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182話:(1871年6月/初夏)道州制の歩み

初夏の光が羽鳥城下を満たしていた。青々とした稲の苗が風に揺れ、遠くからは織機の音が低く響いてくる。街道には商人の列が続き、馬車の車輪が石畳を震わせていた。その中心にそびえるのは、羽鳥州議会堂である。新しく建てられた煉瓦造りの建物は、赤い壁面と白い窓枠が陽光を受けて輝き、近代国家の象徴として人々の目を引いていた。


 正面玄関前には、各村から集まった農民や町人、職人たちが集まり、ざわめきの中にも期待の色を浮かべている。その日は、羽鳥州における農業組合の結成式であった。日本で初めて州制度を基盤とした産業組織化が始まる歴史的な瞬間を見届けようと、多くの人々が足を運んでいた。


―――


 大広間の壇上に立ったのは藤村晴人である。黒漆の机の上には、組合規則の草稿と州印の印章が整然と並べられていた。背後には、州旗が鮮やかに翻っている。青と白を基調とした布地には、羽鳥の象徴である波と稲穂が描かれ、「産業と民生の調和」を示していた。


 藤村はゆっくりと口を開いた。


 「州制度は、行政だけのものではない。産業がひとつに結束し、州を単位として動くことで初めて国の力となる。……鉄も塩も絹も、州ごとに組織を整えれば、品質も交渉力も飛躍的に高まるだろう」


 その声に、大広間に並ぶ農民代表や織物商人たちの背筋が伸びた。彼らにとって、これまでの取引は村単位、商人任せの散発的なものであった。市場での価格は商人の一声で上下し、農民たちは翻弄されるばかりだった。それが今、州という大きな枠で団結する仕組みが作られようとしている。


 壇の横に立つ新組合長が一歩前に進み、深々と頭を下げた。


 「殿のお導きにより、このたび羽鳥絹織物組合を結成いたしました。これで品質の統一が進み、価格も州全体で交渉できましょう。農民も町人も、互いに足を引っ張るのではなく、共に利益を分かち合えるのです」


 その言葉に広間がどよめいた。農民代表の一人が声を上げた。

 「これまで我らの絹は値切られるばかりであった。だが州の名で売れるなら、外国商人とも堂々と渡り合える!」


 藤村は頷き、力強く言葉を重ねた。

 「州の名は、ただの言葉ではない。信用の旗印だ。羽鳥州の印が押された商品は、品質と誇りを背負っている。これを守るのは、諸君ひとりひとりの手である」


―――


 結成式の最後に、組合規則が読み上げられた。


 一、組合員は州議会の承認を受けた品質基準を守ること。

 二、価格交渉は州組合が一括して行い、勝手な値下げを禁ずること。

 三、収益は組合員に公平に分配し、余剰分は基金として積み立てること。


 読み上げの声が終わると、広間に静寂が訪れた。やがて拍手が鳴り響き、農民たちの目には新しい未来への希望が宿っていた。


―――


 式が終わると、外に出た人々は城下に続く広場に集まった。そこでは、組合加入の署名受付が設けられていた。農民が行列を作り、一人一人が自らの名を記していく。字を持たぬ者は印を押し、震える手で朱肉を紙に残した。


 「これで俺たちも羽鳥州の一員だ……」

 老農夫が呟くと、隣にいた若者が笑って言った。

 「いや、州だけじゃない。国の一員だ。これからは俺たちの絹が世界へ出ていく」


 笑顔が広がり、そこに漂う空気はまるで祭りのようであった。子どもたちが州旗の小さな模造品を振り、母親たちは「立派になったものだ」と目を細めていた。


―――


 その頃、議会堂の上階では、州議員たちが集まっていた。机の上には新しい帳簿が並べられ、各州からの収支月報が記されている。


 「今月、羽鳥州は黒字一千五百両」

 「南部州は赤字二百両」


 数字を読み上げる声が響く。これまでの藩政では隠されてきた財政が、州単位で明らかにされているのだ。赤字州への交付金システムが導入され、豊かな州が困窮州を支える仕組みが動き出していた。


