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197話(1872年9月/初秋)秋の田と鉄道杭

初秋の羽鳥平野。空は高く、白雲が羊の群れのように浮かんでいた。稲穂は黄金に染まり、風が吹けば波のように揺れてざわめく。稲刈りを迎えた田のあぜ道には、村の衆が集まり、紅白の幟がはためいていた。今日はただの収穫祭ではない。田を刈る鍬の音と、鉄を打つ槌の音が同時に鳴り響く、歴史的な日なのであった。


 藤村晴人は裃姿で広場の中央に立った。背後には収穫した稲を積み上げた高積俵が並び、その向こうには、羽鳥から水戸へ伸びる鉄道の線路工事現場が見える。まだ半ばまでしか敷かれていない銀色のレールは、陽光を反射してまぶしく輝いていた。


 「殿、準備整いました」

 工事責任者の技師が深々と頭を下げる。鍛冶屋たちが真新しい鉄杭を抱え、傍らには槌を構えた工夫たちが列をなしていた。


 藤村は集まった農民、職人、町人、そして視察に来た役人や学者たちを見渡した。ざわめきが一瞬止まり、空気が張りつめる。


 「皆の衆――」


 声が広場全体に響き渡った。


 「稲を刈る手と鉄を打つ槌。形は違えど、どちらも日本の豊かさを作るものだ」


 農民たちの顔に笑みが浮かぶ。工夫たちも互いに頷き合った。


 「農が命を養い、工が道を拓く。今日、この場において二つの力を一つに重ね、新しい国の姿を示そうではないか!」


 その言葉に、人々は一斉に拍手を送った。


―――


 まずは収穫祭が始まった。農夫たちが鎌を振るい、熟した稲を刈り取る。ざく、ざく、と規則正しい音が響き、稲が倒れるたびに黄金の穂がさらさらと音を立てた。


 「今年は豊作だ!」

 年配の庄屋が声を張ると、農民たちは笑い合いながら俵を積み重ねた。子どもたちがその周りを走り回り、母親たちは新米で作った団子を配っていた。香ばしい米の匂いが広がり、祭り囃子の太鼓が打ち鳴らされる。


 その光景を横目に、工夫たちは杭を運び、線路の脇に並んだ。彼らの足元には、掘り下げられた地面があり、杭を打ち込む準備が整えられている。


 「始めよ!」


 藤村の号令で、鉄槌が一斉に振り下ろされた。ごん、ごん、と腹の底に響く音が大地を揺らす。農夫たちの鎌の音と交わり、田と鉄路のリズムがひとつの旋律を奏でるようであった。


