178話:(1871年2月/厳冬) 紙幣の新風
厳冬の江戸。空は澄み渡っているが、空気は肌を切るように冷たかった。白い吐息を吐きながら、城下を歩く人々の耳には、ひときわ高い鐘の音が響いていた。江戸城内に新設された「造幣局」の開庁を告げる音である。
雪を踏みしめる足音が石畳に重なり、江戸の町人も、遠方から呼び寄せられた商人も、皆その音の意味を理解していた。今日、日本は通貨史における第二の革命を迎える。
城内の広間には、多くの重臣や商人、職人たちが集っていた。大きな机の上には、まだ新しい洋紙の匂いが漂う札束が並べられている。紙は淡い灰白色に輝き、複雑な透かし模様と、精緻な印影が刻まれていた。
藤村晴人は正面に立ち、周囲を見渡した。背筋を伸ばした人々の目は、期待と不安が入り混じっていた。
「小判と銀貨だけでは、この国の経済はすでに回らぬ」
低く、しかしはっきりとした声が広間に響く。
「鉱山の産出にも限りがある。交易は増え、物流は膨らむ。そこで必要なのは、金や銀の重みを紙の軽さに託す仕組みだ。これが兌換紙幣――新たな通貨の姿である」
ざわめきが広がった。紙切れに金銀と同じ力が宿るのか、と疑う者も少なくなかった。
渋沢栄一が横に立ち、手元の札を掲げて説明を添えた。
「この札一枚は、金貨・銀貨に換えられると保証されています。つまり、価値は空に浮かぶ幻ではない。背後に金銀が控えている。だからこそ、信用が成り立つのです」
藤村は頷き、続けた。
「さらに、紙幣には印紙税を併用する。取引のたびに印紙を貼れば、偽造を防ぎ、同時に税を国庫へ戻す仕組みになる。これは、単なる通貨ではない。国家の呼吸そのものだ」
場に再びざわめきが走った。だが今度は疑念よりも驚嘆が多かった。
―――
その日、造幣局の中枢――印刷室では、職人たちが息を呑みながら札を見守っていた。新設の洋式印刷機が、重い鉄の音を響かせながら回転し、一枚、また一枚と札を吐き出していく。
「これが……日本の紙幣か」
年配の職人が震える声で呟いた。長年、金座で小判の鋳造を担ってきた彼にとって、紙はあまりにも異質な存在だった。しかし目にした瞬間、そこに宿る精緻な模様と透かしに心を奪われた。
羽鳥に建設された紙幣専用の製紙工場からは、特別に調合された用紙が届いていた。和紙の繊維を基盤としながらも、西洋の木綿紙の強靭さを融合させたその紙は、引っ張っても破れにくく、手触りは滑らかだった。
工場長が誇らしげに胸を張る。
「和と洋を合わせた紙です。これに勝るものは、欧州にもそうはありますまい」
藤村はその声に、静かに頷いた。
「紙一枚に人の技が宿る。その誇りこそが、信用の根になる」
―――
式典では、初めての札束が藤村の前に置かれた。厚みのある紙束を掌で押さえると、まだ温もりが残っていた。墨の匂いと新紙の香りが混じり合い、鼻腔を満たす。
藤村は一枚を取り上げ、広間に示した。
「この紙切れに価値を与えるものは、数字でも、銀座でもない。人の信頼だ。もし国が嘘をつけば、この紙はただの紙になる。だが、国が誠実であれば、この紙は金より重い」
静まり返った広間に、その言葉だけが深く残った。
―――
人々が帰路につく頃、江戸の町には早くも新札の噂が広がっていた。
「紙で買い物ができるらしいぞ」
「重い小判を持ち歩かずに済むなら、こんなに楽なことはない」
戸惑いの声も混じったが、興味と期待が勝っていた。
その夜、藤村は屋敷に戻り、机に札を置いた。障子越しの月光が白い紙面に落ち、透かし模様が淡く浮かび上がる。
篤姫がそっと湯を運びながら尋ねた。
「殿……これほどの重みを、どうやってお一人で支えるのですか」
藤村は札を指先で撫で、目を細めた。
「支えるのではない。皆で守るのだ。信頼とは分かち合うものだからな」
篤姫はしばし黙り、やがて静かに笑んだ。
「では、子らの未来も安心ですね」
