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196話: (1872年8月/晩夏) 誕生と黒字

晩夏の江戸の空は、まだ強い日差しを放ちながらも、どこか秋の気配を含んでいた。八百屋の棚には瓜や茄子が山のように積まれ、魚河岸には新鮮な鰯や秋刀魚が並んでいる。町は賑わいに満ち、商人たちの威勢のいい掛け声が響いていた。


 その中でも、とりわけ注目を集めていたのは「羽鳥織物」と染め抜かれた暖簾を掲げた店であった。藍と紅を基調とした布地が陽光を受けて艶やかに輝き、遠目からでも客の目を引く。


 「ほら見ろ、この織り目を。糸が均一で、しかも手触りが柔らかい。これなら海を越えても恥ずかしくない」

 「江戸で評判になったのも当然さ。値も手頃だし、西洋の絹にも劣らん」


 町人や旅の商人が口々に誉めそやし、手にした反物を光にかざしては感嘆の声をあげる。若い女性がためらいながらも財布を開き、正月用の晴れ着にと一反を抱え込むと、周囲の客が「良い買い物だ」と笑顔を見せた。


 その様子を少し離れた場所から見守っていた藤村晴人は、ゆっくりと頷いた。


 「羽鳥の地場産業育成が、ついに海外へも届く時代になったか」


 隣に立つ渋沢栄一が、目元に笑みを浮かべながら答える。

 「はい。先月、横浜経由で羽鳥織物がフィリピンへ輸出されました。現地の商館から追加注文の依頼も来ております。海外の商人たちも、羽鳥の織物を“Japan Cotton”と呼んで注目しているほどです」


 藤村は空を仰ぎ、真夏の雲の切れ間から射す光を見つめた。

 「数字は机の上だけで語るものではない。こうして人が銭を払い、家へ持ち帰り、満足げに家族と共に布を纏う――それが真の数字だ」


 その言葉に、渋沢も深く頷いた。

 「殿のお言葉どおりです。利益は単なる黒字ではなく、人々の暮らしに色を与える証明でもありますな」


―――


 その日、羽鳥織物の工房にも活気が満ちていた。大きな木造の建屋に、織機の規則正しい音が響く。


 「とん、とん、とん」


 若い職人が糸を送り込み、熟練の女工が柄を整える。汗を流しながらも、その表情には誇りが宿っていた。


 「旦那様、聞きましたか? うちの織物が、遠い国の港でも売られているんですって!」

 女工の一人が声を弾ませる。


 職人頭はうなずきながら、木綿と絹糸を合わせた反物を手に取った。

 「手を抜けば海の向こうまで届かぬ。けれどもこうして、丁寧に織れば世界に通じる。……俺たちの技が試されているんだ」


 工房の奥に掲げられた「品質第一」の墨書が、灯火に照らされて力強く浮かんでいた。


―――


 一方、江戸城の会議室では、役人や商人たちが集まり、羽鳥織物の輸出実績が報告されていた。


 「輸出契約、先月分で三千反。今月は五千反の見込み」

 「台湾を経由して東南アジアへ。すでに香港の商館からも問い合わせが来ております」


 報告を受けた藤村は、手にしていた扇を軽く叩いた。

 「よい。地方の産業が国を動かすのだ。羽鳥の織物は一つの例に過ぎぬ。他の地場産業も同じ道を歩めば、日本全体が強くなる」


 若い書役が感心したように声をあげた。

 「確かに、江戸の町で羽鳥織物を身につけた者を見ぬ日はございません。これがさらに海外へ広がれば……」


 藤村は頷き、声を強めた。

 「ただ売るだけでは足りぬ。品質を守り、信用を積み重ねねばならぬ。信用こそが国を豊かにする礎だ」


 その場にいた者たちは一様に背筋を伸ばし、国の未来が形を持ちはじめていることを感じ取った。


―――


 日が暮れる頃、藤村は羽鳥の工房を再び訪れた。炉の火が赤々と燃え、外では織り上がった反物が風に揺れている。町の子どもたちが布切れを振り回して遊び、母親が笑ってその手を叩いていた。


