198話: (1872年10月/秋) 秋雨と外交文書
十月の江戸は、しとしとと降り続く秋雨に煙っていた。瓦屋根を打つ雨音が一日中止むことなく続き、石畳はぬかるみを抱え、町の人々は蓑をかぶり、草履の鼻緒を濡らしながら往来を急いでいた。市場では、並ぶ野菜の葉が濡れて色を失い、干し物は店先から慌てて引き上げられている。
藤村晴人は、江戸城西の丸にある執務室の窓から、その灰色の町の景色を眺めていた。眼下を走る堀も、いつもなら澄んだ水面に空を映すが、この日は雨脚に打たれ、波立つばかりだった。
「殿、各地から米作への被害報告が相次いでおります」
渋沢栄一が濡れた合羽を脱ぎながら、分厚い帳簿を広げて声を掛けた。紙面に記された数字は無情だった。信濃、甲斐、出羽……いずれも降り止まぬ長雨で収穫が三割から四割減という報告が並ぶ。農村の疲弊は必至であり、これを放置すれば来春までに餓える村も出かねない。
「備蓄米を放出せねばなるまい」
藤村は即座に決断を下した。
「米はただ倉に眠らせるためにあるのではない。飢える民を救うためにこそ積んだものだ」
そう言い放つと、傍らの代官が進み出て深々と頭を下げた。
「御意。しかしながら、米を放出するとなれば、価格の乱高下が……」
藤村は首を振った。
「それなら現銀換算で一部を資金化し、流通に回せばよい。米も金も、どちらも同じ“国の資産”だ」
この言葉に場の空気が変わった。従来の発想では、米は米、金は金と別物として扱われていた。しかし彼は、米をも資産の一つと捉え、臨機応変に用いることを示したのだ。
「米蔵を守るために人が餓えるなら、本末転倒である。備蓄制度の真価は今こそ試されている」
その言葉に、重臣たちは一斉に頭を垂れた。
―――
城下にある備蓄米庫の門が開かれたのは、その翌日のことである。雨に濡れた農民たちが列をなし、俵に詰められた米を受け取る。彼らの顔には安堵の色が広がった。
「助かった……これで冬を越せる」
「殿様の倉から米が出たと聞いたときは夢かと思ったが……」
人々は米俵を背に担ぎながら、ぬかるんだ道を笑みと共に歩いて行った。
一方で、勘定所では放出した米の一部が現銀に換算され、緊急資金として江戸や地方へ配分されていた。出費ではなく、循環。藤村が唱えた「資産としての米」は、確かに生きて働き始めていた。
―――
雨音が止むことのない江戸城で、もう一つの大事業が動き始めていた。外交文書館の設立である。
西の丸の一角に新たに建てられた木造二階建ての建屋は、まだ白木の香りが漂っていた。入口には「外交文書館」と記した新しい看板が掲げられ、雨に濡れた瓦の下で黒々とした文字が光っていた。
「外交は記録が命だ」
館の開館式で、藤村はそう宣言した。
「一度交わした約束は、人の記憶に頼るべきではない。正確な文書こそが未来を守る。曖昧な記録は、必ずや禍根を残す」
参列した官僚や通詞たちは真剣な面持ちで頷いた。これまでの外交交渉は、使者の記憶や散逸した記録に頼る部分が大きかった。過去の約束を遡れず、誤解や混乱が生じることも少なくなかった。
新たに設立された文書館は、交渉記録、調印条約、通商文書を体系的に保管し、必要に応じて即座に検索できる体制を備えていた。館長に任じられた老練な役人は、棚に並ぶ文書箱を前にして感嘆の声を上げた。
「これで、過去の交渉経緯も瞬時に確認できる。記録の力は、戦に勝るとも劣らぬ」
―――
秋雨の冷気が忍び込む中、藤村は外交文書館の閲覧室に立ち、机の上に広げられた条約の写しを見つめていた。インクの匂いと紙の擦れる音だけが静かに響く。窓の外では雨粒が格子を打ち、絶え間なく水滴が流れ落ちていた。