―――


 「こりゃ不思議なもんだな……」

 若い農夫が隣の工夫を見ながらつぶやく。


 「俺たちは米を刈り、お前たちは鉄を打つ。だけど同じ大地を耕してるんだな」


 工夫が笑って答える。

 「そうさ。俺たちも飯がなきゃ働けん。お前たちの米があるから、俺たちは鉄を打てる」


 二人は笑い合い、再びそれぞれの仕事に戻った。農と工、互いの労苦を認め合う姿は、まさに藤村の言葉を具現化していた。


―――


 藤村は線路の前に進み出て、鉄杭を一本手に取った。槌を構えると、広場が静まり返った。


 「この杭は未来への杭だ。ここから道は広がり、米は遠くの市場へ運ばれるだろう。知も技も人も、この鉄路で結ばれる」


 槌が振り下ろされ、響き渡る音が田園にこだました。人々の胸に熱が広がる。


 「おおっ!」


 歓声が一斉に上がり、拍手が沸き起こった。


―――


 式典の終盤、収穫された稲と打ち込まれた鉄杭を前に、藤村は再び口を開いた。


 「今年の豊作を、来年の交通に投じる。この循環こそが日本を強くする。農の収穫は工の基礎となり、工の発展は再び農を豊かにする」


 集まった人々の表情に、確かな希望の光が宿っていた。農民は収穫の喜びを、工夫は未来の鉄路を、それぞれ心に描いていた。


―――


 日が傾き、夕暮れが迫る頃。黄金の稲穂の波と、銀色のレールが並んで夕日に輝いていた。自然と人の営み、伝統と革新が重なり合う光景。


 藤村は静かに呟いた。

 「ここに日本の未来がある」


 その言葉は秋の空に溶け込み、人々の胸に深く刻まれた。

翌日、羽鳥城の勘定所。木の机の上には、各地から届いた収穫高と専売益の報告が山と積まれていた。帳簿を開くと、今年の豊作を示す数字が力強く並んでいる。


 「米収穫、昨年比一二%増。桑畑からの繭収益も一割増し。さらに、塩と鉄の専売益を合わせて……」


 渋沢栄一が声を張ると、書役たちが一斉に息を呑んだ。


 「鉄道基金への繰入、二万八千両可能でございます」


 広間にざわめきが走る。農民が汗を流して得た豊作の収益と、専売制度による安定した利益が重なり、大きな資金となって積み上がった。


 藤村晴人は帳簿に目を落とし、扇を軽く開いた。

 「今年の豊作を来年の鉄路に換える。今日の稲が、明日の鉄を生むのだ」


 その言葉に、場の空気が引き締まる。


―――


 午後、羽鳥港にて。白い帆を張った船から、俵と鉄塊が次々と荷揚げされていた。港の一角では、新しく設けられた「鉄道基金倉庫」の扉が開かれ、米俵が積み上げられていく。俵の脇には専売益からの銀貨が詰まった木箱も並べられ、係役人が印を押していた。


 「殿、この倉庫に納められた分は、すべて鉄道建設に充てられます」

 港奉行が深く頭を下げる。


 藤村は俵の山を見上げ、静かに呟いた。

 「米は食を満たすだけではない。国を動かす力に変わる。農と工は、ここで一つになる」


 港を吹き抜ける風が、稲俵の藁を揺らし、金属の匂いを運んできた。


―――


 勘定所に戻ると、代官の一人が恐る恐る口を開いた。

 「殿、しかし専売益を鉄道に回せば、手元に残る金は少なくなります。災害や不作があった場合……」


 藤村は扇を閉じ、鋭く答えた。

 「溜め込むだけでは国は痩せる。回して初めて血は巡り、国は強くなるのだ。もし不作の年が来たなら、その時は鉄路が米を運び、足りぬ地を助けるだろう」


 代官は深く頭を垂れ、言葉を失った。


―――


 夕刻、羽鳥城の広間で布告が読み上げられた。


 「今年の豊作による増収、および専売益の一部を鉄道基金に追加拠出する。これは農と工の両輪を回すものであり、次代に富を譲るための策である」


 布告を聞いた町人や農民からは驚きと共に歓声が上がった。

 「わしらの稲が鉄道になるのか!」

 「来年は江戸まで早く米を売りに行けるかもしれん!」


 人々の顔には、汗の実りが国の未来に繋がっているという誇りが浮かんでいた。


―――


 夜更け。藤村は一人、城の庭に立ち、星空を仰いだ。


 「今年の稲は人を養い、明日の鉄は国を動かす。数字は冷たく見えて、実は温かい」


 月明かりが白く庭を照らし、遠く線路工事の槌音が微かに聞こえていた。それはまるで、未来が静かに息づいているかのようであった。

初秋の朝。羽鳥城下の広場に、竹の飾りと白布が張られた特設台が組まれていた。その背後には、これから建てられる羽鳥駅舎の敷地が広がっている。地縄が張られ、木杭が打ち込まれた地面は、まだ土の匂いを濃く漂わせていた。


 集まった農民や町人の目は、皆その場所に注がれていた。彼らにとって「駅」とはまだ馴染みのない言葉だった。だが今日、この場で初めて「鉄道の心臓部」となる拠点が誕生しようとしていた。


