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184話:(1871年8月/晩夏)学問と演武

晩夏の江戸城西の丸は、まだ昼の熱を石畳に抱え込みながらも、夕方には涼しい風が庭を渡り、緊張と期待に包まれていた。今日は兵学講堂の新たな開講式――これまでにない「文武統合教育」の始まりの日であった。


 講堂に入ると、並んだ机の上には算盤と帳簿、そして隣には木刀と槍が整然と置かれていた。武器と帳簿が一堂に並ぶという光景は、かつての武士たちには想像もつかなかったであろう。だが今、この国には「学びと武」が両立せねばならないという時代の要請があった。


 壇上に立った藤村晴人は、受講者たちを見渡した。若き藩士あがりの者、農兵上がりの者、そして勘定所から派遣された書役の若者まで。多様な背景を持つ者たちの目が、一斉に彼へと向けられている。


 「武士は剣を振るうだけでは国を守れぬ。学問もまた、国を守る武器である」


 その声は静かであったが、広い講堂の空気を一気に変えた。受講者の中からざわめきが走り、誰もが隣の帳簿や算盤に視線を落とした。


 「戦場で兵糧が尽きれば、いかに強い兵でも餓えて倒れる。税を正しく集め、算を正しく使う。これを知らぬ武士は、百の兵を抱えても一戦に勝てぬ。剣を持つ者が帳簿を読めるとき、この国は真に強くなるのだ」


 堂内は静まり返り、蝉の声すら遠ざかって聞こえるようであった。


―――


 この日から始まった新制度では、午前は講義、午後は演武という二部構成がとられた。午前の机上講義では会計や行政制度、兵站学を学び、午後は庭に出て剣術や槍術、砲術の訓練を行う。まさに「文」と「武」を一日に統合した画期的な仕組みであった。


 開講式の最初の講義を担当したのは慶篤である。彼は黒板に「兵農一致」と太く書き、受講者たちを見渡した。


 「かつての日本は、百姓は百姓、武士は武士と切り分けていた。しかし、国を支えるのは同じ人間だ。畑を耕す力はそのまま兵の力に通じる。農の収穫は兵の糧を生み、兵の守りは農を育てる。これを一つに見るのが“兵農一致”の理である」


 机に向かっていた若い兵が思わず声を漏らした。

 「農と兵が一つ……?」


 慶篤は頷き、次いで黒板に数字を書いた。

 「この村で米一石が増えれば、兵五人が一週間食える。収穫を軽んじれば兵も滅ぶ。数字で見れば明らかだろう」


 受講者たちは目を見開き、ただの観念ではなく、実際の数字で示される理論の重さに圧倒されていた。


―――


 午後になると場所を鎌倉演武場へ移した。そこでは汗を流す兵たちの声が響き渡り、午前の帳簿の静寂とは打って変わった熱気が立ち込めていた。


 昭武が受講者を集め、ヨーロッパでの軍制について説明を始める。

 「フランスのナポレオン軍は、市民が兵となり、兵が市民に戻る制度を確立した。武と文を分けず、両方を担うことで国家全体を軍としたのだ。日本の学兵制度は、それをさらに進めている。帳簿を学ぶ兵は兵站を理解し、剣を握る書役は税の意味を体で知る」


 説明の後、受講者たちは実際に木刀を握り、型を学んだ。書役の青年がぎこちなく構えると、隣の武士あがりの兵が笑みを浮かべて姿勢を直した。逆に、算盤を前に戸惑う武士に対しては、かつての書役が数字の扱いを教えてやる。互いに補い合う姿がそこにあった。


 「これが学兵制度の本質だ」


 藤村はその光景を縁から眺め、胸の奥に確かな手応えを覚えていた。


―――


 夕暮れ、演武場の庭。日が沈み、残照が砂を赤く染めていた。汗に濡れた兵たちは、再び机の前に座り、筆を走らせていた。木刀を置いた手で帳簿を開き、数字を記していく。息は荒いままだが、その眼差しには午前よりも確かな光が宿っていた。


