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204話:(1873年5月/初夏)海峡の灯、台湾統治庁

初夏の陽が高く昇り、台湾の港町は熱気に包まれていた。青く澄んだ海の向こうから続々と船が戻り、あるいは新たな積荷を満載して大陸へ、そして日本本土へと出て行く。港には砂糖の俵と茶箱が山のように積まれ、荷役人夫たちの威勢のよい掛け声が木霊していた。香ばしい甘みを帯びた砂糖の匂いと、青々とした茶葉の香りが潮風に混じり合い、町全体を覆う。


 「今年は昨年比で二割増しだそうだ」

 港を視察に訪れた役人の声に、現地商人たちが誇らしげに胸を張った。


 「ええ、殿様。砂糖は欧州からも買い手がつきました。茶は上海経由でロンドンにまで運ばれております」

 老舗の茶商が目を細めながら語る。彼の背後には、色鮮やかな輸出用の木箱が規則正しく並んでいた。表面には「臺灣製」と刷られた印が誇らしげに輝いている。


 別の商人は俵を指さして笑った。

 「砂糖の出来も上々で、甘みが濃いと評判です。今では日本本土の商人がこちらに直接仕入れに来るほど。港は毎日が祭りのような賑わいですわ」


 藤村晴人の手元には、江戸城に届いたばかりの報告書が広げられていた。紙面には細かい数字が整然と並び、輸出量と収益額が克明に記されている。砂糖輸出は前年比で三割増、茶の輸出は五割増。合計収益はついに年二十五万両を突破した。


 「台湾は……確かに飛躍したな」

 藤村は静かに目を閉じ、数字の背後にある人々の姿を思い浮かべた。港で汗を流す労働者、品質を吟味する職人、遠い異国へと舵を切る船乗りたち。彼ら一人一人の営みが、この数字を形作っているのだ。


 報告書には、現地からの声も添えられていた。

 「日本の統治で港が整備され、税制も分かりやすくなった。商いが安心してできるようになった」

 「交易が盛んになり、若者たちに仕事が増えた。治安も良く、家族を安心して暮らせる」


 藤村は深く息を吸い込み、決然と口を開いた。

 「備えあればこそ、豊かさが芽吹く。砂糖も茶も、単なる作物ではない。統治の証であり、人々の未来を織りなす糸だ」


―――


 台湾港の様子は、まさに統治政策の成功を示す生きた証拠であった。かつて清国の支配下では制度の不備と海賊の横行で停滞していた交易が、今や秩序のもとで飛躍を遂げている。広い埠頭に整然と並ぶ貨物、監督する役人の的確な指示、商人と官吏が笑顔で握手を交わす姿。すべてが「近代」の二文字を体現していた。


