199話(1872年11月/初冬)冬支度と炭鉱
十一月の冷え込みは例年より早く訪れ、江戸の町並みを白い息で包んでいた。朝の城下は薄い霜に覆われ、町人たちは肩をすくめながらも忙しなく年の瀬に備えていた。
江戸城西の丸。障子越しに射す朝の光は冷たく、広間に並ぶ机の上では筆を持つ書役たちの手がかじかんで震えていた。だが、その冷気をも吹き飛ばすような知らせが北の大地から届いていた。
「――北海道炭鉱、拡張工事すべて完了。年産五十万両規模の収益見込み」
読み上げた通信士の声に、広間がざわめいた。江戸城電信室を経由して届いた榎本武揚からの報告は、遠い北方の寒風を運んでくるようであったが、その内容は熱を帯びていた。
「五十万両……!」
「たった一つの炭鉱で、この規模の益を挙げるとは……」
驚きの声が重臣たちの間を駆け抜ける。江戸、横浜、長崎の商人代表も招かれており、彼らも思わず顔を見合わせた。
藤村晴人は、正座したまま静かに目を閉じ、報告書を受け取った。
「北の大地が、ついに国を支える礎となったか」
低く、しかし確かな声でそう告げると、場の空気が一層引き締まった。
―――
報告書には、詳細な数字と共に榎本の言葉が添えられていた。
《最大規模の拡張工事、すべて完了。坑道は延長二百町。蒸気揚水機・送風機、稼働正常。坑夫三千名、宿舎・診療所・学校を整備済み。今冬より安定した増産体制に入る》
墨字で綴られた報告の一行一行から、現場の息遣いが伝わってきた。榎本武揚――戊辰戦争を経てなお北の地に骨を埋める覚悟であたる男。その胆力と先見が、この成果に結びついたのである。
藤村は扇を静かに閉じ、隣に座る渋沢栄一へ視線を送った。
「栄一、どう見る」
渋沢は即座に帳簿を開き、冷静に答えた。
「炭鉱益五十万両、これは単なる収益に留まりません。鉄道建設基金、鉄製武器の材料供給、製鉄所燃料――すべての基盤になります。財政は一段と安定するでしょう」
「うむ」藤村は深く頷き、広間の役人たちに目を走らせた。
「聞いたか。北はただ遠い地ではない。国の心臓を温める炉である。石炭は黒き金だ。この冬からは、その黒き金が我らを支える」
―――
その時、電信士が再び駆け込んできた。
「追加報告! 札幌庁舎に煉瓦造りの暖房室、設置完了とのこと!」
広間に小さなどよめきが起きた。
「冬でも快適に執務できる……!」
「寒さに苦しめられた役人衆も、これで仕事がはかどる」
かつて北の役所では、墨が凍り、帳簿の筆が進まないほどであった。それを解消したのは、煉瓦を積んだ暖房室と蒸気暖房管の設置。北海道の厳寒を耐える技術が、ついに形となったのだ。
藤村は静かに笑みを浮かべた。
「寒さに負けぬ統治体制……これで北方開発は一層進む。人は暖かさを得て初めて理を考え、政を行えるのだ」
―――
さらに別の机では、慶篤が新たな講義資料を広げていた。彼は若い書役を集め、冬と産業の関わりを解説していた。
「冬は敵ではない。備えさえあれば、むしろ資源を活かす好機となる。寒冷期に備蓄と生産を両立させる政策が、国を強くするのだ」
板書されたのは「冬備えと産業」という四文字。寒さを逆手に取る発想が、若い官僚たちの胸を打った。
一方、昭武は欧州から取り寄せた炭鉱技術書を開き、声を張った。
「見よ、ドイツのザール炭田、イギリスのニューカッスル。彼らの採掘技術は確かに先進だ。しかし日本は短期間で同等に追いつきつつある。これは誇るべき成果だ」
彼の言葉に若い役人たちの顔が誇りに染まった。
―――
広間の一角、藤田小四郎は帳簿を広げていた。彼の筆は鋭く、数字の列を一つひとつ検証していく。
「一トンあたりの採掘原価……運搬費……諸経費を差し引いても、なお利益率は四割を超える」
小四郎はそう言い切り、改善案を加えた。
「坑夫宿舎の食費、炭俵の輸送方法、細かく見直せばさらに収益は上がります」
「数字で現場を改善する……」
渋沢が呟き、藤村も深く頷いた。
「これぞ実務の力だ。北方の遠隔地であっても、正確な経営管理ができる。小四郎、よくやった」
―――
その日の夕刻、藤村は一人、障子の外に広がる庭を眺めていた。空はすでに冬の色を帯び、枯れ枝に積もる白雪が夕陽に光っていた。
