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185話:(1871年9月/初秋)市場の秋、博覧の夢

門が開き、鼓笛が響いた。来賓席の先頭に立った藤村晴人は、幕が引かれて現れた正面舞台に歩み出る。舞台の背後には「博覧会」と大書した白布が張られ、その左右に日本国旗と常陸州旗が揺れていた。観客の列には職人、商人、農民、学徒、そして礼装の外国人商館員の姿も混じる。藤村は手元の扇を畳み、深く一礼した。


 「博覧会は単なる見世物ではない。産業と学問を結び、日本の力を内外に示す場である」


 その声は会場の隅々まで届き、ざわめきを飲み込んだ。舞台両脇には、常陸州特産の木綿反物、笠間焼の大壺、鉄器の刀身や農具が整然と並んでいる。光を浴びた鉄器は白く輝き、陶器の釉薬は深い青を映した。


―――


 展示場の中央には、外国商館員たちの姿があった。イギリス商人は木綿を手に取り、目を細めた。

 「織りの密度が均一だ。これなら欧州市場でも十分に通用する」


 フランス人の商人は笠間焼の壺に指を滑らせ、感嘆の声を洩らした。

 「この釉薬の深み……東洋趣味に飽いた我が国の貴族も、これには新鮮な驚きを覚えるだろう」


 その場で契約交渉が始まり、通訳の声と羽根ペンの音が賑やかに響いた。鉄器を前にしたドイツ人は、「この堅牢さは我が国の工場にも匹敵する」と驚嘆し、即座に輸入数量の打診を行った。


―――


 会場の端では、入場料と専売品の売上を計算する帳簿が開かれていた。渋沢栄一が小声で報告した。

 「入場者、本日だけで三千余。専売品売上も順調で、この調子なら運営費は十分に賄えます」


 藤村は頷き、扇を閉じた。

 「文化事業も自立してこそ続く。赤字を垂れ流しては、いずれ人々の信を失う」


 観客の一人が振り返り、隣の友人に囁いた。

 「入場料を払っても損はない。ここでしか見られぬものがある」


 その言葉に友人も大きく頷いた。


―――


 さらに特筆すべきは会場の場所であった。江戸城大広間を一般開放したのである。農民の夫婦が畳の間に足を踏み入れ、天井を見上げて息を呑んだ。

 「まさか我らが城の中に入れるとは……」


 学僧の青年は、展示物の横に掲げられた解説文を読み上げて呟いた。

 「身分の隔てなく学べるとは、まさに“学問に貴賤なし”の具現だ」


 藤村は広間の中央で立ち止まり、来場者の笑顔を一望した。――城が閉ざされた権力の象徴から、開かれた学びの場へと変わった瞬間であった。


―――


 慶篤は講壇に立ち、「博覧と教育」の関係を説いていた。

 「見ることは学ぶこと。展示は本から離れた教育である。数字も理屈も、実物の前では血肉となる」


 聴衆は真剣に耳を傾け、うなずきを繰り返した。昭武はその横でロンドン、パリ万博の体験を語り、「我らの博覧会も国際水準に達した」と言い添えた。


―――


 露店では博覧会専売の菓子と玩具が子どもたちに取り囲まれていた。飴細工の職人が常陸州旗を模した飴を伸ばし、木の歯車とゼンマイで動く小さな行燈車がくるりと回る。義信は歯車を手に取り、歯の数を指先で数えながら関係式を口の中でつぶやいた。久信は赤や緑の砂糖菓子に目を輝かせ、掌の上でころころと転がしては母の顔を見上げる。篤姫は子の手を軽く握り、微笑んだ。


―――


 その一角ではフィリピンの商人たちが日本側と輸出交渉を進めていた。実際の笠間焼や鉄器を前にして、「これなら大量輸送に堪える」と声を上げ、即決で契約書に署名する姿もあった。


