181話:(1871年5月/初夏) 鉄と塩の流れ
初夏の朝日が差し込む羽鳥の空は澄み切っていた。五月の海はきらめきを増し、港へとつながる運河には、すでに多くの小舟が並んでいる。その中心にそびえ立つ羽鳥製鉄所の煙突からは、白い蒸気と黒い煙が入り混じって立ちのぼり、風に流されていった。
藤村晴人は、製鉄所の正門に立ち、集まった職工や町人たちを見渡した。数百人が列をなし、その背後には城下の人々が集まっている。今日は特別な日だった。
「本日をもって、羽鳥製鉄所は新たな段階に入る。日産五トン、いや将来は十トンを超える鉄を供給することが可能になる。鉄は国の骨格だ。橋も、船も、砲も、すべては鉄から始まる」
声を張り上げると、群衆から歓声が沸いた。鉄の光沢は、この時代において文明そのものの象徴であった。
所長が進み出て、手に黒光りする鉄塊を掲げた。
「殿、これは昨夜の炉から出したものにございます。純度はこれまでより二割も高く、鍛造すれば長崎や横浜で輸入される鉄材にも劣りません」
藤村は頷き、鉄塊を手に取った。重みが掌に沈み込み、ずしりとした感触が骨まで響いた。
「よくやった。これで我らは鉄を買う国ではなく、作る国となる」
その言葉に、職工たちの顔は汗に濡れながらも誇りに輝いていた。
―――
同じ羽鳥の浜辺では、もう一つの式典が開かれていた。白い砂が続く浜の奥に広がるのは、整然と並んだ塩田である。木枠で区切られた平地に海水が張られ、太陽の光を浴びて水面が銀色に輝いていた。
「本日より、羽鳥塩専売所を設ける。塩は国民の命を守るものだ。食を保ち、体を養い、病を防ぐ。これを統一し、品質を一定とすることこそ国の責務である」
藤村の言葉に、塩田の管理者が深々と頭を下げた。
「殿、これまで村ごとに異なっていた塩の仕上げを、今後は一つの規格に合わせます。粗塩、精塩、それぞれの用途を明確にし、どの市場でも同じ品質を得られるようにいたします」
彼の背後では、若い職人たちが木の棒で塩を掻き集め、山のように積み上げていた。海風が白い粉を舞わせ、まるで祝福の紙吹雪のようにあたりを漂った。
藤村はその光景に目を細めた。
――鉄と塩。硬さと柔らかさ。力と命。どちらも国を支える基盤に違いない。
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やがて両会場を結ぶ羽鳥城下の広場に、群衆が集まった。そこには製鉄所の職工、塩田の労働者、商人、農民、そして子どもたちまでが集い、祝賀の声を重ねていた。
藤村は壇に立ち、二つの産業を一つの言葉で結びつけた。
「鉄は国の骨格、塩は国民の命。今日からこの二つを国家が責任をもって管理する。誰もが安心して使える鉄を、誰もが安心して食べられる塩を、我らは守る」
会場は大きなどよめきに包まれた。人々の目には新しい時代への期待と誇りが映っていた。
―――
その日午後、藤村は製鉄所と塩専売所を見学して回った。
製鉄所では、巨大な高炉が轟音を立て、火花が散っていた。真っ赤に焼けた鉄が流れ出すと、職工たちが手際よく型に流し込み、冷え固まった鉄塊を次々と積み上げていく。鉄の匂い、火の熱気、汗の臭いが入り混じり、全身に迫ってきた。
「殿、この炉を二基に増設すれば、生産量は倍増します」
所長が誇らしげに言うと、藤村は力強く答えた。
「必要なら迷わず増やせ。需要は必ずある。国の骨格は強ければ強いほどよい」
次に塩田を訪れると、白い塩が山と積まれていた。子どもたちが袋に詰められた塩を運び、浜辺には大きな倉庫が建てられている。
「塩は湿気を嫌う。これからは専用倉庫で保存し、港から一気に出荷いたします」
管理者が説明する。藤村は倉庫の壁を叩き、乾いた音を確かめた。
「良い音だ。これなら梅雨でも腐らぬ。鉄も塩も、品質を守ることが信頼を守ることになる」
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夕刻、羽鳥港には大小の船が並んでいた。甲板には鉄塊が積まれ、別の船には塩俵が山積みになっていた。夕陽が海に沈む中、出航の合図が響き、船団が一斉に帆を上げる。
港に残った人々は歓声を上げ、見送りの旗を振った。
藤村は港の突堤に立ち、波間に消えていく船影を眺めながら呟いた。
「鉄は国を固め、塩は民を養う。今日ここに、その流れが始まった」
