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176話:(1870年6月/初夏)裏宰相—財政実権の完成

六月、江戸城の天守を仰ぎ見れば、青々とした初夏の空が広がっていた。庭の若葉は陽を受けて眩しく、石垣の影には涼しい風が流れている。その日、本丸の黒書院では、幕末から続いた激動の歳月に区切りを打つ重大な儀式が始まろうとしていた。


 「本日をもって、樺太南部――大泊・亜庭の地を、正式に我が国の領土とする」


 慶喜の朗々とした声が広間に響く。傍らで勅書を広げる役人の手も震えていた。墨痕鮮やかに書き記された布告の文言は、長き交渉と巨額の資金を経て、ようやく結実した歴史的宣言である。


 藤村晴人はその場に膝をつき、深く頭を垂れた。


 ――ついに、北の大地が我らの手に帰した。


 思えば数年前、まだ常陸の藩士に過ぎなかった自分が、いまや北太平洋の領土拡張を見届ける立場にある。信じられぬほどの飛躍であったが、その重みは確かに肩にのしかかっていた。


 榎本武揚が前に進み出て、声を張った。

 「宗谷海峡からベーリング海峡までの航路が、これで我が国の安全な通商路となります。漁場、鉱山、森林――北方の資源は計り知れません。開発が本格化すれば、我らの子や孫の時代には、さらに豊かな国土となりましょう」


 その声は高らかで、誰もが胸を打たれた。勝海舟は隣で腕を組み、低く呟く。

 「露清に挟まれた不安は、これで大きく和らいだな。ようやく安心して海に目を向けられる」


 列席する幕臣たちの表情には、安堵と期待が交じっていた。戦で奪うのではなく、交渉と財政の力で手に入れた新たな領土。そのことこそが、藤村の胸に深い誇りを呼び覚ましていた。


―――


 式の後、藤村は机上に広げられた帳簿を前にしていた。地籍・戸口・関税の統合帳票――「一つの国、一つの制度」を体現する新しい様式である。


 「戸口三万、戸数六千。地籍は漁村が四割、農地はわずか二割。残りは未開の森林と山地だ」


 報告する役人の声を聞きながら、藤村は筆を走らせる。数字は冷たいが、その裏には確かに人の暮らしがある。家ごとの人数、耕地の広さ、牛馬の数。すべてが国家の血流となり、未来の力となる。


 「港務、検疫、税関。――三者を一つの帳票で運用せよ」


 藤村の声に、幕臣たちは一斉に頭を下げた。これまで港ごとにばらばらだった制度が、統一されれば全国どこでも同じ基準で機能する。


 「同じ港に入れば、同じ水を飲み、同じ規則に従う。商人にとって、これ以上の安心はない」


 勝の言葉に、渋沢栄一も力強く頷いた。

 「外国商人も『日本の港湾は世界最高水準』と評しております。制度の統一は、信用の統一でもあります」


―――


 会議が終わると、藤村は庭に出て深呼吸をした。初夏の風が頬を撫で、遠くで蝉が鳴き始めている。


 ――北は安んじられた。残るは南だ。


 思考の先に広がるのは、南方の市場。台湾を経てフィリピンへ、さらに東南アジアへ。北の資源と南の市場を結ぶ一本の線が、やがて太平洋経済圏を形づくる。その地図を胸に描くと、背筋がぞくりと震えるほどの高揚を覚えた。


―――


 その夜。藤村は自邸に戻り、篤姫とお吉の待つ座敷に入った。灯りに照らされる義信と久信の幼い姿が、未来の希望としてそこにあった。


 「今日、樺太の布告が下された。これで北は固まった」


 藤村の言葉に、篤姫が静かに息を吐いた。

 「長い道でしたね……」


 久信が無邪気に問う。

 「父上、遠い北の国にも、僕らと同じようにご飯を食べる人がいるの?」


 藤村は微笑み、頷いた。

 「いるとも。海の向こうで、同じように明日のために生きている」


 義信は真剣な眼差しで、帳面を覗き込んでいた。

 「父上、この数字……港ごとに違っていたものが、一つになるのですね」


 「そうだ。数字を一つにすれば、人の心も一つになる」


 義信はしばし黙り込み、やがて低く呟いた。

 「ならば、僕も学ばねばならない。数字で人を導く力を」


 その言葉に、藤村の胸は熱くなった。


―――


 北方領土の布告は、単なる土地の拡張ではなかった。制度を統一し、人々の心を結ぶ一歩。藤村にとって、それは「裏宰相」としての責任の重さを、改めて自覚させる瞬間でもあった。


