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188話(1871年12月/初冬)冬の勘定、赤子の声

初冬の江戸。冷たい北風が町を吹き抜け、軒先に吊された干し柿が揺れていた。町は年の瀬を迎え、歳末市の喧騒であふれている。魚河岸には鰤や鰯の山が築かれ、呉服屋の店先には錦の反物が鮮やかに並んでいた。煤払いを終えた町人たちの顔には、どこか晴れやかな笑みが浮かんでいる。


 その中心にひときわ人だかりができていたのは、「羽鳥織物」と書かれた新しい出店であった。


 「見ておくれよ、この織り目。糸の艶がまるで西陣に負けておらん」

 「値も手頃だ。江戸でこれが買えるとはな」


 町人や旅商人たちが織物を手に取り、口々に賞賛の声をあげる。木綿に絹糸を織り交ぜたその生地は、しなやかで丈夫。藍と紅の組み合わせは落ち着きがありながらも華やかで、正月の晴れ着にと望む客が列を作っていた。


 その光景を遠目に眺めながら、藤村晴人は静かに目を細めた。

 「地方産業育成の成果が、ついに江戸で花開いたか……」


 隣の渋沢栄一が頷く。

 「品質の向上に加えて、意匠の工夫が効いています。羽鳥の職人衆も、ただの地場産業に留まるつもりはないと張り切っておりました」


 藤村は微かに笑みを浮かべた。

 「数字は机の上だけで語られるものではない。こうして市で人々が銭を払い、満足げに家路につく――これが真の数字の力だ」



 年末の勘定所も、普段以上に熱気を帯びていた。帳簿が山のように積まれ、書役たちの筆が忙しなく走る。硯の墨はすぐに薄れ、火鉢の炭は赤々と燃えている。


 「歳入、黒字確定。幕府債務残高、二百二十万両台」


 読み上げられた数字に、広間がざわめいた。


 「三年前には一千二百萬両を超えていた借財が、ここまで減るとは……」

 「史上稀に見る速さでございます」


 年配の勘定奉行が、感慨深げにため息をついた。


 藤村は席に着き、扇を軽く開いて机を叩いた。

 「借金が半分どころか、六分の一以下になった。――完全返済は、もはや夢ではない」


 その言葉に、書役たちの顔が引き締まった。彼らもまた、この大事業の一端を担っていることを誇りに感じていた。



 江戸城西の丸、電信室。壁一面に張られた電線の図と、忙しなく動く通信士たちの姿があった。新たに増設された器械が規則正しく打鍵し、各地からの報が紙片に印字されていく。


