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202話:(1873年2月/早春)農政と税の調和

厳冬のきびしさがやわらぎはじめた二月の江戸。空気はまだ冷たいが、陽の色にはわずかな春の気配が混じっていた。新宿の往還に面して、白壁に煉瓦の帯をめぐらせた新しい建物が姿を現している。玄関の欄間に据えられた銅板には、力強い書で「地租庁舎」と刻まれていた。広い窓から差し込む光は、内部の受付と帳場、図面室の机面を明るく照らし出している。


 その朝、藤村晴人は裃の紐を整え、庁舎前に設えた壇に上った。周囲には町年寄や代官、庄屋に混じって、土地測量を担った若い書役や図師の姿もある。冷えた空気のなか、墨と紙の匂いがほんのり漂っていた。


 「本日より、この新宿地租庁舎をもって、地租の実務をはじめる」


 藤村の声は低く太く、集まった人々の胸にすとんと落ちた。


 「地を測り、名を記し、地目を定める。額は身分ではなく、地の力に応じて定まる。――公平は、ここからはじまる」


 静かな拍手が起こった。扉が開くと、白木のカウンターの向こうで書役たちが丁寧に頭を下げ、村ごとに束ねられた帳簿と地籍図を受け取りはじめる。壁面には常陸から送られた精密な地図が大判で貼られ、田・畑・宅地の区別が色分けされていた。墨の線は揺らぎがなく、地の筋道をくっきりと示している。


 「次、内藤新田、伊助殿」


 呼ばれた農夫が緊張した面持ちで進み、書役が地図の一点を指し示す。慶篤が横に立ち、穏やかな声で説明を添えた。


 「ここがあなたの田。反別は一町二反。昨年の収穫と水利を勘案して課額がきまる。――余計にも、足りなくも、ならない」


 伊助は地図と帳面を交互に見つめ、やがて深く息を吐いた。「これなら逃げも利かぬが、余計に取られることもないのだな」と呟くと、後ろに並んだ者たちの顔にも安心の色がひろがった。


 庁舎の奥では、図面室の長机に六分儀と巻尺が置かれ、図師たちが朱と藍で修正点を書き入れている。地番の訂正は即日に反映され、翌朝には「確定」の判が朱々と押された。紙の上の線はただの線ではない――人の暮らしを支える約束の線なのだと、誰もが感じていた。


     *


 同じ刻限、江戸城西の丸では、もうひとつの法が布告されていた。名を「米価安定倉庫管理法」という。広間の卓上には条文がひろげられ、条の端には読みやすい書き下し文が添えられている。慶篤が前に出て、簡潔に要点を解きほぐした。


 「この法は三つ柱で成っております。一つ、平年の収穫を基準に、州ごとの標準在庫量を定めること。一つ、米価が一定の幅を超えて上下したとき、在庫を売り入れ・買い入れで緩やかに戻す仕組みにすること。一つ、在庫米を現銀に換え、救済資金として即時に支出できるよう会計の道をひらくこと」


 彼は黒板に幅のある帯を描き、「上限」「下限」と白墨で書いた。帯から外れぬよう、倉と市を静かに調える絵姿である。


 「『備蓄は蓄うるためにあらず、守るためにあり』――これが根本です」


 列席の代官たちが頷き、渋沢が書面のなかの数値を指で叩いた。「州ごとの標準在庫の計算式は、収穫高・人口・輸送距離の三要素で補正済み。机上で動かぬ数字ではありません」と一言添えると、場の空気がさらに引き締まった。


 午後、玉里の倉庫群ではさっそく実務が開始された。白壁の米蔵の戸板が上げられ、番人が帳面に印を記す。米俵に打たれる焼印は州印と年号、在庫区分――「常置」「平衡」「救済」――の三種。俵の山は整然と積み上がり、通路には等間隔で札が吊るされる。薄暗い蔵のなかには喬木の香と藁の温い匂いがしみ込んでいた。


 「殿、在庫の回転は年一割を目安に、質の悪化を防ぎます」


 倉役頭が報告すると、藤村は頷いた。「米は錆びぬが、傷む。紙の数字にせず、俵の息を見て動かせ」と返し、札の紐の結び目を自ら確かめた。結びは固すぎてもゆるすぎてもいけない。政も同じだと、彼は心中で思う。