 藤村は立ち上がり、受講者に向けて言葉を投げた。

 「学問と演武――どちらか一方では国は守れぬ。だが両方を修めれば、この国は必ず強くなる。今日の汗は、明日の国を支える血肉となるであろう」


 兵たちの胸に熱が宿り、静かに頷く音が重なった。


―――


 その夜、江戸城の一室。机の上には今日使われた帳簿と木刀が並んでいた。藤村はそれを見つめながら、独りごちた。


 「剣と算盤が並ぶ光景は奇異に見えるだろう。だが、この国を動かすのは、いずれこの机に座る彼らだ。剣だけではなく、知で国を守る。これこそが新しい武士の姿だ」


 障子越しに晩夏の月が淡く光を投げかけていた。その光の下で、文武両道の学兵制度という新しい芽が、確かに根を張り始めていた。

江戸城勘定所の広間は、夏の熱気を遮るために障子が半分開け放たれていた。蝉の声が遠くに響く中、机の上には分厚い帳簿と収支報告が並び、勘定方や代官、書役たちが真剣な面持ちで腰を下ろしていた。


 「訓練費用をどう捻出するか……」


 年配の勘定方が眼鏡を外し、額の汗を拭った。これまで軍事費と教育費は全く別の枠で計上され、二重の支出を生んでいた。


 その中央に座す藤村晴人は、帳簿を指で叩きながら静かに口を開いた。


 「教育特会の枠を広げ、兵学講義と演武を同じ勘定に組み込む。つまり、一つの費用で二つの効果を得るのだ」


 ざわめきが広間を走った。


 「殿、軍事と教育を同じ財布に入れるなど、前代未聞でございます」

 若い代官が声を上げる。


 藤村は表情を崩さず、扇で机を軽く叩いた。

 「これまでが無駄だったのだ。午前に帳簿を教え、午後に木刀を振らせる。その費用を別々に数えるのは愚かであろう。同じ人間に学問と武を教えるなら、費用もまた一つで足りる」


―――


 渋沢栄一が立ち上がり、用意していた試算表を広げた。

 「ご覧ください。教育特会から三万両を回せば、軍事訓練費を含めて十分に運営可能です。しかも、二重にかかっていた教官費用や施設維持費を差し引けば、一割近く経費が削減できます」


 帳簿に並んだ数字が、確かに無駄の削減を示していた。


 「教育と軍事を一体化すれば、金も人も効率よく動く」


 藤村の声が響いた瞬間、勘定所の空気が大きく変わった。


―――


 その日の午後、兵学講堂の庭では、受講者たちが木刀を振り終え、汗を拭きながら再び机に向かっていた。帳簿を開き、先ほどの訓練で使った兵糧の量や装備の消耗を記録している。


 「一日の演習に米五俵、火薬二斤……」


 数字を写す手はまだ震えていたが、そこには「学び」と「武」を結びつける新しい姿があった。


 見学していた勘定所の若い書役が目を見張り、隣にいた渋沢に囁いた。

 「まるで一つの勘定が生き物のように動いています」


 渋沢は微笑んで答えた。

 「そうだ。これが殿の狙いだ。金はただ積むだけではなく、動かしてこそ血となる」


―――


 夕刻、藤村は講堂の縁に立ち、訓練を終えた学兵たちを見渡した。机の上には帳簿、傍らには木刀。数字と汗が同じ場所に並んでいる。


 「これこそが無駄を削り、力を倍にする道だ」


 胸中で呟きながら、藤村は静かに扇を閉じた。

晩夏の陽光が差し込む江戸城西の丸。新設された兵学講堂の白壁はまだ新しく、木の香りが漂っていた。大広間には机が整然と並び、その奥には黒板と地図、兵站表が掲げられている。