 「長崎港、輸出額前年対比一八%増」

 「札幌炭鉱、今月産出三千俵」


 瞬時に届く数字の列に、藤村は目を通しながら頷いた。

 「情報こそが統治の生命線だ。これで遠隔地の状況も、まるで手元にあるかのように把握できる」



 学問所では、慶篤が決算講義を行っていた。黒板に大きな円を描き、歳入と歳出の流れを矢印で示す。


 「数字はただ並べるだけでは意味がない。流れを見よ。歳入がどう集まり、どう支出に回り、どのように国を潤すのか」


 学生たちは真剣な眼差しで耳を傾けた。


 一方、昭武は欧州から取り入れた統計学を解説していた。

 「数を数えるだけでは足りぬ。数が何を語るかを読み取るのだ。これにより政策判断の精度は飛躍的に高まる」


 板書された数列と図式は難解だったが、確かに新しい時代の知であることを誰もが理解した。



 その夜。藤村邸にて。


 「殿……」


 篤姫が柔らかな声で切り出した。頬は紅潮し、視線は少し伏せられていた。


 「新しい命を宿しました」


 その一言に、座していた藤村は目を見開いた。静かな驚きのあと、胸の奥から熱がこみ上げてきた。


 「新しい年に、新しい命か……。これ以上の吉報はあるまい」


 義信と久信は、母の傍に駆け寄った。

 「母上、重いものは僕が持ちます!」

 「お正月の準備も、僕たちに任せて!」


 兄弟が競うように声をあげる。篤姫は笑みを浮かべ、二人の頭にそっと手を置いた。

 「ありがとう。お前たちの成長もまた、私にとっては何よりの力です」



 江戸城の一室で、藤村は帳簿を閉じ、静かに独白した。


 「冬の勘定が示すのは確実な成長。そして赤子の声が告げるのは希望に満ちた未来だ」


 火鉢の炭がぱちりと弾ける音が響く。外は寒風に包まれていたが、室内には確かな温もりが宿っていた。


 彼の胸には、一年の成果を礎として、来年さらに遠くへと進む決意が固まっていた。

江戸城西の丸に新たに増設された電信室。壁には複雑に絡み合う電線図が張られ、机の上には真新しい送信機が並んでいた。通信士たちが規則正しく打鍵を繰り返し、紙片に印字された文字が次々と吐き出されていく。


 「長崎港より報告――輸出額、前年対比一八%増」

 「札幌炭鉱、今月の産出量三千俵」


 乾いた打音が響くたび、遠く離れた土地の様子が瞬時に江戸へと集まってきた。


 藤村晴人は紙片を受け取りながら、深く頷いた。

 「情報こそが統治の生命線だ。これで遠隔地の状況も、まるで目の前にあるかのように把握できる」


 かつては船便に頼り、数日から数週間を要した報告。それが今では瞬時に届く。幕府の広域統治を支える新しい神経網が、ここに完成しつつあった。


 通信士の一人が顔を上げ、声を弾ませた。

 「殿、これで全国の動きが一刻で揃います!」


 藤村は扇を静かに閉じ、言葉を落とした。

 「数字の力だけでは足りぬ。数字を運ぶ速さがあってこそ、政治は間違わぬのだ」


 電信室の窓から差し込む冬の光は冷たかったが、その中で動く針と紙片は確かに新しい時代の温もりを放っていた。

冬の陽が差し込む江戸城学問所。窓ガラスは白く曇り、外の寒気を遮っているが、室内は講義に熱を帯びていた。黒板の前に立つのは慶篤。片手に白墨を持ち、大きな円を描いていた。


 「数字は並べるだけでは意味を持たぬ。流れを見よ。歳入がどう集まり、どこに流れ、どれだけ国を潤すか――これを理解してこそ、会計は生きる」


 円の内部には矢印が幾筋も走り、「税」「専売益」「教育費」「軍費」と書き込まれていく。若い書役や各州から派遣された役人たちは、目を凝らしてその線の意味を追った。


 後方で見守っていた藤村晴人は、静かに頷いた。

 ――ただ金額を読み上げる時代は終わった。数字が動き、人を養い、国を変える。その姿を示すのが教育の役割なのだ。


 続いて壇上に立ったのは昭武。手にしていた分厚い洋書を机に置き、静かにページを開いた。


 「欧州では統計学という学問が広がっている。数を数えるだけでなく、数が語る意味を解き明かす学だ。人口の変化から兵力の推移を推測し、交易の記録から未来の市場を描く。これが統計の力だ」