 「殿様!」


 工房の女工たちが駆け寄り、深々と頭を下げる。

 「この織物が遠い国で人々に喜ばれると聞き、胸が熱くなりました。どうかこれからも、この仕事を守らせてください」


 藤村は穏やかに微笑み、静かに言葉を返した。

 「守るのは私ではない。皆の手で織られる布こそが、この国を守るのだ」


 その声は夜風に乗り、工房全体に広がっていった。人々の胸に、未来への自負と誇りが確かに刻まれていた。


―――


 晩夏の夜空には月が昇り、羽鳥の織物を染める藍のように深い光を放っていた。藤村は空を仰ぎ、心の中で呟いた。


 ――産業の力が国を育てる。その実りは数字ではなく、人々の暮らしの中にこそ現れる。


 月明かりの下で、羽鳥の織物は静かに揺れ、日本の未来を映す旗のように夜風に翻っていた。

八月の終わり。江戸城西の丸、勘定所の広間には涼風を入れるために障子が開け放たれていた。庭の蝉の声がかすかに響く中、帳簿の山が机の上に積まれ、数十人の書役たちが筆を走らせていた。墨の香りと硯を擦る音が交じり合い、空気は緊張に満ちていた。


 渋沢栄一が一歩前に進み、帳簿を開いた。

 「今期決算――歳入は前年を大きく上回り、黒字確定でございます。幕府債務残高は、ついに二百余万両まで減少いたしました」


 その言葉が広間に響いた瞬間、ざわめきが広がった。


 「一千二百万両に膨れ上がった借財が……ここまで減ったのか」

 「十年二十年かけても返せぬと思っていたものを、わずか数年で……」


 年配の代官たちが顔を見合わせ、感慨深げに首を振った。


 帳簿の表紙には、赤々と「黒字」の二文字が記されていた。長く続いた「赤字」の烙印を押された帳簿を思い返す者にとって、それはまるで夢のような光景であった。


―――


 藤村晴人は席から立ち上がり、机に扇を軽く置いた。

 「数字は人を欺かぬ。これが我らの努力の証だ。だが忘れるな、黒字は余剰ではない。未来への投資である」


 その声は低く、しかし力強く広間に響いた。


 「黒字が出たからといって奢れば、すぐに消える。余った銭は道となり、学びとなり、国を支える礎とせねばならぬ」


 若い書役が思わず声をあげた。

 「しかし殿、これほど早く債務が減るとは、誰も想像しておりませんでした」


 藤村は頷き、広間を見渡した。

 「常陸州をはじめ、各地の黒字が国を押し上げた。羽鳥の鉄と織物、台湾の砂糖、札幌の石炭――その一つ一つが、この数字を支えている。国の富とは、一部の大都市にあるのではない。地方の力が積み重なってこそ、真の豊かさとなる」


―――


 その日、常陸州から届いた決算書も勘定所に並べられていた。


 「常陸州、歳入二十五万両、歳出十八万両、黒字七万両」


 読み上げられると、場の空気が変わった。地方の一州でこれほどの黒字を計上する例はかつてなかったからだ。


 渋沢が補足する。

 「織物、鉄、洋酒、煙草、武器、そして新薬ペニシリンの販売益が寄与しております。専売益と関税益を合わせた収益が、確実に州を支えております」


 「なるほど、黒字は絵空事ではないということか」

 「地方が国を救う時代になったのだな」


 代官たちが小声で語り合う。


―――


 広間の片隅にいた小栗忠順が、静かに口を開いた。

 「殿、確かに財政は健全化の途上にございます。しかし、余剰をどう使うかが真の勝負。黒字は道を誤れば浪費となり、国を蝕みましょう」


 その冷静な言葉に場が静まった。


 藤村は小栗を見据え、深く頷いた。

 「お前の言う通りだ。ゆえにこそ、黒字は投資に回す。鉄道、学校、研究所――この国の血肉となるものに」


 小栗の瞳が光り、口元にわずかな笑みが浮かんだ。

 「ならば、勘定奉行としても異存はございません」


―――


 夜、勘定所の広間に火が灯され、帳簿を片付ける音が続いていた。藤村は最後に残った書役たちに向け、穏やかな声で言葉をかけた。


 「お前たちの筆が、この国を変えた。数字は冷たいようでいて、そこに込められた汗と涙を裏切らぬ。……誇れ」


 書役たちの目に光が宿り、一斉に深く頭を下げた。


―――


 江戸の町もまた、財政健全化の恩恵を実感していた。


 「税が軽くなった分、店を広げられる」

 「子どもの学問所に銭を回せるようになった」


 町人や農民の声は、確かな変化を物語っていた。


 黒字という数字は、単なる帳簿上の記録ではなかった。それは人々の暮らしを変え、未来への道を照らす灯であった。


―――


 藤村は城を後にし、夜風に吹かれながら独り歩いた。晩夏の空には、秋を告げる月が冴え冴えと輝いていた。


 「借金に縛られた国から、未来に投資する国へ――」


 胸の奥でそう呟いたとき、遠く羽鳥の方向から織機の音が響くような気がした。その音は、確かに未来へと続く調べであった。

八月下旬の江戸城は、蝉の声が遠ざかり、秋の気配を含んだ風が石垣を渡っていた。西の丸大広間には、通常の政務の場とは違う華やぎが漂っていた。畳の上に整然と並べられた帳簿の山、壁際に立てられた大きな黒板には、太い筆で「財政報告」と書かれている。