 博覧会は単なる見世物ではなく、商談の場となり、国際市場への扉を開く舞台ともなっていた。


―――


 夕暮れ、博覧会場を見下ろす高台で藤村は立ち止まった。賑わう人波の上に、風にたなびく日章旗と常陸州旗が寄り添うようにはためいていた。


 「市場の活況と博覧の夢が、ここで一つになった。産業と文化、経済と教育――その調和が、日本を新しい段階へ押し上げる」


 藤村の胸には、確かな確信と静かな熱が燃えていた。

博覧会開幕から三日目、会場には地方からの農工商だけでなく、東京市中の商人や武家の家族までもが押し寄せていた。通りには幟がはためき、屋台からは香ばしい煎餅や菓子の匂いが漂う。人いきれと熱気が渦巻き、まるで江戸以来の大祭を思わせる賑わいであった。


 「この茶器、見事な細工だな」

 一人の商人が笠間焼の茶碗を手に取り、隣の客に声を掛けた。

 「普段の東京市中で買えば倍の値だぞ。博覧会はやはり特別だ」


 その言葉に周囲の客も頷き合う。普段の町中では高価で手の届きにくい品が、この会場では「産地直送」の特価で並んでいたのである。


 別の若い職人が鉄器の展示台に見入っていた。槌目の残る鉄鍋を指先で叩くと、澄んだ音が返ってくる。

 「音が違う……。外国の鉄器より軽くて丈夫だ」

 その場にいた外国商人も身を乗り出し、通訳を介して熱心に価格を尋ねていた。


 「会場で契約を結べば、すぐにでも輸出できる」

 渋沢栄一が記録係にささやく。輸出商談の場としての博覧会の機能は、すでに十分に発揮されていた。


―――


 会場中央の舞台では、常陸州代表による木綿の実演が行われていた。白い布が滑るように織り上げられていくと、見物人から大きな拍手が起こる。


 「柔らかいのに丈夫だ。これなら遠国への輸送にも耐える」

 外国人商人がうなり声を上げ、場内の通訳に契約条件を尋ねていた。


 その横では、羽織姿の町人が声を弾ませていた。

 「ここで買えば、市中の半値で手に入る。東京にいながら産地の値で買えるなんて、夢のようだ」


 来場者たちは展示品に触れ、試し、時に即売を楽しんでいた。単なる見物ではなく、博覧会は「学び」「取引」「娯楽」を兼ね備えた新しい空間として人々に受け入れられていた。


―――


 午後になると、会場はさらに熱を帯びた。大名家の夫人と町家の主婦が肩を並べて展示を眺める光景も珍しくなく、身分を超えた交流が自然に生まれていた。


 「お城の大広間で庶民も買い物ができるなんて……」

 母親が感慨深げに呟くと、子どもが菓子売場を指差して笑った。

 「母ちゃん、あれ買って! 東京でも見たことないお菓子だよ!」


 笑い声が響き、会場全体がひとつの市のように脈打っていた。

博覧会のもう一つの特徴は、「学びの場」としての性格であった。


 会場の一角には「教育展示館」と名付けられた広間があり、壁一面に地図や算盤、顕微鏡や印刷機が並べられていた。子どもから大人まで熱心に見入っており、ただの見世物ではなく「知識を分かち合う場」となっていた。


 慶篤は舞台に立ち、講義の口調で声を響かせた。

 「博覧会は単なる品評会ではありません。ここに展示された織物や器具は、“学問と技術の結晶”です。民が技術を知り、商人が販路を得て、役人が数字を学ぶ――すべてが一つの流れになるのです」


 若い見物客が手を挙げた。

 「殿様、博覧会は見物して楽しいものと思っていましたが、学問になるとは……」


 慶篤は頷き、展示されていた顕微鏡を指した。

 「たとえばこれ。医の学徒が学べば命を救い、農の学徒が学べば病を防ぐ。知識は分野を選びません。誰が学んでも国の力となるのです」


 聴衆は深く頷き、子どもたちまでも目を輝かせた。


―――


 別室では昭武が資料を前に語っていた。机の上には、江戸に送られてきたパリやロンドンの博覧会図録、翻訳書が並び、鮮やかな挿絵や図版が人々の目を奪った。


 「これはロンドンの水晶宮を描いた図です。鉄とガラスで造られた巨大な展示館は、当時“世界を一つの屋根の下に集めた”と言われました。……ただし規模の大きさに惑わされてはなりません。我らの新宿会場も、産地の力と人々の知恵を集めている点で、決して劣りません」


