174話:(1870年4月/春)通商条約締結権の継承
春の光が江戸城黒書院の障子を透かしていた。白木の廊下に反射したその光は、清新な空気とともに、ここで執り行われる歴史的な儀式の重みを際立たせていた。
奥の席には将軍・徳川慶喜が正装で座していた。その表情は静かでありながらも、確かな決意の色を宿している。左右には重臣たちが控え、列席した幕臣や諸藩使者までもが、息を殺すように成り行きを見守っていた。
式の中心に呼ばれたのは、幕府総裁であり常陸藩士でもある藤村晴人であった。彼は深く一礼し、進み出ると、眼前に置かれた勅書の巻物に目を落とした。
慶喜の声が、広間に澄んで響いた。
「藤村。すでに我らは関税自主権を確保し、列強と対等の交渉を成し遂げた。だが、これで終わりではない。これより先、日本はより有利な条件で条約を結ぶ責務を負う。ゆえに――通商条約締結権、この手に託す」
将軍自らの言葉に、場は静まり返った。驚愕よりもむしろ、その重さを受け止めきれずに一瞬、全員が息を呑んだのである。
藤村は深く膝を折り、頭を垂れた。
「謹んで拝命いたします」
巻物を両手で受け取ると、その重みはただの紙束ではなかった。二百数十年、幕府が独占してきた外交の最高権限が、自らの手に移ったのだ。その事実に、背筋がぞくりと震えた。
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やがて巻物が開かれ、条文が読み上げられる。「通商条約締結権、以後は幕府総裁藤村晴人これを掌握すべし」と。列席者の中にはざわめきを押し殺す者もいた。外交とは、武力や財政以上に国家の命脈を左右するものだ。その権限を一藩士の出である藤村に委ねること自体、前代未聞であった。
しかし慶喜は、揺るぎなく言葉を添えた。
「この国を列強と渡り合える姿に変えたのは、藤村の才覚と胆力である。小判鋳造権を託したのも然り。経済と外交、この両輪を動かすことでこそ、日本は真に独立した国となる」
座中から深い頷きが洩れた。反対の声はもはやなかった。人々は藤村の歩みを三年余り見てきたのだ。借財を減らし、教育を整え、台湾と朝鮮を統治し、国際信頼を獲得した――その積み重ねが、今この瞬間の正当性を揺るぎないものにしていた。
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式が終わると、藤村は黒書院の縁側に出た。春風が庭の松を揺らし、どこか清冽な香を運んでくる。ふと手にした巻物の重みが再び胸に響いた。
「外交の切り札……。これで、列強の顔色をうかがうだけの時代は終わる」
呟いた声は、己への誓いでもあった。
背後から慶喜が歩み寄り、静かに言葉をかけた。
「藤村。この権限は剣より重い。だが、使い方を誤らねば、剣よりも強い。必ずや日本を導け」
藤村は深く頭を垂れた。
「御期待に背くことはございません。必ずや日本が“条件を提示する側”として立ち、世界を驚かせてみせます」
その言葉に、慶喜の眼差しがわずかに和らいだ。
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その日、城下には桜が咲き始めていた。花弁が舞い散る空を見上げながら、藤村は改めて思った。
小判鋳造権を握り、通商条約締結権をも託された今、自分は経済と外交、両方の舵を握っている。責任の重さは、胸を圧するほどだ。だが同時に、それは「日本が真に主権国家として立つ」ための最大の機会でもあった。
庭に差す春の光は、これからの道を照らしているように思えた。
――通貨を制し、外交を制すれば、国は自らの未来を選び取れる。
――そしてその未来を選ぶのは、今、この手だ。
藤村は巻物を強く抱きしめ、胸中で静かに誓った。
「必ず、この国を列強に伍する国にする」
その決意は、春風に乗って江戸の空高く昇っていった。
黒書院での儀式から数日後。藤村は勘定所の一角に新設された「外務・財政合同机」に腰を下ろしていた。机上には洋紙の束が山のように積まれ、あちこちに墨で数字や国名が書き込まれている。関税収入の推移、各国船の入港回数、海運保険料の変動。すべてが外交交渉の武器になる数字であった。
