183話:(1871年7月/盛夏)横須賀の炎、海の心臓
夏の陽は容赦なく横須賀の石畳を焼き、造船所の鉄板や鋼材が照り返す光で目を射た。潮の匂いと油の匂いが混じり合う構内には、朝から緊張と興奮が漂っていた。今日、この地で歴史に刻まれる式が行われる。二隻の蒸気船が同時に竣工し、進水するのだ。しかも、それはもはや外国からの輸入品ではなく、日本の技術者と職人たちが自らの力で築き上げた船であった。
藤村晴人は白い布で覆われた船首を見上げ、深く息を吸った。炎天下にもかかわらず、額の汗を拭おうとはしなかった。胸の内にこみ上げる熱は、太陽よりも強かったからだ。
「……ついに、ここまで来たか」
傍らに立つ勝海舟が、団扇で扇ぎながら低く笑った。
「三年前までは、外から買うしかないと誰もが思っていた。だが、お前さんは“作って売る”と言い張った。今日はその答えがここにある」
工廠の一角に設けられた壇上には、フランス人技師レオンス・ヴェルニーの姿があった。彼はかつて日本に西洋式の造船技術を伝えるために招聘された。だが今や立場は逆転していた。横須賀の日本人職工たちが、ヴェルニーの期待を超える成果を示しつつあったのだ。
ヴェルニーは両腕を広げ、壇上から人々に呼びかけた。
「Mes amis!――我が友よ! 今日、ここで造られた二隻の蒸気船は、もはやフランスの船ではない。日本の船だ。私は断言する。日本の技術は、我々を超えた!」
通訳がその声を張り上げると、会場はどよめいた。鉄槌を振るった職工たちが互いに肩を叩き合い、若い徒弟が涙を拭った。
―――
式典が始まると、太鼓の合図に合わせて布が外され、船首が陽光を受けて白く輝いた。艦名が読み上げられると、群衆の中から歓声が湧き起こった。藤村は壇上に進み出て、声を張った。
「皆の者、聞け! この二隻の蒸気船は、外国に頼らず我らの技で造られた。今日をもって、日本は真の意味で海軍国となった!」
その言葉は、炎天を突き抜けるように広がった。
職工たちは声を合わせて「万歳!」と叫び、港に集まった民衆もそれに続いた。
藤村は拳を握りしめながら、目の奥で燃えるような光を感じていた。思い返せば、道は平坦ではなかった。資材の不足、炉の破損、設計図の誤り、すべてを一つ一つ乗り越えてきた。幾度も「無理だ」「外国に任せろ」と囁かれた。しかし、そのたびに彼は言い返したのだ。
「数字で示せ。理屈で示せ。必ずできる」
そして、今。その答えが眼前にある。
―――
進水の時が来た。
船体を固定していた木楔が外され、船は大地から海へと身を滑らせた。水面が大きく割れ、白い波が陽光を弾いた。船体はどっしりとした重量を感じさせながらも、驚くほど滑らかに港へ進んでいった。
藤村はその様を見て、胸の奥で叫んだ。
――これは、ただの船ではない。日本の未来を載せた舟だ。
やがて船が静かに浮かび、汽笛が高らかに鳴り響いた。人々の歓声が爆発し、太鼓や笛の音が入り乱れた。
ヴェルニーが藤村の隣に立ち、片手を差し出した。
「Monsieur Fujimura、あなたの勝利だ」
藤村はその手を強く握り返した。
「いや、皆の勝利だ。日本の勝利だ」
―――
造船所の隅では、子どもたちも目を輝かせていた。義信は父に促され、進水式の太鼓を叩いた。その小さな手から響いた音は、港中に響き渡り、人々の心臓を揺らした。久信は大きな日章旗を振り、汗を光らせながら歓声を上げた。二人の姿は、未来を担う世代の象徴だった。