 若い書役が感嘆の声を漏らした。

 「海外に行かずとも、ここで学べるとは……。日本の博覧会はすでに国際水準なのですね」


 昭武は微笑み、資料を軽く叩いた。

 「大切なのは“比較すること”だ。遠い国の知を知れば、我らの強みも弱みも浮かび上がる。博覧会はその場でもあるのです」


―――


 夕暮れが近づくと、教育展示館の前では、子どもたちが集まって玩具や実験器具に触れていた。


 義信は分厚い木製の歯車模型を手に取り、仕組みを瞬時に理解して説明した。

 「これは力を伝える道具だ。小さな歯車を回すと、大きな歯車も回る。つまり少ない力で大きな仕事ができる」


 周りの大人たちは口をぽかんと開けて見守り、久信が笑って弟に言った。

 「兄上が教えると、みんなわかっちゃうんだな」


 久信自身は、展示されていた州ごとの「州旗」を見比べながら、色鮮やかな模様をまねて紙に描き写していた。遊びの中に自然と政治や制度への関心が芽生えていたのである。


 藤村はその光景を遠くから見つめ、胸の奥で静かに思った。

 ――博覧会とは市場であると同時に学舎でもある。ここから芽吹いた知識と誇りが、国を育てていくのだ。

博覧会開幕から数日が経つと、会場は単なる見世物ではなく、実利を伴う交渉の場へと姿を変えていった。


 大広間の一角では、羽鳥の木綿を前にフィリピン商人が指を滑らせていた。

 「この手触り……欧州の布にも劣らぬ。量はどれほど供給できるのか」


 傍らに控えた岩崎弥太郎が、商人特有の朗らかな笑みを浮かべて答えた。

 「年間三千反は確実に用意できます。しかも品質は博覧会で証明済み。契約はここで結んでいただければ、船便もすぐに手配いたします」


 商人が頷き、契約書に印を押す。周囲の見物人から拍手が湧いた。博覧会が「商談の場」として機能する瞬間だった。


―――


 別の会場では、台湾から来た代表団が塩と鉄器の展示に熱い視線を送っていた。

 「これが江戸で作られた新式の鉄鍋か。火の回りが早い……村に持ち帰れば、料理の時間も短くなる」


 同行した役人が、藤村に向かって深く頭を下げた。

 「殿の産業が、我らの生活を豊かにしているのがよくわかります」


 藤村は静かに微笑み、答えた。

 「交易とはただの物のやりとりではない。暮らしを分け合い、文化を重ね合うことだ」


―――


 夕刻。江戸城大広間に戻った藤村は、日の暮れとともに人々が退場する光景を見守っていた。


 庶民も大名も、商人も職人も、身分の差なく同じ会場を歩き、同じ展示を見、同じ驚きと笑みを交わしていた。


 「学問に貴賤なし」


 藤村は心の中で呟いた。かつては敷居の高かった城が、今は誰にでも開かれている。その光景こそが、彼の目指す新しい国の姿だった。


 勝海舟が隣に立ち、会場を見渡して口を開いた。

 「見ろ、藤村。江戸の空気が変わってきている。金勘定も武芸も大事だが、こうして“知識”が人を一つにする。博覧会は戦より強い武器になるぞ」


 藤村は小さく頷き、広間を後にした。


 その背中に、博覧会を通じて芽生えた新しい夢――「産業と文化を重ね合わせ、国を育てる」という確信が、揺るぎなく宿っていた。

博覧会のにぎわいの中には、藤村の家族の姿もあった。


 義信は精巧なからくり人形の前に立ち、じっと目を凝らしていた。

 「これは歯車が四つ。回転が逆に伝わって……だから手が上下するんだ」

 幼い声ながら、理屈を飲み込む速さは大人顔負けであった。説明役の職人が驚いて声を漏らす。

 「一目で仕組みを見抜くとは……恐れ入りました」


