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200話:(1873年1月/厳冬)新年の鐘、未来の約束

厳冬の江戸。吐く息は凍るように白く、凍てついた大気の中に新年の鐘が響き渡った。町家の軒先には新しい注連縄が揺れ、煤払いを終えたばかりの瓦は朝日に照らされて薄く光っていた。通りには初詣に向かう人々が織物の羽織を重ねて歩み、甘酒を売る屋台の湯気が冷気に溶け込んでいた。


 江戸新年市は、年の初めにふさわしい賑わいを見せていた。羽鳥織物の暖簾を掲げた出店の前には、列をなす町人たちが群がっていた。藍と紅を組み合わせた華やかな反物、細かい織り模様に加え、丈夫さを兼ね備えた布地は、まるで西陣にも劣らぬと評判である。


 「ほう、これは見事な艶だ。だが値は西陣の半分か」

 「これなら子どもたちの晴れ着にもできる。財布にも優しいな」


 買い求めた町人たちが口々に語り、笑顔で袋を抱えて立ち去っていく。その姿を見つめながら、藤村晴人は静かに目を細めた。


 「地方の産業を育ててきた成果が、こうして市の賑わいとなって現れる……」


 隣に立つ渋沢栄一が頷き、手にした帳簿を指で叩いた。

 「関税収入は、すでに年三百二十万両を突破しました。羽鳥織物や笠間焼の輸出増が大きく寄与しています」


 藤村は扇を閉じ、冷たい空気に言葉を刻んだ。

 「数字は紙の上だけのものではない。人々が銭を払い、品を持ち帰るとき、初めて血肉を得る。今はその実りのときだ」


―――


 江戸城では、新年を迎えての決算報告が行われていた。勘定所の広間に並んだ帳簿には、長年の重荷であった幕府債務が「一九〇万両台」と記されている。三年前には四百万を超え、さらにその前には一千二百万両という絶望的な数字が並んでいたことを思えば、これは奇跡に近い改善だった。


 「史上最高の収入にして、債務残高は一九〇万両台……」

 読み上げる小栗上野介の声には、長年の苦労が報われた重みがにじんでいた。


 「これで財政健全化は最終段階に入ったと言えましょう」


 広間にいた書役や代官たちの顔が一斉に上を向き、安堵の色を浮かべた。かつては借金の山を前に声も出なかった彼らが、今では誇りを持って数字を口にできる。


 藤村は正面に座し、静かに言葉を置いた。

 「借金を減らすこと自体が目的ではない。未来の発展を妨げぬためにこそ、財政を健全に保つのだ。黒字は新しい投資の種であり、国の成長を次へと繋げる命脈だ」


 扇を軽く打つ音が、広間の緊張を解き、確かな希望を響かせた。


―――


 正月の江戸は、伝統と革新が同居する街と化していた。通りには羽鳥の織物をまとった若者が歩き、笠間焼の茶碗で甘酒を振る舞う屋台が並んでいる。西洋から輸入されたガス灯が灯る大通りには、和傘を差した庶民の列が揺れ、江戸の町並みに和洋折衷の光景を描き出していた。


 人々の声、鐘の音、帳簿の数字――それらすべてが重なり合い、確かに「未来の約束」を形にしていた。

江戸城西の丸、大広間。三期にわたり続いてきた改築工事がついに完成し、将軍家と幕臣たちが揃ってその竣工を祝う場が設けられていた。高い天井から吊るされた洋式のシャンデリアが燦然と輝き、床には赤絨毯が敷かれている。壁を飾る障壁画は日本画の繊細な筆致でありながら、西洋の遠近法を取り入れて奥行きを感じさせた。和と洋が一体となった空間は、これまで誰も目にしたことのない「新しい江戸城」の姿であった。