障子の向こう、庭の雪は静かに降り続いていた。だが藤村の胸の内には、確かに新しい風が吹いていた。
新しい紙幣の誕生から数日後、江戸城勘定所の広間では、別の緊張が走っていた。机の上に山と積まれていたのは、色も大きさもまちまちな藩札の束。水戸、佐倉、庄内、会津……藩ごとに独自の通貨が発行されてきた歴史の名残である。
「これをすべて回収し、一つの紙幣に統合する」
藤村晴人の言葉に、広間に座した代官や勘定方たちは息を呑んだ。
「藤村様……藩札は各地の商人に深く浸透しております。急に紙幣に替えるとなれば、混乱が……」
小栗忠順が眉をひそめ、低く言った。藩札は商人たちの懐に入り、取引の基盤となっていた。それを回収するということは、経済の根を掘り起こすことにも等しい。
藤村は首を横に振った。
「混乱は一時にすぎません。だが統一なき通貨は、国を二つ三つに割る。新札の信用は、藩札を遥かに上回る。人々がそれを手に取れば、すぐに違いを知るでしょう」
―――
実際、回収作業は江戸だけでなく全国で始まった。勘定所の前には長蛇の列ができ、商人も農民も藩札を抱えて集まった。
「本当にこれと替えてくれるのか」
若い魚問屋が不安げに紙幣を差し出す。
窓口の役人が新札を手渡すと、男の目が丸くなった。
「ずいぶん丈夫な紙だな……字もはっきりしている」
隣の米問屋も札を受け取り、透かし模様に指をかざした。
「これなら偽札は出回りにくい。藩札よりよほど安心できる」
人々の表情が次第に和らぎ、列のざわめきも安堵の声に変わっていった。
―――
一方、地方では抵抗もあった。東北のある町では、古参の商人が腕を組んで役人に食ってかかった。
「代々使ってきた藩札を急に替えるだと? 信用のある札を無理に捨てさせるとは何事だ」
若い書役が言葉を詰まらせると、同行していた渋沢栄一が一歩前に出た。
「信用があるのは、この国が一つにまとまっていないからです。殿様の名前に頼るのは昨日まで。これからは“日本”という国の名が信用を担うのです」
渋沢の声は熱を帯びていた。商人たちは互いに顔を見合わせ、やがて一人が口を開いた。
「……国の名で保証されるのか。それなら、試しに受け取ってみよう」
人々の懐から古い藩札が次々と差し出され、新しい紙幣へと姿を変えていった。
―――
旧藩札の回収は、単なる経済施策ではなく「心の切り替え」でもあった。
羽鳥城下では、農民の妻が役人から新札を受け取り、夫に差し出した。
「これで肥料を買えるだろうか」
夫は札を透かし、静かに頷いた。
「殿様の顔が印刷されていなくても、国が守るなら大丈夫だ」
そのやり取りを聞いていた子どもが、札を掲げて叫んだ。
「お金が一つになった!」
笑い声が広がり、農民たちは新しい札を大事そうに懐へしまい込んだ。
―――
江戸に戻った藤村は、机の上に並んだ統計表を見つめていた。藩札の回収率は予想を超える速度で進んでいた。
勝海舟が横で扇を振り、笑いながら言った。
「見ろよ藤村。藩札の山が日に日に減っていく。まるで過去そのものを燃やしているようだ」
藤村は表情を崩さずに答えた。
「過去を消すのではない。未来へ繋げるのだ。藩札があったからこそ地方は回った。しかし今は一つの国だ。金も紙も、一つでなければならない」
沈黙が落ちた。だがその沈黙は重苦しいものではなく、誰もが新しい時代の重みを感じ取る静けさだった。
―――
やがて広間に、藩札を積んだ俵が運び込まれた。俵の口が切られ、古びた札がざらりと床に広がる。
火鉢にくべられると、炎が一瞬で紙を呑み込んだ。紫の煙が立ち上り、長年人々の暮らしを支えてきた藩札が灰となって消えていく。
「国が一つになるとは、こういうことだ」
藤村の声は、炎の音に混じって静かに広がった。
―――
その夜、藤村邸の庭では義信と久信が火鉢を囲み、小さな紙片を燃やして遊んでいた。
「兄上、これは藩札ごっこだよ」
久信が笑いながら紙をかざす。
義信は真剣な表情で答えた。