 黒板には数列と図式が並べられ、学生たちは一心に筆を走らせた。中には難解さに顔を曇らせる者もいたが、その表情には「新しい知の扉を開く」という興奮も混じっていた。


 「数字は冷たく見えるが、解けば血が通う」

 昭武の言葉に、教室に静かなざわめきが広がった。


 慶篤が再び前に出て、板書の隣にもう一つ円を描いた。

 「数字を恐れるな。数字は敵ではなく、道を照らす灯火だ」


 その声に押されるように、学生たちの目が輝きを増した。


 藤村は講義を終えた二人の背を見ながら思った。

 ――武に頼る国は一代。数字と理に立つ国は百年を持つ。


 外では冬の風が庭木を揺らしていたが、学問所の中には確かに未来へと続く熱気が宿っていた。

初冬の夜気は冷たく、庭の松に積もる霜が月明かりを受けて白く光っていた。藤村邸では、正月を迎える支度が少しずつ始まっていた。

 障子を開け放つと、座敷には新しい畳の香りが広がり、子どもたちの笑い声が響いていた。


 義信は机に向かい、算盤を小気味よく弾いていた。まだ幼い手だが、その動きは驚くほど正確だった。脇に控えていた書役が思わず目を細める。


 「兄上、今度は何を計算してるの?」

 久信が隣から覗き込む。


 「お正月に必要なお米の量だよ。客人も来るし、奉公人の分も入れると、米俵があと二俵は足りない」

 義信はさらさらと筆を走らせ、帳面に数字を書き入れた。


 「米だけじゃないぞ」久信は笑いながら声を張った。「薪だって必要だ。庭の薪置き場を見たら、もう半分しか残ってなかった。僕が薪割りを手伝うよ」


 言葉通り、久信は庭に出ると下働きの若者たちに混じり、太い木を抱えて運んだ。幼い体には重すぎる薪もあったが、彼は額に汗を浮かべながら仲間に指示を出し、自然に周りを動かしていく。その姿に、奉公人たちは思わず笑みを浮かべ、「若様に言われたら仕方ない」と素直に従っていた。


 義信の才は数字で未来を描くことにあり、久信の才は人をまとめ、場を温かくすることにあった。二人の兄弟は対照的でありながら、確かに互いを補い合っていた。


―――


 その様子を縁側から見ていた篤姫とお吉は、思わず目を細めた。

 「義信様は、頭の中で国を動かしていらっしゃるようですね」

 「ええ。久信様は、人の心を動かしておられる」


 篤姫が小さく頷いた。

 「知と和――この二つがあれば、国は揺るがないのでしょう」


 お吉は母のような微笑みを浮かべ、二人の子の成長を胸に刻んでいた。


―――


 夜更け、子どもたちが寝静まると、藤村は書斎に灯をともし、帳簿を開いた。火鉢の炭がぱちりと音を立て、影が揺れる。


 机の上には、勘定所から届けられた年末決算の数字が整然と並んでいた。

 「歳入黒字、幕府債務二百二十万両台」


 藤村は指で数字をなぞり、静かに息を吐いた。三年前、借金は四百万を超えていた。さらに遡れば、幕末の混乱期には一千二百万両という絶望的な数字を掲げていたのだ。そこから地道に返済を重ね、いまや半分以下にまで減らした。


 「このまま続ければ、返済の終わりも夢ではない」


 声は小さく、しかし確信に満ちていた。


―――


 障子が静かに開き、篤姫が湯を盆に載せて入ってきた。

 「夜更かしはお身体に障りますよ」


 藤村は微笑み、帳簿から目を離した。

 「冬の勘定は、心を熱くする。数字が語るのは、ただの収支ではない。民の汗と涙が結ばれて、こうして黒字となるのだ」


 篤姫は盆を机に置き、彼の隣に腰を下ろした。

 「子らもそれぞれの才を伸ばしています。義信は数字を操り、久信は人の心をまとめる。殿の教えが、確かに息づいております」


 藤村は頷き、筆を置いた。

 「知と和。二つが揃えば、この国は進むだろう」


―――


 翌朝。霜の降りた庭で、義信と久信が凧を揚げていた。白い息を吐きながら走り回る姿は、どこにでもいる子どもに見えた。だが凧の紙には義信が描いた数字の式がびっしりと書かれ、久信は「これが空に舞うとみんな驚くだろう」と得意げに笑っていた。


 縁側からそれを見ていた藤村は、心の奥で静かに誓った。

 ――借金返済の道のりも、子らの成長も、どちらも未来への投資だ。冬の勘定が示すのは確かな歩み。そして子らの声が告げるのは、希望に満ちた明日だ。


 冷たい風が庭を渡り、凧が高く高く舞い上がった。藤村はその姿を見上げながら、確かな手応えを胸に刻んだ。

年の瀬の江戸は、冷たい北風の中にも熱を帯びていた。煤払いを終えた町屋の軒には新しい注連縄が掛けられ、八百屋には大根が山のように積まれ、魚河岸からは鰤を担ぐ声が響く。正月を迎える支度に追われる町は活気にあふれ、人々の顔には希望と倦まず働く充実感が浮かんでいた。