 江戸の夜空に、星が冴え冴えと輝いていた。

江戸城西の丸に設けられた勘定所別館。夏の日差しは強かったが、分厚い障子を通した光は柔らかく、机の上に積まれた帳票の列をぼんやりと照らしていた。


 藤村晴人は、机上に並ぶ三色の印判を手に取った。赤は「検疫」、青は「警務」、黒は「税関」。これまで港ごとに異なっていた書式を一枚にまとめ、色分けされた欄に押すだけで済む新帳票である。


 「港医も、憲兵も、税官も、同じ紙に名を残せ。三度の手間を一度にすれば、役人の疲れも減る」


 静かな声に、周囲の書役や代官たちは息を呑み、やがて緊張を帯びた面持ちで頷いた。


 「しかし殿、これまでの仕組みを変えるとなれば、各港の役人からは反発も……」


 渋沢栄一が控えめに口を開く。


 「変えるのではない。重ねるのだ」


 藤村は筆を取り、新帳票の見本に「通一」と記した。通商一元の意である。


 「どの港に船が入っても、同じ規則で迎える。役人が変わっても、紙が変わらねば商人は安心する」


 その言葉に、渋沢は深く頭を下げた。


―――


 七月初旬、横浜港。蝉の声が石畳に反響し、白い日差しが帆柱を焼いていた。


 「次は……香港船、茶葉四十俵!」


 港役人の声とともに、新帳票が差し出される。港医が印を押し、憲兵が署名し、最後に税関役人が金額を記入。すべてが数分で終わった。


 見守っていた外国商人が目を丸くした。

 「Incredible……これほど早く済むとは!」


 従来なら三か所を回り、半日はかかっていた手続きが、今や一刻もせず終わる。商人は汗を拭いながら笑みを浮かべた。

 「これなら港に長居せずに済む。積荷の鮮度も落ちぬ」


 通訳がその声を伝えると、藤村は深く頷いた。

 「商人にとって時間は命。手続きを短くすることは、命を守ることだ」


―――


 同じ頃、長崎港でも新帳票は用いられていた。


 「次は砂糖船だ。台南からの積荷証を!」


 現場を仕切る憲兵が声を張ると、税関役人が笑みを浮かべて示した。

 「もう叫ばずともよい。ここにすべて書いてある」


 三つの署名が並ぶ帳票を掲げると、憲兵は黙り込み、やがて声を上げて笑った。

 「なるほど、これなら揉め事も減る」


 港医も倉庫に姿を現し、疫病の疑いがある荷を一目で確認できるようになった。検疫・税・警備が同じ帳票に収まり、港の動きは整然と、そして静かに回り始めていた。


―――


 江戸の勘定所に戻った藤村は、各地から届いた報告を広げた。


 「横浜では停泊時間が一割減。長崎では事故件数が半減。……数字は正直だ」


 勝海舟が扇で肩をあおぎ、愉快そうに笑った。

 「役人を減らしたわけでもないのに、仕事は半分になった。紙一枚で国が軽くなるとはな」


 藤村は静かに答えた。

 「港が軽くなれば、国も軽くなる。仕組みは数字を動かし、数字は人を救う」


 その眼差しには、幕府総裁としての重責を超え、一人の改革者としての確信が宿っていた。


―――


 その夜。藤村邸の庭で、義信と久信が小机を囲んでいた。義信は積み木を並べ、三色の石を置いていく。赤は検疫、青は警務、黒は税関。


 「兄上、これは何の遊び?」久信が問いかける。


 義信は真剣な顔で答えた。

 「港の仕組みさ。三つを別々にすると、船は止まる。でも一つに重ねれば流れは早い」


 久信は黙って頷き、積み木をまとめた。

 「兄上が考えたことなら、皆も従うだろう」


 その言葉に、藤村は縁側から目を細めた。


 ――子らの遊びの中に、未来の制度が芽吹いている。


―――


 こうして行政システムの一元化は、紙一枚から始まり、やがて全国の港を結ぶ「信頼の網」となった。


 初夏の江戸の夜空に、遠く港町から届く明かりが、線を描くように見えた。

六月下旬。江戸城西の丸の一室、涼やかな簾越しに夏の光が差し込んでいた。机の上には南方航路の地図が広げられ、赤や青の墨で航線が描き込まれている。藤村晴人はその地図に視線を落としながら、渋沢栄一の声を聞いていた。