「殿、昨年一年で上海航路は二割増、ロンドン向け積出しは一割増です」
渋沢栄一が帳簿をめくりながら報告する。細身の眼鏡が光り、指先で紙を叩いて数字を強調した。
「数字は良い。だが肝心なのは、これをどう“条件”に組み込むかだ」
藤村は低く呟き、筆を走らせた。
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幕府内部でも意見は割れていた。強硬派は「関税率を一気に引き上げ、圧力で列強を屈服させよ」と主張し、慎重派は「過度に強気に出れば対立を招き、外交の均衡を崩す」と警戒する。
ある夜、老中首座が静かに口を開いた。
「藤村殿、交渉の主導権を握るのは結構だが、失敗すれば国の信用を傷つける。どこまで踏み込むおつもりか」
藤村は硯に差した墨を見つめ、しばし沈黙した。やがて顔を上げ、きっぱりと言った。
「強気でも弱気でもない。“我らが基準を示す側”になるだけです。列強の数字に追随するのではなく、日本の数字を土俵にして交渉を進める」
広間に静けさが落ちた。居並ぶ幕臣たちは難しい表情を浮かべつつも、反対の声は出なかった。むしろ新しい秩序を受け入れるための沈黙であるように思えた。
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外交準備の現場も慌ただしい。翻訳官や通詞たちが列をなし、フランス語・英語・ドイツ語の原文に朱を入れていた。
「“most favored nation treatment”……最恵国待遇。ですが、このままでは民に伝わらない」
若い通詞が困ったように顔を上げる。
藤村は原文を覗き込み、穏やかに助言した。
「『通商における均しの扱い』とすればいい。難解な語を重ねるより、農夫や商人にも通じる言葉にせねばならん」
通詞は深く頭を下げ、すぐに筆を走らせた。張り詰めた空気が、わずかに緩んだ。
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やがて机に積まれた紙束の上に、一枚の草案が置かれた。そこには新条約の骨子が簡潔に記されていた。
一、関税率を日本基準に沿って提示すること。
二、船舶検査・保険・税関を統一手続きで運用すること。
三、貿易紛争は日本国内の裁判所で裁定すること。
藤村は紙を指先で撫で、声を低くした。
「これで交渉の主導権はこちらにあると示せる。数字と制度で相手を縛るのだ」
渋沢が小さく笑みを浮かべ、うなずいた。
「剣戟の勝負よりも難しい戦いですが、殿の言葉には人を納得させる力がある。数字と理を武器にすれば、必ず優位に立てましょう」
そのやり取りを見守っていた幕臣の一人が、静かに漏らした。
「これは、武力に頼らぬ新しい戦だな」
その言葉に、藤村は一瞬だけ頷いた。――経済と外交を結びつけた「新しい戦」。その土俵の上で、日本は初めて真の勝負に挑むのだった。
春の陽射しが柔らかく差し込む江戸城の学問所。広間の中央に置かれた机には、分厚い教材と色鮮やかな図版が山のように積まれていた。慶篤が監修した「衛生・体操・簿記」の三本柱カリキュラムをもとに、台湾・朝鮮・内地の各地へ送られる教材の最終検分が行われている。
「殿、こちらは台南用の算術教材にございます」
若い書役が差し出した冊子を手に取り、藤村は目を通した。数字の横には鮮やかな挿絵が添えられており、稲を数える農夫や帳面を付ける商人の姿が描かれていた。
「数字は抽象だが、暮らしと結びつけば子どもも理解しやすい」
藤村は頷き、ページを閉じた。
―――
同じ頃、台湾の台南では、仮設の小学校に子どもたちが集まっていた。木の床を踏み鳴らしながら、教師が声を張る。
「一、二、三!」
子どもたちは小さな算盤を弾き、声を揃える。後ろで見守る母親が隣の父親にささやいた。
「文字だけでなく算も……これなら商いにも役立ちますね」