 藤村晴人は、馬車の窓からその様子を静かに眺めていた。ふと目に入ったのは、羽鳥織物の暖簾を掲げる新しい出店である。


 「殿様、今年はよく売れております」

 店主が深々と頭を下げる。


 織物を手に取った町人が声をあげた。

 「ほう、羽鳥の織物か。西陣のような艶があるのに、値は半分。これなら正月の着物にちょうどよい」


 その光景に、藤村は心の奥で小さく頷いた。

 ――数字は帳簿の中で完結するものではない。人が銭を払い、喜びと共に品を持ち帰る時、初めて数字は血となり、国をめぐる。


 馬車が城へと戻ると、江戸城の石垣が夕日に染まり、冬の空気を重く照らしていた。


―――


 その夜、西の丸勘定所。机に厚い帳簿が積まれ、火鉢の炭がぱちりと弾けた。


 「幕府債務、二百二十万両台」


 渋沢栄一が読み上げると、広間に低いざわめきが走った。ほんの数年前には、借財が一二〇〇万両にまで膨らみ、誰もが「国は沈む」と顔を曇らせていた。それが今や、確実に減り続けている。


 「半分以下になった……」

 年配の代官がしみじみと呟いた。


 藤村は帳簿を閉じ、扇で机を軽く叩いた。

 「まだ重荷は残る。だが返済の道筋は確かに見えた。数字は人を欺かぬ。完全返済も夢ではない」


 役人や書役たちの目に光が宿った。長く続いた重圧から解き放たれる時が、もうすぐ手の届くところにあると誰もが感じていた。


―――


 電信室では、壁を覆う地図に赤い線が縦横に走っていた。長崎、札幌、台南、仁川――そのすべてが打鍵の音とともに江戸に結ばれている。


 「長崎港、輸出額前年比一八%増」

 「札幌炭鉱、今月産出三千俵」


 紙片に記された数字を手に取り、藤村は頷いた。

 「情報が即座に届けば、判断も即座に下せる。統治とは情報の流れを制することだ」


 かつて数か月を要した遠隔地の報告が、今や瞬時に届く。広い国土を「一つ」にまとめ上げる仕組みが、確かに完成しつつあった。


―――


 学問所では、慶篤が黒板に大きな円を描き、歳入と歳出の流れを矢印で結んでいた。

 「数字をただ並べても意味はない。流れを見よ。金がどこから入り、どこへ出ていくかを理解してこそ、政策は立てられる」


 学生たちは真剣な眼差しで筆を走らせる。


 一方で昭武は統計学を講じていた。板書には「平均値」「標準偏差」「推計」と難しい文字が並び、学生たちは首をひねりつつも食い入るように見つめていた。

 「数は真実を隠すこともある。だが統計を用いれば、隠れた傾向を炙り出せる。欧州では政策の成否を数字で示すのが常識だ」


 新しい知が、国を動かす武器へと育ちつつあった。


―――


 その夜、藤村邸。煤払いを終えた広間には正月飾りが整えられ、松が玄関に立てかけられていた。


 義信は算盤を弾き、米の必要量を計算していた。

 「奉公人と客人を合わせれば、正月三日でこれくらいは要る」


 久信は薪を抱えて戻り、笑顔で声を張った。

 「薪は僕に任せて。母上に寒い思いはさせないよ」


 二人の姿に、奉公人たちは目を細めた。篤姫は微笑み、柔らかに言った。

 「義信は知で支え、久信は心で支える。二つが揃えば、家も国も安らかですね」


 お吉も頷き、温かな空気が家中に満ちた。


―――


 夜更け、藤村は書斎で火鉢に手をかざし、独り言のように呟いた。

 「冬の勘定が示すのは確実な成長。そして赤子の声が告げるのは、希望に満ちた未来だ」


 外の寒風が松を揺らし、月光が庭を白く照らしていた。冷たい空気とは裏腹に、家の中には確かな温もりがあった。


 新しい命の兆しと、数字が示す着実な改善。その二つが織り合わさって、藤村の胸には来年さらに遠くへ進むための確信が刻まれていた。

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