「でも、本物の藩札はもうなくなるんだ。国が一つになるから」
久信は首を傾げた。
「一つになったら、皆は安心するの?」
義信は少し考え、きっぱりと言った。
「うん。だって、一つの国なら、誰も損をしないように守れるから」
その言葉に、傍らで見ていた藤村は胸の奥で小さく頷いた。――子どもの言葉の中に、新しい時代の真実が芽生えていた。
旧藩札の山が灰へと変わっていく頃、町の空気にも少しずつ変化が訪れていた。江戸の両替商の店先では、新札を広げた商人たちが真剣に目を凝らしていた。
「透かし模様に梅の枝が見える。これは見事だ……」
「字も揃っていて、藩札とは比べものにならぬ」
銀座の古参の商人は、手に取った札をしばらく眺めたのち、小さく頷いた。
「これは、売掛けにも安心して使える。藩札の頃は、どの藩のものか確かめるのが面倒でな」
周囲の者たちも笑みを浮かべた。便利さと安心感が、すでに彼らの心を動かしていた。
―――
一方、地方の村々でも変化は見えていた。農村では、年貢米の取引に新札が使われ始めたのだ。
「この札で肥料を買えるのか」
農夫が戸惑いながら役人に尋ねる。
役人は力強く答えた。
「藩の名ではなく“日本国”の名で保証されている。米でも肥料でも、この札なら必ず通用する」
農夫は静かに頷き、札を懐にしまった。横で見ていた子どもが声を上げた。
「お金が一つになった!」
村人たちの間に笑い声が広がり、旧藩札への執着は少しずつ和らいでいった。
―――
江戸城の奥では、財政統計をまとめた表が次々と壁に張り出されていた。藩ごとに異なっていた収支が一つに集約され、全国規模での金の流れが初めて数字として示されたのである。
「関東での回収率は八割を超えました」
書役が報告すると、藤村晴人は深く頷いた。
「数字が揃えば、国の姿も見える。いままで霧の中だった財政が、ようやく地図となった」
渋沢栄一が隣で小声を洩らした。
「これなら外国との取引も、堂々とできるでしょう。信用は見える形で示すことが一番ですからな」
藤村は目を細めて言った。
「その通りだ。藩ごとに割れていた信用を、一つに束ねる。それこそが国家の背骨になる」
―――
街角では、庶民が手にした新札を品定めし、子どもがそれを玩具のように振り回していた。遠い村でも、港町でも、京の商家でも――同じ模様、同じ重みを持つ紙幣が流れ始めていた。
通貨の統一は、国を一つにするという目に見えない実感を、人々の掌に直接届けていたのである。
冬の夕暮れ。江戸城の中庭に設けられた広場では、最後の藩札焼却が静かに行われていた。俵から溢れた札束が火鉢に投げ入れられると、ぱちりと音を立て、瞬く間に紫の煙を立ち上らせた。
炎を見つめる町人の老人が、手を合わせて呟いた。
「この札で何度、米を買い、何度、孫の薬を買ったことか……」
隣にいた若者が答えた。
「けれど、これからはもっと安心できる札になります。国が一つにしてくれるんです」
老人は目を細め、炎に舞う灰をじっと見つめた。
「そうか……ならば、これも役目を終えたのだな」
―――
藤村晴人は、その場に立ち会いながら、ただ黙って火の粉を見守っていた。燃え尽きる紙片の中に、人々の暮らしと記憶が込められていることを理解していたからだ。
勝海舟が隣で扇をたたき、静かに呟いた。
「金や紙はただの物にすぎん。だが人が信じれば国を動かす。……結局は人の心だな」
藤村は深く頷き、言葉を返した。
「そうだ。藩札も人の心で生き、人の心で消える。そして今、その心を新しい信用へ移す。それが我らの務めだ」
―――
その夜、藤村邸の居間では、義信と久信が火鉢を囲んでいた。義信は紙片に「藩」と書き、火にかざして燃やした。
「兄上、これはもういらない札ごっこだね」
久信が笑って言うと、義信は真剣な顔で答えた。
「でも、これで一つになるんだ。みんなが同じ札を持つから、誰も疑わない」
久信はうなずき、紙片の灰を手でそっと払った。
