氷庫は満杯、漁港には人と笑い声が絶えず。


 藤村晴人はその一文に目を止め、静かに息を吐いた。冷たい数字に、確かに人の息遣いが混じっている。それが遠く北方から届いた温かな証であった。


 「六十五万両……」


 彼は扇を軽く閉じ、机に置いた。かつて借金一千二百万両に沈んでいた幕府の財政を思えば、この数字がどれほどの重みを持つか、誰よりも理解していた。


 「炭五十万が屋台骨か」


 声に出すと、隣に控えていた渋沢栄一が頷いた。

 「はい。石狩、夕張の両炭鉱は安定稼働しており、鉄道網の整備も進んでおります。今後は輸送効率の改善次第で、さらに増産が見込めましょう」


 藤村は瞼を閉じ、脳裏に未来の景色を描いた。

 ――羽鳥で鍛えた鉄が、札幌の炭で火を噴き、横須賀の造船所で船を生む。

 ――江戸の街を灯す炎が、北方の坑道から流れ出す。

 数字はもはや、ただの帳簿ではなかった。国を結ぶ血の流れそのものなのだ。


―――


 その夜、藤村邸。灯火の下に家族が集まっていた。囲炉裏の炎は赤々と燃え、障子越しに初夏の夜風が吹き込む。


 「父上、これが北の氷ですか」


 義信が机の上に置かれた透明な塊を指差した。先日、北方から江戸に届けられた試作品の氷である。蝋燭の炎を透かして光るそれは、子どもたちにとって小さな宝石のように見えた。


 「そうだ。夏でも溶けぬように氷庫で保管し、船で南へ運ぶのだ」


 藤村が答えると、義信は算盤を手に取り、即座に計算を始めた。

 「氷一俵で何両、千俵で……南方に売れば……」


 その真剣な顔つきに、母・篤姫が笑みをこぼした。

 「算盤ばかりではなく、少しは氷そのものを楽しんではいかが」


 その横で、久信は氷を掌にのせ、冷たさに顔をしかめた。

 「冷たい! でも、これが南の国に届いたら、きっと喜ばれるんだね」


 義親は乳母の腕の中で眠っていたが、時折顔をしかめ、小さな手を動かした。氷の冷気が伝わったのか、まるで夢の中で北の風に触れているかのようであった。


―――


 翌日、江戸城での会議。壁に掛けられた大地図には、日本列島から樺太、アラスカに至るまでの広大な領域が描かれていた。北方から南方へ、赤い線で結ばれた交易路が網目のように広がっている。


 「炭五十万、氷五万、漁業・毛皮十万――合計六十五万両。これを基盤に、さらに投資を回せば、北方は帝国の財政を半ば支える存在となる」


 藤村の声は重々しかった。

 「資源は人を育て、人はまた資源を活かす。現地の生活を支え、文化を根付かせてこそ、真の領土だ」


 代官の一人が問うた。

 「殿、収益の一部をどのように配分されますか」


 藤村は迷わず答えた。

 「三分の一を鉄道整備に、三分の一を教育と医療に、残りを次の開発基金とする。数字は未来への種だ。使わねば実を結ばぬ」


 その言葉に場が静まり返り、やがて一斉に頷きが広がった。


―――


 夜更け。書斎で一人、藤村は北から届いた報告書をもう一度開いた。煤にまみれた労働者、氷を切り出す農夫、毛皮を担ぐ漁師――行間から彼らの姿が浮かび上がる。


 「六十五万両……その数字の裏にあるのは、名もなき民の汗だ」


 独り言は炎に揺れる蝋燭に吸い込まれた。


 ――この資源を浪費せず、未来へ繋げること。

 ――広大な北方を、ただの富の倉庫にせず、人が住み、人が学び、人が誇れる地にすること。


 その責務を噛み締めながら、藤村は筆を執り、報告書の余白に一文を記した。


 ――資源は国を強くする。だが人を育てねば、資源は枯れる。


 外は静かな夜であった。だが遠く、北の地で燃える炭鉱の炎と氷庫の白光が、確かに江戸にまで届いている気がした。

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