 「ダバオからのアバカ試験輸送、基隆での選別を経て、長崎に至るまで損耗率は五%以内に収まりました」


 渋沢が数値を読み上げると、藤村は扇を閉じて軽く頷いた。

 「よし。繊維は湿気に弱い。乾燥と選別の規格を現場で徹底できれば、この経済圏は骨組みを得る」


 扇の先で地図をなぞる。マニラ—基隆—長崎の三角形がくっきりと浮かび上がった。

 「北の資源と南の市場を結ぶ動脈……これで日本は太平洋を内海のごとく扱える」


―――


 同じ頃、基隆の港では、汗に濡れた農官たちがアバカの束を抱えて走っていた。陽光に照らされた繊維は白金のように光り、乾燥棚の上に整然と並べられていく。


 「水分十五%以内、繊維の長さは二尺以上で選別!」


 監督役の声が響く。若い農官が慌てて一束を持ち上げ、湿度計で確認すると、目盛りはぴたりと定められた範囲を指していた。


 「合格です!」


 その瞬間、周囲の労働者たちが歓声を上げ、積荷は港の倉庫へと運び込まれた。


 現場を見ていた岩崎弥太郎は口の端を上げ、帳簿に墨を走らせた。

 「これなら欧州でも高値で捌ける。数字は正直だ。規格を守れば守るほど、利が積み上がる」


 側にいた若い書役が首を傾げて問う。

 「弥太郎様、商いは儲けだけが全てでしょうか」


 岩崎はしばし黙り、海の彼方を見た。

 「いや、人を活かす仕組みでなければ、長続きはせん。戦も商いも、結局は人を養う道だ」


 その言葉に、農官の一人が深く頷いた。彼の背には汗で濡れた布が張り付いていたが、その顔は晴れやかだった。


―――


 マニラでは、日本人商館と現地の商人たちが机を挟んで契約書を交わしていた。


 「前払い二割、日本の保険会社が保証。残りは納品後の即金支払い」


 通訳が読み上げると、現地商人の一人が驚いた顔をした。

 「保証まで……これでは不正を働く余地がない」


 藤村から派遣された若い役人が静かに答えた。

 「互いに安心して取引するためです。信頼がなければ、市場は育ちません」


 商人は短く息を吐き、笑みを浮かべて署名した。

 「確かに、これなら安心して子や孫に仕事を継がせられる」


―――


 長崎の会所には、三角ルートを往来する商人たちがひしめいていた。


 「台南の糖は、等級票で値が決まる」

 「基隆のアバカは湿度管理で品質が揃っている」

 「長崎で印紙を貼れば、どこの港でも同じ扱いを受ける」


 口々に語られる声に、番頭たちは頷き合った。


 「もう昔のような騙し合いはない。正直に商う方が儲かるとはな」


 会所の窓から見下ろすと、港には新設の保管庫が並び、入出港する船ごとに同じ検査・同じ書式で処理が進んでいた。


―――


 その報告は、江戸の藤村邸にも続々と届いた。


 「マニラ—基隆—長崎の回転率、従来比で一割五分向上」

 「保険料、さらに〇・一ポイント低下」


 報告を聞いた藤村は、障子越しの庭に視線を投げた。初夏の風が木々を揺らし、若葉の匂いが部屋に流れ込んでくる。


 「北は樺太、南はダバオ。……資源と市場を繋げば、この国は呼吸を始める」


 独り言のように呟くと、隣で渋沢が眼鏡を光らせて言った。

 「殿、呼吸を続けるには血の巡りを絶やしてはなりません。数字の川を途切れさせぬこと、それこそが我らの務め」


