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172話 :(1870年3月/早春) 先買権と金座への扉

早春の江戸城西の丸。まだ朝霜の残る庭を抜け、大広間に諸官が集まっていた。畳の上には金屏風が立ち並び、その前には大きな机と、積まれた公文書の巻物。今日は、長年交渉が続けられてきた「樺太南部買収」の最終調印の日だった。


 藤村晴人は席につくと、胸の奥に冷たい緊張を感じた。これまで何度も大きな条約や覚書に立ち会ってきたが、今日ほど時代の重みを実感する日はなかった。机の向かい側に座るのは、露国公使ストレミャーニコフ。彼の顔には感情を読ませぬ仮面のような硬さがあった。


 勝海舟が低く言った。

 「今日を以て、北太平洋の地政学は塗り替えられる」


 榎本武揚が続ける。

 「宗谷海峡からベーリング海峡まで――。航路は完全に我らの手に入る。露清に挟まれた不安も解消されよう」


 藤村は黙って耳を傾けながら、机上の巻物を見つめた。そこには「露先買権行使覚書」と記され、金字で飾られている。総額五百八十万ドル、二年分割払い。巨額の決済だが、これにより南樺太は正式に日本の領土となる。


―――


 時刻が来た。記録係が巻物を広げ、調印の場が整えられる。筆を執ったのは陸奥宗光だ。彼の筆致は揺るがず、墨が紙に染み込む音が広間に小さく響いた。


 「……これにて、正式調印と相成りました」


 陸奥が巻物を掲げると、場内に安堵の吐息が広がった。榎本が思わず目を細める。

 「これで、アラスカに続き樺太をも確保した。北方の安全保障は、完全に我らの手にある」


 勝海舟は腕を組み、深く頷いた。

 「露清に挟まれた地政学的リスクも消えた。これからは、攻められることを恐れるのではなく、海を越えて出ていくことを考える時代になる」


―――


 調印の後、ストレミャーニコフが立ち上がり、無言で藤村に手を差し出した。彼の手は冷たかったが、握り返した瞬間、その奥に込められた諦念と尊重の感触が伝わってきた。


 「日本の統治力は、我らが予想した以上に確かなものでした」


 通訳を介したその言葉に、広間の空気がわずかに震えた。藤村は一瞬言葉を選び、低く答えた。

 「国の力は、領土を広げることだけでは測れませぬ。そこに住む人々をいかに守り、未来を築けるか――その一点で決まるのです」


 ストレミャーニコフは短く頷き、再び席に戻った。


―――


 調印式の後、榎本は廊下で藤村の肩を叩いた。

 「晴人殿、これで我らは北太平洋の覇権を握った。これからはアメリカとも肩を並べて海を渡れる」


 藤村は曇った庭の松を見やりながら答えた。

 「覇権を得ることよりも、それをいかに運用するかが肝要だ。広がった領土に血を通わせるのは、我らの責務だ」


 勝海舟が加わり、口角をわずかに上げた。

 「血を通わせるには、外貨の流れを滞らせぬことだな。今回の決済は見事だ。内地の財政に一切響かせずにこれを成すとは……金融の時代に、そなたの才は欠かせん」


 藤村は深く息を吸い込み、吐き出した。

 「外貨は外貨で回し、内貨は内貨で守る。二重通貨管理の道を、この国に根づかせねばならぬ」


―――


 その日の夕刻。江戸城の櫓に立ち、藤村は西の空を見つめていた。沈む陽は赤く、雪解けの水面を照らし、川面に黄金の帯を描いていた。


 「アラスカ、樺太――。北の海を買い取り、守った。しかし、これは終わりではない。通貨を立て直さねば、この大地も海も砂の城に過ぎぬ」


 その呟きに、小栗が背後から低く答えた。

 「金座の扉が開く時も、近いでしょうな」


 藤村は振り返り、小栗の眼差しを見た。その奥に、265年間守られてきた鋳造の秘密と、未来への不安と期待が入り混じっていた。


 ――金と銀。外貨と内貨。海と陸。

 その全てを束ね、統治と信用をひとつにする役目が、自分に課されている。


 藤村は静かに頷き、胸に手を当てた。

 「国の信用は、人の命を守る力そのものだ。私は、それを裏切らぬ」


 夕陽は沈み、広間に灯がともる。その灯は小さくとも、やがて新しい時代を照らす大いなる光になるに違いなかった。

調印の熱気がまだ残る江戸城勘定所。大広間には外貨勘定に関わる帳簿と洋式算盤、そして電信で届いたロンドン相場の写しが所狭しと並べられていた。冬の名残りの冷気と、炉の火の熱気とが入り交じり、室内の空気はどこか重苦しい。