――遠く離れた北の大地。その暗い坑道の奥で、今日も人々が汗を流し、石炭を掘り出している。
その一塊一塊が、江戸の灯をともす。羽鳥の鉄路を走らせる。横須賀の造船所の炉を燃やす。
「北の富は、南の夢を支える……」
藤村の独白は、冷たい冬の空気に溶けていった。
初冬の札幌は、もう深い雪に閉ざされていた。空気は針のように鋭く、人々の吐く息は瞬時に白く凍りつく。馬の背に載せられた薪がきしみ、街道を行き交う人々の顔は布で覆われていた。
そんな中、札幌庁舎の赤煉瓦造りの壁からは、うっすらと湯気のような温もりが漂っていた。新設された暖房室が稼働を始め、内部には蒸気管が張り巡らされていたのである。
庁舎の玄関を押し開けた役人たちは、一様に肩をすくめて驚いた。
「おお……ここだけ別世界のようだ」
かつては真冬になると、墨が凍りつき、帳簿に筆を入れることすらままならなかった。寒さのあまり会議は数分で打ち切られ、報告書は簡素に済まされてきた。それが今、庁舎の中はほんのりとした温もりに包まれ、紙も筆も凍らずにすらすらと動く。
庁舎長は、集まった職員を前に高らかに告げた。
「これで冬でも行政は止まらぬ。寒さに膝を抱えていた時代は終わったのだ」
―――
広間では、石炭をくべた鉄炉が低い唸りを上げていた。炉の脇には温度計が立てられ、数名の若い技師が交代で監視を続けていた。蒸気管の圧力が一定を保つかどうか、細かな数字が黒板に記録されていく。
「殿の命により、冬季行政を止めぬための設備。これが北方開発の要です」
責任者が胸を張って説明すると、周囲の役人は頷き合った。
報告を受けた江戸城では、渋沢栄一がその数字に目を通し、眉を上げた。
「暖房設備費用は高い。しかし、それ以上に冬季停滞による損失は甚大だ。わずかに投じた費用で何倍もの成果を得られる」
藤村晴人は扇を閉じ、静かに告げた。
「人が凍えている間に国は進まぬ。暖を与えることこそが、国を動かす最初の一歩だ」
―――
現地札幌では、庁舎だけでなく学校や診療所にも同じ技術が導入されていた。子どもたちは藁靴を脱ぎ、木机に向かって凍えずに読み書きができるようになった。診療所では氷点下の中でも薬品が凍ることなく保存され、患者が震えずに治療を受けられる。
農民の代表が庁舎を訪れ、深々と頭を下げた。
「殿様方のおかげで、冬でも子どもらが学べます。ここに来れば手もかじかまず、文字も覚えられるのです」
役人の一人は、その声を報告書に書き留めながら、胸に温かさを覚えていた。数字では表せぬ「安堵」が、確かに人々の顔に刻まれていた。
―――
一方、庁舎の裏庭では技師たちが次の実験を行っていた。雪を集めて氷室を作り、その冷気を夏の保存庫として活用する計画である。冬は暖を、夏は冷を――自然と技術を組み合わせる挑戦が、北の地で静かに進んでいた。
藤村に届いた電信には、榎本武揚の言葉が添えられていた。
《寒さに屈せぬ庁舎、整う。役人も民も冬を恐れず、執務と暮らしを続けている。北方の地も、もはや本州に劣らぬ行政が可能となった》
報告書を読んだ藤村は、しばし目を閉じて深く息を吐いた。
「人を守るのは剣や砲だけではない。暖かさもまた、最大の兵である」
―――
夕刻、札幌庁舎の窓からは、赤々とした光が漏れていた。外は吹雪であったが、中では役人たちが机に向かい、帳簿を広げ、電信を打ち、法令を策定していた。
――北の大地で初めて、冬でも止まらぬ行政が実現した。
それは単なる設備投資ではなかった。文明の力で自然を制御し、人の営みを止めないという宣言であった。
江戸城学問所の一室。冬の冷気が障子の隙間から忍び込んでいたが、室内には数十名の若者たちの熱気が立ちこめていた。机の上には分厚い帳簿や統計表、そして炭鉱から送られてきた最新の技術資料が並んでいる。
講壇に立つのは慶篤であった。彼は黒板に大きく円を描き、その周囲に「冬備え」「資源」「労働」「行政」と書き込んでいった。
「冬の備えを怠れば、炭鉱は止まり、行政も止まる。だが備蓄を厚くし、働き手を守り、資源を安定供給すれば、冬こそが力を増す時となる」
声は澄んでおり、筆先は迷いなく動いた。彼は数字を用いて説明を続けた。