 現地に常駐する官僚からの追加報告も届いていた。

 「砂糖工場は日ごとに稼働を拡大しており、現地住民の雇用を吸収しております。労働環境の改善も進み、病に倒れる者は激減しました」

 「茶畑では新しい製法が取り入れられ、香り高い茶が収穫されております。市場では“台湾茶”の名が定着し、需要はさらに拡大する見込みです」


 藤村は扇を閉じ、静かに机に置いた。

 「北の炭、南の砂糖と茶。資源と産業の両輪が揃った。この国は、いよいよ本当の意味で自立の道を歩み始めたのだ」


―――


 江戸城の廊下を歩く藤村の耳には、報告を聞いた幕臣たちのざわめきが届いてきた。

 「二十五万両もの収益……これはもはや一藩どころか、一国の財政に匹敵する」

 「台湾特会を設け、歳入歳出を独立させると聞いた。いよいよ本土からの補助に頼らずともやっていける」


 その声に藤村は足を止め、振り返って一言だけ答えた。

 「数字に酔ってはならぬ。大切なのは、この富をどう使うかだ」


 重々しい言葉に、一同の背筋が伸びた。


―――


 羽鳥の城下にも台湾からの便りは瞬く間に広がり、商人や農民たちが寄り合って話し合った。

 「台湾の砂糖がこんなに売れているなら、わしらの米ももっと遠くまで運べるようになるかもしれんな」

 「江戸だけでなく、台湾や大陸にも商機がある。鉄道と港を結べば、羽鳥の品も同じように世界に出ていくんだ」


 春風に揺れる田畑の緑と、遠い南国から届く豊かな収穫。その両方が一つの未来を示していた。


 藤村は城の高台に立ち、東の海を望みながら静かに呟いた。

 「この道は、台湾を通じてさらに広がるだろう。南の海は、必ずや日本の未来を照らす光となる」


 初夏の陽射しが波を照らし、金色の反射が広がっていった。それは、台湾から始まった経済飛躍の光が、日本全土に広がりゆく兆しのように見えた。

江戸城西の丸に届いた新たな報は、数字以上の意味を持っていた。台湾統治庁からの書簡には、鮮やかな印章と共にこう記されていた。


 ――台湾特会、正式設立。歳入歳出、独立管理開始。


 藤村晴人はその文を見つめ、深く頷いた。

 「ついに……台湾が自らの収支で立つ日が来たか」


 これまで台湾の財政は本土からの補助を受けていた。だが今、砂糖と茶の収益が十分に基盤を支え、本土に依存せずに自らの行政を賄える段階に至ったのである。


―――


 その知らせに続き、台湾からの報告書には新庁舎落成式の様子が詳しく記されていた。


 蒸し暑い台南の午後、白壁に青い瓦を頂く二階建ての庁舎が、群衆の前に姿を現した。洋風のアーチ窓に風を通す格子、赤煉瓦の柱に石造の基礎。これまでの木造役所とは一線を画す近代的な姿に、集まった現地住民が驚きの声を上げる。


 「まるで異国の城のようだ……」

 「いや、日本の役所だ。ここから我らの暮らしが決まるのだ」


 庁舎の前に立った総督代理は、通訳を介して高らかに宣言した。

 「この庁舎は、台湾が自らの手で治める象徴である。ここに集まる税も、ここから出る施策も、すべて台湾のために使われる」


 群衆の中から、自然と拍手が湧き上がった。子どもを抱いた母親が「これで未来は安心できる」と呟き、老いた商人は「税が明確なら商いも安定する」と笑った。


―――


 その頃、江戸城で報告を受けた幕臣たちは感慨深げに言葉を交わしていた。


 「本土の負担を減らしつつ、現地は自立する。これほど理想的な制度はあるまい」

 「しかも洋風庁舎の落成は、民心を掴む象徴になる。人は形に安心を求めるからな」


 藤村は彼らの言葉に耳を傾けながら、静かに扇を畳んだ。

 「制度は数字であり、建物は象徴だ。両方を備えてこそ、統治は安定する」


―――


 庁舎の落成から数日後、台湾統治庁の役人から届いた書簡には、早くも成果が記されていた。


 「税収は前年同月比で一五%増加。港湾整備費と学校建設費に配分。住民からの納税率向上」


 この短い報告に、藤村は確信を深めた。

 ――人々はただ搾取される税を嫌う。だが、明確な制度と目に見える還元があれば、納税は誇りに変わるのだ。


 桜が散りゆく江戸の空の下、藤村の胸には新たな芽吹きの手応えが確かに宿っていた。

春の柔らかな日差しが差し込む江戸城学問所の一室。講壇には慶篤と昭武が並んでいた。二人の姿を同時に見るのは珍しく、学生や官僚志望の若者たちが息を潜めて耳を傾けていた。


 慶篤は黒板に大きく円を描き、そこに「常陸州」と書き入れた。

 「ここは旧水戸藩を母体とし、周辺諸藩を統合して誕生した州である。石高にしておよそ六十万石、歳入は農政・工業・専売益を合わせ、百五十万両規模に達する。製鉄・織物・専売の利益が加わり、全国でも有数の黒字州となった。州政は安定し、黒字はさらに鉄道や学校建設に投じられている」


 学生たちが驚きの声を上げる。藩財政が破綻続きだった時代から、わずか数年でこれほどの黒字経営を確立したことは、まさに時代の変革を示していた。


 続いて昭武が立ち上がった。その胸には「清水徳川家」の紋章が輝いている。かつて松平容保の養子となっていたが、養子縁組は解消され、今や清水徳川家を正式に相続した身である。その領国は北海道・樺太・千島、そして新たに加わったアラスカに及び、北方全域の総督としての権限を持つ。


 「我が北方方面領は、石高に換算して五十万石余。収入は炭鉱、木材、漁業、毛皮、そしてアラスカ交易によって百二十万両規模に達する。寒冷地ゆえに農業こそ限られるが、その代わり鉱物と海産資源に恵まれ、資源立国としての性格を強く帯びている。北方を押さえることは、太平洋全体の安定に直結するのだ」