藤村はその姿を見つめ、静かに頷いた。
――この国は、必ず次の時代へと繋がっていく。
進水式を終え、港に夕陽が差し始める頃、造船所の煙突からはなおも炎が立ち昇っていた。赤々とした炎は、まるで日本の海軍力の心臓が鼓動しているかのようだった。
藤村はその光を見上げ、深く息を吸った。
「横須賀の炎よ……燃え続けよ。お前が消えぬ限り、この国の未来は沈まぬ」
潮騒と汽笛が重なり合い、盛夏の横須賀に「海の心臓」の鼓動が鳴り響いていた。
横須賀造船所の熱狂が収まった翌朝、江戸城西の丸勘定所の広間には、ひんやりとした空気が漂っていた。木机の上には山と積まれた帳簿、銀貨を量る秤、そして昨夜の進水式を伝える報告書。造船の喜びは確かに大きかった。だが藤村晴人にとって重要なのは、その成果をどう財政へ結びつけるかであった。
「殿、こちらをご覧ください」
渋沢栄一が帳簿を広げ、指先で数字を示した。そこには「造船収入、二万両超」と記されていた。軍艦を建造し、修繕・補給を有料で他藩や統合領土に提供することで得られた利益である。
「これで海軍債務の残余を補填できます。もはや“軍艦を買うために借金を重ねる”時代は過去のものです」
渋沢の声には、抑えきれない高揚が混じっていた。
藤村は黙って数字を追い、扇を軽く叩いた。
「……造船で稼ぎ、債務を返す。借金を産むのではなく、借金を消す。――これが真の財政循環だ」
広間の空気がざわめいた。かつて“借金地獄”と呼ばれた日々を知る役人たちにとって、それは夢のような宣言だった。
―――
午後、藤村は勝海舟と共に勘定所別館の一室に移った。窓から差し込む夏の光が帳簿を照らし、墨の黒が鮮やかに浮かんでいた。
勝は帳簿を一瞥すると、にやりと笑った。
「軍艦を買って借金を増やすか、軍艦を造って金を生むか。……随分と違うものだな」
藤村は頷き、静かに言葉を返した。
「海軍は財政の“負担”から、“収入源”へと変わる。兵の俸給も、修繕も、すべて造船収入で賄える。これはただの会計ではない。――国の背骨を組み替える仕事です」
勝は団扇で肩を叩きながら笑った。
「裏宰相、いや財政軍師と言った方がいいかもしれんな。……お前さん、戦をせずに戦に勝っている」
―――
その頃、横須賀の現場では、職工たちが自らの賃金を受け取っていた。これまで造船に従事する職人たちは、幕府の赤字を理由に不安定な賃金に苦しんできた。しかし今、造船収入は直接彼らの生活を支える金となっていた。
「俺たちの手で造った船で、借金を返すんだとよ」
「ならば、もっと造ればもっと楽になる」
職工たちの間に広がるのは、誇りと自信だった。
―――
一方、江戸の町でも噂は広がっていた。
「横須賀の船が、借金を返すんだってさ」
「軍艦が国を食うんじゃなくて、養うってのは初めて聞いたよ」
魚問屋の親父が帳場で言えば、隣の米問屋が笑って応じた。
「なら、税も軽くなるかもしれねぇ。ありがたい話だ」
市井の人々にとって、軍艦はこれまで“金食い虫”の象徴だった。それが今や“国を潤す稼ぎ手”へと変わろうとしていた。
―――
再び江戸城。勘定所に集められた主計官たちの前で、藤村は静かに宣言した。
「海軍は財政の敵ではない。海軍こそ財政の味方だ。借金の時代を終わらせ、利益の時代を拓く。――造船の炎を絶やすな。それは国の心臓を鼓動させ続ける炎だ」
場に沈黙が落ちた。だがその沈黙は不安ではなく、決意に満ちた静けさだった。誰もが数字を睨みながらも、心の奥底で「新しい国の形」が芽吹いているのを感じていた。