 「ここでは頭を使い、鎌倉では体を使う」


 藤村晴人は、見学に訪れた老中や勘定方に向かって説明した。軍事と学問を切り分けるのではなく、一連の流れとして組み込む。それが新しい教育体制の根幹だった。


―――


 翌日、鎌倉。潮の香りが漂う丘の上に、演武場が姿を現していた。砂利を敷き詰めた広場は広大で、剣術や槍術、さらには陣形を組んだ集団訓練にも対応できる造りだ。


 「前へ、進め!」


 号令とともに学兵たちが木刀を振り、汗を滴らせながら走った。訓練を終えた者たちは隣の小屋に入り、帳簿を開いて兵糧や装備の使用量を記録する。理論と実践が交互に回り、互いを補い合う。


 視察に訪れた勝海舟は腕を組み、にやりと笑った。

 「なるほど、頭で計算したことを、体で確かめるわけか。こりゃあ単なる軍事訓練じゃねえな」


 藤村は頷き、答えた。

 「学と武を別々に教えれば、どちらも半分で終わる。だが同じ場で循環させれば、倍の力になる」


―――


 講堂と演武場を設計した技師が誇らしげに語った。

 「机の配置も、稽古場の広さも、学びの効率を最大化するために計算しました。数字と動作が互いを強める造りです」


 確かに、講義の合間に稽古をし、稽古の後に数字を記す。学兵たちは疲労の中で理解を深め、汗と墨の両方で学んでいった。


―――


 夕暮れ、演武場の隅で机に向かう若者の姿があった。額には汗、指は墨に染まっている。だが彼の顔には疲労だけでなく、確かな充実が宿っていた。


 「学んだことをすぐに体で試し、体で感じたことをすぐに数字にする。……こんな学び方は初めてだ」


 隣にいた仲間が頷き、笑みを浮かべた。

 「これなら、戦にも商いにも強くなれるな」


 その声を背に、藤村は静かに空を仰いだ。赤く染まった夕陽が、講堂の屋根と演武場の砂地を同じ色に染め上げていた。


 ――文と武。別々ではなく、一つの道。

 その確信が胸の奥で確かに燃えていた。

江戸城兵学講堂の一角。黒板の前に立つのは慶篤であった。袴姿の彼の手には白墨が握られ、板書には大きく「兵農一致」と記されている。


 「国を守る兵は、畑を耕す農とも繋がっている。兵糧を自ら計算し、収穫を数字で把握できる兵こそが、真の強さを持つ」


 彼の声は澄み渡り、聴衆の若者たちは一斉に姿勢を正した。これまで「戦う者」と「働く者」が別であった常識を覆す講義は、彼らの胸を強く揺さぶった。


―――


 その後、講堂に置かれた大きな地図の前に昭武が進み出た。手には欧州から取り寄せた資料があり、指でフランスの国境線をなぞった。


 「ナポレオン軍は市民兵制度を導入した。農民も職人も、武器を取れば兵士となり、戦が終われば再び職に戻った。市民が軍を担うことこそ、近代国家の基盤となったのだ」


 受講者の一人が手を挙げ、問いかけた。

 「では、日本も同じ道を進むのですか」


 昭武は力強く頷いた。

 「いや、同じではない。我らはさらに進む。兵が農を知り、農が兵を知る“学兵制度”だ。剣を振るう者が帳簿も読め、田を耕す者が陣形を理解する。この両立こそが日本独自の進化である」


―――


 講堂の外では夕陽が差し込み、畳に赤い影を落としていた。慶篤と昭武の言葉が交互に重なり、学兵たちの胸に強い響きを残していた。


 「武だけでも国は滅ぶ。文だけでも国は痩せる。両輪が揃ってこそ、未来を支えられる」


 その瞬間、受講生の眼差しは確かに変わった。戦場での力だけでなく、帳簿を前にした冷静な判断こそが国を守るのだという確信が芽生えていた。


 夕暮れの鐘が遠くで鳴り響く。学兵たちは木刀を抱え、筆を携えて講堂を後にした。彼らの背中はまだ若く、頼りなさもあった。だが、その歩みには新しい日本を担う気概が宿っていた。

