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192話(1872年4月/春)春の戸籍

春の朝の新宿は、霞がかった空気の中に早咲きの桜がほのかに色を添えていた。まだ冷たい風が吹き抜ける道端に、町人たちや農夫、旅の商人までが列をなし、一枚の白壁の建物を見上げていた。入口には「戸籍局」と書かれた新しい木の看板が掲げられている。江戸時代には見られなかった、まったく新しい制度の幕開けを告げる日であった。


 建物の前には布を張った壇が設けられ、そこに立ったのは総裁・藤村晴人である。裃姿ではあるが、袖口は机の墨で黒ずんでいた。彼自身、この戸籍制度の設計から細かく関わってきたのだ。壇上に立ち、人々を見渡すその瞳は鋭さと温かさを兼ね備えていた。


 「国民一人ひとりの存在を正確に把握してこそ、真の公正な統治が可能になる」


 張りのある声が広場を包むと、ざわめきは静まり、人々の視線が一斉に壇に注がれた。


 「これまでのように“この村に百戸”と大雑把に記すのではない。名を記し、年齢を記し、職を記し、一人ひとりを国家が認めるのだ」


 町人の中から「名前を国に記されるのか」と驚きの声が洩れた。だがすぐに別の声が続いた。


 「これで、自分たちの権利も明らかになる。身分に縛られず、一人として数えられるのならば、公平ではないか」


 広場の空気が揺れた。長く続いた身分制の影が、人々の胸に残っていたのだ。だが、その影を拭うように藤村は言葉を重ねた。


 「この簿冊に記される名は、身分や出自にかかわらず平等である。武士も町人も、農民も商人も、皆一人の国民として記されるのだ」


 その宣言は重く、しかしどこか温かみを帯びていた。


―――


 建物の内部では、すでに手続きが始まっていた。大きな机の上には厚い簿冊が広げられ、真新しい筆が並んでいる。役人たちが一人ひとりの名を呼び上げ、年齢と居所を記録していく。


 「次は……中村屋、与兵衛」


 声をかけられた年配の町人が緊張した面持ちで進み出た。背筋を伸ばし、役人の前に座ると、墨の匂いが鼻をついた。


 「年齢は?」

 「五十七」

 「職業は?」

 「木綿問屋にございます」


 さらさらと筆が走り、白紙に名前と年齢が記された。与兵衛は自分の名前が記録されるのを食い入るように見つめ、やがて深く息をついた。


 「これで……わしも、国に名を残すことになるのか」


 感慨深げな言葉に、周囲の人々が静かに頷いた。


―――


 外では若者たちが順番を待ちながら談笑していた。ある農夫が笑いながら言った。


 「これまで庄屋の帳簿に“田の耕作者”とだけ書かれていた。だがこれからは名も年も、きちんと記されるのだ」


 隣の仲間が頷き、少し誇らしげに胸を張った。

 「名が記されれば、逃げも隠れもできぬ。だが同じように、不当に扱われることもなくなる」


 人々はまだ戸惑いを抱えながらも、新しい制度に希望を見いだしていた。


―――


 壇上に戻った藤村は、広場を見渡して再び言葉を放った。


 「この戸籍は税の基盤ともなる。金持ちも貧しい者も、身分に関わらず、正確な人数と収入に応じて税を負担する。これにより取りこぼしも二重取りもなくなるのだ」


 広場からはざわめきが起きたが、それは反発ではなく驚きと期待の入り混じったものであった。年配の農夫が声を張った。


 「それなら、我らの村ばかり重く取られることもなくなるのか?」


 藤村は力強く頷いた。

 「そうだ。正しい数をもとにすれば、誰も余計に取られることはない」


 その答えに、農夫の顔に安堵が広がった。


―――


 式典の最後に、藤村は静かに人々へ頭を下げた。


 「この戸籍は、国が皆を支配するためのものではない。国が皆を“守る”ためのものだ。火事や飢饉の際、誰がどこに住み、何人家族かを正確に把握すれば、救済の手は確実に届く。戸籍とは支配の道具ではなく、助けの網である」