 黒板に描かれた常陸州の円と、昭武が加えた北方方面の円が並んだ。

 「南の常陸、北の清水。二つの基盤があってこそ、日本は中央集権を強めながら、地方自治を進められる」

 慶篤の声に、講義室の空気は一層引き締まった。


 学生の一人が手を挙げた。

 「殿方、常陸は農業と工業で黒字を築き、北方は資源で財をなす。これを合わせれば、日本はもはや欧州諸国に並ぶ国力を持つのではございませんか」


 昭武は静かに頷いた。

 「その通りだ。だが数字だけでは国は強くならぬ。重要なのは制度であり、信である。戸籍と地租、専売と鉄道、そして通貨。すべてが繋がって初めて、国は揺るぎない」


 慶篤が最後に黒板へ「信」と一文字を書き入れた。

 「常陸も北方も、そして台湾も朝鮮も。結ぶのは“信”だ。これを欠けば、どれほど富があっても砂上の楼閣に過ぎぬ」


 春の光が障子を透かして差し込み、二人の背を淡く照らしていた。まさに「地方と中央、南と北を結ぶ新しい日本」が、講堂の中で形を成していった瞬間であった。

春の宵。藤村邸の広間では、障子越しに桜の花びらが舞い込み、柔らかな香りが漂っていた。囲炉裏を囲むように家族が集まり、机の上には台湾から届けられた地図や茶葉、香辛料が並んでいた。


 義信は膝の上に広げた大きな地図に夢中になっていた。

 「ここが台南、ここが台北……砂糖工場はこの辺りにあるんだね」

 彼の筆は素早く動き、ただの輪郭にとどまらず、主要都市や港、さらには収益源となる産業地帯まで細かく描き込まれていく。幼いはずの義信の地図は、まるで実務家の調査報告書のようであった。


 久信はその横で、湯呑みに注がれた台湾茶をじっと見つめていた。

 「兄上、この茶は本土のものより香りが深い。でも少し渋いな」

 彼は真剣な顔で茶を口に含み、そして言った。

 「もう少し火入れを工夫すれば、江戸の人々ももっと好む味になると思う」

 その言葉に、同席していた書役が思わず笑みを浮かべた。すでに改良案を考える姿勢は、商人のような鋭さを帯びていた。


 義親は乳母に抱かれ、香辛料の袋を近づけられると、小さな鼻をひくひくさせて、嬉しそうに声をあげた。まだ言葉もおぼつかぬ幼子の反応に、広間に柔らかな笑い声が広がった。


 篤姫は三人の子の様子を見ながら、穏やかに言った。

 「台湾の品々が、こうして子どもたちの学びや遊びに繋がるのですね。遠い島が、もう家族の一部のようです」


 藤村は頷き、机の上の台湾茶を手に取った。

 「統治とは、遠い土地を無理に支配することではない。こうして子らが興味を持ち、自然に受け入れていく――その先に、本当の統合がある」


 桜の花びらが一枚、義信の描いた台湾地図に落ちた。兄弟は顔を見合わせ、笑みを浮かべる。その笑顔の中に、未来の日本と台湾を結ぶ温かな絆が芽生えていた。

台湾統治庁の洋風庁舎。白壁に陽光が反射し、窓の向こうでは商人や農民が出入りしていた。行政官たちは机を埋め尽くす帳簿に向かい、砂糖・茶の輸出収益や歳入の計算を進めている。


 庁舎の外では、芹沢鴨と近藤勇が部下を率い、夜間巡邏の報告を受けていた。


 「昨夜は港で小競り合いがありましたが、住民の仲裁で大事には至らず」

 若い隊士が報告すると、芹沢は頷いた。

 「よし、次は市中の巡回を強めろ。治安が落ち着いていればこそ、商いも成り立つ」


 土方歳三は、庁舎前に立って往来を見守りながら低くつぶやいた。

 「俺たちの役目は簡単じゃない。だが剣を振るうより、人々に“安心”を与えることが一番の仕事だ」


 かつて剣を抜いて名を馳せた武士たちが、今は銃と隊列を整え、市井の安全を守る。治安部隊としての存在が、台湾経済の安定の基盤となっていた。


―――


 一方、江戸城西の丸。


 藤村晴人の執務室に、藤田小四郎が帳簿を携えて入ってきた。


 「殿、台湾の発展をこのまま官主導で進めれば、いずれ行き詰まります。制度を整えるのは官にしかできませんが、それを動かすのは民。商人や農民を巻き込み、官民が協力する仕組みに改めるべきです」


 小四郎の声は落ち着いていた。若き頃の熱情は消え、今は数字と人心を冷静に見据える実務家の響きがあった。


 藤村は机に手を置き、静かに頷いた。

 「なるほど……制度を作るのは官、活かすのは民か。台湾はその試金石になる」


 彼は硯に筆を浸し、短く指示を書きつけた。

 「統治庁へ伝えよ。治安は部隊に任せ、民の力を活かす道を探らせる」


 蝋燭の炎が揺れる中で、藤村の決意はさらに固まっていた。

 ――官と民、剣と商い。その調和こそが、これからの統治の鍵となる。

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