―――
夕暮れ。藤村邸の庭で、義信は算盤をはじいていた。
「造船収入が一艘で二万両、修繕で五千両……これを十艘積み重ねれば……」
幼い声での計算は淀みなく、教育係が驚きの目を向けるほどだった。久信はその横で、大きな旗を振り回していた。
「兄上の計算は難しいけど、旗を振るとみんなが喜ぶんだ。船も国も、旗があればまとまるんだよ」
その言葉に、藤村は縁側から目を細めて微笑んだ。――知と和。数字と心。その両輪があってこそ、国家の財政も軍事も進むのだ。
―――
横須賀のドックに灯る炎は、ただ鉄を溶かすためだけの炎ではなかった。それは借金を焼き尽くし、未来を照らす炎だった。
藤村は深く息をつき、胸の奥で確信した。
「この炎を絶やすな。数字と制度で国を守る。それが我らの戦いだ」
盛夏の陽射しは、横須賀の海を銀色に照らしていた。波の照り返しに目を細めながら、藤村晴人は完成したばかりの石造ドックの縁に立っていた。巨大な石積みの壁が左右にそびえ、底には水を抜かれた広大な空間が横たわっている。そこには進水を待つ新造艦の巨体が堂々と腰を下ろしていた。
「これが……日本の石造ドックか」
藤村の呟きに、隣で汗を拭っていた現場監督の棟梁が誇らしげに答えた。
「殿、延べ五万人の手で積み上げました。ひとつひとつの石を噛み合わせ、潮にも地震にも耐える造り。世界のどの港に並べても恥じぬものに仕上がっております」
藤村は壁を手で撫で、その堅牢さを確かめた。石の冷たさが、確かに「国の力」として伝わってくる。
―――
ドックの中央では、職人たちが忙しく動いていた。新設された鉄橋の上を、巨大な鉄材を載せた荷車が音を立てて渡っていく。これまでなら数十人が汗だくで担いでいた重量物が、今では橋と滑車の仕組みで滑らかに運ばれていく。
「橋を渡すだけで、これほど効率が変わるとは……」
渋沢栄一が感嘆の声を上げる。彼は帳簿を開き、数字を指でなぞった。
「搬入時間が三分の一、労力も半分以下。職人の疲れが減れば、精度も増す。利益は労を惜しまぬことではなく、仕組みを整えることに宿るのですな」
藤村は深く頷いた。
「その通りだ。仕組みが国を支える。橋はただの鉄ではない。人の働きと時間を繋ぐ“動脈”なのだ」
―――
夕刻、ドックの水門がゆっくりと開いた。海水が轟々と流れ込み、空の空間を満たしていく。水面が上昇し、新造艦の船底がゆっくりと浮き上がった。見守る職工たちの顔に、汗と同時に歓喜の涙が滲んだ。
「浮いたぞ!」
「日本の手で造った船が、海に立った!」
歓声がドック全体に広がった。
ヴェルニーもその場に立ち、深く頷いた。
「日本の職人は我々を超えた。もはや私の指導は不要だ。……だが私は誇りに思う。彼らがここまで辿り着いたことを」
藤村はその言葉を受け止め、胸の奥で強い鼓動を感じていた。
―――
翌日、横須賀の町では、職人たちが酒を酌み交わしていた。
「俺たちの作ったドックだぞ。あの船を浮かせたのは、この手だ」
「これで外国に肩を並べられる」
市井の人々もまた誇りを口にし、子どもたちは港に駆け寄って新しい艦を指差した。
「父ちゃんの船だ!」
「すげぇ、大きいな!」
町全体が横須賀の炎と心臓の鼓動を共有していた。
―――
江戸に戻った藤村は、勘定所で渋沢と勝海舟と共に報告を受けた。
「横須賀石造ドック、完成。鉄橋設置により搬入効率三倍。大型艦建造能力を獲得」
勝は腕を組み、にやりと笑った。