 群衆の表情に温かな色が差した。若者の目は輝き、年寄りはゆっくりと頷いた。


 こうして新宿の広場に集った人々は、新しい制度の意味を胸に刻み込んだ。春の光は柔らかく、白壁の戸籍局を照らし出していた。その姿は、まるで日本という国が新しく生まれ変わる象徴のように見えた。

春の陽光が江戸城西の丸を照らしていた。障子を抜けて差し込む光は柔らかく、勘定所の広間を白く染めていた。机の上には、各地から送られてきた新しい戸籍簿の写しが積み上げられている。書役たちが息を詰めて筆を走らせ、紙の擦れる音と硯の水の滴る音だけが響いていた。


 「殿、戸籍登録の進捗、三割を超えました」


 渋沢栄一が立ち上がり、束ねられた簿冊を掲げた。墨痕も新しい紙の重みが、これまでの曖昧な時代を塗り替える証拠であった。


 藤村晴人は扇を軽く開き、表紙に記された「常陸州戸籍」の文字を指先でなぞった。


 「これまで村単位でしか把握できなかった数が、今は一人ひとりの名として記される。……この一歩が、未来の税も兵も、そして救済の基礎となる」


 静かに放たれた言葉に、広間の空気が引き締まった。


―――


 ある書役が震える声で尋ねた。

 「しかし殿、村ごとの申告と実際の数とで、大きな差が出ております。ある村では百二十人と申告していたものが、実際には九十七人しかおらぬ。これまでの帳簿は、虚と実が入り混じっておりました」


 藤村は即座に答えた。

 「だからこそ戸籍なのだ。虚を除き、実を記す。数字は冷たいが、正確であれば人を守る。過大に申告されれば余計な負担が、過少であれば救済の手が遅れる。……その矛盾を断つために戸籍はある」


 その声は鋭くもあり、どこか温かみを帯びていた。


―――


 昼下がり、江戸城大広間では戸籍局設置に関する評定が行われていた。参列した老中や代官たちが一斉に着座し、机上には分厚い簿冊が並べられていた。


 「殿、これほどの膨大な記録を、一体どこで保管し、どうやって管理するのですか」

 老中の一人が問いかけた。


 藤村は立ち上がり、広間の壁に掛けられた大きな地図を指差した。


 「江戸城内に新設する戸籍局で一元管理する。各州から送られる写しをここで整理し、必要があれば即座に引き出す。……人がどこに住み、どれだけの家族と暮らし、どんな職に就いているか。それを国が把握できれば、戦も、税も、救済も、すべてが早く正確になる」


