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179話(1871年3月/早春)学と兵の春

三月の鎌倉は、まだ海風が冷たかった。山から吹き降ろす風が街路の梅を散らし、海辺の養生館には春の兆しと冬の残り香が同居していた。


 鎌倉養生館の広大な庭には、朝から白衣の職人たちが集まっていた。並べられた木製の机の上には、ガラス瓶、薬液、培養槽が整然と並ぶ。その中心に立つ藤村晴人は、鋭い眼差しで瓶の中をのぞき込んでいた。


 「……これが、日本で初めて“量”として確立されたペニシリンだ」


 瓶の中には透明な液体。だが、その中に潜む力は、数千の兵を救い、幾万の民を病から解き放つ。そう確信させるほどの重みがあった。


 傍らに立つのは、お琴である。白衣姿で、薬液を撹拌しながら職人に声をかける。

 「温度を一度でも違えれば効能は半減します。撹拌はこの速さで、瓶の縁を泡立たせてはなりません」


 職人の額に汗がにじむ。彼らは農村から集められた者も多く、字は読めずとも手先の器用さと集中力で薬瓶を扱っていた。お琴の指導は決して厳しい口調ではなかったが、一語一句に重みがあり、誰もが必死に耳を傾けた。


 「……はい、姐様」

 「その手元で未来の兵の命が決まるのです。どうか忘れないで」


 その言葉に職人たちは背筋を伸ばした。


―――


 養生館の奥には、専用の培養室が設けられていた。蒸気で温められた室内に並ぶガラス管と木枠は、まるで小さな畑のように見えた。だがそこで育てられるのは作物ではなく、命を救う薬だった。