「これで世界の海軍と真正面から渡り合えるな。砲だけでは戦はできん。船を直す場があってこそ、海を制することができる」
藤村は静かに頷き、言葉を添えた。
「横須賀は、もはやただの工廠ではない。“海の心臓”だ。ここから送り出される鼓動が、日本全体を動かす」
―――
夜。藤村邸の庭。義信と久信が木片で小さな船を作り、桶に浮かべて遊んでいた。
「兄上、これも横須賀で造った船みたいに浮かせられる?」
久信が尋ねると、義信は桶の水面を指で押さえ、冷静に答えた。
「水の力で支えられるんだ。重さを分け合えば、船は沈まない」
久信はしばし考え、笑顔で言った。
「なら、人もそうなんだな。重さを分け合えば沈まない」
藤村は縁側からその会話を聞き、目を細めた。――造船の理も、国の理も同じだ。力を分け合い、支え合うことで国は沈まず進んでいく。
―――
横須賀の炎は今も燃えていた。石造ドックの石壁は夜の海に沈黙を守りながら、新しい日本の鼓動を支えていた。
横須賀の竣工式から数日後。江戸城学問所の一室には、若い工学徒や官僚志望の書役たちが詰めかけていた。窓の外からは夏の蝉時雨が響いていたが、室内は静寂に包まれていた。皆の視線は講壇に立つ慶篤へと注がれていた。
「技術は数字で測れる。しかし、数字だけでは技術は生きない」
慶篤の低く力のある声が、板張りの壁に響いた。彼の前には大きな黒板が据えられ、白墨で「工学会計」と大書されている。
「例えば、横須賀の石造ドックを造るにしても、石材の量、労働者の賃金、日数……すべてを数字で把握せねばならぬ。だが、数字は冷たく積まれるだけでは意味を持たぬ。そこに“計画”と“信頼”を織り込んでこそ、国を動かす力となる」
黒板に線を引き、石材の数量、輸送費、労賃を並べていく。聴衆の中で算盤をはじく音が走り、若い書役の目に驚きの色が浮かんだ。
「利益とは、余剰ではない。次の船を浮かべる力を生むものだ」
その言葉に、場の空気が張り詰めた。
―――
講義の合間、慶篤は机の上に新しい小判と紙幣を並べた。
「横須賀で艦を建てるための鉄も、塩も、すべてこの紙に換算される。技術と経済は二つに分けられぬ。造船とはただの工ではなく、“経済活動の心臓”でもある」
若い学生の一人が手を挙げた。
「殿、ではもし経済が揺らげば、技術も止まるのですか」
慶篤は頷き、黒板に二重の円を描いた。
「経済は技術を育て、技術は経済を養う。どちらかが欠ければ、船も国も沈む。横須賀はその証だ」
彼の眼差しは真っ直ぐで、若者たちの胸に「自分たちもまた国の一部を担うのだ」という自覚を芽生えさせていた。
―――
その頃、隣室では昭武が欧州造船史の書を広げていた。分厚い書物の頁には、英国ポーツマスや仏ブルターニュのドックの図版が刻まれている。
「見よ、これはイギリスの造船史だ。産業革命以前の船は木材中心だった。しかし石炭と鉄を手にした彼らは、わずか数十年で世界を制する海軍を築いた」
昭武は指で頁を叩き、学生たちに目を向けた。
「我らは幸運だ。横須賀を手にしたことで、彼らが一世紀かけた歩みを十年で追うことができる」
学生たちがざわめき、誰かが声を上げた。
「では、日本は彼らを追い越せるのですか」
昭武は微笑み、静かに答えた。
「追うのではない。肩を並べるのだ。そして、やがては独自の道を歩む。そのために学ぶ。歴史は師であり、同時に競争相手でもある」
彼の言葉は、学び舎の空気をさらに熱くした。
―――
