203話:(1873年4月/春)花と造幣
春の羽鳥は、例年にも増して華やぎに満ちていた。
四方の丘陵を覆う桜が一斉に開き、淡い薄紅の霞が大地を包んでいる。その麓にそびえる羽鳥造幣局の白壁もまた、桜花の影を受けて仄かな色を帯び、まるで自然と人工が競い合うかのように輝いていた。
この日、歴史的な式典が行われる。日本独自の新貨幣――「常陸銀」の正式発行である。
局舎前には朝早くから人々が集まり、町人も農民も、各地から招かれた役人や外国の顧問までもが肩を並べていた。花びらの舞う中、広場中央に設けられた壇上には、真新しい赤い布で覆われた鋳造機と、磨き込まれた大槌が据えられている。
「本日をもって、日本は真の通貨発行権を掌握する」
壇上に立った藤村晴人の声は、春風に乗って群衆の胸に響いた。
「これまで貨幣は幕府の独占事業にして、時に乱発され、時に改鋳により民を苦しめてきた。しかし、今日からは違う。我ら自身の制度と技術で、世界に通用する貨幣を鋳造するのだ」
ざわめきが広がり、人々の眼が鋳造台へと注がれた。
―――
やがて合図が下され、赤布が外された。現れたのは最新の洋式鋳造機であった。頑丈な鉄枠に収められたプレス機は、歯車と滑車で精密に組まれ、蒸気機関によって力強く動く仕組みになっている。
職人頭が声を張った。
「第一号の常陸銀を、ここに鋳造いたします!」
炉口から注がれた銀の溶流は、赤々と光を放ちながら鋳型へと流れ込む。熱気が壇上を包み、観衆は思わず息を呑んだ。やがて冷却の後、機械の腕が型を開き、一枚の円盤が姿を現した。
それは直径三センチに満たない、小さな銀貨であった。だが磨かれたその表面は、春の日差しを受けて眩く輝き、桜の花弁の光沢にも劣らない。
「おお……!」
群衆の間から、どよめきと感嘆の声が上がった。
―――
藤村はその第一号貨幣を受け取り、掌の上に掲げた。
「これが、日本の未来を映す鏡だ」
銀貨の表面には「大日本」と刻まれ、裏面には桜花と瑞雲をあしらった紋様が浮かび上がっていた。周囲の刻印は細かく、偽造を防ぐ工夫が施されている。
外国人顧問のひとり、フランス出身の技師ヴェルニーが小声で呟いた。
「c’est magnifique… この精度は我が国の造幣局にも劣らぬ。むしろ芸術性では凌駕している」
日本の職人たちは顔を紅潮させ、汗に濡れた手を拭いもせず互いに頷き合った。
「殿、この常陸銀ならば、必ずや世界の市場でも通用いたしましょう」
職人頭の声は誇りに震えていた。
藤村は頷き、観衆に向かって言葉を続けた。
「銀の輝きは、人々の信用の輝きに他ならぬ。貨幣はただの金属ではない。国の信用そのものだ。この常陸銀は、民の労働の価値を映し、未来を築く礎となるであろう」
―――
式典はさらに進み、藤村は壇上から広場に降りて、群衆に第一号の銀貨を披露した。子どもたちが身を乗り出して目を輝かせ、年配の町人が「わしらの汗が、こんな美しい形になるとは」と目頭を押さえた。
「次は、常陸銀の流通を皆で支えていこう」
藤村がそう宣言すると、拍手が広がり、桜吹雪と共に歓声が舞い上がった。
―――
午後になると、羽鳥造幣局の工房では、次々と新しい銀貨がプレスされていった。規則的な金属音が響き、蒸気機関のリズムが大地を震わせる。職人たちは緊張の中に笑顔を交え、手際よく作業を進めた。
「一枚、二枚……千枚、万枚……」
銀貨が木箱に積み重ねられていく。やがてそれは国庫に収められ、各地へと送られる。新しい日本の血流が、ここ羽鳥から全国へと流れ出そうとしていた。
―――
夕刻。桜並木を背にして立つ藤村は、空を仰いだ。
春風に乗って、桜の花びらがひらひらと常陸銀の上に舞い落ちる。
「花は一時、貨幣は永遠――いや、信用ある限り永遠だ」
彼の呟きに、傍らの渋沢栄一が深く頷いた。
「殿、この一枚が世に出れば、農も商も工も、一つの価値の下に結びつきます。これこそが近代国家の基盤でございます」
藤村は静かに常陸銀を握りしめた。春の陽光と桜の香りに包まれながら、彼の胸には確かな実感が刻まれていた。
――通貨制度の完成。それは単なる制度の整備ではなく、未来へ向けた日本の約束そのものなのだ。
春爛漫の羽鳥城下。桜吹雪が舞い散る中、城郭の一角に新たな建物が姿を現していた。