 藤村は培養槽の温度計を見つめ、低く呟いた。

 「病を治す力こそ、最大の国力だ。武器が兵を守るのは一瞬だが、薬は国を守り続ける」


 その場にいた勝海舟が、煙管をくゆらせながら笑った。

 「まったくだな。鉄砲玉は敵を倒すが、ペニシリンは味方を生かす。勝ち続ける国は、生かし続ける国だ」


 榎本武揚も同意し、試薬瓶を手に取った。

 「これで北方の寒地でも兵が病に倒れることは減るだろう。南方の熱病にも効くなら、もはや軍の背骨が強化されたに等しい」


 お琴が瓶を指差した。

 「ですが、効き目を安定させるには品質管理が欠かせません。数字と規則で縛らなければ、薬はただの液体に戻ります」


 その言葉に藤村は頷き、机に指先で「信」と書いた。

 「薬も貨幣も同じだ。人の信を得てこそ、力を持つ」


―――


 この日、養生館の中庭には幕府の医官や地方の医師、さらには西洋の医師たちが集められていた。白衣の列の前で、藤村が声を張る。


 「諸君、今日を境に日本の医学は変わる! もはや漢方のみに頼る時代ではない。西洋の知識を学び、東洋の技を生かし、我らの手で“新しい医学”を築くのだ!」


 ざわめきが広がった。年配の医師の中には眉をひそめる者もいた。

 「藤村様、それでは長年の伝統が……」


 藤村はきっぱりと遮った。

 「伝統は守る。だが、命を救うことが第一だ! 救えぬ伝統は、ただの意地に過ぎぬ」


 その瞬間、会場は静まり返った。人々の眼差しは藤村の言葉に釘付けになり、次の瞬間、大きな拍手が鳴り響いた。


―――


 午後、養生館附属の新校舎では、若者たちが木机に並んで座っていた。まだ十代半ばの者も多い。彼らの眼は真剣で、書板に鉛筆を走らせる音が響いた。


 「医学は、術ではなく学である」


 教壇に立つ教師が声を張る。

 「今日学ぶのは解剖学。人体は複雑だが、理を知れば病の原因も見えてくる」


 教室の隅で見学していた藤村は、机に向かう学生の横顔を見て微笑んだ。

 ――これこそが未来の医師。武士の子も、農民の子も、ここでは同じ机に座る。


 窓の外からは波の音が聞こえ、鎌倉の空は澄み渡っていた。


―――


 夕刻。養生館の一室で、藤村はお琴と向かい合った。机の上には薬瓶の山。


 「これで大量生産体制は整った。問題は、どう配るかだ」

 「配るだけでは足りません。使い方を教えねば、薬は毒に変わることもある」


 お琴の言葉に藤村は頷いた。

 「だからこそ、制度だ。薬の利益を専売化し、医療費に転用する。これで誰もが病を恐れずに済む」


 お琴の瞳が大きく見開かれた。

 「……まさか、医療の無償化を」

 「そうだ。利益を生む仕組みで、民を守る。これが真の財政国家だ」


 二人の言葉が交わされるたび、部屋の灯が強くなったように感じられた。


―――


 その夜。養生館の外廊下を歩くと、学生たちの笑い声が響いてきた。顕微鏡を覗き込み、解剖図を広げ、未来を語り合う若者たち。


 藤村は立ち止まり、空を仰いだ。春の夜気はまだ冷たい。だが胸の奥には確かな熱が宿っていた。


 ――病を治す学問は、国を強くする学問だ。

 ――この学びが広がれば、国は戦わずして勝てる。


 星が冴え冴えと瞬き、鎌倉の海に映えていた。

三月半ばの鎌倉。養生館の一角にある新築の会議室には、分厚い障子越しに春の光が差し込んでいた。外では海風が松を揺らし、波の音が遠くに響く。その静けさの中で、藤村晴人は机に積まれた帳簿を前に腕を組んでいた。