 議員の一人が藤村に尋ねた。

 「殿、これで豊かな州が負担を強いられるのでは……」


 藤村は首を振った。

 「負担ではない。国全体の安定が、豊かな州の利益となる。赤字を放置すれば、隣の州が疲弊し、やがて自らの市場も崩れる。互いに支え合うことが、結局は皆を強くするのだ」


 その言葉に、議場の空気は引き締まった。


―――


 やがて議会堂の外、時計塔の鐘が高らかに鳴り響いた。新設された鉄の鐘は、正午を告げる音を城下に響かせ、人々の耳に「新しい時代の歩み」を刻み込んだ。


 「正確な時間が、正確な政治を生む」


 広場で鐘を聞いた町人がそう呟いた。農民も職人も、商人も、その言葉を反芻するように頷いた。


 藤村は窓辺から城下を見下ろしながら思った。――藩という枠を越え、州という新しい仕組みが人々の生活に根を下ろしていく。その歩みはまだ小さい。だが、この小さな一歩が、日本全体を変える大樹に育つに違いない。

江戸城勘定所の広間は、初夏の午後の光に満ちていた。障子越しの白い光が机の上の帳簿を照らし、墨痕鮮やかな数字の列が浮かび上がっている。部屋の中央には長机が置かれ、その上には各州から届いた歳入歳出月報が山と積まれていた。


 藤村晴人は机の端に立ち、扇を閉じて指先で一枚の表を押さえた。


 「これが羽鳥州の収支である。歳入一万三千両、歳出一万両、差引き黒字三千両」


 数字が読み上げられると、部屋の空気がざわめいた。黒字は州の努力の証であり、その余剰は次の発展へとつながる。


 一方、別の表には「南部州、歳入八千両、歳出九千二百両、赤字一千二百両」と記されていた。


 老練の代官が眉をひそめ、声を潜めて言った。

 「赤字の州に黒字の州から金を回すとなれば、不満も出ましょう。自分たちが汗を流した成果を、他へ持って行かれると感じるのは自然なことです」


 藤村は静かに首を振った。

 「不満は出るだろう。しかし考えてみよ。隣の州が疲弊すれば、交易は滞り、商品の流れも止まる。やがて黒字の州も立ち行かなくなる。互いに支え合うことで、初めて全体が安定するのだ」


 渋沢栄一が脇から口を添えた。

 「殿の言葉の通りです。数字を公開し、交付金の流れを明らかにすれば、人々も理解するでしょう。“黒字の州が損をする”のではなく、“国全体を守るための投資”なのだと」


―――


 その翌日、羽鳥州議会堂。新設された時計塔の鐘が正午を告げると同時に、議場には各村の代表が集まっていた。机の上には、黒字・赤字を色分けした帳票が並べられ、視覚的にも一目で州ごとの状況がわかるようになっていた。


 若い村役人が声を上げた。

 「自分たちの村が黒字だとわかるのは誇らしい。しかし赤字の村に回されると、損をしているように思えてなりません」


 議場がざわめく中、慶篤が立ち上がり、板書に円を描いた。

 「この輪が“国”だ。黒字と赤字は、一つの輪の内にある。黒字の州が赤字を補うことは、輪の外に流れる血を防ぐことと同じだ。輪が切れれば全身が弱る。だから支えるのだ」


 その理路整然とした言葉に、会場は静まり返った。


―――


 夕刻。城下の広場には、新制度を知らせる布告が掲げられた。


 「黒字の州は余剰を基金に納め、赤字の州はそこから交付を受ける。全ての数字は月ごとに公開され、誰でも閲覧できる」


 町人たちが布告を覗き込み、口々に議論を交わす。

 「なるほど、隠されないのか」

 「帳簿が皆に見えるなら、不正はできぬな」

 「ならば仕方あるまい。赤字の州を救うことは、回り回って自分たちを救うのだ」


 その声に、藤村は窓辺から静かに頷いた。


 ――透明性と責任。それが新しい制度の土台だ。


 広間に響いた鐘の音が、まるで新しい時代の鼓動を刻むかのように人々の胸に残っていた。

羽鳥州議会堂の外観は、石と煉瓦を組み合わせた西洋風の建築だった。その正面に聳え立つのが、新たに設けられた時計塔である。高さ二十間、青銅の鐘と四方に据え付けられた大時計盤は、州の新しい威信を示す象徴となっていた。