 壇上に立った藤村晴人が、ゆっくりと人々を見渡した。


 「駅は、ただ人が乗り降りする場所ではない。ここから物が集まり、ここから人が動き、ここから情報が広がる。駅は、町を育てる心臓である」


 その言葉に、群衆から小さなどよめきが起こった。


―――


 儀式が始まった。木槌を手にした藤村が地鎮の杭を打ち込むと、低い音が大地に響いた。続いて渋沢栄一、地元代官、商人代表が順に槌を振るった。


 「この杭が駅の礎となる。これからここに建つのは、単なる停車場ではない。市場であり、学び舎であり、人々が集う場所となるだろう」


 藤村の言葉に、商人たちは互いに顔を見合わせ、農民は子どもを肩車してその光景を見せた。


 「駅ができれば、米を江戸に運ぶのも楽になる」

 「布を積んで横浜まで……夢ではない」


 人々の声が次第に熱を帯びていった。


―――


 起工式の後、簡易の図面が広げられた。屋根は寄棟造りで、格子窓を多く配し、待合室には木製の長椅子が並ぶ予定。表口には大時計を掲げ、時刻を町中に知らせる仕組みを採用する。


 「正確な時間があれば、商いの約束も狂わぬ。駅の時計は、町全体の秩序を整える役割を担うのだ」


 設計を担当した技師が説明すると、居並ぶ町人が感嘆の声を漏らした。


―――


 夕刻、藤村は広場の片隅に立ち、杭打ちの跡を見つめていた。そこにはまだ何も建ってはいない。だが彼の目には、すでに駅を中心に栄える未来の町並みが浮かんでいた。


 「駅は鉄路の心臓であると同時に、町の鼓動でもある。ここから人が集まり、ここから未来が広がる」


 暮れゆく空の下、地面に刻まれた杭の列が、まるで新しい時代の脈動を示しているように思えた。

江戸城学問所。窓の外には黄金色に染まった稲穂が風に揺れ、遠くからは杭打ち工事の槌音がかすかに響いていた。室内の黒板には、大きく描かれた「稲穂」と「鉄路」の図。講壇に立つ慶篤は、その二つを矢印で結んだ。


 「鉄路は米の道である」


 彼の声が、張り詰めた空気を揺らした。


 「稲を収穫しても、田の片隅に積まれているだけでは価値を生まぬ。市場に届き、人の口に入って初めて糧となる。鉄路は、その流れをつなぐ血管である」


 学生たちは真剣な眼差しで耳を傾けた。農家の子も、町人の子も、士族の子も、同じ机に並び、同じ言葉を飲み込んでいた。


 慶篤は黒板に新しい図を描いた。田から駅へ、駅から港へ、港から都市へと矢印が伸びる。


 「稲を刈る鎌と、杭を打つ槌は、どちらも国を支える道具だ。農と工は対立せず、相補い合う。これを理解せぬ者に、真の政治はできぬ」


 ざわめきが走った。


―――


 別室では、昭武が欧州から取り寄せた地図を広げていた。線が蜘蛛の巣のように走るイギリスの鉄道網、産業革命を支えた石炭輸送の経路が赤で記されている。


 「欧州では、鉄路が農村を変えた。小麦や牛乳は鮮度を保ったまま都市へ運ばれ、農民の暮らしは安定した。産業革命は蒸気機関車だけでなく、農産物流通の革命でもあったのだ」


 若い書役が恐る恐る問う。

 「では、日本の鉄道も……農を救うのですか」


 昭武は頷き、指先で線を江戸から大阪まで引いた。

 「日本は海に囲まれ、山が多い。道を繋げるのは困難だ。しかし鉄路は山を抜け、川を渡り、時間を縮める。米も布も魚も、同じ日に江戸に届く日が来る。それが人の暮らしを変える」