父親は深く頷き、「子が学べば家も国も変わる」としみじみ呟いた。
休み時間になると、子どもたちは竹の棒を手に体操を始めた。深呼吸をし、腕を伸ばし、跳ねるように動く。その姿に、見学していた村長は目を細めた。
「兵学ではなく、健康を育てる学問か」
通訳が答える。
「そうです。体が健やかであれば、病にも倒れにくくなります」
その一言に村長は大きくうなずき、帰宅後すぐに「村の子を皆通わせろ」と家臣に命じたという。
―――
一方、朝鮮の嶺南地方。寺子屋を改装した校舎では、簿記の授業が行われていた。黒板には複式簿記の仕訳が大きく書かれ、生徒たちは真剣な顔で筆を走らせる。
「借方、貸方……」
教師が読み上げると、子どもたちの声が後に続く。窓辺で見守る商人の父親が小声でつぶやいた。
「これなら我が子も店を継ぐだけでなく、国の役に立てる」
藤村宛の報告書にはこう記されていた。
「子らの目の輝きは、親の心を変えております。教育こそが統治の最良の道具です」
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江戸城に戻り、慶篤は各地から届いた報告を藤村に読み上げた。
「台湾では衛生指導が徹底し、病を減らしております。朝鮮では簿記の授業が商人子弟に好評。内地でも体操教育で子どもの体力が向上しています」
藤村は報告を聞き、静かに目を閉じた。
「教育は剣のように即効はない。だが、根を張り、十年後に森となる。森があれば国は息をし、災いにも揺るがぬ」
勝海舟が隣で扇を振りながら笑った。
「まったくだ。砲弾一発よりも、学ぶ子ひとりの方が未来には重い。遠回りのようで、実は一番の近道だな」
慶篤は真剣な表情で筆を取り、報告書に「教育は国家の血肉なり」と記した。その筆致は力強く、彼自身の信念の深さを物語っていた。
四月の台南。南国の風に乗って甘い香りが町中に漂っていた。砂糖を精製する工場から立ち上る白い蒸気は、まるで春霞のように空へ広がっていく。工場の前には、規格票を手にした役人と日本から派遣された検査官が並び、真新しい秤の上に砂糖袋が一つずつ置かれていた。
「湿度二〇、糖度九八。――規格『一等』」
検査官が札を記すと、現地の商人たちがざわめいた。
「これでようやく、品質が数字で示されるのか」
「値段の駆け引きより、規格で決まる……安心だな」
従来はその場の力関係や口約束で取引が決まることも多く、同じ砂糖でも値段が大きく揺れた。しかし新しい「等級規格」の導入で、品質が数値で裏付けられるようになり、価格も安定したのだ。
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同じ頃、樟脳を扱う倉庫でも、湿度計が壁に掛けられ、温湿度が細かく記録されていた。職人たちは最初こそ「湿気なんぞ天任せ」と笑っていたが、実際に管理を始めると、品質の落ちが減り、輸出先からの評価が目に見えて上がった。
「これまでは荷が港に着くまでに半分駄目になることもあったが……」
年配の職人が目を細めた。
「今は規格に合わせて倉を整えるだけで、損がぐっと減った」
新しい制度に疑念を抱いていた者たちの表情も、次第に誇らしさに変わっていった。
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江戸では、その報告を受けた藤村が黒書院で渋沢栄一と向かい合っていた。机の上には台湾産品の輸出統計が並び、朱の印で「規格官報化」の文字が書き込まれている。
「これで台湾産品は“日本の名”で取引されることになる」
藤村は静かに言った。
「品質を数字で保証し、値段を安定させる。列強の商人にとっても“安心できる相手”となろう」
渋沢は帳簿を指で叩きながら頷いた。
「信用は値段に勝る。安定した品質は、十年先の契約を保証するものです」
―――
報告は現地からも続々と届いた。
「生産者が“長期契約が可能になった”と喜んでいる」
「港では“等級票があるから争いが減った”と評判です」