 正午。澄んだ鐘の音が、羽鳥城下の空に高らかに響いた。農民も商人も足を止め、天を仰ぐ。刻まれる音は単なる時間ではなく、政治の規律をも告げる響きだった。


 「時が正しければ、政も正しくなる」


 議場の演壇に立った藤村晴人の声が広間に響いた。時計の音と重なり、その言葉は人々の胸に深く刻まれる。


―――


 議場の机には、議員たちの前に同じ時計の小型模型が置かれていた。秒針が滑らかに動くその姿を見ながら、議員の一人が呟いた。

 「これまで会議の始まりも終わりも曖昧だった。しかし鐘の音があれば、誰も言い訳できぬ」


 隣の議員も頷き、声を潜めて言った。

 「時間を守ることが、政治を守ることに通じるのだな」


 広間には、これまでにない緊張感と規律が漂っていた。


―――


 議場の傍聴席には町人や学生も集められ、模擬演習として議事進行を体験していた。議長役の若者が鐘の音を合図に開会を宣言すると、議題に沿った発言が順序立てて行われる。


 「州税の配分について意見を述べます」

 「反対意見を表明します」


 規律に従った討議は活発で、だが無秩序ではない。議事録係が一字一句を記録し、壁に設けられた時計を見上げながら時間通りに進行していった。


 見学していた老人がぽつりと漏らした。

 「藩政の頃には見られなかった光景だ。議論が喧嘩ではなく、秩序になるとは……」


―――


 その日の夕暮れ。時計塔の鐘が再び街に響くと、子どもたちが駆け寄り、影になった塔の下で指を差し合った。

 「今、五時だ! 母ちゃん、そろそろ晩ごはんだね」

 「鐘があれば、日暮れを間違えない!」


 笑い声と共に、塔は人々の日常に溶け込んでいった。


―――


 議会堂の窓辺に立つ藤村は、街に響く鐘の音を聞きながら心に刻んだ。


 ――時間を正すことは、国を正すこと。


 その確信が彼の胸に静かに燃え、やがて全国へ広がる制度の礎となるのを、彼自身もはっきりと感じ取っていた。

江戸城学問所の講堂。外は初夏の陽が強く射していたが、障子を透かした光は柔らかく、机に並べられた硯や筆を白く照らしていた。そこに集まっているのは、各州から派遣された若い役人たちである。


 演壇に立つのは慶篤であった。彼は落ち着いた眼差しで学生たちを見回すと、深く息を整えた。


 「本日の課題は、模擬議会の進行である」


 机に配られたのは、実際の州議会で使われている議事日程の写しだった。学生の一人が議長役を務め、鐘を模した小槌を打つと、教室の空気が一変した。


 「議題一、州税の配分について」


 役人役の学生が立ち上がり、予算の増額を訴える。すかさず反対役が立ち、赤字州への交付金を優先すべきだと論じる。慶篤は黙って見守り、時に「発言時間を守れ」「根拠を数字で示せ」と短く指摘した。