 「これより黒字報告の儀を執り行う」


 老中が声を張ると、場に詰めかけた幕臣、代官、町年寄、さらに商人や農民代表までが静まり返った。従来、財政の数値は一部の勘定所役人だけが知る秘密であった。しかし今日は違った。藤村晴人の方針により、数字は公にされ、人々の前で語られる。


 壇上に立った藤村は、静かに帳簿を広げた。

 「今期決算、歳入は予測を上回り、黒字を確定した。幕府債務残高は二百余万両。かつて一千二百万両に及んだ借財は、わずか数年でここまで圧縮された」


 広間にざわめきが走った。


 「一千二百万が二百余万に……」

 「半信半疑であったが、実際に数字がここに示されている……」


 町年寄が感嘆の息を漏らし、農民代表が顔を見合わせた。誰もが信じられぬ思いだった。


―――


 渋沢栄一が壇上に進み出て、黒板に大きな円を描いた。円の中に「歳入」「歳出」「黒字」の三文字を書き込み、矢印で結んだ。


 「黒字とは、ただの余りではありません。ここから鉄道が建設され、学堂が建ち、橋が架かる。銭は血のように巡り、人々の暮らしを潤すのです」


 その説明に、農民代表が頷きながら声をあげた。

 「確かに、今年は税の取り立ても穏やかで、余った銭で子を学問所に通わせられました」


 商人の一人が続ける。

 「市も活気づきました。羽鳥の織物や台湾の砂糖が安定して入ることで、我らの商売も計算が立つようになったのです」


 広間の空気は次第に熱を帯び、人々の声が一つの合唱のように響き合った。


―――


 壇上の藤村は扇を閉じ、深く一礼した。

 「国の財は、為政者のものではない。国民の汗と労働が積み重なってできたものだ。ゆえにこそ、その成果を隠さず示し、共に喜ぶべきだ」


 その言葉に、場の誰もが心を打たれた。これまで政治は「遠いもの」とされ、庶民はただ税を納めるだけの存在だった。しかし今、彼らは国の成果を直接目にし、自らの生活に結びついていることを実感していた。


―――


 式の終盤、黒板の前に一人の若い書役が呼ばれた。彼は緊張した面持ちで立ち、墨の筆を取った。


 「これより、黒字額を記す」


 筆が走り、「黒字七万両」と大書された瞬間、広間に大きな拍手が湧き起こった。武士も商人も農民も身分を超えて手を叩いた。それは単なる数字ではなく、未来への希望を象徴する音であった。


 商人代表が口を開いた。

 「殿、この数字を見れば、我らも安心して投資できます。倉を建て、船を造り、さらなる商いに挑むことができる」


 農民代表も続けた。

 「我らも銭を貯え、灌漑を整える決心がつきました。数字が示されれば、人は迷わぬものです」


―――


 閉会後、藤村は大広間の片隅で小栗忠順と立ち話をした。


 小栗は微笑みながら言った。

 「かつて財政は密室の中に閉じ込められておりました。それをここまで開いたのは前代未聞。殿の勇気に、勘定奉行として敬意を表します」


 藤村は静かに答えた。

 「数字は隠せば腐る。晒せば光となる。これからは民と共に歩む政治でなければならぬ」


 障子越しに差し込む陽光が二人を照らした。その光は、透明な政治の象徴のように感じられた。


―――


 夕暮れ。江戸の町に帰った農民や商人たちは、それぞれの家で今日の出来事を語った。


 「藤村様が黒字を示されたのだ」

 「税がどう使われているか、はっきり見えた」


 子どもたちも耳を傾け、瞳を輝かせた。政治が遠い世界ではなく、自分たちの暮らしと繋がっていることを初めて理解したのだ。


―――


 その夜、藤村邸。篤姫は障子を閉め、子どもたちに布団を整えながら微笑んだ。義信は帳簿を真似て小さな紙に数字を書き連ね、久信は「黒字」と大きく書いて見せた。


 「母上、これで我らの未来は明るいのですね」


 篤姫は頷き、二人を優しく抱き寄せた。

 「ええ、数字が示すのは希望。お前たちの生きる時代は、もっと豊かで強くなるでしょう」


 灯火が柔らかく揺れ、家族の笑顔を照らした。


―――


 こうして黒字報告の儀は、単なる会計の場を超え、政治と民を結ぶ象徴となった。数字が「生きた言葉」として人々に届いたその日、江戸の空には澄み切った月が静かに輝いていた。