 藤村は頷き、筆を走らせた。帳面の余白に書きつけられた一行――


 「数字は人を養い、人は数字を生かす」


 墨痕は新しい時代の誓いのように、鮮やかに残った。


―――


 その夜。藤村邸の庭では、義信が大村蔵六の指導で地図を広げ、航路と補給線の結び方を学んでいた。


 「ここに石炭庫を置き、ここで水を補給する。敵はどこを狙う?」


 義信は一瞬で指を走らせ、海峡の狭隘部を示した。

 「対馬海峡。ここを封じられれば、三角ルートは止まります」


 大村は満足そうに頷いた。

 「その通りだ。数字の裏には必ず“弱点”がある。それを読むのが軍略だ」


 義信の目は、地図の先に広がる未来を見据えていた。


 縁側で久信が笑いながら声をかける。

 「兄上が弱点を見抜くなら、僕は人を動かすよ。船を漕ぐ人たちが納得しなければ、どんな航路も続かない」


 その言葉に、大村も笑みをこぼした。

 「知と人望、二つが揃って初めて国は動く。……よい兄弟だ」


 庭を渡る初夏の風が、灯火に揺れを生んだ。


―――


 こうして南方経済圏は形を成し、日本は北と南を繋ぐ新たな動脈を得た。

 それはただの航路ではなく、人と人を結ぶ「信頼の道」であった。

七月半ば、江戸城黒書院。初夏の陽は障子を透かして淡く差し込み、広間の空気を白く照らしていた。大広間に整然と並べられた机の上には、北から南に至る諸港の報告書、台湾・朝鮮から届いた電信、そして新たに鋳造された小判の見本が並んでいる。


 勝海舟が扇を片手に腰を下ろし、ゆっくりと語り始めた。

 「北を買って南を護る――わしが言い続けてきた策も、ようやく形になったな。アラスカから樺太、宗谷を経て朝鮮へ、さらには台湾、フィリピンまで。地図の上に一本の帯が通ったようじゃ」


 彼は机に置かれた地図を指で叩き、赤く描かれた航路をなぞった。

 「かつては異国の艦が好き勝手に通るだけの海だった。それが今は、日本の血潮が通う動脈になった。……わしも長く海を見てきたが、これほど胸のすく景色はない」


 榎本武揚は、北方からの電信報告を手にしていた。そこには南樺太買収後の状況、港の整備や住民の戸口調査の進捗が細かく記されている。

 「港は開け、灯台は光り、電信は走る。これで北も孤立せずに済みます。北太平洋航路は確実に日本のものとなりましょう」


 彼の目には、青年将校だった頃にはなかった落ち着きと責任感があった。

 「ただ、開いた港を閉ざさぬことが肝要です。港は人を呼び、貨物を呼び、文化を呼ぶ。閉ざせば、すぐに死にます。港は呼吸をする器官ですからな」


 その言葉に勝が目を細め、笑った。

 「ほう、あの“海の才子”も随分と説教臭くなったのう。だが言葉に重みがある。確かに、港は生き物だ」


 藤村晴人は二人の言葉を黙って聞き、机上の小判を掌に取った。新たに改鋳された統一小判は、均一の重さと精緻な刻印を備え、光を受けて鈍く輝いている。


 「数字と信頼は裏切らない」


 低く呟くと、二人の視線が藤村に集まった。


 「港を開き、領土を守る。だがその上に立つ秩序は数字だ。税、関税、保険、そして貨幣。人は血筋や武力だけでは従わぬ。納得するのは、数字が示す公平さと、信じられる通貨の重みだ」