     *


 日暮れどき、新宿の庁舎は灯火に照らされ、さらに賑わいを増していた。戸口では役人が来訪者の列を整え、内側では筆の音がやまない。慶篤は受付近くの張り紙――「地券交付・評価修正・相談窓口」の案内――の前に立ち、農民の問いにひとつひとつ耳を傾けていた。


 「うちの田は洪水の跡で、ここを畑に変えたいのだが」


 「地目変更は年に二度、申請はこの窓口で。――評価は地の力に合わせて改めます」


 「相続で田が二つに割れた。帳簿はどう書けばよい」


 「子の名を戸籍に写し、地券と紐づけます。――名と地は一枚の紙で結ぶのです」


 やわらかな説明に、表情の強張りが解けてゆく。庁舎の奥では測量図と戸籍簿が並べられ、名と地の交差点としての「制度」が、今日から本当に動き始めたのだと、誰もが実感した。


 図面室から出てきた若い図師が、慶篤に声をかけた。「殿、地番の重複が二件。両家が同じ番を名乗っております」。彼はすぐに「地割境目の実見」を指示し、同時に「双方の収穫記録」と「過去の検地帳の写し」の取り寄せを命じた。紙に頼り切らず、現場に足を運ぶ――そこに、制度を支える骨の硬さがあった。


     *


 夜、江戸城の書院に戻ると、藤村のもとへ「米価安定倉庫管理法」施行の第一報が届いた。玉里の蔵から小口の放出が行われ、市の値が帯に収まりつつあるという。紙片に記されたわずかな数字の揺れ――上がりすぎ、下がりすぎ――が、倉の重い扉の開閉と連動しているさまを想像し、彼は小さく息を吐いた。


 「法は骨組み、倉は臓腑、庁舎は手足。――動き始めたな」


 机上には、庁舎開所の記念として配られた一枚の木札が置かれていた。片面には「地租庁舎」、もう片面には「公平」の二文字。彼は木の滑らかさを指先で確かめ、遠い将来、今日の札が笑い話になるほどに制度が当たり前のものになりますように、と目を閉じた。


     *


 そのころ、新宿の庁舎では、慶篤が日誌を閉じ、最初の一日を振り返っていた。受付の灯は落とされ、図面室の巻尺も壁に掛け戻されている。窓の外には、夜更けの市の灯がちらちらと揺れていた。


 「法と庁舎が形を与え、人が血を通わせる。――明日からが本当に大仕事だ」


 彼は静かに立ち上がり、廊下の灯を一本ずつ落としていった。外へ出ると、凍てた空気が頬を刺した。遠くで江戸の鐘が鳴り、吐く息が白くひろがって消えた。


 制度は、今日、完成した。だが、制度を「暮らし」にするのは、これからだ。彼は歩む足を速め、夜の往還へと消えていった。

数日後、新宿の地租庁舎には、早くも各地からの帳簿と報告が集まっていた。玄関を入ると、廊下の両側に設けられた長机の上には、村ごとに束ねられた地券と地図が積み重なっている。墨の匂いと紙の擦れる音、役人たちの低い声が交じり合い、庁舎全体が大きな計算機のように動いていた。


 藤村晴人は奥の執務室に入り、渋沢栄一と藤田小四郎が広げた収支表に目を落とした。白い和紙に整然と並ぶ数字の列は、米価、在庫量、税収見込みを示していた。


 「常陸州の歳入、前年より一割増し。専売益に加え、地租の精度が上がったことで徴収漏れが減っております」


 渋沢が指で数値を叩きながら説明する。藤田小四郎も横から口を挟んだ。


 「村ごとの数字を突き合わせましたが、虚偽報告や水増しはほとんど見当たりません。地図と人名が紐づいたことで、逃れようがなくなったのです」


 藤村は扇を閉じ、静かに頷いた。

 「数字は冷たいが、正しくすれば温かい。――余計を取らず、取りこぼさず。公平という名の温かさが、民の心を繋ぐのだ」


 窓の外では、まだ春浅い陽光が庭の白梅を照らしていた。


     *


 午後には、庁舎の会議室で慶篤による説明会が行われていた。壁に掛けられた大きな地図を背に、彼は身振りを交えて話す。


 「これまでの年貢は“村単位”でした。村全体での納入額を定め、あとは内部で割り振る。ゆえに力ある者が弱き者に押し付けることもあった。だが地租は違う。個々の土地と名に基づいて額が決まる。責任もまた個人に帰する」


