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190話:(1872年2月/厳冬)未来の芽

厳冬の羽鳥は、朝日が昇ってもなお吐く息が白く濃く、凍りついた大地に霜柱が立っていた。だがその冷たさとは裏腹に、羽鳥製鉄所の新炉の周囲は熱気に包まれていた。冬空に立ちのぼる黒煙は、凍える空気を押しのけて空高く舞い上がり、辺りに響く轟音は「新しい時代の心臓が動き出した」と告げていた。


 石造りの炉体の前に並ぶ職人たちの顔は赤く上気していた。重い鋳鉄の蓋を外すと、中から真っ赤に灼けた鉄が流れ出し、滑らかな光の河を描いて大きな鋳型へと注ぎ込まれていく。火花が散り、鉄の奔流が轟々と音を立てるたびに、見守る者たちの胸も熱くなった。


 「これで……ようやく我らの手で鉄を思うままに操れる」


 炉前に立つ年配の職人が、火の粉を浴びながら声を震わせた。彼は若い頃、オランダ船から輸入した鉄材を前に、ただ「高価すぎて手が出ない」と悔しさを噛みしめるしかなかった。だが今、目の前で溢れる鉄は自分たちの技と汗から生み出されたものだった。


 人垣の中央に立つ藤村晴人は、その光景を静かに見つめていた。分厚い外套の襟を正しながら、火の色に照らされた群衆に向かって一歩前へ進む。


 「諸君」


 低く、しかしはっきりとした声が冬空に響いた。ざわめきがすっと止み、誰もが耳を傾けた。


 「この新しい炉が、日本の工業を飛躍させる。ここから得られる鉄は、武器を作るためだけではない。橋を架け、鉄道を延ばし、船を造り、国の隅々へ力を運ぶのだ。そして――」


 彼は一拍置き、鋭い眼差しで聴衆を見渡した。


 「やがてこの鉄収入を、もっと大きな夢へ投じる。江戸から大阪までを半日で結ぶ新たな道……鉄道を超える“新幹線”構想だ」


 場内がどよめいた。蒸気機関車ですら物珍しい時代に、半日で江戸から大阪へ――その言葉は夢物語としか思えなかった。だが藤村の声には現実を切り拓いてきた者だけが持つ重みがあった。


 「夢ではない。鉄があり、人がいる。我らはすでに港を繋ぎ、大陸を睨み、電信で遠隔地を結んだ。次は速度だ。人と物が疾風のように駆け抜ける時、国はさらに一つになる」


 誰もが言葉を失った。熱に赤らむ顔で立ち尽くし、やがてひとりの若い職人が声を上げた。


 「殿なら……殿なら、やり遂げられる!」


 その叫びに続くように拍手が広がった。手袋をした掌同士がぶつかる音は、火花とともに新炉の天井に響き渡り、歓声となって空に放たれた。


―――


 式の後、藤村は工場の裏手に回った。雪をかぶった松の林の向こうから、川面を渡る冷気が頬を打つ。鉄を注ぎ終えた炉はまだ赤々と燃えており、近づくと肌を刺すほどの熱を放っていた。藤村はしばし立ち止まり、炎のゆらめきを見つめた。


 「この炎は、未来を鍛える火だ」


 心の中で呟いた。借金に苦しんだ日々を思い出す。12年前、幕府の借財は1200万両に達し、国家はまさに崩壊寸前だった。だがいま、220万両台にまで圧縮され、借金返済の目処が見えている。数字が語るのは、もう絶望ではなく希望だった。


 彼の脳裏に浮かんでいたのは、江戸から大阪までを駆け抜ける新幹線の姿だった。黒々とした鉄の軌道がまっすぐに伸び、窓の外を風景が矢のように後ろへ流れていく……。それはまだ図にもならぬ幻だったが、確かに「未来の芽」は芽吹いていた。


―――


 その日の夕刻、羽鳥城下の広場では子どもたちが集まり、学舎新設の祝いが行われていた。真新しい木造校舎の扉には紅白の布が掛けられ、村の年寄りから商人、農夫までが詰めかけていた。