高くそびえる白亜の塔。その頂には金色に輝く桜花紋章が掲げられ、青空を背景に威容を放っている。――羽鳥造幣塔であった。
この日、完成式典が盛大に催された。壇上に立った藤村晴人は、塔を背にして人々へ告げた。
「通貨の信用を支えるのは、この塔に込められた“信”である。人々が一枚の銀貨を手にして安心できるのは、国家がその価値を保証するからだ。この塔は、信用の象徴にほかならぬ」
群衆は頷き合い、歓声を上げた。子どもたちは小さな手を振り、農民や商人も「これで安心して取引ができる」と声を弾ませた。
―――
式典の後、羽鳥学堂の講義室では、慶篤が学生たちを前に黒板へ文字を書きつけていた。
「貨幣とは、銀や金そのものの価値ではない。人が互いに信じ合う“約束の証”だ。帳簿に記された数字と同じく、信用を媒介して流通する」
板書には大きく「貨幣=信」と記された。
学生たちの眼が一斉に輝いた。
慶篤は続けた。
「信用を失えば貨幣はただの金属。だが信用を保てば、紙幣であろうと木片であろうと、価値を持つ。だからこそ国家は、この塔のように揺るがぬ信を築かねばならない」
言葉は熱を帯び、若者たちの胸に深く刻まれていった。
―――
一方、別室では昭武が欧州の事例を紹介していた。机上には分厚い文献が積まれ、彼はそれを一つひとつ開きながら語った。
「プロイセンは銀本位制を整え、通貨の信を固めた。フランスは戦時においても信用を保つため、造幣塔を国家の威信と結びつけた。イギリスは紙幣流通において世界をリードしている」
学生の一人が問いかけた。
「では、日本の常陸銀は、これらに比してどう評価できるのでしょうか」
昭武は微笑んだ。
「常陸銀は、その細工の精緻さにおいて、欧州に勝る。加えて国家一体の制度整備により、流通の安定性も高い。つまり日本は、短期間で欧州の百年の歩みに肩を並べたのだ」
講堂にざわめきが広がった。自国への誇りが若者たちの心を熱くしたのである。
―――
夕刻、藤村は完成した造幣塔を見上げながら思った。
「塔はただの石造りにすぎぬ。しかし、その背後にある理論と実務が、人々の信を繋ぎ止めるのだ」
春風が吹き抜け、塔の頂の桜花紋章が夕陽を受けて黄金に輝いた。
それは、通貨制度の完成を告げる光のようでもあった。
春の午後、羽鳥造幣局の一角に設けられた見学室は、柔らかな日差しに包まれていた。
机の上には、今朝完成したばかりの新貨幣「常陸銀」が布に並べられ、銀白の輝きが窓から差し込む光を反射してきらめいていた。
「これが……常陸銀か」
義信はまだ小さな指で一枚をそっと摘み上げた。幼い瞳に映ったのは、細やかに刻まれた紋章と精緻な刻印。彼は指先で縁をなぞり、深く息を吐いた。
「重い……ただの石とは違う。これは“国”の重さなんだ」
言葉は少年のものとは思えぬほど鋭かった。傍らで見守っていた教育係は思わず目を丸くし、藤村は静かに頷いた。
―――
久信は兄の隣で、紙と筆を抱えていた。机に置かれた銀貨を見つめると、夢中でその刻印を模写し始めた。円の縁取り、桜花の紋、細かな波模様――幼い筆致ではあったが、その集中力は尋常ではなかった。
「ここにもう一つ小さな印があるぞ。見える?」
藤村が指差すと、久信は顔を寄せ、舌を出して懸命に写し取った。
「描けた! 父上、これで本物と見分けられるかな」
その笑顔は、通貨の細部にまで宿る国家の工夫を理解しようとする、無垢で真剣な輝きに満ちていた。
―――
その時、篤姫の膝に抱かれた義親が、無邪気に笑い声をあげた。
母が銀貨をそっと掲げると、赤子の瞳はその光を追い、手を伸ばして掴もうとした。
「ほら、この子も銀の光に惹かれております」
篤姫が柔らかく笑った。藤村は胸の奥で思った。
――貨幣は、ただの金属ではない。未来の世代がこの国に生きる証、その光を映す鏡なのだ。
―――
義信の知、久信の熱意、義親の無邪気な笑み――三つの姿が一つの場に重なった時、藤村は確信した。
「この銀貨は、子らの未来を支える礎となる。今日の光は、百年先までも続くだろう」
春風が窓から吹き込み、机の上の常陸銀をかすかに揺らした。
その揺らぎは、未来へと続く波紋のように広がっていった。
春の終わり、江戸城の外交文書館に、遠い南の海からの報告が届いた。封を切った瞬間、藤村晴人の瞳がわずかに光を帯びた。
「フィリピン・マニラにて、常陸銀の受け入れ開始」