 「……医療をすべての人に届ける。だが、ただ善意に頼るだけでは制度は続かぬ」


 低く放たれた言葉に、同席していた勘定方や薬舗の頭取たちが緊張の面持ちで身を正した。


 机の上には、鎌倉養生館で生産されたばかりのペニシリンの瓶が並んでいる。淡い琥珀色の液体が光を受け、ゆらゆらと揺れていた。


 「この薬を専売とし、その利益を医療費に回す。裕福な者が買えば、その代金は貧しき者を救う。――利益を糧として、病を無くす」


 藤村の声に、一同は息を呑んだ。


―――


 渋沢栄一が帳簿を開き、墨痕鮮やかな数字を示す。

 「殿、専売益を見積もれば、年間およそ二万両。これを基金に回せば、養生館の維持費と医師の俸給を十分に賄えます。さらに残りで無料診療を広げられるでしょう」


 「だが……」と年配の代官が反論した。

 「薬を専売とすれば、民から“搾取”と恨まれはせぬか」


 その声に、お琴が口を開いた。白衣姿で、机の端に立っていた彼女の瞳は揺らがない。

 「恨みを恐れるより、救えぬ命を恐れるべきです。専売といっても、利益を懐に入れるのではない。すべての命を救うための費用にするのです」


 代官はしばし黙り込み、やがて小さく頷いた。


―――


 午後になると、養生館の広間に医師や看護人が集められた。壁際には新たに刷られた布告文が掲げられている。


 《薬品専売益をもって、貧しき者の医療を無償とす》


 藤村は壇上に立ち、ゆっくりと語り始めた。


 「病は身分を選ばぬ。武士も百姓も町人も、同じ熱に倒れる。ならば救いもまた平等であるべきだ。――この国は、誰一人として病で見捨てぬ国となる」


 広間は静まり返り、やがて若い医師が声を上げた。

 「殿、それは夢のような制度です! しかし、財政は本当に持つのでしょうか」


 藤村は微笑を浮かべ、手元の帳簿を掲げた。

 「数字は嘘をつかぬ。専売益で収入を補い、基金で支出を賄う。数字が示す限り、この制度は夢ではない」


 人々の顔に、驚きと希望が入り混じった。


―――


 その夜、鎌倉の町に布告が張り出された。港町の魚屋の親父がそれを読み、妻に叫ぶ。

 「病に倒れても、もう金を心配せずに済むのか!」

 隣の米屋の娘が笑顔で答えた。

 「殿様の薬があれば、誰でも治してもらえるんだって」


 町人たちの間にさざ波のように広がる喜び。だが一方で、不安げに眉をひそめる者もいた。

 「ただで医者にかかれるなど、そんな都合のいい話が……」


 その声に居合わせた渋沢が応じる。

 「都合がいいのではない。計算されているのだ。利益を仕組みに組み込み、負担を均す。――これが近代の政なのだ」


 その理路整然とした言葉に、人々は黙り込み、やがて小さく頷いた。


―――


 養生館の一室。藤村はお琴と並んで、灯火に照らされた布告文を見つめていた。


 「利益を上げながら、医療を無償化する……」

 お琴がつぶやく。

 「武家の政とは、ただ年貢を取ることだと思っていた。けれど殿は“与える”ことで国を強くされるのですね」


 藤村は静かに頷いた。

 「税で奪う国は滅びる。信を集める国は栄える。病を救うことは、何より確かな“信”を築く」


 その声には迷いがなかった。


―――


 数日後、養生館には最初の無料診療の患者が列をなした。痩せた農夫が妻の手を引き、幼子を抱えている。


 「……これまでなら、医者に診てもらう金など無かった」

 涙ぐみながら頭を下げる彼に、若い医師が微笑んだ。

 「心配はいりません。殿の制度がある限り、誰でも診られます」


 その瞬間、農夫は声を詰まらせ、ただ深く礼をした。


―――


 夕刻。養生館の庭を歩きながら、藤村はふと立ち止まった。春の風が白衣を揺らし、遠くには海がきらめいている。


 ――武器は敵を退ける。

 ――だが薬は、民を支える。


 藤村は深く息を吸い込み、胸の奥で決意を新たにした。


 「この国を守るのは、剣と同じく薬である。財政の糧を病の救いに変える――これが新しい時代の政だ」


 潮の香りを含んだ風が頬を撫で、遠い未来の子どもたちの笑い声まで聞こえてくるように思えた。

三月半ばの鎌倉。養生館の一角にある新築の会議室には、分厚い障子越しに春の光が差し込んでいた。外では海風が松を揺らし、波の音が遠くに響く。その静けさの中で、藤村晴人は机に積まれた帳簿を前に腕を組んでいた。