鎌倉演武場。松林を抜ける晩夏の風が、稽古場の砂地をさらさらと揺らしていた。白木の柱に囲まれた場内には、まだ幼い義信と久信の姿。二人の前に立つのは、北辰一刀流の千葉栄次郎である。


 「義信様、正眼に構えてみなされ」


 低く響く声に、義信は小さな体を真っ直ぐに伸ばし、木刀を胸の前に据えた。幼児らしい柔らかさを残しながらも、その眼差しには大人をも黙らせる真剣さがあった。振り下ろす一太刀は軽い音しか立てないが、型の筋は正確で、見る者に未来の剣士の姿を想わせた。


―――


 続いて久信に栄次郎の視線が移る。

 「久信様、兄君を真似てごらんなさい」


 久信はぎこちなく木刀を握り、兄の構えをなぞる。しかし振り下ろした瞬間には、何かを突き破るような力がこもった。音は荒くとも、芯を突く迫力があり、栄次郎の眉がわずかに動いた。


 「……なるほど。義信様は理で斬り、久信様は心で斬る」


 師範の口から漏れた言葉に、見守っていた者たちが静かに息を呑んだ。久信は照れくさそうに笑い、「兄上みたいにはできないけど、僕は僕の剣を振るう」と呟いた。その言葉が場を和ませ、周囲の者たちも思わず頬を緩めた。


―――


 演武場の隅で見守る藤村晴人は、二人の姿を黙して見つめていた。義信の鋭さと久信の伸びやかさ――対照的な二人が同じ木刀を握り、汗を光らせる姿に、未来の日本のかたちが重なって見えた。


 「義信は理と型を究めるだろう。久信は人を束ねる力を備えるだろう。……どちらも国の柱になる」


 西に傾いた夕陽が差し込み、木刀の刃先を黄金に染めた。二人の兄弟はその光を浴びながら、互いに視線を合わせ、再び構えを取った。


 ――文も武も、未来を担う両輪なのだ。


 藤村の胸に、確かな希望が芽吹いていた。

その頃、朝鮮の南部では、新しい軍政訓練が始まっていた。広場に集められたのは、農作業に従事していたばかりの若者や、かつて地方の武装組織に属していた者たち。彼らの前に立つ日本軍士官が声を張り上げる。


 「列を乱すな! 肩幅を合わせ、足を揃えよ!」


 かつては好き勝手に動き、命令に従うことに慣れていなかった兵士たちが、今は汗を流しながらも規律を身につけていく。掛け声とともに足音が地を震わせ、まるで一つの大きな体が動いているようだった。


―――


 指導を任されていたのは、日本から派遣された教練将校と、現地で選ばれた隊長たちである。通訳を介しながらも、訓練は次第に円滑に進み、現地兵の表情にも自信が芽生え始めていた。


 「殿、最初は誰も耳を貸さなかったのに、今では号令一下で一斉に動きます」

 と報告する現地将校に、日本の教官は頷いた。

 「規律は力だ。武器より先に、心と体を揃えることが肝心だ」


―――


 やがて訓練を見学していた村人たちの間から声が漏れた。

 「日本軍は殴るばかりかと思っていたが、違う。教え、守ろうとしている」

 「うちの息子も、村のために役立つかもしれぬ」


 その言葉は、やがて村全体の空気を変えていった。恐怖で従わせるのではなく、教育と訓練で一体感を作り出す。そこには「統治」という冷たい言葉を超えた温かさがあった。


―――


 夕刻。広場の隅で、訓練を終えた若者たちが並び、支給された簡易な食事をとっていた。汗に濡れた顔に笑みが浮かび、隣の兵士と食器を分け合う光景も見える。


 藤村へ送られた報告電信には、こう記されていた。


 《現地兵の規律向上顕著。住民の反発減少。統治効果大》


 江戸城でその電文を読んだ藤村は、しばし目を閉じ、深く息をついた。

 「武で従わせるのではない。学びで結ぶ。……日本が進むべきは、この道だ」


 その言葉は、静かな広間に確かな響きを残した。

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