「一日あたり五百人の労働者に食を与えるには米三十俵。もし備蓄が不足すれば、作業は一週間で停滞する。しかし今、北海道では備蓄倉庫が整備され、労働者は冬でも途切れぬ糧を得ている。数字で見れば一目瞭然だ。資源政策は“冬を制する”ための戦である」
聴衆の若い役人たちは一斉に頷き、必死に筆を走らせた。
―――
同じ日、別の講義室では昭武が立っていた。机の上には欧州から取り寄せた炭鉱技術書と、ドイツやイギリスの採掘器具の模型が並べられている。
「諸君、これはザール炭田で用いられている支柱だ。木材ではなく鉄材を用いることで、落盤の危険を大幅に減らしている。日本でも羽鳥製鉄所の鉄を活用すれば、同じ仕組みを導入できる」
彼は模型の支柱を指で叩き、音を響かせた。
「さらに、送風機の技術はイギリスが先んじているが、我らもすでに横須賀で蒸気送風を実用化した。つまり、海外の技術は“学ぶ”ためにあり、我らは“自らの土”で改良し、凌駕するのだ」
学生の一人が手を挙げた。
「欧州の技術をそのまま持ち込むのではなく、日本に合う形に変える……それが大切なのですね」
昭武は力強く頷いた。
「その通りだ。冬の寒さ、山の険しさ、労働者の暮らし。すべて我らの土地に合わせねばならぬ。技術は真似るものではなく、土に根を張らせるものだ」
―――
夕刻、二人の講義を終えた学問所の中庭には、まだ学生たちの議論の声が絶えなかった。黒板に描かれた数字の輪、机の上に置かれた鉄支柱の模型。それらは単なる学びではなく、冬の寒さを超えて国を進めるための武器であることを、誰もが理解していた。
藤村晴人はその様子を廊下から静かに眺め、胸の奥で思った。
――理論が道を示し、技術が現場を動かす。その二つが合わさって初めて、冬を超える力となる。
障子越しに響く学生たちの声は、初冬の夜に澄み渡り、まるで新しい時代の鐘の音のように響き続けていた。
江戸城西の丸、勘定所の奥に設けられた炭鉱管理室。窓の外には冷たい北風が吹きすさび、庭の木々はすっかり葉を落としていた。だが室内では灯明が明るく照らされ、机の上には北海道から送られてきた分厚い帳簿が積み重なっていた。
その中心に座るのは、藤田小四郎であった。まだ若いながらも目は鋭く、指先は一枚一枚の帳簿を素早くめくり、羽根筆が紙面を走るたびに数字の列が整然と並んでいった。
「一トンあたりの採掘原価、銀一分八厘。運搬費を含めれば二分二厘。……しかし販価は二分八厘。差益は六厘――」
小四郎は低く呟き、算盤の珠を弾いた。帳簿を見守る勘定方の書役たちが顔を見合わせる。
「ここ数年で、炭鉱経営をここまで細かく分析した者はおりません」
「数字がそのまま現場の改善に繋がるとは……」
小四郎は筆を止めず、きっぱりと言い切った。
「資源は尽きる。だが数字は尽きぬ。数字で現場を測れば、どこに無駄があるか一目で分かる。たとえば――」
彼は別の帳簿を開き、指で叩いた。
「送炭路で牛車を使う区間、積載量にばらつきがある。平均すれば三割の余力が眠っている。車軸の改良を進めれば、一日に二十俵分多く運べる。これは数字が教えていることだ」
居並ぶ役人たちは唸り、小四郎の若さを忘れるほどの迫力を覚えた。
―――
その夜。藤村晴人は小四郎を呼び、二人だけで帳簿を前にした。火鉢の炭が赤々と燃え、外の寒気が障子を震わせている。
「小四郎……数字は刃物のようだな」
藤村の言葉に、小四郎は即座に答えた。
「はい、殿。研ぎ澄ませば人を救い、鈍れば国を殺す。だから私は研ぎ続けます」
藤村はしばし黙し、小さく頷いた。
「そなたの才を得て、広域統治も確かに形を成しつつある。遠く離れた北の炭鉱を、ここ江戸で正確に掌握できるのは、数字と人の力があるからだ」
小四郎は深く頭を下げた。
「殿の信を裏切ることなく、数字をもって現場を変え続けてまいります」
―――
翌日。再び管理室には多くの書役が集められ、小四郎が講義を行った。
「諸君、これが羽鳥州炭鉱の原価表だ。数字はただの記録ではない。改善の道を示す地図だ。一俵の石炭にどれだけの人手と銭がかかっているかを知れば、必ず策は立つ」
机に並べられた帳簿は、もはや退屈な数字の羅列ではなかった。そこに記された一行一行が、北の大地で働く労働者の汗であり、運搬路を行く牛の蹄音であり、燃え盛る炉の炎であると、誰もが感じた。