「雨は一時的だ。しかし、ここに残された記録は永遠だ」
彼の独白は、重くも確かな響きを持って室内に広がった。
その瞬間、未来の外交の基盤が確かに築かれたのだった。
外交文書館の新築から数日後。雨脚は弱まる気配を見せず、瓦を打つ音が昼も夜も続いていた。江戸城の中庭に立つ松も、雨水に打たれて枝を震わせている。
その日、文書館の閲覧室には分厚い書類が山と積まれていた。机の上には英語、仏語、露語で書かれた通商条約の原本、交渉経緯を記した報告書、通訳の草稿などが散乱していた。通詞たちは肩を寄せ合い、翻訳の擦り合わせに余念がなかった。
「この条項、“most favored nation treatment”は、最恵国待遇の意か」
「だが、この文言のままでは誤解を生む恐れがある。どう訳すべきか……」
若い通詞たちが声を交わす。
そこへ、藤村晴人が姿を現した。濡れた裃の裾を払いつつ、静かに机の上の草稿を手に取った。
「“通商における均しの扱い”と記せ。難しい言葉より、農民でも商人でも理解できる平易な言葉がよい」
場の空気が引き締まった。曖昧さを排し、誰にでも通じる日本語で記す――それは彼がかねてから唱えてきた理念であった。
「外交は一部の者だけのものではない。国民の名において交わされる以上、国民が理解できる言葉で残さねばならぬ」
通詞たちは深く頷き、筆を走らせた。
―――
奥の保管室では、木製の書棚が壁一面に並び、鉄製の鍵がかけられていた。職人たちが防湿のために炭を詰め、紙魚を防ぐ薬草を敷いている。湿り気を帯びた秋の空気の中で、書棚は新しい生命を宿したように凛と佇んでいた。
「この一枚の紙が、国を動かす」
渋沢栄一が隣に立ち、低い声で呟いた。彼は先ほどから条約草稿の数字を睨み、関税率や港湾規則の記述を確認していた。
「数字の一筆が、何万両もの歳入を左右する。ゆえに記録は戦と同じ重みを持つのですな」
藤村は小さく頷いた。
「戦場で刃を交えるより、机上の数字と文言を整える方がよほど難しい。だが、その難しさに耐えねば国は守れぬ」
―――
午後には、外交文書館の講義室で慶篤が若い役人たちを前に講義を行っていた。黒板には「分類」「保存」「検索」と大きく三つの文字が書かれ、それぞれに矢印が引かれている。
「文書は積むだけでは宝の山とはならぬ。整理され、誰もが取り出せる形にして初めて力となる。分類とは秩序、保存とは継続、検索とは未来だ」
講義を聞く若者たちの目は真剣であった。
別室では昭武がフランス語の外交記録を机に並べ、翻訳作業を実演していた。
「こちらは仏国の条約文。イギリスの文書と比べよ。似ているが、細部に差異がある。ここを誤れば、後世に争いを残す」
彼は指先で文字を示し、学生たちは息を呑んでその作業を見守った。
―――
雨は弱まるどころか、ますます激しさを増していた。だが、その雨音に包まれる外交文書館の内部は、熱気に満ちていた。
記録を守る者、翻訳を担う者、理論を説く者――それぞれの役割が一つになり、日本の未来を支える礎が築かれていったのである。
秋雨はやむ気配を見せず、江戸の町には水の匂いが満ちていた。外交文書館の窓からも、雨粒が幾筋も流れ落ちている。だが、その静かな建物の奥では、未来へとつながる新しい学びが芽吹いていた。
その日の夕刻、藤村邸の広間では、子どもたちが囲炉裏の傍に集められていた。篤姫がゆっくりと座り、義信と久信がその隣に腰を下ろす。膝の上には、まだ産着に包まれた義親が眠っていた。
義信は机の上に広げられた世界地図に目を輝かせた。色鮮やかに塗り分けられた地図には、ヨーロッパからアジア、そして太平洋の島々までが描かれていた。彼の小さな指先が、イギリスの島をなぞる。