 久信は少し離れた菓子売り場で、色とりどりの砂糖菓子を前に目を輝かせていた。

 「兄上、見て! こんなにたくさんの色がある!」

 手にした菓子を大事そうに口に運び、その甘さに顔をほころばせる。彼にとって博覧会は難しい学びではなく、ただ楽しく心躍る世界だった。


―――


 会場の一角には教育展示が設けられていた。木綿を織る機械、笠間焼の成形工程、鉄器の鋳造見本。子どもたちは列を作り、順番に触れながら学んでいた。


 義信が鉄の鋳型を手に取り、久信に説明する。

 「熱した鉄をここに流し込むんだ。冷えれば形になる。だから温度が大事なんだよ」

 久信は真剣に頷き、指で鋳型の模様をなぞった。

 「兄上は難しいことを考えるけど、僕は“形がきれいだ”って思うよ」

 二人のやり取りを聞いた周囲の大人たちは、思わず笑みを浮かべた。


―――


 その横で、篤姫とお吉は静かに子どもたちを見守っていた。

 篤姫が囁く。

 「殿、この博覧会はただの見世物ではありませんね」

 藤村は頷き、答えた。

 「そうだ。人々に産業の力を見せ、子どもたちに学びの種を蒔く。これこそが未来への投資だ」


 お吉は微笑み、久信の手をそっと握った。

 「夢を見て、楽しんで……それも立派な学びですわね」


―――


 夕刻、会場の灯がともり、見物人の影が伸び始める頃。義信と久信は手にした小さな旗を振り、声を合わせた。

 「また来たい!」


 その笑い声が大広間に響き渡り、博覧会が単なる展示や商談にとどまらず、「未来を生きる子どもたちの心を育てる場」として確かに機能していることを、藤村は強く実感した。

会場の一角では、熱気を帯びた交渉の声が飛び交っていた。

 フィリピンから来た商人が笠間焼の器を手に取り、目を細めて言う。

 「繊細で、しかも丈夫だ。これならマニラでも必ず売れる」

 隣にいた日本の商人がすかさず答えた。

 「では樟脳との交換を含め、定期航路での取引を。博覧会で現物を見せられたからこそ、安心して契約できる」


 握手が交わされると、周囲から拍手が起きた。博覧会は見世物ではなく、国際的な商談の舞台に変わっていた。


―――


 夕刻。人波がやや落ち着いた頃、藤村は高台に立ち、会場全体を見渡した。

 色鮮やかな旗がはためき、屋根を越えて響くざわめきと笑い声が空を満たしている。展示台の上には鉄器の鈍い光、絹の柔らかな光沢、陶器の白磁のきらめきが並び、庶民も大名も同じ場所でその前に立っていた。


 「市場と学び、文化と経済……すべてが一つになっている」


 藤村の言葉に、傍らの渋沢栄一が頷いた。

 「入場料で運営を賄い、商談で利益を生み、教育で人心を育てる。文化と産業が同じ舞台で回っているのは、世界でも稀なことです」


―――


 博覧会場を吹き抜ける初秋の風が、旗を揺らし、香ばしい菓子の匂いと鉄器を打つ響きを運んできた。

 藤村は胸の内で深く息を吸い込み、目を閉じた。


 ――産業と文化は別々ではない。

 ――どちらも国を支える柱であり、互いに力を貸し合う。


 再び目を開けたとき、夕陽が会場を黄金色に染め、人々の顔を照らしていた。


 「この博覧会が、日本の未来を映している」


 藤村は静かにそう言い、歩みを進めた。彼の耳には、工匠の槌音と子どもの笑い声がひとつに重なり、まるで新しい時代の合奏のように響いていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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