 勝は扇を膝に置き、しばらく黙ってから言った。

 「なるほど……剣より数字か。お前さんらしい」


 榎本もまた頷いた。

 「領土も港も、通貨と制度があって初めて生きる。……藤村様、確かにその通りです」


―――


 評定が終わると、三人は広間の縁に立ち、庭を見下ろした。青葉の間を抜ける風が、遠く港からの鐘の音を運んでくる。


 勝が口火を切る。

 「海軍は港を守り、道を開いた。これでわしの役目はひとまず果たせたわけだ」


 榎本が続ける。

 「外交は港を繋げ、領土を広げた。北も南も道ができた。これで私の務めも果たせた」


 そして藤村が静かに言葉を継ぐ。

 「財政は人を養い、数字で秩序を保った。港を繋ぐのは血ではなく、信頼の流れだ。それを守り続けるのが私の役目だ」


 三人の言葉が交わったとき、勝が笑って言った。

 「海軍・外交・財政――三つ揃ってこそ、この国は立つ。どれか一つでも欠ければ、ただの砂上の楼閣よ」


 榎本も笑みを浮かべ、視線を藤村に向けた。

 「そして、その三本を束ねるのは“裏宰相”たる藤村様ですな」


 藤村は小さく首を振った。

 「名はどうでもよい。ただ、数字が人を救い、制度が人を養う。そのために動くまでだ」


―――


 その夜。藤村は自邸に戻ると、庭先で遊ぶ義信と久信の姿を見た。義信は地図を広げ、航路と補給線を指でなぞりながら、大村蔵六から教わった戦略を熱心に語っている。久信は侍女や書役に囲まれ、笑顔で話を聞き、場を和ませていた。


 「知と人望……二つの芽が確かに育っている」


 藤村はそう思いながら、障子越しに立つ篤姫とお吉と視線を交わした。家族の中にも未来を支える二本の柱が芽吹いている。その姿に、彼はまた一つの確信を得た。


―――


 江戸城から東京へ、そして北から南まで。港と数字と人心が重なり合い、一つの国の姿が形作られていた。


 夏の夜風が庭を渡り、障子の灯を揺らした。藤村は新小判を掌に置き、静かに呟いた。


 「数字と信頼は裏切らない。――それが、この国の背骨になる」

初夏の江戸城黒書院。漆黒の床に灯りが映え、静寂の中で大広間にはただ書類の山が鎮座していた。机の上には、通商条約草案と新小判の見本、銀貨と紙幣の束が並べられ、蝋燭の炎に照らされて鈍い光を放っている。


 老中の一人が立ち上がり、深く頭を下げた。

 「藤村殿、小判鋳造権と通商条約締結権――両権限を一手にお持ちいただくこと、ここに改めて確かめる所存でございます」


 広間にざわめきが走った。二つの権限は、江戸幕府の根幹そのもの。財政と外交を同時に担うなど、かつては将軍ですら他に委ねなかった権能であった。


 藤村晴人は姿勢を正し、深く一礼した。

 「この重き役目、身を震わせながらも、必ずや果たしてみせます。数字と制度を以て、国を揺るがぬものといたしましょう」


 その言葉に、場の空気は一層引き締まった。


―――


 会議が終わった後、勝海舟が廊下で藤村を呼び止めた。

 「裏宰相、いや……今や表も裏もないかもしれんな」


 勝は扇を軽く広げ、藤村を真っ直ぐに見つめた。

 「水戸の一藩士が、ここまで辿り着いた。だが覚えておけ。数字は冷たいようで、人の血を温めもする。誤れば刃にもなる。……その重みを忘れるな」


 藤村は静かに頷いた。

 「承知しております。だからこそ、数字と信頼を裏切らない。それが私の唯一の道です」


 勝は満足げに笑い、背を向けて歩み去った。


―――


 その夜。藤村邸。篤姫とお吉が居間に灯をともし、子どもたちの寝息が遠くから聞こえていた。机の上には、再び小判と紙幣、そして外交文書の草案が並んでいる。


 藤村は掌に小判を置き、もう片方の手で条約草案を撫でた。金属の重みと紙の軽さ――だがどちらも国の行く末を決める重責である。


 「水戸の一藩士に過ぎなかった私が、国家の財政と外交を託された……」


 声は低く震えていた。だが、その震えの奥には確かな決意があった。


 篤姫が湯を差し出し、静かに言った。

 「殿が歩まれた道は、遠回りのようで最短でございました。今日、国がここまで来られたのは、あなたが数字を積み重ねてくださったから」


 藤村は湯を受け取り、一息ついた。障子越しに風が通り、庭の木々がさわめく。


 「裏宰相――その名に囚われるつもりはない。ただ、財政と外交を束ねる役目を果たす。それだけでいい」


―――


 翌日。江戸城西の丸庭園にて。榎本武揚が北方からの報告を携え、勝海舟が海軍の進捗を述べる。重臣たちが集い、三巨頭の総括が再び繰り広げられる中で、皆の視線は藤村に集まっていた。