風が頬を撫で、遠くから鉄と塩を積んだ船のきしむ音が届いた。未来への鼓動は、確かにこの港から全土へと広がろうとしていた。
羽鳥港の波止場には、朝から人と荷がごった返していた。帆を畳んだ商船の甲板からは鉄塊が次々と吊り上げられ、塩俵を背負った荷役夫たちが汗を飛ばしながら船倉へ運び込んでいく。港を吹き抜ける風は潮の香りを運び、その中に鉄の匂いと塩の粉が混じっていた。
「次は仙台向けの便だ、鉄塊百二十! 塩俵三百!」
役人の声が響くと、荷札に墨で書かれた数字が確認され、記録係が木簡に印を押した。これまで東北の城下へは、それぞれの商人が勝手に買い付け、勝手に運んでいた。価格も量も安定せず、足りない時には暴騰し、余った時には値崩れしていた。
だが今は違った。羽鳥港を拠点にした供給網が築かれ、船団は「必要な場所に、必要な分だけ」を運ぶ。港役所の壁には大きな黒板が掛けられ、東北各地の需要が数字で示されていた。
「盛岡、鉄三十、塩五十」
「山形、鉄二十、塩四十」
役人が指でなぞると、港の荷役頭が頷き、船の配置を決める。数字がそのまま航路となり、鉄と塩が血管のように国土を巡っていった。
―――
午後、藤村晴人は港の櫓に登り、眼下の光景を見渡していた。帆布を張る音、荷を積む掛け声、記録係の筆の走る音。すべてが秩序をもって動いている。
隣に立つ渋沢栄一が、手に帳簿を広げて言った。
「殿、供給量が安定したことで、価格はここ一月で一割下がりました。それでも利益は落ちておりません。品質が統一され、輸送が確実になったことで、商人たちも安心して取引しております」
藤村は港を行き交う船団に目を細めた。
「鉄の値が乱れれば橋が止まり、塩の値が乱れれば民が病に倒れる。価格の安定は、命の安定だ」
その言葉に渋沢は深く頷いた。
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東北の一漁村。港に接岸した船から塩俵が降ろされると、村人たちが次々と受け取った。
「塩の味が同じだ……」
年老いた漁師が舌で確かめ、驚いたように呟いた。これまで村ごとに塩の質はまちまちで、保存が利かず魚を腐らせることも多かった。
若い漁師が嬉しそうに声を上げた。
「これなら遠く江戸まで魚を運んでも傷まない!」
村の女たちは笑い、子どもたちは俵に腰を下ろして遊んでいた。鉄で作られた釘や釜も一緒に届けられ、村の暮らしは目に見えて変わり始めていた。
―――
一方、仙台城下の市では、鉄の相場が安定したことで大工たちが声を揃えていた。
「これまで一間の梁を架けるたびに鉄の値を気にしていたが、今は決まった値で仕入れられる」
「これで橋も家も安心して作れる。塩も同じ値なら、冬越しも計算できる」
市中の商人は、羽鳥港の札を掲げて「公定価格」と書き出していた。人々はそれを見て安心し、財布から新しい紙幣を出して買い物をしていた。
―――
羽鳥港に戻った藤村は、夕暮れの空を仰いだ。西の空は茜に染まり、港の水面が黄金色に輝いていた。
「物流とは血の流れだ。鉄と塩を正しく巡らせれば、国は病まぬ」
心の中でそう呟き、藤村は港を後にした。背後では、東北へ向かう船団が帆を張り、初夏の風を受けて沖へと漕ぎ出していった。
江戸城勘定所の一室。窓から射す初夏の光が帳簿の列を照らし、墨の黒が鮮やかに浮かび上がっていた。机の上に広げられたのは、羽鳥港から届いた収支報告である。
「専売益、年十二万両」
渋沢栄一が数字を読み上げると、部屋の空気がわずかに揺れた。かつては借金の山に頭を抱えていた勘定所の役人たちが、今は誇らしげに数字を確認している。
藤村晴人は机に肘をつき、扇で静かに表を叩いた。
「この利益をそのまま蓄えるのではない。鉄道に回すのだ。物流を早めれば、鉄も塩も倍の速さで巡る。そうすれば、また利益が生まれる」
「専売の利を道に戻す……」
年配の代官が感慨深げに呟いた。
―――
数日後、羽鳥港の倉庫。積み上げられた塩俵と鉄塊の間を、渋沢が歩きながら説明していた。
「ここからの利益で、まず羽鳥から水戸、さらに江戸へと鉄道を敷く計画です」
若い書役が驚きの声を上げた。
「鉄と塩で得た金で、鉄道を……。まるで血が体を巡るように」
渋沢は笑みを浮かべて頷いた。
「その通りだ。血を流すのではなく、血を巡らせる。これが殿の目指す財政の姿だ」