夕刻。講義を終えた慶篤と昭武は、縁側に腰を下ろして涼を取っていた。二人の前には蝉時雨の名残を受けた庭が広がり、石灯籠に柔らかな光が差していた。
「兄上、今日の講義で学生たちの目が変わりました」
昭武がうれしげに語る。
慶篤は扇を閉じ、静かに頷いた。
「理論は遠いようで近い。人を納得させるのは言葉と数字。剣ではなく、知で国を支えるのだ」
その会話を廊下の陰から聞いていた藤村晴人は、心の中で小さく息をついた。
――若い二人の声は、やがて国家の背骨となる。技術と経済を結ぶ教育こそ、日本を動かす血管になる。
―――
夜。藤村邸の庭では、義信が小さな木片で作った船に算盤を並べていた。
「一艘作るには鉄がこれだけ、木がこれだけ。費用を足すと……」
幼い声で数字を積み上げる義信の目は鋭く輝いていた。久信はその横で小旗を振り、「出港!」と声を上げて笑った。
その光景を縁側から見守りながら、藤村は思った。
――造船の技術は工廠にある。しかし未来の海は、この子らの手で切り開かれる。
夏の夜風が庭を抜け、障子に灯った光を揺らした。
盛夏の横須賀造船所。太陽は真上から石畳を焦がし、海面には銀色の光が乱反射していた。巨大な船体が二隻、並んでドックに横たわり、進水式を待っていた。船体の黒い鉄板は磨き上げられ、甲板には日の丸が高く掲げられていた。
藤村晴人は家族とともに式典の列席者席に立っていた。篤姫とお吉が子どもたちの手を取り、目を細めて眩しい光の中を見上げている。
「これが……父上が造った船なの?」
義信が目を輝かせて尋ねた。
藤村は頷き、太い声で答えた。
「そうだ。だが父ひとりの力ではない。職人たちの技、学者たちの知恵、兵の汗、そして国の信頼が集まって、この艦は浮かぶのだ」
―――
式典の太鼓が鳴らされる時がきた。壇上に案内された義信は、両手で大きな撥を握りしめた。幼い身体には重すぎたが、彼は必死に構えた。
「いざ……!」
彼の一撃が太鼓の皮を震わせ、深い音が造船所に響き渡った。その瞬間、周囲から歓声が沸き起こった。職人も士官も、家族も来賓も、一斉に声を合わせる。
「出港だ!」
義信は額に汗をにじませながらも、満足げに胸を張った。その姿に篤姫は微笑み、お吉は涙ぐんで手を合わせた。
―――
その隣で、久信が大きな日章旗を振り回していた。まだ背丈よりも長い旗竿を必死に支え、顔を真っ赤にして左右に振る。
「兄上、こっちを見て! 旗が船を呼んでるよ!」
日章旗は夏の風を受け、力強くはためいた。その姿に、進水のために並んだ兵たちも笑みを浮かべた。
「旗を振る子どもに祝福される艦か。幸先が良い」
周囲からそんな声が洩れ、久信はさらに大きく旗を振った。
―――
やがて進水の合図が響き、木楔が外される。船体がゆっくりと傾き、海へと滑り出した。波が高く跳ね、白い飛沫が夏空に舞った。
「浮いた……!」
人々の歓声が大地を揺らした。義信は太鼓を打ち続け、久信は旗を振りやめない。二人の幼い声が大波にかき消されながらも、確かに造船所全体を鼓舞していた。
―――
藤村はその光景を見つめ、胸の奥で言葉を結んだ。
――これはただの艦ではない。未来を繋ぐ器だ。子どもたちがその誕生を祝ったことこそ、この国の歩みの証だ。
篤姫が小声で囁いた。
「殿、子らの手が艦を送り出しましたね」
藤村は頷き、静かに答えた。
「そうだ。いつか彼らがこの国を背負う。その時、今日の太鼓と旗の響きが心に残るだろう」
―――
夕刻。進水式を終えた造船所はまだ熱気を残していた。子どもたちは疲れて眠りに落ち、母に抱かれて馬車に揺られていた。