 老中たちの間にざわめきが広がった。ある者は眉をひそめ、ある者は深く頷いた。


 「中央に一元化……それはもはや“真の中央集権”ということですな」


 年配の代官がつぶやくと、藤村は頷いた。

 「そうだ。藩や村が己の利で数字を歪める時代は終わった。これからは国全体の数字がひとつの帳簿に刻まれる。これこそが近代国家の背骨だ」


―――


 夕刻、城下町の町会所でも戸籍登録の様子が進められていた。町人たちは順番を待ち、役人の前で名前や家族の数を告げていく。


 「次は……大工の弥七」


 呼ばれた男が進み出て、肩にかけていた鑿袋を下ろした。

 「妻と子ども二人。長男は九歳、次男は五歳」


 役人が墨でさらさらと記す。その筆跡は、これまでの庄屋の記録とは違い、官の統一された様式であった。弥七は紙を覗き込み、息をついた。


 「これで、うちの子らの名も国に残るのか」


 傍らにいた妻が頷き、微笑んだ。


―――


 ある農村では、戸籍登録の使者が到着すると村人たちが集まった。農夫の一人が声を張った。

 「これで税を誤魔化せなくなるのか?」


 使者は落ち着いた声で答えた。

 「誤魔化しはできぬ。だが同じように、余計に取られることもなくなる。正しい数で、正しい負担を分け合うのだ」


 人々は互いに顔を見合わせ、やがて小さく頷いた。戸籍とは束縛ではなく、公平のための記録であることを、少しずつ理解し始めていた。


―――


 その夜、藤村は書斎で机に積まれた新しい戸籍簿をめくっていた。煤の匂いが残る紙に記された名前の列は、まるで新しい日本の息吹のようだった。


 「一人ひとりの名前がここにある。これは支配ではなく、存在を認めること……」


 彼は筆を置き、静かに目を閉じた。春の夜気が障子を揺らし、遠くで虫の声が響いていた。


 ――戸籍はただの簿冊ではない。国と人とを結ぶ、新しい絆である。

春の光が江戸城戸籍局の新庁舎を白く照らしていた。木と石を組み合わせた洋風の造りで、外壁には大きな窓が並び、光が庁舎内部に満ちていた。まだ墨の匂いが残る新築の建物の中では、役人たちが大机に列を作り、膨大な戸籍簿の整理に追われていた。


 「殿、こちらが江戸と常陸州の戸籍統合帳簿でございます」


 戸籍局長が両手で抱えた簿冊を差し出した。藤村晴人はそれを受け取り、慎重に表紙を撫でた。そこには「日本国戸籍簿」の文字が黒々と刻まれていた。


 「……国民一人ひとりの名が、ここに記されているのだな」


 彼の声に、局内の役人たちが静まり返った。


―――


 戸籍局の広間には、全国各地から送られてきた報告が積み上げられていた。常陸州、薩摩、会津、長崎、さらには台湾や朝鮮の試験的登録分まで。山のように積まれた帳簿を前に、若い書役が驚きの声を上げた。