読み上げる声に、周囲の役人たちがざわめいた。これまでスペインの植民地支配下で動いていた市場に、日本の貨幣が実際に流通を始めたのだ。現地商人が常陸銀を手に取り、その精緻な刻印と純度の確かさを確かめたという報告が添えられていた。
「これはただの銀貨ではない。日本の信用が、遠い異国の市で実際に使われているのだ」
藤村の言葉に、役人たちは息を呑んだ。江戸の机上で作られた数字や制度が、海を越え、現地の商取引に溶け込んでいく――それは日本が国際社会の一角を占め始めたことを意味していた。
―――
その日の夕刻、羽鳥城の会議室。藤田小四郎が持ち込んだ分厚い帳簿と図面が机の上に広げられた。
「殿、常陸銀の技術は国家の基盤です。しかし、すべてを官の独占とするのではなく、一部を民に開放すべきではないでしょうか」
小四郎の声は落ち着いていた。かつて激しい情熱で言葉を吐いていた青年が、今や数字と計画を携えた冷静な実務家へと変貌していた。
「民間に?」
藤村が扇を畳んで問い返す。小四郎は頷いた。
「はい。造幣の中枢は守りつつ、周辺技術――例えば圧印機や精密な金属加工技術は、商人や工房に広げられます。貨幣そのものは国の独占であっても、技術を産業全般に活かせば、経済全体を押し上げられるのです」
藤村はしばし黙し、机上の常陸銀を指先で転がした。小さな銀の音が静かな室内に響く。
「国が守るべきものと、国が開くべきもの。その境を誤れば混乱を生む。しかし……お前の言う通りだ。技術は血のように巡らせねばならぬ」
小四郎の眼が輝いた。
「はい。国を強くするのは貨幣だけではなく、人の手と工夫なのです」
―――
その後の数日、羽鳥造幣局の一角では、職人と商人が混じり合い、造幣で培われた技術の応用について議論を交わす光景が見られるようになった。精密な金属加工技術は時計や器具へ、圧印の技は工芸品や輸出用の装飾具へ――常陸銀の光は、新しい産業の芽となって各地へ広がり始めていた。
藤村は窓から春の花々に照らされた造幣塔を眺めながら、静かに呟いた。
「銀貨は国を守り、技術は民を潤す。二つが揃ってこそ、未来は強固になる」
その声は春風に混じり、城下町のざわめきに溶けていった。
春爛漫の羽鳥城。桜吹雪が城郭を包み、淡い花びらが石垣の上を舞いながら造幣塔の屋根へと降り積もっていた。
藤村晴人は、完成したばかりの「常陸銀」の一袋を抱え、塔の最上階に上がっていた。そこから見渡せるのは、花と人波であふれる城下町。市場の軒先では、早くも常陸銀が取引に使われ、庶民が手にした銀貨の輝きを確かめては嬉しげに笑い合っていた。
「数字の上では黒字。制度の上では完成。だが……」
藤村は袋の口を開き、一枚の銀貨を取り出して陽光にかざした。細やかな刻印が春の光を反射し、花びらと一緒にきらめく。
「本当に国を強くするのは、この小さな銀の円に込められた“信”だ。人々が信じて手に取り、遠い異国でも価値として受け入れられる――それが国家の力だ」
背後から慶篤と昭武が並び立った。慶篤は頷きながら言った。
「藤村殿、講義でも語りました。“貨幣とは国家の信用の姿”であると」
昭武は手にした欧州の文献を閉じて続ける。
「フランスでも、プロイセンでも、貨幣制度を統一して初めて国が近代国家として扱われました。日本も、今まさにその段階にございます」
藤村は二人の言葉に深く一礼し、銀貨を袋に戻した。
―――
その夜、城内の大広間では、灯火の下に家族が集まっていた。義信は銀貨を掌にのせて「この重さが国を動かすんだね」とつぶやき、久信は紙に夢中で刻印の模様を描いていた。義親は母に抱かれ、銀の反射する光を不思議そうに見つめて小さな手を伸ばす。
篤姫は柔らかな笑みを浮かべながら言った。
「銀の輝きが、子らの未来を照らしているようです」
藤村は三人の子の姿を目に焼き付けると、静かに杯を掲げた。
「常陸銀は我らの手で造られ、我らの国を映し出す鏡だ。この輝きを曇らせぬよう、制度を守り、人を育て、未来を築こう」
―――
造幣塔の鐘が、夜の空気を震わせた。
花びらの舞う春の宵、銀貨の澄んだ音色と鐘の響きが重なり合い、「花と造幣」の名にふさわしい季節を告げていた。
藤村の胸には確かな手応えがあった。
――通貨制度の完成は、終わりではない。ここから先が、日本の新しい物語の始まりだ。