藤村は最後に振り返り、海へ浮かんだばかりの新造艦を見た。夕陽を浴びて赤銅色に光る船体は、まさに「海の心臓」と呼ぶにふさわしかった。
「この艦が、次の時代を運ぶ」
彼は心に刻み、静かに歩みを進めた。
盛夏の夕陽が港を赤く染める頃、横須賀の埠頭に並んだ新造船の姿は壮観であった。艦首には日章旗が翻り、黒く磨かれた鉄の船体が海面に堂々と浮かんでいる。その艦列は、まるで大海に挑む巨大な矢の先端のように鋭く、美しかった。
「台湾船隊、全隻準備完了!」
報告の声が海風に乗り、港中に響いた。藤村晴人は帽沿いを軽く押さえ、眼前の光景を見つめた。彼の胸の奥で、静かな熱が燃え立つ。
――ここまで来たのだ。北はアラスカ、南はフィリピン。その間の航路を守る艦が、すべて我らの手で造られた。
―――
台湾からも伝令が駆けつけていた。汗をぬぐいながら差し出された書状には、こう記されていた。
《新造船による台南—長崎航路、試運転成功。従来より航海日数三割短縮。航行中の事故なし》
藤村はそれを読み、深く息を吐いた。
「これで南の道も開けたか」
榎本武揚が横に立ち、胸を張って頷いた。
「南洋の風を切って進む姿は壮観でした。船員たちも“これなら清国船に劣らぬ”と誇りを抱いております」
勝海舟も扇を振りながら口を開いた。
「北はお前が買い、南は榎本が護り、そして造船の炎は横須賀で燃えている。日本はついに大海原の民となったな」
藤村は微笑を返した。
「だが、まだ始まりにすぎぬ。航路は道だ。人が歩みを止めれば、草に覆われ、再び閉ざされる」
―――
船隊の甲板では、台湾から来た船員たちが整列していた。褐色の顔に日差しが反射し、汗に濡れた目が輝いている。彼らは声を揃えて報告した。
「新造船は安定し、荒海も恐れず進めます。漁も交易も、この船で安全に運べます」
その言葉に、藤村は大きく頷いた。
「良いか。船はただ鉄の塊ではない。人を運び、物を運び、国を繋ぐ血脈だ。お前たちの働きが、この国を南北に貫く」
船員たちの胸に誇りが灯り、笑みが広がった。
―――
やがて、台湾船隊の出航合図が鳴らされた。汽笛が低く響き、白い蒸気が夏の空へと昇った。船体がゆっくりと海を割り、沖合へ進む。港に残った人々は一斉に帽子を振り、声を合わせて叫んだ。
「行ってこい! 南を護れ!」
その声は波間を渡り、艦隊の旗へ届いた。久信が岸壁で旗を振り、義信が小さな声で航路計算を呟いていた。
「風向きは南東……潮流は二ノ刻で変わる。無事に着く」
兄弟の姿に周囲の者たちも笑みを浮かべた。子らの遊びと計算が、未来の航路の縮図のように思えたのだ。
―――
夕陽が沈む頃、藤村は横須賀の丘に登り、海を見下ろした。港にはまだ炎が灯り、煙突からは赤い煙が立ち昇っていた。
「横須賀の炎は消えぬ。造船の炎が絶えぬ限り、この国の海は生きる」
彼の隣で榎本が力強く言った。
「北を押さえ、南を拓く。これで大海原は日本の庭となりましょう」
藤村は静かに頷き、心の奥で言葉を結んだ。
――これで日本は海洋帝国となる。だが帝国とは領土の広さではなく、人々の心の広さにこそ宿る。交易と航海、そして信頼が続く限り、この海は我らのものとなる。
―――
夜が訪れると、港に明かりが連なった。炎と灯が並び、まるで海の上に新しい星座が描かれたようだった。藤村はその光景を背に、江戸への帰路についた。
彼の胸の中で、確かに響いていた。
――海の心臓は、今や南北に血を送っている。