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187話:(1871年11月/晩秋) 洋学の秋

晩秋の長崎。海から吹き寄せる風は冷たく澄み、港の一角に建てられた白壁の学堂をきらりと光らせていた。開設式の朝、鐘の音が街に響き渡り、町人も異国人も足を止めてその建物を見上げる。高い窓にはガラスが嵌め込まれ、扉の前には洋風の石段が伸びていた。日本で初めて、西洋医学と工学を同時に学べる教育機関――「長崎医学工学兼学堂」の誕生である。


 玄関前の広場には、役人、学者、地元商人、そして外国人顧問たちが集まっていた。通訳の声が飛び交い、異国の言葉が混じり合う光景は、まるで小さな万国博覧会のようだった。壇上に立つ役人が声を張る。


 「東洋と西洋の知識が出会う場所として、我らは長崎を選んだ。ここから日本の学問は世界水準に到達する。医学は命を救い、工学は産業を動かす。二つを並べて学ぶことで、国の基盤は一層強くなるのだ」


 ざわめきが広がった。若い学生たちは頬を紅潮させ、商人たちは目を細めて頷き、西洋人顧問の一人は満足げに髭を撫でた。壇上の背後には羽鳥洋学書房から運び込まれた洋書の山。分厚い解剖学書、精密な歯車の図解、蒸気機関の設計図……輸入に頼らずとも継続的に教材を供給できる仕組みが整い、学問の息吹がそこにあった。


 式典後、見学者たちは学堂の内部に案内された。広々とした講義室には黒板と石板机が整然と並び、天井には大きなシャンデリアが吊るされている。木の匂いがまだ新しく、窓から差す光が机の表面を照らしていた。「これが……日本の学堂か」と町人が声を漏らす。異国の学校を知る者も少なくない長崎でさえ、その近代的な造りには驚きが隠せなかった。


 実習室では、ガラス瓶に収められた標本や顕微鏡が並んでいた。白衣姿の学生が緊張した面持ちでスライドガラスを顕微鏡に載せ、洋医顧問が頷きながら言う。

 「見えるかね? これは血球だ」


 学生は息を呑み、小さく声を上げた。

 「本当に、こんな小さな粒が体を巡っているのか……」


 その驚きはやがて確信に変わり、仲間たちの胸に伝わっていった。科学が人々の目を開かせる瞬間である。


 一方、工学実習棟では、蒸気機関の縮小模型が勢いよく煙を吐き出していた。歯車が噛み合い、ピストンが上下する。学生たちは油に汚れることもいとわず、指先で金属部品を触りながら仕組みを理解しようとしていた。

 「これを大きくすれば、船も列車も動かせる」

 技師の言葉に、学生たちの目が一斉に輝く。夢が現実に近づいていることを肌で感じ取ったのだ。


 その午後、講堂に集められた役人たちに向かって説明が行われた。

 「洋学教育の資金はすべて関税益で賄う。外債に頼らず、貿易の利を人材育成に回す」

 帳簿を見つめていた勘定方が驚きの声を上げる。

 「国庫からの借財は一切不要と……?」

 「その通りだ。交易で得た利益を再び人材に投資し、その人材がまた交易を広げる。これが真の循環だ」


 財政担当者たちの表情が和らいだ。教育は重荷ではなく、未来を稼ぐ仕組みであることが、数字の上でも示されたからである。


 夕刻、江戸城西の丸。新設された洋学研究室には、全国からの研究成果が集められていた。長崎からは医学実験の報告、横浜からは機械改良の図面、札幌からは鉱山技術の研究資料。机上に積まれた分厚い報告を前に研究責任者が言った。

 「これで日本独自の洋学研究が本格化できる」


 壁に掲げられた世界地図には、日本から放射状に赤い線が引かれていた。それは知識の流れを示す線であり、誰もがその先に未来を見た。


 夜、東京の藤村邸。篤姫とお吉が灯火を囲み、子どもたちの復習を見守っていた。昼間は福沢諭吉の指導を受け、夜は母が寄り添う。義信は洋書の挿絵を食い入るように眺め、歯車や蒸気機関の図を指でなぞっていた。瞬時に理解したかのように机の上に図を描き、その鋭さに篤姫は思わず息を呑む。