 列席した大名や役人たちが感嘆の声を漏らす中、慶喜は正面の席から立ち上がった。手にしていた杯を置き、視線を藤村に向ける。


 「藤村殿……」


 その声は張り詰めた空気を切り裂き、広間の耳目をすべて惹きつけた。慶喜は一拍置き、言葉を選ぶように口を開いた。


 「実を言うと、私は将軍職を引き受けることに、かつて大きな抵抗を感じていた。嫌だったのだ」


 予想外の言葉に、列席者たちの間にざわめきが走った。だが慶喜はそれを制するように手を挙げ、静かに続けた。


 「理由の一つは、借金だ。国の背に積まれた一千二百万両もの負債。あれを抱えてどう政務に臨めようかと思った。もう一つは、この城だった。雨漏りに悩まされ、壁は剥がれ、火事の危険に怯える……そんなボロ屋で国を治める将軍の姿を、誰が信じるだろうか」


 重苦しい沈黙が広間を覆った。慶喜は杯を手に取り、今度は深く頷きながら言葉を改めた。


 「だが今は違う。藤村殿、君がボロ屋を最先端の宮殿に変えてくれた。電信、防火、暖房、すべてが備わった城に……。これならば胸を張って将軍職を務められる。借金の山も大きく減った。私が背負うものを、君が共に支えてくれた」


 慶喜の目に、一瞬熱のこもった光が宿った。

 「見事だ。改築と財政再建、どちらも君の功績である。私はこの城と、この国を、未来に託せると確信した」


 場内は静まり返り、誰もが慶喜の率直な吐露に耳を奪われていた。やがて、杯を掲げた老臣の声が響いた。

 「殿の本音を聞けたことは、我らにとって何よりの励みでございます」


 盃が打ち鳴らされ、広間に和やかな空気が広がった。慶喜の言葉は、単なる礼ではなく、この城を新しい日本の象徴へと変えた改革の正しさを証明するものだった。

江戸城改築完成の報せは、すぐさま京都にも届けられた。年明け早々に上洛していた朝廷の使節団が江戸城を訪れ、その新たな姿を目の当たりにした時、誰もが足を止めた。


 「……これは、御所とはまるで異なる世界だ」


 先頭に立つ和宮が驚きに満ちた声でつぶやいた。彼女の瞳は、豪奢でありながら理に適った造作を一つ一つ追っていた。


 大広間に入ると、天井から下がる巨大な洋式シャンデリアが一斉に光を放ち、室内は昼のように明るく照らされた。壁際には日本の漆工芸による調度が並び、木目の美しさと金蒔絵のきらめきが、西洋の光と見事に調和していた。


 和宮は思わず笑みを浮かべた。

 「調度の面でも、京都御所より遥かに数段優れております。西洋の機能性と、日本の美意識を兼ね備えている……。これぞ新時代の宮殿でございましょう」


 傍らに控える孝明天皇もまた、静かに頷きながら声を落とした。

 「電信設備、防火システム、暖房装置……。どれをとっても京都にはない。政務を執る環境として、これほど理想的な場所はあるまい」


 その言葉は城中の者たちに大きな衝撃を与えた。御所を常に最高と見なしてきた朝廷が、自ら江戸城の優位を認めたのである。


 藤村晴人は控えの間からその声を聞き、静かに息を吐いた。

 ――伝統と革新の融合は、京の人々の心にも届いた。


 やがて和宮は慶喜の前に進み出て、深く一礼した。

 「徳川の御代に、これほどの進歩を目にするとは思いもよりませんでした。日本は確かに変わりつつあります」


 その場にいた公家たちも次々と声を重ねた。

 「この城こそ、文明開化の象徴にふさわしい」

 「ここに政を置くは、まこと理に適っている」


 評価の声は波のように広がり、江戸城の威信は一気に高まった。


 慶喜は微笑み、低く応じた。

 「江戸を新しい都とするのは、伝統を壊すことではない。未来に続く道を整えることに過ぎぬ」


 その言葉に、和宮は再び頷いた。


 ――この城を中心に、朝廷と幕府は真に一つとなる。

 その確信が、誰もの胸に静かに芽生えていた。

新年の祝賀が続く中、江戸城西の丸の一室では、ひときわ緊張感のある会議が開かれていた。壁には大きな世界地図が掛けられ、机の上には分厚い予算書と統計表が整然と並べられている。そこに集まったのは慶喜、藤村晴人、慶篤、昭武、そして藤田小四郎であった。