 「これほどの人数が……。名を記すことで、国の大きさを初めて実感いたします」


 藤村は頷き、指で表紙を軽く叩いた。

 「国は土や城で成り立つのではない。人の数と、その暮らしで成り立つのだ。戸籍はその根幹だ」


―――


 昼下がり、局内の会議室では税制調整に関する討議が行われていた。机の上には各州の戸籍数と税収見込みが並べられていた。


 「人頭税を戸籍に基づいて計算すれば、従来の身分課税に比べて大幅な是正が可能です」


 渋沢栄一が筆を走らせながら説明した。紙には「金持ち一人=一人分、貧しい者一人=一人分」と簡潔に書かれていた。


 「身分ではなく実際の人数と所得。……これで二重課税も取りこぼしもなくなる」


 財政担当の代官が感嘆の息を漏らした。


 「しかし殿、これまで優遇されてきた上層の者たちが反発を……」


 藤村は迷わず答えた。

 「彼らも人である限り、一人分を負担すべきだ。身分は誇りであっても、負担の免除ではない」


 その言葉に、広間の空気が震えた。


―――


 その頃、江戸の町会所では庶民たちの戸籍登録が進んでいた。町人が列を作り、役人の前で名と家族を告げる。


 「次、油屋の清吉!」


 呼ばれた男が進み出て答えた。

 「妻と子三人、母と同居。計五人」


 役人が書き入れると、清吉はその紙を覗き込んだ。

 「俺の家族が、こうして国に残るのか……」


 背後にいた妻が子を抱きながら頷いた。

 「これで、何かあったときも私たちの名が消えずに済む」


 小さな安心が、人々の心に芽生えていた。


―――


 一方、農村ではまだ戸惑いが残っていた。庄屋の家で登録が始まると、農夫が声を荒げた。

 「これでまた年貢を余計に取られるのではないか!」


 戸籍担当の役人は冷静に答えた。

 「いや、逆だ。虚偽を申告してきた者は逃れられぬが、正しく申告した者から余計に取られることはなくなる。戸籍は負担を公平にするためのものだ」


 農夫は渋々頷き、子どもの名を告げた。その顔には不安と共に、小さな希望が浮かんでいた。


―――


 夕刻、藤村は戸籍局の執務室で慶篤と昭武を迎えていた。机の上には欧州の戸籍制度を比較した書物が並んでいた。


 慶篤は板書に「国民一人ひとりの帳簿」と大きく書いた。

 「戸籍とは、会計の根幹である。人を数えねば税も兵も計画できぬ」


 昭武はフランスやプロイセンの戸籍簿を開いて言葉を続けた。

 「欧州でもすでに導入されている。だが日本は、ここまで短期間で全国規模の登録を進めている点で、むしろ先を行っている」


 藤村は二人の講義を聞き、深く頷いた。

 「学と実務が結びつくことで、この制度は真に根を張る」


―――


 その夜、常陸州の藤村邸。篤姫は暖かな灯の下で帳面を広げていた。義信と久信が戸籍簿を覗き込み、指で自分たちの名前を追っている。


 「僕の名前だ!」

 義信が声を弾ませる。


 久信も得意げに指を差した。

 「これが僕のだ!」


 篤姫は微笑み、膨らんだ腹をそっと撫でた。

 「やがてお腹の子の名も、ここに加わる日が来る」


 その言葉に、家の中が柔らかな希望に包まれた。


―――


 春の夜風が障子を揺らし、外では虫の声が遠く響いていた。机に広げられた戸籍簿の上で、灯火の光が揺らめいていた。


 ――戸籍とは数字ではなく、人の存在そのもの。国がそれを認めるという約束である。

戸籍制度の導入は、数字や帳簿の上だけでなく、江戸や農村の暮らしに確かな変化をもたらしていた。


 大火のあと、浅草の一角に仮設小屋を建てていた町人が役所に呼ばれた。彼は失った家財の補償を諦めかけていたが、役人が戸籍簿を示した。

 「こちらに名が記されています。住居が焼けても、身分も所在も消えはしない。補償を受ける権利は変わりません」

 男は驚いた顔で手を合わせた。

 「名が記されているだけで、救われるのか……」

 燃え残った灰の中に、自分の存在を確かに認める証があることに、胸を震わせた。


―――


 奉公人たちの間にも、戸籍は静かな安心を広げていた。ある商家で働く若い女中は、これまで「流れ者」と蔑まれ、不当な扱いを受けることもあった。だが彼女は今、戸籍簿に自分の名が載っていることを示し、胸を張って言える。

 「私は、ここに記された一人の日本国民です」

 その言葉に雇い主も態度を改め、労賃の遅配もなくなった。小さな変化だが、彼女にとっては大きな自立の一歩だった。


―――


 農村では、村役人が新しい台帳を前にして説明していた。

 「これまでは“十人分の年貢”と大雑把に課していたが、これからは戸籍にある家ごとに正確に納めてもらう」

 農民の一人が首を傾げて尋ねた。

 「それじゃ、今までより多く取られるのか?」

 役人は首を横に振った。

 「いや、正しく取るだけだ。多く払っていた家は減り、逃れていた家は応分を払う。これで不公平はなくなる」

 農民たちは互いに顔を見合わせ、次第に頷いた。曖昧さが消え、公正さが生まれる――それは彼らが長く求めてきたことであった。


―――


 江戸の商人たちもまた、戸籍の効力を実感していた。ある両替商は語った。

 「これまでは取引相手の素性を疑い、担保を多く取らねばならなかった。だが戸籍に名があれば、まず信用できる」

 別の商人も頷く。

 「契約とは紙の上の約束にすぎなかった。だが戸籍と結びつけば、人そのものが保証になる」

 取引の場に生まれた新しい信頼関係は、商いをより円滑にし、経済の動きを軽くしていた。


―――


 戸籍簿に記された一人ひとりの名は、ただの文字ではなかった。

 それは町人には救済を、奉公人には誇りを、農民には公平を、商人には信用を――それぞれの暮らしに直接つながる「生きた制度」となっていた。

春爛漫の江戸城戸籍局。高い棚には分厚い帳簿が整然と並び、書役たちが一斉に筆を走らせていた。蝋燭の火に照らされた頁には、全国から集まった人々の名前と年齢、家族構成が細かく記されている。その膨大な情報を前に、藤村晴人は静かに頷いた。