―――


 夕刻。講堂に戻った慶篤と昭武は、それぞれの講義を終えて机を並べた。


 「兄上、理論は人の心を動かしましたか」

 昭武が問いかけると、慶篤は静かに頷いた。

 「理論は遠いようで近い。稲を刈る者も、槌を打つ者も、自らの働きが国の仕組みにどう繋がるかを知れば、誇りを持つことができる」


 その言葉に、窓の外で鳴り続ける杭打ちの音が重なった。農と工、理論と実践。それらすべてが一つの響きとして胸に沁み込んでいく。

秋の夕暮れ、羽鳥の原野は祭りの後のように静かだった。杭打ち式を終えた鉄路の端には、まだ土と木の匂いが漂っている。そこに子どもたちの笑い声が響いた。


 義信は工夫たちから借り受けた測量器具を真剣な表情で覗き込んでいた。水平器の気泡をじっと見つめ、地面に杭を打った線がまっすぐに伸びていることを確かめる。


 「父上、線路は少しでも傾けば車輪が狂います。だからこの器具で測るのですね」


 まだ幼い声でありながら、理屈はすでに学者のそれだった。傍らにいた監督役の工師が目を丸くし、藤村に小声で漏らした。

 「まるで十年の経験を持つ技師のようですな……」


 義信は答えを待たずに、再び視線を器具へ戻した。瞳には未来の列車がまっすぐに駆け抜ける光景が映っているかのようだった。


―――


 一方、久信は木槌を肩に担ぎ、土の上で力いっぱい杭を打ち込んでいた。大人たちの動きを見よう見まねで繰り返し、汗をかきながらも笑みを絶やさない。


 「えいっ! ここにも線路をつくるんだ!」


 その声に周りの工夫が笑い、拍手が起こった。久信は額の汗を拭いながら、振り返って胸を張った。

 「僕も国を支える仕事ができる!」


 その素朴な一言は、見守る農夫たちや職人たちの心を温めた。知の義信に対して、久信は人々の心を掴み、自然に場を一つにする力を持っていた。


―――


 抱きかかえられた赤子の義親は、まだ生後間もない小さな体でありながら、杭打ちの響きに耳を澄ませているかのように目をぱちぱちと動かしていた。


 「義親も、この音を覚えているのかもしれないな」


 藤村がそう呟くと、篤姫は微笑み、そっと子を抱き寄せた。

 「この子が大きくなる頃には、この杭の上に鉄路が走り、汽笛が響いているでしょう」


 赤子は母の胸の中で、小さな手を握り開きしながら笑った。未来への約束に応えるように。


―――


 鉄路はまだ線の途中に過ぎない。だが、その線に触れた子どもたちは、それぞれの仕方で未来を掴もうとしていた。


 義信は知で線を描き、久信は力と心で杭を打ち、義親はその全てを受け継ぐ命として育まれている。


 藤村はその姿を眺め、胸の奥で思った。

 ――この小さな手と眼差しこそ、日本の未来を真に耕す力なのだ。

同じ頃、海を越えた朝鮮半島でも、一本の杭が打ち込まれていた。仁川近郊の野原に集まったのは、日本から派遣された測量士と現地の村人たちである。秋の空は高く澄み、風が黄金色の稲穂を揺らしていた。


 「では、こちらを持ってみてください」


 日本人技師が差し出した木槌を、若い朝鮮の農夫が恐る恐る手に取った。最初は戸惑いの表情を浮かべていたが、彼が杭を叩くと、周囲から拍手と歓声が起こった。


 「まっすぐだ!」

 「これなら列車も走れる!」


 通訳を介して伝わる言葉に、農夫は顔を赤らめ、笑みを浮かべた。これまで「異国の工事」と構えていた村人たちの表情も少しずつ和らぎ、子どもたちまでが杭の周りに集まって興味深そうに覗き込んだ。


―――


 杭打ちの合間、藤村から託された布告が読み上げられた。

 「この鉄路は征服のために造るのではない。人を結び、物を運び、生活を豊かにするために敷くのだ」


 その言葉に、村の長老がゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。

 「ならば、我らも協力いたしましょう。この道が我が孫の未来を明るくするのなら」


 現地の人々が進んで杭打ちに加わると、打ち下ろす槌の音が次第に合わさり、一定の律動を刻み始めた。それは田畑で聞く農作業の歌にも似て、働く者の心を一つにする響きだった。


―――


 その場に立ち会っていた日本の役人は胸の奥で深く息を吐いた。

 「力で押さえるのではなく、共に築く……これこそが真の統合かもしれぬ」


 杭の列はまだ短く、鉄路として形になるのは遠い先のことだ。だが、土に打ち込まれた一本一本の杭には、異なる国の人々が手を携えて築いたという記憶が刻まれていた。


―――


 夕暮れ。稲穂の金色と杭の銀色が重なり合い、秋の大地に長い影を落としていた。


 「日本と朝鮮を結ぶ鉄路は、いずれ大陸へと伸びるだろう」


 視察に立ち会った指導役はそう呟き、地平線を見つめた。その目には、一本の杭から始まる未来の道がはっきりと映っていた。

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