倉庫の窓から差し込む光が、積み上げられた鉄材を白く輝かせていた。それはまるで、未来の線路がすでにそこに延びているかのようだった。
―――
江戸城西の丸では、勝海舟が腕を組みながら帳簿を覗いていた。
「専売益をもとに鉄道を敷く。借金でなく、自分たちの稼ぎで進める……。これで外債に縛られることもないな」
藤村は頷き、答えた。
「金を借りて事業を進めれば、利息は血を吸う leech のように国を弱らせる。だが自らの利を回せば、それは再び国を強くする血となる」
勝は扇を広げ、にやりと笑った。
「なるほど、“借金地獄”の頃には考えられなかった策だ。……お前さん、財政を戦のように捉えているな」
藤村は笑みを返し、低く答えた。
「財政こそ戦です。剣で勝っても、銭で負ければ国は沈む」
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やがて各地に「専売益鉄道基金」の布告が貼り出された。町人たちはそれを見上げ、口々に語り合った。
「塩を買えば鉄道になるのか」
「鉄を使えば道が延びる……。わしらの銭が国を動かすんだな」
子どもが母の手を引き、布告の前で声を上げた。
「母ちゃん、この道を通れば江戸まで早く行けるんだって!」
母は笑いながら子の頭を撫でた。
「そうさ。みんなで払った銭が、みんなの道になるんだ」
―――
夜、藤村邸の庭。義信が算盤をはじき、数字を並べていた。
「塩一俵から得る利益が二十文。千俵なら二万文。これを積めば……」
幼い声で計算を続ける義信の目は、まるで未来の鉄路を見据えているように輝いていた。
久信はその横で頷き、柔らかく言った。
「兄上は難しいことを言うけど、結局は“みんなで少しずつ出し合って、大きな道を作る”ってことなんだね」
義信は顔を上げ、真剣な声で答えた。
「そうだ。だから塩も鉄も無駄にできない。一粒一文が、未来を走らせる」
藤村は縁側からそのやり取りを見つめ、胸の奥で静かに思った。
――この国は、もう借金に頼らない。人々の銭が、未来を走らせる。
初夏の羽鳥城下。新設された製塩倉庫の白壁が陽光を反射し、眩しく光っていた。倉庫の中では塩俵が幾重にも積み上げられ、湿度を防ぐための新式の通風管から涼やかな風が流れ込んでいた。
「殿、これで塩は長期保存が可能となりました。雨期にも品質を落とさず出荷できます」
管理役の言葉に藤村晴人は頷き、指先で塩の結晶をすくった。粒は乾き、指先にさらさらとこぼれ落ちる。
「これならば遠国への輸送にも堪える。台湾や朝鮮へ運んでも質は落ちぬだろう」
渋沢栄一が脇から帳簿を広げ、報告を続けた。
「保存性が上がれば取引も安定し、価格も下がります。庶民にとってもありがたい効果となりましょう」
―――
一方、横須賀では鋳造棟の改修が進んでいた。鉄骨を組み直し、炉に最新式の送風機を据え付ける。職人たちが火花を浴びながら槌を振るい、真っ赤に溶けた鉄を型に流し込む姿は、まさに「国の骨格」を鍛える光景であった。
「これで鋳型から製品まで一貫して管理できます」
技師の声は興奮を帯びていた。
「欠けや割れも減り、歩留まりは三割以上改善するはずです」
藤村は炎に照らされた鉄塊を見つめ、低く言葉を漏らした。
「鉄は刀だけでなく、橋となり、道となる。国を繋ぐ力だ」
―――
完成した鉄材は港へ運ばれ、塩俵と共に船に積まれた。羽鳥港の埠頭では荷役の掛け声が飛び交い、クレーンが唸りを上げる。積み込まれた船の帆が風を受け、ゆっくりと沖へ出ていく。
「鉄と塩が並んで船に載るのは壮観だな」
勝海舟が帽子を押さえ、笑った。
「まるで国の骨と血が、一緒に流れていくようだ」
藤村はその言葉に目を細め、静かに応じた。
「骨は鉄、血は塩。どちらも欠ければ国は立たぬ。……だからこそ、これを守り、磨き続けねばならん」
―――
夕刻、港町の茶屋で商人たちが語り合っていた。
「塩も鉄も質が揃ってきた。これなら外国品に負けない」
「値段も安定して、先の計算が立つ。これで安心して商売ができる」
彼らの言葉には、未来を見据える余裕と誇りがあった。
藤村は港の灯が次々と灯るのを見つめながら思った。
――原料から製品まで、一貫して国が管理する。その仕組みこそが、国際競争に勝つための武器になる。