 「北を買って南を護る」勝が口にし、

 「港は開け」榎本が続け、

 藤村は最後に低く言った。

 「数字と信頼は裏切らない」


 三者の言葉が重なり、場に静かな共鳴が広がった。その瞬間、藤村は確信した。


 ――これはもはや幕府の一官僚の仕事ではない。国家の未来を預かる“裏宰相”としての責務なのだ。


―――


 夜更け、藤村は再び机に向かい、日誌を記した。

 《通貨と条約。財政と外交。この二つを握るは、国家の命脈を握るに等しい。これを誤れば国は沈む。これを守れば国は栄える》


 筆を置き、灯を落とす。闇の中で小判の輝きだけが残り、藤村の心に重く刻まれた。


 「裏宰相の完成……しかし、これは終わりではない。ここからが本当の始まりだ」


 外では、初夏の夜風が静かに吹き抜けていた。

江戸の夜は、しんと静まり返っていた。初夏の風が川面を渡り、町家の瓦をかすかに震わせる。金座の改鋳炉は火を落とし、通商条約の草案は机の上で静かに眠っていた。だが藤村晴人の胸の中には、なおも熱が灯り続けていた。


 「小判鋳造権、条約締結権……これで幕府、いや日本の命脈を握ったことになる」


 庭に出て、藤村は夜空を仰いだ。星々は冴え冴えと輝き、その奥に広がる海の向こうを思わせた。台湾、朝鮮、そして樺太。新たに日本の版図に加わった地は、今も静かに人々の暮らしを育んでいる。


 縁側には篤姫とお吉が並び、子どもたちを寝かしつけた後のひとときを過ごしていた。篤姫が小声で言った。

 「殿、子らの寝顔はまるで……国そのものですね。守るべきものが、はっきりと見えます」


 藤村は頷き、静かに笑った。

 「義信は知を天に広げ、久信は人の心を束ねる。慶明様は将軍家を継ぎ、諭吉殿や栄次郎殿が導いてくださる。……この国の未来は、もう動き始めている」


 お吉はほほ笑み、灯火を小さく絞った。障子に映る光がやさしく揺れ、家全体を包み込んでいた。


―――


 翌朝。江戸城西の丸では、勝海舟、榎本武揚、そして渋沢栄一らが集い、前夜の決定を再確認していた。


 「北を買って南を護る」勝の低い声が広間に響く。

 「港を開き、海を繋ぐ」榎本の目が光る。

 「数字と信頼を積み重ねる」藤村は静かに言い、扇を閉じた。


 三人の言葉は、もはや口約束ではなかった。三年にわたる制度改革と戦略の積み重ねが、それを現実のものとして支えていた。


 榎本が言った。

 「これで国際的にも、一国の体を成したといえましょう。東アジアの地図に、日本という新しい形が刻まれる」


 勝が苦笑を交えて言った。

 「だが油断するなよ。数字は誤魔化せぬ。港を軽くし、兵を律し、民を養う……そのすべてを支えるのは、藤村、お前さんの肩だ」


 藤村は静かに頭を下げた。

 「承知しております。私は表には出ぬ。だが、国の背骨を整えること、それが裏宰相の務めです」


―――


 その日の夕暮れ、藤村は一人で金座を訪れた。炉の灰はまだ温もりを残し、壁には新しい鋳型が並んでいた。手に取った新小判は、夕陽に照らされて黄金色に輝いた。


 「貨幣は信頼、条約は誓い。どちらも人の心を繋ぐためのもの……」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。しかし金属の冷たい響きが、答えるように指先を震わせた。


 やがて夜の帳が降り、町に灯がともった。藤村は歩を進め、橋の上で立ち止まった。川面に映る灯が、無数の小判や紙幣のようにきらめいていた。


 ――数字は冷たくもあり、温かくもある。

 ――人の信を失えば刃となり、人の信を得れば盾となる。


 彼はそのことを胸に刻み、静かに呟いた。

 「財政も外交も、人の信頼で動く。私が背負うのは権力ではなく、信を守る務めだ」


 初夏の夜風が江戸の町を吹き抜け、遠くで祭囃子の残響が聞こえた。その響きは、次の時代の鼓動のようでもあった。

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