 「……医療をすべての人に届ける。だが、ただ善意に頼るだけでは制度は続かぬ」


 低く放たれた言葉に、同席していた勘定方や薬舗の頭取たちが緊張の面持ちで身を正した。


 机の上には、鎌倉養生館で生産されたばかりのペニシリンの瓶が並んでいる。淡い琥珀色の液体が光を受け、ゆらゆらと揺れていた。


 「この薬を専売とし、その利益を医療費に回す。裕福な者が買えば、その代金は貧しき者を救う。――利益を糧として、病を無くす」


 藤村の声に、一同は息を呑んだ。


―――


 渋沢栄一が帳簿を開き、墨痕鮮やかな数字を示す。

 「殿、専売益を見積もれば、年間およそ二万両。これを基金に回せば、養生館の維持費と医師の俸給を十分に賄えます。さらに残りで無料診療を広げられるでしょう」


 「だが……」と年配の代官が反論した。

 「薬を専売とすれば、民から“搾取”と恨まれはせぬか」


 その声に、お琴が口を開いた。白衣姿で、机の端に立っていた彼女の瞳は揺らがない。

 「恨みを恐れるより、救えぬ命を恐れるべきです。専売といっても、利益を懐に入れるのではない。すべての命を救うための費用にするのです」


 代官はしばし黙り込み、やがて小さく頷いた。


―――


 午後になると、養生館の広間に医師や看護人が集められた。壁際には新たに刷られた布告文が掲げられている。


 《薬品専売益をもって、貧しき者の医療を無償とす》


 藤村は壇上に立ち、ゆっくりと語り始めた。


 「病は身分を選ばぬ。武士も百姓も町人も、同じ熱に倒れる。ならば救いもまた平等であるべきだ。――この国は、誰一人として病で見捨てぬ国となる」


 広間は静まり返り、やがて若い医師が声を上げた。

 「殿、それは夢のような制度です! しかし、財政は本当に持つのでしょうか」


 藤村は微笑を浮かべ、手元の帳簿を掲げた。

 「数字は嘘をつかぬ。専売益で収入を補い、基金で支出を賄う。数字が示す限り、この制度は夢ではない」


 人々の顔に、驚きと希望が入り混じった。


―――


 その夜、鎌倉の町に布告が張り出された。港町の魚屋の親父がそれを読み、妻に叫ぶ。

 「病に倒れても、もう金を心配せずに済むのか!」

 隣の米屋の娘が笑顔で答えた。

 「殿様の薬があれば、誰でも治してもらえるんだって」


 町人たちの間にさざ波のように広がる喜び。だが一方で、不安げに眉をひそめる者もいた。

 「ただで医者にかかれるなど、そんな都合のいい話が……」


 その声に居合わせた渋沢が応じる。

 「都合がいいのではない。計算されているのだ。利益を仕組みに組み込み、負担を均す。――これが近代の政なのだ」


 その理路整然とした言葉に、人々は黙り込み、やがて小さく頷いた。


―――


 養生館の一室。藤村はお琴と並んで、灯火に照らされた布告文を見つめていた。


 「利益を上げながら、医療を無償化する……」

 お琴がつぶやく。

 「武家の政とは、ただ年貢を取ることだと思っていた。けれど殿は“与える”ことで国を強くされるのですね」


 藤村は静かに頷いた。

 「税で奪う国は滅びる。信を集める国は栄える。病を救うことは、何より確かな“信”を築く」


 その声には迷いがなかった。


―――


 数日後、養生館には最初の無料診療の患者が列をなした。痩せた農夫が妻の手を引き、幼子を抱えている。


 「……これまでなら、医者に診てもらう金など無かった」

 涙ぐみながら頭を下げる彼に、若い医師が微笑んだ。

 「心配はいりません。殿の制度がある限り、誰でも診られます」


 その瞬間、農夫は声を詰まらせ、ただ深く礼をした。


―――


 夕刻。養生館の庭を歩きながら、藤村はふと立ち止まった。春の風が白衣を揺らし、遠くには海がきらめいている。


 ――武器は敵を退ける。

 ――だが薬は、民を支える。


 藤村は深く息を吸い込み、胸の奥で決意を新たにした。


 「この国を守るのは、剣と同じく薬である。財政の糧を病の救いに変える――これが新しい時代の政だ」


 潮の香りを含んだ風が頬を撫で、遠い未来の子どもたちの笑い声まで聞こえてくるように思えた。

鎌倉の丘陵に建てられた養生館附属医学校は、まだ新しい木の香りを放っていた。早春の潮風が窓を叩き、白い障子を震わせる。朝早くから、学生たちは講堂に集まり、机には墨と紙、黒板の前には顕微鏡や解剖模型が並んでいた。


 「諸君、今日から学ぶのは“人の命を支える学”である」


 壇上に立った藤村晴人の声が、木造の講堂に響いた。学生たちの目は真剣で、その数は百人を超えていた。農家の倅、商家の次男、士族の若者――境遇は様々だが、彼らを結ぶのはただ一つ、“医を身につけたい”という渇望だった。


 「剣は国を護る。しかし病は国を蝕む。医は剣と同じく、いやそれ以上に国を守る力になる。ここに集った諸君は、今日からその責を負う」


 講堂にざわめきが走り、若い学生が隣の友人に小声でつぶやいた。

 「国を守る……俺たちが?」

 「そうだ、病と戦う兵なのだ」


―――


 午前の授業は基礎学から始まった。講師が机に分厚いオランダ語の医学書を広げ、黒板に図を描く。


 「ここに書かれている‘circulatio sanguinis’、すなわち血液循環。漢方の‘気の巡り’とは似て非なる考え方だ。血は目に見える。目に見えるものを以て病を捉える――それが西洋医学の強みだ」