江戸城学問所の講義室。障子越しの初夏の光が畳を淡く照らし、机の上には帳簿と欧州の文献が積まれていた。若い役人や学生が列をなし、その視線の先には慶篤が立っていた。
「専売とは搾取ではない。公共を守る仕組みである」
慶篤の声は落ち着きながらも力強かった。黒板に描かれた円の図を指で叩く。
「鉄と塩を国が握ることで、価格は安定する。安定すれば流通が円滑になり、民は安心して暮らせる。専売は“公共の盾”なのだ」
聴衆の一人が手を挙げ、戸惑い混じりに問うた。
「ですが殿……商人からすれば自由に売買できぬことは不満では」
慶篤は頷き、静かに続けた。
「だからこそ専売益は国庫に入れ、道や学びに戻す。民は銭を払い、銭は再び民のために使われる。これが“公共性”の本質だ」
場内にざわめきが広がり、若い書役が膝を正した。数字だけでなく理念としての専売制が初めて胸に落ちた瞬間だった。
―――
同じ日の午後。別室では昭武が欧州から持ち帰った分厚い記録を机に広げていた。
「フランスでは塩税が国家財政の柱となった。だが民の不満も大きく、革命の火種ともなった」
彼はページをめくり、別の文書を示した。
「一方、プロイセンは効率的に運営し、税を道や軍備に振り向けた。……日本の専売は、この両者の長所を組み合わせている。品質の安定と公共への還元。だからこそ、欧州以上に効率的なのだ」
学生の一人が驚きの声を上げた。
「つまり、日本はすでに欧州を超えていると……」
昭武は微笑んで首を振った。
「超えるのではなく、学び取り、自国に合わせて進めるのだ。制度は形ではなく、中にある理で決まる」
―――
夕刻、学問所を出た藤村は、庭に立ち止まり振り返った。講義室からはまだ議論の声が響き、若者たちが机を囲んで意見を交わしている。
――理論が民を納得させ、制度が国を支える。数字と理念の両輪があってこそ、改革は定着する。
白壁に映る夕陽は赤々と輝き、その下で芽吹いた学びが国の未来を支えていくことを告げているようだった。
羽鳥の塩田は、初夏の陽光を浴びて白く輝いていた。潮風に混じる塩の匂いが鼻を刺し、遠くでは水牛が車を引いている。そこに義信と久信が藤村に連れられて姿を現した。
「海の水が塩になるんだよ」
義信は目を細め、塩田に張られた薄い水面を観察していた。小さな指先で光を反射する水を指し、ぶつぶつと呟く。
「水が蒸発して、残った結晶が塩。熱と風の計算で、どれくらいの時間で塩ができるか予測できるはずだ」
その言葉に、同行していた役人が思わず顔を見合わせた。六歳の子どもとは思えぬ観察力だった。
久信は義信の横で、桶から掬われた塩の結晶を手に取った。
「ざらざらしてるな。……でも舐めたら、しょっぱい!」
子どもらしい笑顔に、周囲の職人たちの顔がほころんだ。久信は人々の輪の中に入り込み、職人たちと話し込む。
「暑いのに働いて大変だね」
「でも皆でやれば、塩もすぐに集まるんだ」
その何気ないやり取りに、職人たちの心は自然と和んでいった。
―――
午後、羽鳥製鉄所の炉に案内された二人は、真っ赤に輝く鉄塊に目を奪われた。
「わあ……!」
久信は思わず一歩前に出て、熱気に顔を赤らめながらも見入った。義信はすぐに算盤を弾き、炉の温度や燃料の消費量を数字に置き換えて計算を始めていた。
「この温度を保つには、一日で炭をこれだけ消費するはずだ。鉄一トンを作るのに必要な炭の量は……」
呟きは職人の耳に届き、驚嘆の声が上がった。
「殿の倅は、まるで帳簿を読むように鉄を見ている……」
―――
その頃、台湾の南部でも塩田が整備されていた。現地に派遣された衛生隊が職人たちに清潔な作業手順を教え、塩田の水路を整えていた。
「日本の方法で作れば、塩はもっと白く、もっと早くできる」
現地の青年が笑顔で答え、作業に励む姿に住民たちの顔にも希望が浮かんだ。塩の専売益は現地の学校や診療所の建設に充てられ、生活の改善と統治の安定が同時に進められていた。
―――
夕刻、羽鳥港。鉄材と塩を積んだ船が次々と沖へ出て行く。白い帆が風をはらみ、夕陽を背にして海を渡っていく姿は、まさに新しい時代の象徴だった。
藤村は岸辺に立ち、子どもたちとその光景を見つめていた。
「鉄は国の骨格、塩は国の命だ。これらが巡る限り、この国は強く、豊かになる」
義信は真剣な眼差しで海を見つめ、久信は隣でにこやかに頷いた。二人の未来が、鉄と塩の流れの中に確かに重なっていた。