「兄上がそう言うなら、みんな安心するよ」
二人の幼い言葉に、篤姫とお吉は目を細めた。藤村は縁側からその光景を見つめ、胸の奥に静かな温もりを感じていた。
――通貨の統一とは、数字ではなく、人の心を結ぶこと。
炎が消えた後の夜気の中で、藤村はその確信を深く胸に刻んだ。
藩札焼却の報は、瞬く間に全国へ伝わった。東北の寒村から九州の港町まで、「古い札が灰となり、新しい札に替わった」という話題で人々の口は賑わった。
「これで商いが分かりやすくなる」
「遠くの町でも同じ札が通じるのか」
市場に立つ商人たちの顔には、かつての不安はなかった。価格交渉の度に「この藩札は通じるか」と疑心暗鬼になっていた時代が、ついに終わったのだ。
―――
羽鳥の港では、新札を手にした外国商人が驚きの声を上げていた。
「透かし模様に加え、印影の精密さ……これならヨーロッパの紙幣と比べても遜色がない」
通訳を通じてその感想が伝えられると、現場の役人たちは互いに顔を見合わせ、安堵の息をついた。新札は国内統一のためだけでなく、外国商人にとっても「信用できる通貨」として認められつつあった。
港を管理する代官が藤村に報告を送った。
「外商らが自ら保険契約を求め、長期取引を申し出ております。旧札時代にはなかったことです」
―――
江戸城勘定所では、藤村が積み上げられた統計表を見下ろしていた。
「藩札回収率、九割達成。新札流通、月内に全国統一見込み」
渋沢栄一が横で声を弾ませる。
「殿、これでようやく“数字で測れる経済”が始まります。州ごとの歳入歳出も正確に算定でき、未来の投資も立てやすくなる」
藤村は静かに答えた。
「数字は冷たいが、信を宿せば温かい。藩ごとに割れていた経済を結び直し、人々の暮らしを守るための基盤となる」
その言葉に居並ぶ役人たちは深く頷いた。
―――
夕暮れの江戸の町。魚河岸の店先で、新札が最初の鮮魚の取引に使われた。若い魚問屋が札を差し出すと、相手の農家もためらいなく受け取った。
「国が保証している札なら安心だ」
「これで遠い港の魚も仕入れやすくなるな」
庶民の声は明るく、町の空気は軽やかに変わっていった。
藤村はその知らせを耳にし、胸の奥で静かに思った。
――通貨統一とは、経済を動かす歯車をひとつに繋げること。人々の暮らしも、国の未来も、この歯車の上に回り始めた。
その夜、藤村邸の座敷。灯火の下で義信と久信が並び、新しい紙幣を手にしていた。
義信は札をじっと見つめ、透かし模様や印影の細部を指でなぞった。
「これは偽造防止の仕組みだろう。光を透かすと模様が浮き出る……もし僕が札を設計するなら、さらに数字を組み込むだろうな」
教育係は思わず息を呑んだ。六歳の少年が語るにはあまりに鋭い洞察だった。義信は辞典や学術書を貪るように読み、いまや大人でも理解に苦しむ金融や物理の理屈を口にすることさえあった。
その横で久信は札を胸に抱き、にこりと笑った。
「難しいことは分からないけど……みんなが安心できるなら、それでいい。お金が一つになったら、喧嘩も減るんじゃないかな」
その言葉に、侍女や書役たちは顔を見合わせ、自然に微笑んだ。久信の言葉には、理屈を超えて人の心を和ませる力があった。
―――
縁側からその様子を見ていた藤村は、胸の奥で静かに思った。
――義信は「知」で未来を切り開き、久信は「和」で人を束ねる。数字と信頼、この二つが揃うとき、通貨も国も揺るぎなくなるのだ。
篤姫とお吉が座敷に入り、子どもたちを寝所へ促した。灯火が小さく揺れる中、紙幣は机の上に置かれたまま、柔らかな光を返していた。
藤村はその札を手に取り、静かに掌に収めた。
「信とは、数字を超えて人の心を繋ぐもの……。この子らの未来のために、私はそれを守らねばならぬ」
障子の外には冬の星々が冴え冴えと瞬き、江戸の町を照らしていた。新しい紙幣と子どもたちの笑顔は、同じ未来を指し示しているように思えた。