 慶篤は立ち上がり、手にした冊子を掲げた。

 「諸卿、これが『未来会計』でございます。今後十年間の収支見通しを基に、どの年に何を建設し、どの年に何を改修するかを、あらかじめ定めた年表であります」


 黒板に貼られた大判の紙には、「鉄道延伸計画」「造船拡張」「教育機関設立」「医療普及」などの文字が、年度ごとに整理されて記されていた。


 慶篤は棒を取り、指し示した。

 「五年目までに全国鉄道網の半分を完成。七年目に造船所の第2ドックを稼働。十年目に義務教育制度を全国で施行する。――これが未来会計に基づく工程であります」


 列席者の間にざわめきが走った。


 「十年先まで、これほど具体的に……」

 「前もって資金の流れまで定めるとは」


 慶篤は力強く続けた。

 「従来のやり方では、年ごとに出費を巡って右往左往するばかりでした。しかし未来会計を用いれば、収入の増減を前提に計画を練ることができる。――数字が未来を導くのです」


 その言葉に藤村は静かに頷いた。

 「数字が語る未来……。なるほど、財政の新しい在り方だ」


―――


 次に昭武が立ち、欧州から持ち帰った統計資料を広げた。

 「こちらはイギリスとフランスの長期財政計画です。彼らはすでに二十年先を見据え、軍備拡張や産業投資の工程を組んでいます」


 机に並べられた資料には、複雑な数字の列と曲線が描かれていた。

 「これと比較すれば、日本の未来会計はむしろ精緻。欧州では人口統計と税収予測が中心ですが、我らは産業別の収益までも織り込んでいる。十年先どころか、さらに遠くを見据えられるはずです」


 慶喜が興味深げに問いかけた。

 「つまり我らの計画は、欧州列強の水準をすでに超えていると?」


 昭武は深く頷いた。

 「はい。日本は短期間で制度を吸収し、改良することで彼らを凌駕できるのです」


―――


 最後に藤田小四郎が席を立った。手には緻密に記された予算表が握られている。

 「未来会計と統計資料を組み合わせ、私は具体的な予算配分を算出いたしました」


 黒板に貼られた表には、「収入予測:三百二十万両」「支出予測:二百七十万両」と大きく記され、その内訳が細かく分けられていた。


 「無駄を削れば、さらに五万両の余剰が見込めます。これを研究機関や新技術開発に振り分ければ、長期的利益は倍増するでしょう」


 その言葉に、慶喜は思わず口元を緩めた。

 「小四郎、数字を剣のように操るな」


 小四郎は深く一礼し、答えた。

 「剣で国は守れます。ですが数字で国を栄えさせるのです」


―――


 会議が終わる頃、窓の外には冬の夕陽が差し込んでいた。朱に染まる光の中で、慶喜は静かに言った。

 「借金に怯え、場当たりで金を回す時代は終わった。未来を数字で定め、計画で歩む国へ――これが日本の新しい姿だ」


 藤村は深く頭を垂れ、その言葉を胸に刻んだ。

 ――数字が未来を描く。

 その確信が、この会議室を満たしていた。

江戸城の大広間。新年の儀が進む中、壇上には一枚の白紙が広げられ、そこに大きく「未来」の二文字がしたためられていた。筆を執ったのは、まだ八歳の義信であった。


 彼は小柄な体で堂々と立ち、深い呼吸を整えると力強く筆を下ろした。墨は迷うことなく紙に吸い込まれ、太く、そして真っ直ぐな線が伸びていく。最後の払いを終えた瞬間、広間には静かな感嘆の声が広がった。