 学生の一人が手を挙げる。

 「では、漢方は無用ということですか?」


 講師は首を振り、板書に線を引いた。

 「無用ではない。東洋の学は人全体を観る。西洋の学は部分を詳しく観る。どちらも命を守る道だ。ここでは両方を学び、日本独自の医を作り上げる」


 その言葉に、学生たちは一斉に頷いた。


―――


 午後の実習は解剖学だった。解剖台に豚の臓器が置かれ、学生たちは顕微鏡を覗き込んだ。


 「これが……細胞」

 初めて顕微鏡を手にした農村出の学生が、震える声を漏らした。


 「一つひとつの粒が、命を支えているのです」

 指導役の医師が静かに答える。

 「諸君はこの目に見えぬ小さきものと戦う戦士になる」


 学生たちの表情は引き締まり、墨の匂いに混じって緊張が漂った。


―――


 夕暮れ時、学生たちは広間で互いに語り合った。


 「妹を病で失った。だからここに来た」

 「俺は武士の次男で道がなかった。だが医なら人を救える」


 彼らの声には悲しみも決意もあった。藤村は廊下からその様子を見つめ、胸の内で思った。


 ――剣は敵を倒す。だが医は敵も味方も選ばず救う。これほど多くの心を結ぶ道は他にない。


―――


 夜、藤村は収支表を広げた。薬品専売益が基金として流れ込み、学生の食費や宿舎に充てられている。


 「利益を医師に変える……これが未来を守る数字だ」


 勝海舟が横から声を掛けた。

 「藤村、お前さんの投資は確かだ。砲は十年で古くなる。だが医師は五十年、百年、国を守り続ける」


 藤村は静かに頷き、視線を帳簿から学生たちの笑顔へと移した。


 ――ここに芽吹いた学びが、やがて国を支える背骨となる。


 その確信が、春の冷たい夜気を温かく変えていた。

厳冬を越えた江戸城の学問所は、まだ冷たい風が廊下を渡っていた。だが講義室の中は熱気に包まれていた。机を埋めるのは官僚志望の若者、勘定所の書役、地方から派遣された役人たち。皆の目は講壇に立つ慶篤に注がれていた。


 「医療は慈善ではない。経済の一部である」


 慶篤の声は、張り詰めた空気をさらに強くした。彼の前の黒板には、米価や薬品価格の推移が大きな文字で書き出されている。


 「一人の病人が出れば、一家の働き手を失う。十人の病人が出れば、村の田植えが遅れる。百人の病人が出れば、軍の行軍が止まる。つまり医療は“命を救う”だけでなく、“経済と軍を守る”投資なのだ」


 聴衆の間にざわめきが起きた。これまで医療は「人情」や「慈悲」と語られることが多かった。それを経済という冷たい数字で説明するのは、斬新にして衝撃だった。


 若い役人が恐る恐る手を挙げた。

 「では……薬をただで配れば国の金が減り、財政が傾くのでは」


 慶篤は頷き、黒板に円を描いた。

 「薬を無償で配るのではない。専売で利益を上げ、その利益を再び医療に回す。こうして金の輪が循環すれば、誰もが医を受けられる。これが医療経済の仕組みだ」


 黒板に描かれた円が一つの輪になった瞬間、聴衆の顔に理解の色が浮かんだ。


―――


 同じ頃、学問所の別室。昭武が机に並べられた分厚い資料を前に、医師志望の学生や役人たちを相手に講義していた。


 「ここにあるのは、翻訳したドイツの疾病保険法の草案だ。労働者が保険料を少しずつ払い、病気のときは給付を受ける仕組みだ。つまり“医療は権利として保障される”という考え方である」


 学生の一人が声を上げた。

 「では、日本でも同じ制度を作れるのでしょうか」


 昭武は微笑み、資料を指で叩いた。

 「そのままは難しい。しかし学ぶことはできる。日本には薬品専売益を基にした基金がある。これを応用すれば、農民も町人も同じように守られる。大事なのは、“病気は個人の不幸ではなく、国家の損失”だと理解することだ」