「母上、この国とは、どんな約束をしているのですか」
その問いに、篤姫は一瞬ためらい、傍らに控えていたお吉に視線を送った。お吉が柔らかく答えた。
「イギリスとは港を開いて、品物をやり取りする約束をしています。綿や機械を受け入れ、こちらからは茶や絹を送るのです」
義信はすぐに理解し、地図の横に簡単な図を描いた。船が日本から西へ進み、イギリスへ茶箱を届ける姿である。
「つまり、約束は船の道を作ること……」
彼のつぶやきは、すでに外交の本質に触れようとしていた。
その隣で、久信は外交文書館から持ち帰られた見本の印章を手にしていた。朱肉に押された複雑な模様を指でなぞり、不思議そうに首をかしげる。
「どうしてこんなに難しい形をしているんだろう」
お吉が微笑んで答える。
「簡単に真似されないようにするためです。印章は国と国とを結ぶ“証文の鍵”なのです」
久信は目を丸くして頷き、紙に自分なりの模様を描いてみせた。
「僕ならこうする。波の形にして、すぐ分かるように」
その素朴な発想に場の空気が和み、篤姫も笑みをこぼした。
義親は母の膝の上で静かに眠り続けていた。雨音に混じって聞こえる兄たちの声に反応するかのように、小さな手がぴくりと動く。篤姫はその手を包み込み、やさしく揺らした。
「この子が成長する頃には、もっと多くの国と約束を交わしているのでしょうね」
義信が真剣な顔で答えた。
「その時は、僕が記録を読んで説明します」
久信も負けじと声を張った。
「僕は、約束が守られるように見張るんだ」
篤姫は二人を交互に見つめ、やわらかく微笑んだ。
「知と信――二つがそろえば、きっと未来を守れるでしょう」
外では雨が静かに降り続いていた。だがその室内には、未来への小さな火が確かに灯っていた。外交の現場で積み上げられる記録と、幼い子どもたちの好奇心――その両方が、日本の新しい時代を形作っていくのであった。
秋雨のしずくが石畳を濡らし、外交文書館の前庭には水たまりがいくつもできていた。その奥、静かな会議室では、灯火の下で数枚の地図が広げられていた。緑の線で引かれた境界線は、樺太の北と南を分けている。
「こちらがロシア側の提示した境界案です」
通訳官が差し出した文書を、藤村晴人はじっと見つめた。紙の上には、太い筆跡で「三十八度以北」と記されている。会議に列するのは榎本武揚を筆頭とする北方担当官たち。榎本の横顔には、長年海を相手にしてきた男らしい固い決意が刻まれていた。
榎本が声を低める。
「ロシアはこれまでにない譲歩を示してきています。だが、彼らの狙いは資源の独占です。炭鉱や漁場を我らの手から外させないためにも、こちらの主張をはっきりさせねばなりません」
藤村は頷き、扇の先で地図を指した。
「国境は曖昧ではならぬ。文書に残らぬ約束は、やがて争いの種になる。いま築いている外交文書館も、そのための器だ。百年後に見返しても、どちらの主張が正しかったか明確に示されねばならぬ」
その場に沈黙が落ちた。雨音だけが障子の外から聞こえてくる。
榎本は大きく息を吐き、地図を回して全員に見せた。
「樺太の南部、特に大泊から亜庭にかけては、日本の漁民が代々暮らしている。ここを守れぬようでは、北方統治の正統性そのものが揺らぐ」
若い役人が不安げに口を開いた。
「しかし、強硬に出れば交渉が決裂する危険も……」
藤村はすぐに答えた。
「強硬ではなく、確実にだ。数字と記録で裏付けを示せば、ロシアも退けぬ。人口調査、交易記録、税収の台帳――すべて証拠だ。外交は声を荒らげることではなく、証文を積み重ねることだ」
その言葉に、役人たちの表情が少しずつ引き締まっていった。
―――