秋の気配が近づく八月の終わり。江戸城西の丸学問所は、普段にも増して活気に包まれていた。大講堂の壁際には大きな黒板が据えられ、机には分厚い帳簿や欧州の財政書が並べられている。学生だけではなく、地方から派遣された役人、さらには商人の若旦那までもが詰めかけ、通路に座り込む者もいた。


 「本日の講義は『黒字経営の理論と実際』」


 壇上に立ったのは慶篤である。まだ若いが、その声は講堂を震わせるほどに張りがあった。彼は大きな円を黒板に描き、その内部に三つの要素を書き込んだ。


 「収入」「支出」「蓄積」


 「財政とは、この三つの調和である。収入が増えても支出が無秩序なら赤字となり、支出を削っても収入が停滞すれば国は痩せる。黒字とは、この三つの輪が正しく回った時に初めて生まれる」


 学生たちが一斉に筆を走らせた。


―――


 慶篤はさらに、黒字の持つ「二重の意味」を説き始めた。


 「黒字とは単なる余りではない。未来への投資である。黒字があれば鉄道を敷ける。黒字があれば学堂を建てられる。黒字がなければ、国は一歩も前に進めない」


 彼の指は黒板を叩き、円の中心に大きく「未来」と書き加えた。


 「赤字とは過去の清算。黒字とは未来の種蒔きだ」


 その一言に、講堂に集った者たちの胸が熱を帯びた。ある若い代官が小声で呟いた。

 「これまで黒字など、ただ倉に貯めるものと思っていたが……未来を買う力なのか」


 慶篤は頷き、視線を聴衆に巡らせた。

 「数字をただ眺めてはいけない。数字が示すのは、人の働き、暮らし、そして未来そのものだ」


―――


 午後の部に登壇したのは昭武であった。彼は机の上に厚い欧州の書物を置き、眼鏡を外してゆっくりと話し始めた。


 「諸君、これがフランスの財政白書である。彼らは軍費、教育費、公共事業費をすべて数値化し、公開している。数をもって政治を語るのだ」


 机から取り出したのは統計表。縦横に並ぶ数字に学生たちは目を凝らした。


 「これはイギリスの歳入構成。関税、消費税、地租……すべての比率が明確にされている。国民はこの数字を見て、政治を批評する。数字が透明だからこそ、国民の信頼を得られる」