小四郎の声は続いた。
「一トンの石炭にも正確な原価計算を――それが国を強くするのだ」
その言葉に、若い書役の胸には熱いものが込み上げた。
―――
初冬の江戸城において、若き藤田小四郎の姿は、数字で国を動かす新しい時代の象徴となっていた。
その年、江戸にも早い初雪が訪れた。朝から降り続いた細かな雪は、昼には庭一面を覆い、松の枝を白く染め上げた。冷気に引き締まった空気の中、藤村邸の庭には子どもたちの笑い声が響いていた。
義信は袖をまくり上げ、小さな手で雪を丸めると、算盤のように器用に形を整えていった。
「見て、これが正しい球体だ」
雪玉を掲げるその目は真剣そのもので、まるで雪遊びすら幾何学の実験の一部であるかのようであった。
久信はそんな兄を笑いながら追いかけ、雪玉を胸に抱えて走り回った。
「僕のは大砲だ!」
そう言って雪を放ると、白い軌跡が空を走り、松の幹に当たってぱっと砕け散った。頬を赤らめ、息を白くしながら笑うその姿は、冬の寒さをものともしない元気そのものだった。
屋敷の縁側では、産着に包まれた義親が、篤姫の腕に抱かれていた。わずか三か月の命は、囲炉裏のぬくもりに守られ、母の胸に安らかに眠っている。小さな寝息に合わせて、篤姫は穏やかな微笑みを浮かべた。
「この子が大きくなる頃には、もっと豊かな国になっているのね」
お吉は雪見障子を少し開け、庭を眺めながら呟いた。
「義信様は学の才、久信様は人の心を惹きつける力。そして義親様は……きっと二人を超える器になるでしょうね」
―――
その日の夕刻、勘定所から北の便りが届いた。札幌の役人からの電信報告である。
「炭鉱、今年の産出高さらに増。収益も順調」
藤村は書状を読みながら、庭の雪景色に目をやった。白銀の世界に子どもたちの声が重なり、ふと胸の奥に確かな思いが広がった。
――北の炭鉱が国を温め、江戸の囲炉裏が家族を温める。その二つはつながっている。
囲炉裏の火がぱちりと音を立て、外の雪がしんしんと降り続いていた。家の中にはぬくもりと笑い声が満ち、国の未来もまた温かさに包まれているかのようであった。
初冬の江戸城、西の丸評定所。広間の中央に広げられた地図には、樺太南部から宗谷海峡に至るまでの海岸線が詳細に描き込まれていた。朱筆で記された印は、移住予定地と漁場を示している。
「樺太への漁民移住計画、第一陣は来春出立の予定です」
報告を行ったのは榎本武揚の使者であった。彼の声は冷たい空気を震わせ、集まった役人や代官たちの胸に重く響いた。
藤村晴人は地図を見下ろし、扇を閉じて静かに言った。
「人が住み、働く場所にしてこそ真の領土だ。ただ線を引くだけでは、絵に描いた餅にすぎぬ。漁を営み、畑を拓き、子を育てる者がいて初めて国土となる」
ざわめきが起こった。遠い寒冷地への移住は人々にとって大きな冒険である。しかし藤村の言葉は、単なる理屈ではなく未来を見据えた確信に満ちていた。
―――
札幌からの追加報告も届けられた。
「石炭生産は拡大を続け、来年にはさらに二割増の見込み。労働者の住環境改善も進み、病による欠勤は大幅に減少」
藤村は頷き、筆を執った。
「一トンの石炭を掘るごとに、国の灯が一つともる。労働者を守ることが、国を守ることに直結する」
やがて評定所の窓外に、初雪がちらついた。白い光が地図に落ち、北の大地の冷たさを思わせたが、その冷たさの奥に眠る豊かさを人々は感じていた。
―――
その夜、藤村邸。囲炉裏を囲んで家族が集う中、北の話題が出た。
「父上、樺太の地図はとても大きいですね」
義信が算盤を置いて言った。
久信は瞳を輝かせ、声を重ねた。
「ぼく、大きくなったら行ってみたい。雪の国で魚を獲って、みんなと暮らしたい」
篤姫は微笑みながら産着の義親をあやした。赤子は母の胸に抱かれながら小さく息を吐き、まるで未来の北方を夢見るかのように眠っていた。
藤村は二人の息子を見やり、静かに語った。
「遠い北も、ここ江戸も、同じ国の一部だ。お前たちの代には、もっと近くなるだろう」
囲炉裏の火がぱちりと鳴り、北風が障子を揺らした。外の寒さとは裏腹に、家の中には未来への温もりが満ちていた。