 「どんな家に生まれても、学べるように」


 藤村の言葉が広場に広がる。農民の子も商人の子も、机を並べて学ぶ姿を想像して胸を高鳴らせていた。


 「学問こそが身分を超え、人の才を育てる。今日、ここにその道を開く」


 拍手と歓声の中、子どもたちの目はきらきらと輝いていた。藤村は心の奥で「この眼差しこそ未来を支える鉄より強い力」と感じていた。


―――


 夜、城の一室でひとり炉の炎を思い返した藤村は、静かに胸に言葉を刻んだ。


 「今日蒔いた種は、やがて大きな木となる。鉄の炎も、子どもの学びも、すべては未来の芽だ」


 冬の闇に響く鐘の音が、まるでその誓いに応えるかのように、凛とした音を広げていった。

羽鳥製鉄所の新炉が稼働してから数週間。江戸城勘定所の広間には、真新しい帳簿が運び込まれていた。表紙には「鉄道基金」と墨痕鮮やかに記されている。


 「殿、新炉稼働後の初月収益は二万三千両。従来の倍でございます」


 渋沢栄一が声を張ると、部屋の空気が震えた。数字は単なる記録ではなく、未来を動かす原動力だった。


 藤村晴人は扇を軽く閉じ、静かに言葉を重ねた。

 「この銭をそのまま国庫に入れてはならぬ。未来の道と学びのため、基金に回すのだ。鉄が稼いだ金で鉄道を敷き、学舎を建てる。これが我らの循環だ」


 若い書役が目を輝かせた。

 「では、この数字がそのまま線路に変わるのですか」


 藤村は頷いた。

 「そうだ。紙の上の数字は、やがて鉄となり、木となり、教科書となる。人々が歩く道を築き、子どもたちが学ぶ机を整える」


 その言葉に、広間の者たちはざわめいた。もはや財政は重荷ではない。数字は未来を育てる種となった。


―――


 その頃、羽鳥の町。市場の片隅で、商人たちが新しい布告を手にしていた。


 「鉄収益を基金に回す、だと?」

 「俺たちの払った代銭が、江戸と羽鳥をつなぐ鉄道になるらしい」


 年配の商人が腕を組み、しばらく考え込んだ末に笑った。

 「悪くない。道ができれば荷も早く運べる。結局、俺たちの商いが潤うことになる」


 傍らで話を聞いていた若い農夫が、嬉しそうに頷いた。

 「俺たちの作った米や桑も、遠くまで運んでもらえるのか。なら、もっと畑を広げよう」


 町のざわめきが、一歩先の未来を語る声に変わっていた。


―――


 江戸に戻ると、奉公人の一人が藤村に声を掛けた。

 「殿様、町で“基金”という言葉が流行っております。皆、未来に金を回すという考えに驚いておりまして……」


 藤村は静かに笑みを浮かべた。

 「金は溜め込むものではない。流してこそ国が生きる。未来に流すことを、人々が理解し始めたのだ」


 火鉢の炭がぱちりと弾けた。勘定所に広がる温かな空気は、数字に未来を託す者たちの熱であった。

初春の羽鳥城下。まだ雪解け水が小川を満たす頃、城の南側に新しい学舎が完成した。白い漆喰の壁に木枠の窓。瓦屋根の上には、朱色の旗がはためいていた。そこに書かれているのは「児童学舎」の三文字である。


 開設の日、門前には農民や町人が子どもの手を引きながら集まっていた。粗末な木靴を履いた子もいれば、織物の着物を着た商家の子もいる。身なりは違えど、目の輝きは同じだった。


 「殿の御意で、身分を問わず学べると聞いたが……本当なのか」

 「そうだ。うちの子も、庄屋の子と並んで机に座れるんだと」


 親たちは半信半疑で互いに顔を見合わせていたが、学舎の戸が開き、教師が笑顔で迎え入れると、その表情は驚きと安堵に変わった。


―――


 講堂の中。机と椅子は新しい檜の香りを漂わせ、黒板には「いろは」と「1,2,3」が並んで書かれていた。


 教師が声を張った。

 「今日から、ここは皆の学び舎だ。農家の子も、商家の子も、等しく文字を学び、算術を覚える。知を持つ者に境はない」


 子どもたちは目を丸くして頷き、筆を握った。墨をつける手はたどたどしいが、その必死な姿に親たちの胸は熱くなった。


 隅で見守っていた藤村晴人は、机に並んだ子どもたちの顔を一人一人見渡し、静かに言った。

 「どんな家に生まれても、才能があれば学べる社会を作る。それがこの学舎の始まりだ」


―――


 昼休み、子どもたちは庭に出て遊んでいた。百姓の子が泥だらけになって走り回り、商家の子が算術の本を片手に読み上げる。それを一緒になって真似する姿に、大人たちは思わず笑みを浮かべた。