 久信は舶来の精密時計を手に、針の動きを追っていた。

 「どうして止まらないんだろう」

 母に尋ねるというより、独り言のように。篤姫は優しく答える。

 「ゼンマイが力を溜めて、少しずつ解き放つからでしょう」


 久信は目を輝かせ、指先でゼンマイを触りながら微笑んだ。純粋な好奇心が彼を機械の世界へ誘っていた。お吉は静かに頷き、二人の頭に手を置いた。

 「兄弟でも興味を持つものが違いますね」


 晩秋の夜風が障子を揺らし、虫の音が響いた。机の上に並ぶ洋書と模型、時計の音。そのすべてが「洋学の秋」を象徴していた。篤姫は灯火の下で小さく呟く。

 「蒔いた知識の種が、ついに芽を出し、実を結ぼうとしている」


 その言葉は、静かな夜の空気に溶け、家族の胸に深く刻まれていった。

学堂の開設から数日後、長崎の街はにわかに熱を帯びていた。異国風の看板を掲げた書店には、輸入されたばかりの医学書や工学雑誌を求めて人が押し寄せ、港の倉庫では若い職人たちが蒸気機関の仕組みを真似て木製の模型を作り始めていた。


 「先生、見てください! 歯車をこう組めば回ります!」

 子どもじみた模型を掲げる徒弟に、西洋人技師は目を細めて頷いた。

 「良い観察眼だ。大切なのは模倣から学ぶこと。やがて本物を作れるようになる」


 そのやり取りを聞いていた商人が唸った。

 「学問が町を変える……なるほど、これは商い以上の力を持っている」


―――


 江戸にも熱気は伝わっていた。西の丸に新設された洋学研究室では、各地から届く報告書が次々と積み上げられていく。


 「長崎からは顕微鏡の観察記録、横浜からは新型機械の図面……札幌からは鉱山の試掘データです」

 報告を読み上げる書役に、研究責任者が深く頷いた。

 「もはや単なる輸入知識ではない。日本各地が、それぞれ新しい知を生み出している」


 机上に広げられた大地図には、赤い線で「知識の道筋」が引かれていた。長崎から江戸へ、札幌から江戸へ、台湾から江戸へ……そのすべてが中央で交わり、一つの網のように国を覆い始めていた。


―――


 その夜、東京の藤村邸。灯火の下で篤姫とお吉が子どもたちを見守っていた。義信は洋書を開き、ページいっぱいに描かれた解剖図をじっと見つめている。まだ幼いのに、文字よりも図から理を読み取る力は群を抜いていた。


 「ここは血が流れる道……ここは心臓……」

 小さな指で図をなぞり、瞬時に仕組みを理解していく。その様子に篤姫は驚き、思わず口元を押さえた。


 久信は机の端に置かれた舶来の時計を手に取り、耳を澄ませていた。

 「母上、この音はどうして止まらないの?」

 お吉が優しく微笑む。

 「ゼンマイが少しずつ力を解き放っているのです」

 久信は「なるほど」と頷き、指で針を真似て動かしてみせた。兄とは違うが、物事を素朴な驚きとして受け止め、周りの人々を和ませる力を持っていた。


 篤姫は二人を見比べて小さく笑った。

 「同じ兄弟でも、学び方も夢中になるものも違うのですね」

 お吉はその言葉に頷き、子どもたちの頭を優しく撫でた。


―――


 晩秋の風が庭を渡り、障子を揺らした。遠い長崎の学堂、江戸城の研究室、そして藤村邸の静かな書斎。三つの場所で燃える灯火は、確かに一つの未来へと結びついていた。

学堂の授業が始まってひと月も経たぬうちに、長崎の街には新しい風が吹き始めた。講義を終えた学生が港の茶店で顕微鏡の話をし、職人が鍛冶場で「ピストン」という新しい言葉を口にする。学問は机上にとどまらず、人々の生活に滲み出していた。