 庄屋や代官たちは互いに顔を見合わせ、小声で囁き合った。中には不安を隠せぬ者もいたが、若い農夫が手を挙げて言った。


 「では、今年からは力のある者に肩代わりさせられることはないのですか」


 慶篤ははっきりと頷いた。

 「ない。あるのは公平だけです」


 その言葉に、ざわめきが収まり、部屋の空気が引き締まった。


     *


 夕刻、藤村は江戸城に戻り、勘定所の上席役人たちを集めて報告を受けた。


 「地租庁舎発足から五日、すでに百二十村分の地券が登録済み。収入見込みは昨年より二割増しでございます」


 「倉の在庫も安定し、市場の米価は落ち着いております」


 相次ぐ報告に、広間は熱気を帯びた。藤村はゆっくりと席を立ち、扇を広げて言った。


 「法は紙、庁舎は器、そして数字は血脈。――これらが揃ってこそ国は動く。今日、我らはその仕組みを手に入れた。だが、この仕組みを民の暮らしに活かすかどうかは、諸君の双肩にかかっている」


 沈黙ののち、重臣たちが一斉に頭を下げた。その背に差す夕陽は赤く、まるで新しい制度の未来を照らす炎のようであった。

新宿の地租庁舎が稼働して数週間。制度の実務が軌道に乗り始めた頃、江戸学問所では慶篤による公開講義が開かれていた。広い講堂には書役や代官だけでなく、町人や若い農夫までが聴講に訪れ、場は異様な熱気に包まれていた。


 慶篤は壇上に立ち、黒板に大きな円を描く。円の中に「米」「金」「人」と書き入れ、矢印で結んだ。


 「地租制度の核心は、この三つを結びつけることにある。米は収穫であり、金は価値であり、人は責任だ。これまで米は米、金は金、人は名簿の陰に隠れていた。だが戸籍と地図により、それらは一つの円に収まった」


 聴衆の中からざわめきが起こる。年配の代官が声を上げた。

 「だが、殿。数字だけで人の暮らしを量るのは冷たくはありませぬか」


 慶篤は頷き、静かに答えた。

 「数字は冷たい。だが、公平に扱えば温かい。冷たさは恣意を許さぬからだ。誰もが同じ基準で量られることで、不公平が消える。それが温かさとなって人の暮らしを守る」


 その言葉に、聴衆の目が次第に熱を帯びていった。


     *


 続いて壇上に上がったのは昭武であった。机の上に分厚い洋書を積み、ページを開く。


 「これはフランスの地租改正記録である。村の境界を正確に測り、所有者を明記したことで税収が安定した。次にこれはプロイセン。地図と戸籍を結びつけ、軍役と税を同時に管理した。これにより国家の力は飛躍的に増した」


 昭武は視線を上げ、聴衆を見渡した。

 「だが、日本の制度はそれらを超える。農の伝統と商の技を生かし、さらに新しい科学を取り入れた。欧州に学びながら、欧州以上の合理性を備えている」


 講堂の後方にいた若い書役が思わず声を上げた。

 「では、日本は欧州に並ぶどころか、追い越せるのですか」


 昭武は力強く頷いた。

 「数字はすでにそれを示している。公平に課された税は怨嗟を生まず、倉庫に蓄えられた米は市場を安定させた。日本は自らの道で、世界水準を越えようとしているのだ」


     *


 講義が終わると、二人の言葉は広間を満たし、聴衆は熱気を帯びたまま外へ出ていった。


 藤村晴人は講堂の隅でそれを見届けながら、胸の奥で静かに思った。

 ――法と数字は器でしかない。だが、それを語り伝える理論があって初めて、国は未来を描ける。


 外に出ると、春の陽が柔らかく町を照らしていた。人々の足取りは軽く、まるで彼らの胸に新しい秩序への確信が芽生えたかのようであった。

春の田畑には、冬の間に休んでいた土の匂いが立ち込めていた。羽鳥の村々では、戸籍と地籍台帳に基づいた新しい耕地割りが初めての春耕に反映され、人々は割り当てられた田に鍬を入れていた。


 義信はまだ八歳。だがこの日は、庄屋の勧めで藤村と共に田植えの手伝いに加わった。裸足で泥に足を取られながらも、真剣に苗を植えようとする姿に周囲の百姓たちが目を細める。