 やがて議論が熱を帯びると、教室の隅で見学していた老書役が思わず呟いた。

 「まるで本物の議会のようだ……」


 慶篤は頷き、学生たちに言葉を投げかけた。

 「議論とは勝ち負けではない。決定に至るまでの“過程”こそが大切なのだ。州制は形ではなく、この過程の積み重ねで育つ」


―――


 同じ頃、別室では昭武が大きな地図を広げていた。そこにはスイスとドイツの州境が色分けされて描かれている。


 「スイスには二十六の州がある。それぞれが自治を保ちつつ、連邦としてまとまっている。ドイツも多様な領邦を束ね、統一を果たした」


 学生の一人が恐る恐る尋ねた。

 「しかし、島国である日本に同じ仕組みが通じるのでしょうか」


 昭武は微笑み、指で地図をなぞった。

 「通じるか否かではない。学ぶのだ。大陸の制度をそのまま写す必要はない。我々は日本独自の州制を作る。そのために、外国の成功と失敗を知ることが大切なのだ」


 地図の上で交わる線を見つめる学生たちの目に、新しい未来の姿が映っていた。


―――


 夕刻。講義を終えた慶篤と昭武は、廊下を並んで歩いていた。窓の外には夕陽が赤く差し込み、瓦屋根を照らしていた。


 「今日の演習で、人々の目が変わったのを感じました」

 慶篤が疲れた手を揉みながら言った。


 昭武は微笑み、弟を労わるように言った。

 「理論は遠いようで近い。数字と言葉で人は納得する。武力に頼らずとも、秩序は築けるのです」


 二人の会話を背後で聞いていた藤村晴人は、胸の奥で静かに思った。


 ――学をもって理を示す。これこそが新しい国を支える柱となる。


 学問所の廊下を抜けると、庭の紫陽花が淡い色を咲かせていた。静かな花々の佇まいは、まるで新制度の芽吹きを見守るかのようであった。

初夏の夕暮れ。藤村邸の座敷には、州議会から戻った藤村晴人が、子どもたちと向き合っていた。障子を抜ける風は涼しく、庭の木陰には蛍がちらほらと舞い始めていた。


 義信は畳の上に大きな紙を広げ、州ごとの境界線を描いた地図を前にしていた。まだ六歳になったばかりだが、その目は真剣そのものだった。


 「ここが常陸州、ここが下総州……。それぞれが一つにまとまると、日本はもっと大きく動ける」


 小さな指先で線をなぞり、村や町の名を正確に読み上げていく。教育係が驚いた顔を隠せずに言った。

 「一度見ただけで地図を丸ごと覚えてしまわれた……」


 義信は得意げに微笑み、今度は紙の端に小さな数字を書き込んだ。

 「この州が黒字、この州は赤字……。黒字の州が支えれば、国全体が倒れない」


 その言葉に、傍で聞いていた久信が目を丸くした。兄とは違い、数字や地図にはまだ不慣れだったが、彼は兄の説明をじっと受け止め、静かに頷いた。


 「兄上がそう言うなら、皆も納得するはずだよ」


 久信は筆を取り、色とりどりの墨で小さな旗を描き始めた。赤、青、緑……一つ一つに「常陸」「武蔵」「越後」と文字を書き入れる。


 「州には旗があった方がいい。そうすれば、皆が自分の州を誇りに思えるから」


 幼い言葉ながら、その提案に場が和んだ。侍女や書役たちが「いい考えだ」と口々に褒めると、久信は頬を赤らめ、照れくさそうに笑った。


―――


 その様子を縁側から見ていた藤村は、深く息を吐いた。


 ――義信は知で未来を示す。久信は人の心をまとめる。二人の力が重なれば、この国の道州制も必ず根づく。


 夜の帳が降りる頃、庭に響いたのは鐘の音だった。羽鳥の州議会堂から、新しく設置された時計塔の鐘が、時を正確に告げていた。


 藤村はその音に耳を澄ませ、子どもたちの笑い声と重ね合わせた。


 ――正確な時と、正確な制度。その上に未来は築かれる。

六月の終わり。羽鳥州議会堂の広間には、初夏の熱気と、議論を終えた後の静けさが同居していた。


 藤村晴人は議場を出て、時計塔の下に立った。鐘楼の鉄の梁を通して、内部で時を刻む振り子の規則正しい音が響いてくる。その響きは、まるで新しい政治制度そのものの拍動のように思えた。


 「正確な時間が政治を律する。……人の心もまた、この鐘の音で整うのだ」


 彼は小さく呟き、視線を遠くへ投げた。広場には、州旗を手に集まった人々が立ち、会議を終えて戻ってきた議員たちを拍手で迎えていた。子どもが父の手を引き、「あの建物が僕らの“州”なんだね」と声を弾ませる姿もあった。


 藤村はその光景を目に焼き付けながら、胸の奥で確信した。


 ――道州制は、ただの行政改革ではない。人々が自らの州を誇りに思い、共に議論し、未来を選び取るための器だ。


 西の空には茜の光が残り、議会堂の時計塔はその光を受けて輝いていた。鐘が再び鳴り渡り、広場の喧騒が一瞬だけ止まる。


 藤村はその瞬間を逃さず、心の内で言葉を刻んだ。


 「この歩みがやがて日本全体を包み、政治文化を変えてゆく。藩に代わる新しい地図を描くのは、今この時代に生きる我らだ」


 鐘の音は風に乗り、遠い村々にも届いていくように思えた。その音こそが、道州制という新制度の鼓動であり、新しい日本の夜明けを告げる合図でもあった。

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