 「先生、これを見てください」

 一人の若者が授業後に顕微鏡を抱えて駆け寄った。

 「この虫の翅が、こんなに細かい模様を持っているなんて……」

 西洋人顧問は肩を叩き、穏やかに言った。

 「小さなものの中にこそ、大きな理が潜んでいる。それを知ることが、科学の第一歩だ」


―――


 江戸城西の丸の洋学研究室でも、同じ熱が共有されていた。全国から届く報告書は積み上がる一方で、机の上には各地の研究成果をまとめた分厚い冊子が並んでいる。


 慶篤は講義室で学生や官僚に向かって板書を走らせた。

 「洋学とは単なる模倣ではない。翻訳を経て、日本語で理解し直すことで、初めて“我らの知”となる」


 黒板に大きく「翻訳=変換ではなく創造」と書くと、聴衆がざわめいた。

 「例えば“Constitution”をただ“憲法”と訳すだけでは足りぬ。その背後にある思想、歴史、制度をどう日本に適用するか。そこまで考えて初めて翻訳なのだ」


 若い役人が手を挙げた。

 「殿、ではその作業は果てしなく時間がかかるのでは……」

 慶篤は穏やかに微笑んだ。

 「学びに近道はない。だが正しい基礎を築けば、必ず次の世代が早く進む。今日の我らは種蒔き人にすぎぬ」


―――


 一方、別室で昭武は分厚い書物を手に取り、欧州の学術誌を皆に示していた。

 「これはフランスでの最新の蒸気機関改良論文、こちらはドイツの病院制度の報告です」


 翻訳を終えた文を机に広げながら、昭武は語った。

 「日本の制度は、既に彼らの議論と肩を並べつつある。だが安心してはならない。学び続ける限り、我らの制度は常に進歩し続ける」


 聴衆の中から声が上がった。

 「我々が世界に追いつくのではなく、世界が我々を意識する日が来るのか」

 昭武は力強く頷いた。

 「その通りだ。知は国境を越える。我らが磨けば、必ず世界を照らす灯火になる」


―――


 夕刻。研究室の窓の外では、晩秋の空に月が昇り始めていた。冷えた空気の中で、学生たちは遅くまで議論を続けていた。翻訳された論文を前に、誰もが自分の未来を見出そうとしていた。


 「洋学の秋」とは単に学堂の誕生だけではなかった。知識が芽吹き、翻訳によって実を結び、江戸の中心にまで届く。その流れが確かに形を成しつつあったのである。

その夜、東京・藤村邸。灯火に照らされた書斎の机には、昼間に長崎から送られてきた最新の洋書と翻訳資料が並んでいた。まだ紙の匂いが新しい図版の数々に、子どもたちは夢中になっていた。


 義信は分厚い科学図鑑を開き、精密な蒸気機関の挿絵を指でなぞった。

 「これは……シリンダー、こっちはピストン。力が交互に伝わって車輪が回るんだ」


 彼の声は幼いが、言葉の選び方はすでに小さな学者のようだった。傍らに控える福沢諭吉も、目を細めて笑った。

 「なるほど、よく見抜いたな。図を読むとは、文字を読むより難しいものだ。義信はもう“図を読む力”を得ている」


 久信は別の机に置かれた舶来の懐中時計を手に取り、耳に当てて音を聞いていた。

 「チクタクって、どうして止まらないんだろう」

 諭吉は時計を開き、ゼンマイを指で示した。

 「ここに力を溜めて、少しずつ解き放つからだ。まるで米俵を少しずつ崩して食べるようなものさ」


 久信はぱっと顔を輝かせ、兄の方を見た。

 「兄上、これがあれば夜でも時間がわかるんだね!」

 義信は小さく頷き、再び図鑑に目を落とした。二人の関心は別々でも、同じ洋学の流れの中に芽吹いていた。


―――


 その様子を縁側から見守る篤姫とお吉は、静かに言葉を交わした。

 「兄は理を探り、弟は人の声に耳を傾ける……。学びの形は違えど、どちらも国を支える力になりますね」

 「ええ。義信は知で未来を描き、久信は人の和で未来を繋ぐのでしょう」


 灯火に照らされた二人の横顔は柔らかく、子どもたちの未来を見据えるまなざしには確かな誇りが宿っていた。


―――


 晩秋の夜風が障子を揺らし、時計の音とページをめくる音が静かに響いていた。机の上に散らばる洋書や模型、翻訳資料――それらすべてが「洋学の秋」を象徴していた。


 藤村が長崎で宣言した言葉が、東京の一室にまで届いているかのようだった。

 ――蒔いた知識の種は、確かに芽吹き始めている。

翌朝、江戸城西の丸。洋学研究室の窓から、冬を告げる冷たい光が差し込んでいた。机の上には長崎から届いた学堂の講義記録や横浜の機械改良報告、札幌の鉱山実験資料が山と積まれている。