 「若君、苗はこうして、少し斜めに挿すとよく根付くのです」

 老農の言葉に義信は一度うなずき、泥に手を沈める。その手つきはぎこちないが、一度見た動作を正確に覚えて繰り返す集中力は、大人顔負けであった。


 縁側から見守っていた篤姫は微笑み、お吉にささやいた。

 「数字と本ばかりの子かと思っていたけれど、こうして土に触れていると、また違う光が宿りますね」

 お吉は頷き、「知と実を併せ持てば、きっと国を動かす人になります」と静かに返した。


     *


 一方、屋敷の書院では久信が紙と算盤を前にしていた。年齢はまだ七歳だが、庄屋から渡された簡単な課税計算の課題に挑んでいる。

 「百姓十軒、田の広さはそれぞれ違う……一軒ごとに一俵ずつだと不公平。面積で分けたら……」

 小さな指が珠を弾く音が部屋に響く。数字をまとめるごとに久信は顔を上げ、周囲の大人たちに自信ありげに答えを示した。

 「これで十俵を正しく割り振れるはずです」

 居合わせた代官は驚き、感心の声を漏らした。

 「実務を任せられる日も遠くはあるまいな」


     *


 その頃、まだ生まれて数か月の義親は、母の膝で眠っていた。障子の向こうからは田植えの掛け声と、算盤を弾く音が交互に届いてくる。静かな寝息と柔らかな笑みは、未来を担う芽が静かに育まれていることを示していた。


     *


 夕暮れ。藤村は縁側に腰を下ろし、三人の子の姿を思い描いた。泥に足を取られながらも苗を植える義信。珠を弾き、真剣な眼差しで計算に挑む久信。そして母の膝で安らかに眠る義親。


 「田も税も、数字も汗も、すべては次の世代に継ぐためのものだ」


 藤村の低い声は、春の空気に溶け込むように柔らかく響いた。土に根を張る稲の苗のように、子どもたち一人ひとりの経験が確かに芽吹き始めている。その光景は、未来の国を支える根となるに違いなかった。

春の宵。江戸城西の丸の一室で、藤村は机に広げられた書簡をじっと見つめていた。封蝋を解かれた紙には、見慣れた筆跡で力強く書かれた言葉が並んでいた。


 ――差出人、西郷隆盛。


 「朝鮮にて、地租制度導入を検討中。そちらの経験を借りたい」


 短い文面であったが、その背後には重い課題が潜んでいた。統合領土に日本の税制を移す――それは単なる制度の移植ではなく、文化と社会の基盤を揺さぶる大事業である。


 藤村は手元の蝋燭を見つめ、炎の揺らぎに思索を重ねた。常陸で始めた地租改正は、戸籍・地籍・収穫調査を土台にようやく安定してきた。だが朝鮮に同じ方法をそのまま持ち込んでも、抵抗を招くのは目に見えている。


 「急ぐべきか……それとも、漸進か」


 独り言のように漏らした声に、傍らの藤田小四郎が応じた。


 「殿、常陸で学んだのは、制度だけでは人は従わぬということ。声を聞き、納得を得ねば、数字は机上の幻に過ぎませぬ」


 小四郎の瞳はまっすぐだった。かつて情熱のままに先を急ごうとしていた彼は、今や数字と人心を冷静に秤にかける実務家へと成長しつつあった。


 「小四郎、お前の言葉は正しい。数字は人を縛るものではなく、人を生かすものだ」


 藤村は頷き、返書をしたため始めた。筆は迷わなかった。


 「我らが成した改正は、急激な変化ではなく、段階的な歩みであった。朝鮮においても、まず土地と人を知ることから始めよ。地籍の線を引くのではなく、人々の生活を映す帳簿を作ることだ」


 文を閉じると、藤村は深く息を吐いた。


     *


 その夜、障子の向こうからは義信が算盤を弾く音が、久信の声が交じる笑いが聞こえてきた。幼い義親は乳母の腕で眠っている。


 「この子らが大きくなる頃、日本は本当に一つの制度で結ばれているだろうか……」


 藤村は窓を開け、夜風を受けながら遠い朝鮮の空を思った。春の星が瞬き、その光は彼の胸に未来への静かな確信を刻んでいた。

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