会議が終わると、藤村は外交文書館の奥に足を運んだ。薄暗い部屋には、すでに何十冊もの交渉記録が整然と並べられていた。革張りの背表紙には「露西亜交渉」「英吉利通商」などの文字が金文字で刻まれている。
「これらの記録が、未来を守る盾となる……」
藤村は背表紙に手を触れ、静かに呟いた。
外では雨が小降りになり、瓦を打つ音がやや柔らかくなっていた。だが彼の胸の内には、嵐のような緊張感が残っていた。北の国境を定める作業は、単なる線引きではない。国家の未来を形作る仕事なのだ。
秋雨に濡れた江戸城から戻ると、藤村邸の障子には、灯火の柔らかな明かりが揺れていた。庭の松はしっとりと濡れ、雨粒が軒から細い糸のように滴り落ちている。
「お帰りなさいませ」
篤姫が迎えに出た。膨らみ始めた腹を気遣いながら歩く姿は、どこか穏やかで、雨の冷たさを和らげるようであった。
広間では義信が大きな世界地図を広げていた。海と陸が青と茶で彩られ、国境線には小さな旗印が書き込まれている。義信は真剣な眼差しで父を見上げた。
「父上、この国とはどんな約束をしているのですか」
藤村は濡れた羽織を脱ぎながら微笑んだ。
「約束とは、未来を守る縄のようなものだ。しっかり結べば解けにくいが、結び方を誤ればすぐに千切れる」
義信は考え込むように地図に視線を戻した。その横で久信が、机に置かれた外交印章の写しを指差した。
「この模様はどうしてこんなに複雑なんだろう」
「偽りを防ぐためだ。文書の力は、その印の重みによって守られる」
藤村の答えに、久信は「ふうん」と声を漏らし、指先で模様をなぞった。幼いながらも、数字だけでなく形にも関心を示している様子であった。
その横で、産着に包まれた義親が母の膝に抱かれて静かに眠っていた。雨の音に合わせるように、かすかな寝息が規則正しく響く。
篤姫は赤子の顔を見下ろしながら、そっと口にした。
「この子が成長する頃には、父上の交わした文書が国を守るのですね」
藤村は妻と子らを見渡し、胸の奥に静かな決意を抱いた。
――外交の記録も、家族の記録も、未来を支える礎である。
雨はまだ降り続いていたが、邸内には確かな温もりが広がっていた。
秋雨が石畳を濡らし、城下の町にはしとしとと雨脚が続いていた。江戸城の奥、外交文書館の広間では、灯火の下に積み重ねられた厚い綴りが規則正しく並んでいた。羊皮紙に記された欧州の交渉記録、和紙に写された条約草稿、朱印の押された誓約文――そのすべてが、一国の歩みを証す重みを帯びていた。
藤村晴人は机の前に立ち、一枚の文書を手に取った。そこにはロシアとの境界交渉の詳細が克明に記されていた。雨音が遠くに響く中、彼はゆっくりと声を落とした。
「雨は一時のものだ。だが文書に刻まれた記録は永遠に残る。この一枚が、十年後、百年後の日本を守る」
傍らにいた坂本龍馬が、濡れた羽織を脱ぎながらにやりと笑った。
「なるほどのう。剣を抜かんでも、紙一枚で戦を止められる。こりゃあ、銃よりも強い武器ぜよ」
藤村は頷き、机に文書を丁寧に戻した。
「だからこそ、記録を誤ってはならぬ。一つの言葉が、国の未来を左右する」
龍馬は文書館の棚を見渡し、肩をすくめた。
「土砂降りの雨も、こうして帳面に残せば後の世に伝わる。雨のしずくはすぐ消えるが、記録は国を繋ぐ鎖になる。……坂本龍馬が保証するぜよ」
その言葉に場の空気が和らぎ、通信士や書役たちの顔にも笑みが浮かんだ。
窓の外では、雨脚が少しずつ弱まっていった。秋の雨雲の切れ間から、淡い月明かりが差し込み、書棚に積まれた文書の背を照らした。
藤村は深く息を吸い込み、胸に刻んだ。
――記録こそが、この国の未来を守る最大の盾である。