 研究員の一人が分厚い報告書を掲げて言った。

 「長崎では解剖学の授業が順調に進んでおります。学生たちは血球や神経を顕微鏡で観察し、欧州に劣らぬ水準に近づいております」


 別の研究員が続けた。

 「横浜では蒸気機関の改良模型が完成。燃費を二割削減できたとのことです」


 報告を受けた責任者は静かに頷き、書き込まれた数字を確認した。

 「知識は地方で芽吹き、江戸で集約される。これこそ新しい日本の学問体制だ」


―――


 一方で、町人や商人たちの間にも学問熱は広がっていた。日本橋の書肆には羽鳥洋学書房から届いた翻訳書が並び、店先には若者たちが集まっていた。


 「これが蒸気機関の図か」

 「俺は医学の本が欲しい。病を治す方法が載っているらしいぞ」


 庶民が銀貨を握りしめ、次々と書物を買い求める。活字の力が身分の垣根を超えて広がり、江戸の町に新しい風を吹き込んでいた。


―――


 その日の夕刻。研究室の大窓から見える庭には、紅葉が散り敷かれていた。机の上に置かれた世界地図には、日本から放射状に赤い線が引かれている。線は長崎から欧州へ、横浜からアメリカへ、札幌からアジア内陸へと伸びていた。


 研究責任者が低く呟いた。

 「これはただの線ではない。知識が流れる道だ」


 報告書を閉じる音が部屋に重く響いた。誰もが、その線の先に未来の日本を重ねていた。


―――


 夜。東京・藤村邸。義信は再び机に向かい、昨夜の続きとばかりに洋書の挿絵を眺めていた。久信は時計を両手で大事そうに持ち、音に耳を澄ませている。


 篤姫が灯火を整え、お吉が温かい茶を用意する。柔らかな家族の光景と、江戸城で広がる知識の波――それらがひとつに繋がっていた。


 ――知の秋は、家から城へ、城から国へ。

 藤村が長崎で灯した火は、確かに東京の夜をも照らしていた。

晩秋の夜、江戸城西の丸に設けられた洋学研究室の窓からは、静かな月明かりが差し込んでいた。机の上には翻訳途中の洋書、長崎学堂から送られてきた実験報告、横浜から届いた機械模型の図面が散らばっている。


 その光景を見つめながら、藤村晴人は深く息を吐いた。


 「洋学の秋――まさに収穫の季節だ」


 彼の言葉に居並ぶ研究員たちは頷き、机に広がる書物を手に取った。血球を描いた精緻な図、歯車の噛み合わせを示す設計図、鉱山採掘の手順書。それらは単なる紙ではなく、日本の未来を形づくる“種子”だった。


―――


 一方、東京の藤村邸では、義信が書斎にこもり、西洋の自然科学書に夢中になっていた。物理の章を読み進めるうちに、彼は指で空中に数式を描き、弟の久信に向かって説明を始めた。


 「ここに力が加われば、必ず反対の力が働くんだ」


 久信は兄の言葉を半分も理解していなかったが、真剣な様子に感化され、頷きながら聞いていた。やがて彼は机に広げられた時計を手に取り、笑みを浮かべた。


 「じゃあ、この針が進むのも、そういう力の働きなんだね」


 純粋な観察が、兄の理論に寄り添う。二人の異なる才が、自然と重なり合っていく瞬間だった。


―――


 その夜遅く、篤姫とお吉が縁側で冷たい風に身を寄せ合っていた。灯火の揺れる庭の向こうからは、義信と久信の笑い声が聞こえてくる。


 「子らが学びを楽しんでいる。それだけで、この国の未来は明るい」


 篤姫の言葉に、お吉は静かに頷いた。


―――


 江戸城に戻った藤村は、窓の外に浮かぶ月を見上げながら、心の奥で思った。


 ――蒔いた知識の種は芽吹き、秋の実りを結んだ。

 ――だが、これを冬越しさせ、やがて大樹に育てねばならない。


 彼の胸には、新しい日本を築くための決意が、再び熱を帯びて広がっていった。

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