 若い商人の一人が立ち上がった。

 「我ら日本も同じ道を歩めるのでしょうか」


 昭武は微笑み、力強く答えた。

 「すでに歩み始めている。関税収入三百万両、黒字報告の公開――これらは欧州の先進国と肩を並べる施策だ。むしろ日本は、より短い年月で彼らを追い越しつつある」


 聴衆の間にざわめきが広がった。


―――


 講義の終盤、慶篤と昭武は壇上で並び立った。慶篤が黒板に大きく「黒字=未来」と書き、昭武がその横に「透明性=信頼」と書き加えた。


 「未来を拓くのは、黒字である」慶篤。

 「信頼を築くのは、透明性である」昭武。


 二人の言葉が重なり、講堂に響いた。


 聴衆は静まり返った。その沈黙は、誰もが言葉を飲み込み、胸の奥で噛み締めている証だった。


―――


 講義が終わると、一人の農村出身の学生が感極まった様子で慶篤に近づいた。


 「殿のお言葉を聞き、ようやく分かりました。年貢を納めることが、国の未来を支えるのだと。これからは誇りを持って働けます」


 慶篤はその肩に手を置き、微笑んだ。

 「その誇りが、国を強くする。君の村も、やがて鉄路が通い、学堂が建つだろう」


 学生の目には涙が光っていた。


―――


 夕暮れ時、学問所の窓から差し込む光が黒板の「未来」と「信頼」の二文字を照らした。藤村晴人はその光景を静かに見守っていた。


 ――数字が理論に昇華され、人々の心を動かす。これこそが改革の力だ。


 彼は胸の奥でそう確信した。

その夜、藤村邸には静かな灯がともっていた。障子越しに見える庭の松は、月光に白く浮かび上がり、火鉢の赤い炭がぱちぱちと音を立てていた。


 畳の上には、まだ産着の義親が眠っていた。篤姫がそっと抱き上げると、赤子は目を細め、ふにゃりと笑みのような表情を浮かべた。


 「ほら、笑いましたよ」

 篤姫の声は柔らかかった。お吉が横で布を整えながら頷いた。

 「殿に似ておりますね。目元がはっきりしている」


 義信がすぐに駆け寄り、膝を折って赤子の顔を覗き込んだ。

 「これが……僕の弟か。義親」


 まだ七歳の小さな手で、赤子の小指を握る。すると義親も指先をぎゅっと握り返した。義信の目が大きく開かれ、驚きと喜びが混じった声が洩れた。

 「僕を分かっているのかな……」


 藤村はその様子を見て、静かに頷いた。

 「赤子の握るその小さな手が、やがて国の未来を掴むのだ」


 久信も傍にやってきて、真剣な眼差しで赤子を見つめた。

 「僕が守ってあげる。泣いても、困っても、僕が一番に駆けつけるから」


 その言葉に篤姫が微笑み、そっと久信の頭に手を置いた。

 「ありがとう。あなたの優しさが、この家を支えてくれるのですよ」


―――


 夜も更ける頃、藤村は帳簿を閉じ、子どもたちの寝顔を見守った。義信は机に向かったまま算盤を抱えて眠り、久信は義親の傍に横になっていた。篤姫は赤子を胸に抱き、静かな寝息を立てている。


 藤村の胸に、昼間の勘定所で聞いた数字がよみがえった。

 ――黒字。借財は減り、未来を買う力が手に入った。


 彼は障子を開け、夜風にあたりながら呟いた。

 「黒字とは、子らの笑顔を守る盾でもある。義親の泣き声も、義信と久信の誓いも、すべてを未来につなげるためにある」


 冷たい風が庭の松を揺らし、その音が子どもたちの寝息に重なった。家の中には確かな温もりがあり、その温もりが国の未来を支える「黒字」と同じ意味を持っているように思えた。


 ――財政も家族も、一つの輪である。


 藤村はそう確信し、灯を落とした。

江戸城評定所。広間に集う重臣たちの前で、坂本龍馬が南方交易の報告を行っていた。


 「藤村様、みんな。フィリピンとの取り引き、うまくいっちょりますぜ。銅や砂糖、それに麻まで手に入る。向こうの役人も“日本の商船は信用できる”言うて、次の航路開拓に乗り気じゃ」


 机に広げられた地図には、台湾からマニラ、さらに東南アジアの諸港へと赤線が描かれていた。


 「これで南シナ海は、日本の船が自由に走れる海になる。北の炭鉱で鉄を、南の島々で甘味や資源を……全部繋がれば、日本はほんまもんの海洋帝国ぜよ」


 重臣たちが頷き、渋沢栄一が数字を示す。

 「南方交易で年間五十万両規模の収益が期待できます。これなら鉄道や港湾の資金も十分に賄えます」


 龍馬はにやりと笑い、声を張った。

 「銭は血や。血を巡らせるのは心臓の役目じゃけんど、日本の心臓はもう羽鳥や横須賀だけやない。江戸も長崎も、そして南の海も繋げてこそ、全身に血が通うんぜよ」


 藤村は静かに頷き、言葉を継いだ。

 「だからこそ鉄路を延ばし、港を広げ、人と人を結ぶ。交易は銭だけでなく、文化を交わし、人を育てるためのものだ」


―――


 その夜、藤村邸。義信が机に並べた模型船を指差していた。

 「この船が南の海を渡り、たくさんの品を運んでくるんだ」


 久信は目を輝かせ、弟の義親を見ながら誇らしげに言った。

 「僕が守ってあげるから、一緒に見に行こう」


 篤姫は義親を抱きながら、柔らかい笑みを浮かべた。


 縁側から様子を見ていた龍馬は、ふと口にした。

 「銭でも船でものうて、こうして笑い合える子どもらの顔こそが、日本の未来ぜよ。南の海を広げるも、北の鉄を掘るも、みんなこの笑顔を守るためにやるんじゃき」


 その言葉に、藤村は深く頷いた。


―――


 夏を前にした夜風が庭を抜け、遠く南の海の香りを運んでいた。その風は龍馬の言葉と重なり、日本の未来が確かに大きく広がっていくのを感じさせていた。

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