 「これで、国の隅々まで人の姿が見える」


 傍らの局長が報告した。

 「先日の洪水の際、戸籍簿を参照したことで、被災者の所在確認が即座にできました。避難や救済の手もれは大幅に減少しております」


 藤村は眉を上げた。

 「人の命を守るのもまた、戸籍の役目か」


―――


 治安維持の面でも、戸籍の威力は早くも証明されていた。市中取締役が城に駆け込み、報告を上げた。

 「長屋に潜んでいた盗賊を、戸籍の照合で一日もかからず割り出せました。名を偽ろうにも、家族や居住地の記録が残っておりますゆえ」


 藤村は深く頷き、周囲に言葉を投げた。

 「刀より強いのは、紙に記された名だ。人の流れを把握すれば、国の安定は揺るがぬ」


―――


 さらに、徴兵制度の基礎にも戸籍は活用され始めていた。軍務局の若い士官が、分厚い帳簿を掲げて説明する。

 「各地で徴兵年齢に達した男子の数が正確に分かるようになりました。これにより、過不足なく兵を集められます」


 藤村は扇を畳み、静かに言った。

 「人を戦に送るためにではない。必要な兵を、必要なだけ確保するためだ。無駄な徴発を防ぐのもまた、国を守る道である」


―――


 やがて局内の一角で、束ねられた膨大な帳簿が机に積まれた。渋沢栄一がその重みに手を置き、静かに笑った。

 「国は金で動くと思われがちですが、実のところ、人の数で動くものです。この帳簿はまさに国の“人勘定”ですな」


 藤村は視線を巡らせ、広間を埋める書役や役人を見渡した。

 「これまでは土地と銭に縛られていた。しかし、これからは人こそが国の基盤だ。一人ひとりの名を記すこと、それが未来を築く第一歩となる」


 その言葉に、局内は静かに引き締まった。蝋燭の炎が揺れ、帳簿の文字がきらりと光った。


 戸籍制度はもはや単なる役所仕事ではなかった。

 それは救済を可能にし、治安を強化し、軍制を整え、国家を一つにまとめ上げる「見えない柱」となっていた。

春の陽は傾き、戸籍局の大窓から柔らかな光が差し込んでいた。机の上には分厚い帳簿が広がり、墨で記された無数の名前が列をなして並んでいる。その一つ一つを見つめながら、藤村晴人は深く息を吐いた。


 「ここに記された名は、単なる数字ではない。生きる人の声であり、汗であり、涙である」


 そっと指で一行をなぞる。そこには遠い村に住む農夫の家族の名があった。これまで藩の影に埋もれ、誰にも知られずに暮らしてきた人々。その存在が今、国家の帳簿に明確に刻まれた。


 渋沢栄一が横に立ち、低く言った。

 「殿、この戸籍簿は、国が国民を“数える”道具ではございません。国が国民一人ひとりを“認める”証でございます」


 藤村は目を閉じ、静かに頷いた。


―――


 窓の外から子どもの笑い声が聞こえた。義信が駆け足で戻り、久信が後ろから笑いながら追いかけている。春の空気の中に響くその声は、帳簿の名前が血肉を持ち、未来へと歩き出す証のように思えた。


 藤村は二人の姿に目を細め、胸の奥で呟いた。

 ――名を記すことは、生を認めること。

 ――国とは名の集まりではなく、人の集まりなのだ。


 彼は机の上の筆を手に取り、最後の署名を大きく記した。


 「これより、日本は一つの国民を持つ国家となる」


 その言葉は広間に静かに響き、書役たちは深く頭を垂れた。


 春の光に照らされた戸籍簿の頁は、白く輝きながらめくられていった。そこには未来を担う無数の人々の存在が、確かに刻まれていた。

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