 「未来」――その二文字は幼さを残しながらも確かな意志を宿し、場の空気を引き締める力を持っていた。


 義信は振り返り、居並ぶ重臣たちに頭を下げた。その姿は、ただの子供ではなく、やがてこの国を担うであろう存在を予感させた。


―――


 続いて壇上に進んだのは七歳の久信であった。彼は小脇に算盤を抱え、深呼吸して席に着く。前に置かれた問題は、年配の書役が選んだ複雑な割算だった。


 「千二百三十四を十八で割れ」


 会場にざわめきが走る。だが久信は迷うことなく珠を弾いた。


 カチリ、カチリ――算盤の音が澄んだ鐘の響きのように広間に鳴り渡る。


 「答え、六十八余り十六!」


 まだ幼い声ながらも力強く響き渡り、書役が帳面を確認すると正答であることが告げられた。拍手が広がり、久信の頬は赤く染まった。


 「僕が守るのは、この数字と、この国だ」


 そう呟いた言葉は誰に教えられたわけでもなく、子どもの胸から自然に溢れたものであった。


―――


 一方、篤姫の腕に抱かれた義親は、まだ生後五か月の幼子であった。重臣たちの声や算盤の音に耳を澄ませるように、時折目を瞬かせ、鐘の音が響くと小さな手を振り上げて喜びを示した。


 「義親も鐘の音に応えております」


 篤姫が笑みを浮かべて言うと、場に温かな笑いが広がった。


 まだ幼いその存在は何も語らずとも、人々に希望を与えていた。


―――


 この日、江戸城は「未来」の文字と、算盤の珠、そして幼子の声なき反応に包まれていた。


 それは、新しい年を迎えた日本の歩みが、確かな次世代へとつながっていることを示す象徴の場であった。

その日の午後、江戸城西の丸の一室。冬の日差しが障子越しに差し込み、机の上には分厚い外交文書が並べられていた。そこに、坂本龍馬、岩崎弥太郎、陸奥宗光の三人が顔を揃えていた。


 「殿、ハワイ王国より通商の打診が届きました」


 最初に口を開いたのは坂本龍馬であった。彼は懐から取り出した公文書を机に置き、その独特の土佐弁で続けた。


 「太平洋の真ん中にあるあの島と、正式に通商を結びたいという話ぜよ。砂糖と果実、それに港を補給地として使わせてもよいとのことだ」


 藤村は文書を手に取り、目を走らせた。力強い筆致で書かれた王国の印章が、海を越えて届いた現実を物語っていた。


―――


 岩崎弥太郎が前へ乗り出した。


 「太平洋航路の中継地として、これ以上の場所はありません。南方航路と結べば、アラスカから台湾、フィリピン、そしてハワイまで一本の線で結べる。交易の利は計り知れません」


 彼の目は、まるで商機を前にした鷹のように鋭かった。


 陸奥宗光は冷静に口を添えた。


 「ただし、諸列強も注目している海域です。米国や英国との駆け引きを誤れば、国際摩擦を招きかねません。通商の自由と補給地利用――この二点を押さえた協定が必要でしょう」


 慎重な言葉でありながらも、その瞳には「ここを逃してはならぬ」という確固たる意志が宿っていた。


―――


 藤村は三人の意見を聞き終えると、静かに扇を畳んだ。


 「太平洋は、次の時代の舞台になる。日本が海洋国家として生きるのなら、避けては通れぬ道だ。――ハワイとの通商は、我らが未来を試す最初の踏み石になる」


 その言葉に三人は深く頷いた。


 龍馬がにやりと笑い、腕を組んで言った。

 「面白ぇぜよ。日本が太平洋に打って出る日が来るとはな。海を渡るのは船だけやない。夢もまた海を渡るんじゃ」


 部屋の中に小さな笑いが広がったが、その笑いの奥には確かな決意が潜んでいた。


―――


 窓の外には冬空が広がり、冷たい風が木々を揺らしていた。だが、その風の向こうには、太平洋の大海原が確かに待っている。


 藤村は心の内でつぶやいた。


 ――新年の鐘は、海を越えて響いている。日本の未来は、もはやこの海の果てにある。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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