藤村はその声を聞き、心の奥で静かに安堵した。品質立国――数字と規格によって日本の産品を世界に売り出す。その第一歩が、確かに軌道に乗ったのだ。
―――
夕暮れ時。藤村邸の庭で、義信が分厚い本を膝に、久信は庭師と笑顔で話していた。
藤村は縁側から二人を見つめながら思った。
――品質とは、物の話だけではない。人もまた“規格”に縛られるのではなく、“基準”を与えられることで伸びる。
――子らの学びと産業の成長は、必ず未来の国を支える。
障子に映る灯が、まるで国の新しい輪郭を照らすように柔らかく揺れていた。
四月の江戸城西の丸。桜の花は散り、若葉が風に揺れていた。徳川家の未来を語る会議の席に、重臣たちの顔が並んでいた。
議題は一つ――将軍家の継承である。
「慶喜公の世子、慶明様は健やかにご成長あそばされている」
老臣が言葉を発すると、場の空気が和らいだ。かつては後継の不確実さが幕府の将来に影を落としていたが、その懸念は今や払拭されつつあった。
「学問も、武芸も、幼きながら熱心に励まれておる」
別の老臣が報告すると、列席した者たちが頷き合った。
―――
慶明の教育には、藤村の推薦で福沢諭吉が深く関わっていた。江戸城中奥の一室、まだ幼い慶明は机に向かい、諭吉の声を聞いていた。
「よいか、学問とは人の心を開くものだ。武力や血筋ではなく、知こそが国を治める基となる」
慶明は幼い眼差しで真剣に頷き、書き板に文字を記した。ぎこちない筆跡ながらも、一文字一文字に力が宿っている。
傍らで藤村が静かに見守っていた。
「将軍家の未来は、知と理に支えられるべきです。諭吉殿に託すのが最良の道でしょう」
諭吉は軽く笑い、扇で額を叩いた。
「私が導くのではありません。殿様が自ら学び、考える力をつけられることこそ大事なのです」
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その後、御殿の庭に出ると、北辰一刀流の千葉栄次郎が正眼の構えを示していた。鋭い眼差しと揺るがぬ足腰に、幼い慶明は思わず背筋を伸ばす。
「殿はまだ幼い。剣を握る必要はない。ただ、姿勢と息の合わせ方を覚えてくだされ」
栄次郎の声は穏やかだった。慶明は何も持たず、小さな両手を胸の前で真似するだけ。それでも真剣な眼差しは揺るがず、額に小さな汗がにじんでいた。
藤村は庭の縁からその姿を見つめ、胸の奥で思った。
――学は諭吉殿に、武は栄次郎殿に。いまは“真似”でよい。だがこの幼き姿勢の中に、未来の将軍の礎がある。
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やがて江戸城黒書院で、慶喜は満座のもとで言葉を発した。
「世子・慶明が我が後継であること、ここに改めて諸卿に示す」
その言葉に、一同が深く頭を垂れた。緊張と同時に安堵が広がる。幕臣の一人が小声で漏らした。
「これで幕府の未来は確かだ……」
徳川将軍家の継承が定まり、政治的安定の土台が完成した瞬間であった。
―――
その夜。藤村は自邸で篤姫とお吉に語った。
「慶明様が育たれれば、朝幕一体体制は揺るがぬ。世代を繋ぐ安定こそが、国を支える」
篤姫は膝に義信を抱きながら頷いた。久信も母の傍で静かに耳を傾けている。
未来を担う者たちの姿が、家の中にも、城の中にも、確かに芽吹き始めていた。
夜が更け、江戸の空には冴え冴えとした月が浮かんでいた。
藤村は縁側に立ち、遠く城下の灯りを眺めていた。将軍家の後継は定まり、諭吉の学と栄次郎の武に導かれて幼い慶明は育ち始めている。自邸では義信と久信が笑い声を上げ、家の空気も穏やかだった。
「政治も、教育も、家も――三つの輪がいま繋がり始めた」
藤村は心の中でそう呟き、静かに息を吐いた。春の夜風が頬を撫で、遠い未来の鼓動を運んでくるかのようだった。
――次代を担う子らが育ちゆく間に、自らは何を積み重ねねばならぬのか。
問いは尽きぬ。だが今はただ、この安らぎを明日の力に変えるだけでよい。
庭の灯籠に灯る炎が、かすかな音を立てて揺れた。江戸の夜は静かで、しかし確かに新しい時代へと歩みを進めていた。