 その言葉に学生たちは深く頷いた。異国の例を、国内の仕組みに結びつける視点は、若い頭に新鮮に響いた。


―――


 夕刻、藤村は両者の講義を聞き終え、学問所の中庭を歩いていた。白梅の蕾がかすかに開き、冷たい空気に香りが漂っていた。


 「理論は遠いようで近い」


 昼間の慶篤の言葉が胸に残っていた。人々は数字で納得し、制度で守られる。


 そして昭武の報告もまた心に響いた。

 「世界は日本を見ている。我らが作る制度が、新しい秩序の手本になる」


 藤村は立ち止まり、暮れゆく空を仰いだ。月が白く浮かび、その下で学生たちが声を張り上げて議論している。


 ――武だけでは国は守れぬ。医療と経済があって初めて兵は動き、民は暮らす。


 その確信が胸に広がり、彼は静かに頷いた。


―――


 夜、藤村邸。義信は書斎で解剖図を広げ、精密な描線を指でなぞっていた。横で久信が薬瓶を覗き込み、好奇心の瞳を輝かせていた。


 「兄上、この瓶はどうして赤いの?」

 久信が問うと、義信は即座に答えた。

 「鉄を多く含む溶液だからだ。血液の性質を確かめるために使う」


 教育係が驚いた顔で二人を見守っていた。義信はまだ幼い。だが難解な医学書を解きほぐし、数式と結びつけて理解していく姿は、すでに若き学者のそれだった。


 藤村はその様子を見て思った。

 ――知の芽はここにもある。学びは子どもたちの遊びにも宿り、未来を形作る。


―――


 こうして理論と実践は織り合わされ、一つの制度となって国を支えていった。


 早春の月は白く、学問所の屋根瓦を照らし出していた。学生も役人も、子どもたちも、皆が新しい学びの光の下にいた。

鎌倉養生館からの報告は、江戸の勘定所にも届いていた。薬品専売益を医療費に回す仕組みが動き始め、最初の月だけで百余人の農民が無償で診察を受けたという。


 「熱を出した子がただで薬をもらえた」「年寄りの膝の痛みが和らいだ」――その声は村々に広まり、人々の表情を変えていった。


 江戸城の一室で報告を読み上げた渋沢栄一は、思わず笑みを浮かべた。

 「殿、これは数字以上の意味を持ちます。人々の信頼こそが、最大の資産でございましょう」


 藤村は頷き、静かに言葉を返した。

 「財政は数字で測れる。だが制度の価値は、人の声で測られる。医療が国を軽くする――その実感が広がれば、この仕組みは必ず根付く」


―――


 一方、台南からの電信は、衛生隊が現地住民に石鹸と薬を配っている様子を伝えていた。病に伏していた子どもが快復し、母親が涙ながらに「これで生きていける」と語ったという。


 榎本武揚の報告は簡潔だった。

 「薬は剣に勝る。民は兵よりも衛生隊を慕っております」


 その文を読み、藤村はしばらく目を閉じた。武力ではなく医療で得られる統治の正統性――それはかつて誰も想像しなかった「新しい兵法」でもあった。


―――


 夕刻。羽鳥の仮州庁では、若い書役たちが歳入歳出の集計表を作っていた。欄外には「医療費・衛生費」の項目が初めて設けられていた。


 「これで州ごとに、どれだけの人が救われているか数字で示せます」

 若者が顔を上げて誇らしげに言った。


 藤村は表を覗き込み、ゆっくりと答えた。

 「数字は冷たく見えるが、その一つ一つの裏に、人の命がある。そのことを忘れるな」


 帳面の墨はまだ乾ききっていなかったが、その中には確かに「未来の国のかたち」が描かれていた。


―――


 夜、藤村邸。義信は解剖図を閉じ、庭に出て星を見上げていた。久信は隣で薬瓶を両手に持ち、灯りに透かして遊んでいた。


 「兄上、この瓶の中の薬は、人を治すんだよね」

 久信の声は幼いが真剣だった。


 義信は頷き、短く答えた。

 「そうだ。薬は人を生かす。だから数字よりも重い」


 その言葉に、藤村は胸の奥で小さく頷いた。――次世代はすでに「学と兵」を超えた「人を守る力」を学び始めている。

翌朝、鎌倉養生館の食堂には、まだ若い医学生たちと、近くで訓練を終えた兵士たちが肩を並べて座っていた。湯気の立つ麦飯と魚の味噌汁が並び、誰もが疲れを癒すように箸を動かしていた。


 「お前たちは病を治すために学び、俺たちは外敵と戦うために鍛えている。だが結局は同じことだ。――国を守るためだ」


 逞しい体つきの兵が笑みを浮かべてそう言うと、隣の医学生が真剣に頷いた。

 「病が広がれば、兵も戦えなくなる。だから私たちの学びも、戦と同じくらい大切です」


 食堂に響いた言葉に、ざわめきが走った。互いの役割を認め合うその会話は、まるで新しい時代の誓いのようでもあった。


―――


 その場を視察していた藤村晴人は、扉の外で立ち止まり、しばし耳を澄ませた。医学生の声、兵士の笑い声、器の触れ合う音――それらすべてが国を形づくる鼓動に思えた。


 「学で病に勝ち、兵で敵に勝つ。……どちらも国を守るための学びだ」


 彼は低く呟き、静かに歩みを進めた。


 厳冬を越え、春の芽吹きが近づいている。

 医療と兵学――二つの学びが一つに結ばれるとき、日本は「戦わずして勝つ」理想に近づく。藤村の胸に、その確信が揺るぎなく刻まれていた。

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