 「身分の違いなど、子には関係ないんだな……」

 「ここで共に学べば、未来は同じ目線で語れるようになるのだろう」


 親たちの口から自然にこぼれるその言葉に、学舎の理念は早くも人々の心に根を下ろしていた。


―――


 その日の夕刻、義信と久信も学舎を見学した。義信は黒板に書かれた算術の式をすらすらと解き、教師を驚かせた。

 「七歳にして、ここまでの計算を……」


 一方、久信は机を並べる年下の子に声を掛け、優しく鉛筆を持つ手を直してやった。

 「こうやって書くと綺麗だよ」

 相手の子は「ありがとう」と笑い、久信の周りに自然と輪ができた。


 それを見ていた藤村は心の中で呟いた。

 ――知と和。二つが揃えば、この国の未来は揺るがぬ。


 学舎の窓からこぼれる灯火は、城下の闇を温かく照らしていた。

厳冬の風が和らぎ始めた二月の終わり、江戸城学問所の大講堂は人で溢れていた。机には新式の石板と分厚い洋書が並び、壇上に立つ慶篤は真剣な面持ちで聴衆を見渡した。


 「今日から始める『次世代講義』は、ただの学問ではない。諸君が十年後、二十年後に国を支える人材となるための道筋だ」


 黒板に描かれたのは、未来を示す年表だった。1875年、鉄道網完成。1880年、造船所拡張。1885年、全国初等教育普及。


 「目標を掲げ、計画を立て、数字で追う。これを繰り返せば、未来は曖昧な夢ではなく、具体的な道となる」


 学生たちは筆を走らせ、息を呑むように聞き入った。


―――


 一方、別室では昭武が留学生派遣の成果を語っていた。机の上には欧州から送られた分厚い報告書が積まれている。


 「パリに渡った者は、造船技術で高い評価を受けている。ベルリンの医学部に学んでいる者は、すでに現地の助手として研究に加わっている」


 若い役人が驚いたように声を漏らした。

 「異国で、そこまでの評価を……」


 昭武は静かに頷いた。

 「学ぶだけでは足りない。現地で認められ、成果を持ち帰ることに意味がある。留学生たちは単なる生徒ではなく、日本の未来を背負う使者なのだ」


 その言葉に、場の空気が引き締まった。


―――


 夕刻、学問所の中庭にて。慶篤と昭武が並んで歩き、声を交わしていた。


 「兄上、講義を受けた学生たちの目は確かに変わっていました。目標を掲げることで、自分たちも未来を描けるのだと」

 「お前の報告も同じだ。遠い欧州で学ぶ者たちの成果は、ここにいる者の心を揺さぶる。内と外、両方があって初めて国は育つ」


 二人は互いに頷き合い、校舎の灯火を見上げた。窓からは学生たちの朗読の声、討論の声が漏れ出していた。


 その音は、未来へ続く希望のざわめきであった。

初冬の夜、藤村邸は火鉢の赤い炭で温かさに満ちていた。外は雪がちらつき、庭の松の枝に白が積もり始めている。


 義信は机に向かい、算盤を弾きながら帳簿の真似をしていた。

 「米百俵で銀がいくら、鉄材五十で……」

 まだ幼いながらも数の流れを自在に操り、時に父の勘定書に近い答えを口にする。その声に、奉公人たちが驚きの目を交わした。


 久信は別の机で絵筆を手にしていた。描いていたのは城下の人々と学舎の様子だった。子どもや町人を生き生きと描き、色を添えるたびに周囲が笑顔になった。

 「兄上の数は国を動かすけれど、久信の絵は人を和ませるな」

 篤姫がそう微笑み、久信の頭を撫でた。


 その篤姫の傍らには、お吉が控えていた。膨らみ始めたお腹を気遣い、二人は静かに言葉を交わす。

 「新しい命が加わることで、家も国もまた変わっていきますね」

 「ええ……子どもたちの声が重なるほど、未来は強くなるのです」


 障子越しに漏れる灯火の明かりが、義信の計算する指先と、久信の描く筆先を柔らかく照らしていた。

 ――数字と色彩、その二つが重なり合って家を支え、やがて国をも支える。

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