 「支払総額、五百八十万ドル。二年分割にて処理。だが、いかにして国内財政に響かせぬよう工夫するか――」


 主計官が低い声で読み上げ、周囲の役人たちが息を呑んだ。大きすぎる数字は、聞くだけで胃を重くさせる。


 藤村晴人は席に着いたまま、静かに頷いた。

 「だからこそ、“外貨は外貨で回す”のだ。関税外貨収入と下関賠償金の予備金、この二つを組み合わせれば、内地の勘定を揺らすことなく処理できる」


―――


 机上の図表には、二重の輪が描かれていた。一つは内貨(両・小判)の流れ、もう一つは外貨ドル・ポンドの流れ。二つの輪は接触せず、それぞれ独立して回る。


 「内貨は国内の農・商・兵を安定させる血液。外貨は対外支払いと信用を動かす血液。混ぜれば病む。分ければ生きる」


 藤村の言葉に、勝海舟が煙管を指で叩きながら笑った。

 「まるで二つの心臓を持つ生き物だな。だが確かに理に適っている。幕府が長らく“金も銀も一緒に扱って”混乱を招いたのを思えば、これが最も賢いやり方だ」


 榎本武揚は眉を寄せつつも、電信で送られてきた海外相場の数字に目を走らせた。

 「為替リスクをどう遮断するか――これが難題だ。だが、外貨を国内で換えず、外貨のまま回すなら、変動に振り回されることもない」


―――


 帳簿の束をめくる音が続く。紙の上には、細かな数字と符号がびっしりと書き込まれている。


 「三月期関税収入……三十二万ドル」

 「下関賠償金予備金、未使用分……十八万ドル」

 「合計五十万ドル強。年度内の流入と予備金で、ほぼ全額を外貨建てで賄える」


 主計官の声は緊張を帯びていたが、やがて安堵に変わっていった。


 「これほど複雑な国際決済を、内貨に影響させずに処理できるとは……」


 彼はしばし言葉を失い、帳簿に見入った。


―――


 藤村は、机上の小判と銀貨をじっと見つめた。内貨と外貨、二つの硬貨の色の違いが、まるで二つの血潮のように思えた。


 「我らはこれから、戦をするたびに外貨で支払い、平時を支えるのは内貨である。その二つを同じ皿に盛ってはならぬ。……だからこそ、二重通貨管理を確立せねばならぬ」


 陸奥宗光が静かに口を添えた。

 「国際社会に示すべきは、我らの“秩序”です。財政の透明性と為替リスク遮断――これらを成し遂げた国だけが信用を得る」


 藤村は深く頷いた。

 「信用とは、剣で勝ち取るものではない。数字と秩序で勝ち取るものだ」


―――


 会議が終わり、藤村は勘定所を出て、城の回廊を歩いた。外はまだ春浅く、庭の池は薄氷を残していた。吐く息が白く漂う中、彼は心の奥で静かに言葉を刻んだ。


 「外貨は海を渡る血、内貨は大地を巡る血。二つの血を乱さずに回せば、国は必ず生き延びる」


 遠くで鐘の音が響き、雪解けの水音が重なった。藤村の胸には、今まさに新しい時代の金融技術が息を吹き込まれた確信が宿っていた。


まだ冷気の残る早春の江戸。藤村晴人は、金座へ向かう石畳を踏みしめていた。通りにはまだ雪がわずかに残り、馬車の轍に薄氷が張っている。江戸の町人たちは、寒さに肩をすぼめながらも春を待つ顔をしていた。だが藤村の胸の内は、春を迎えるどころかさらに重たく沈んでいた。


 ――通貨。国家の信用そのもの。


 門をくぐると、金座特有の澄んだ金属の匂いが鼻を突いた。炉の中で溶ける金と銀の香りは、どこか血の匂いにも似ていた。工房の奥では、職人たちが黙々と小判を打ち、やすりで端を整え、品位を量りにかけている。その姿は武士の鍛錬にも似て、規律と緊張が張りつめていた。


 座人頭が迎えに現れ、深々と頭を下げた。

 「藤村様、この地を訪れるのは初めてと伺いました。……どうぞ、ご覧くださいませ」


―――


 案内された作業場では、十数名の職人が黙々と働いていた。火箸で掴んだ金塊を炉に入れ、溶けた金を鋳型に流し込む。冷えて固まったそれを取り出すと、正確に重さを量り、表面に刻印を押す。


 「ご覧の通り、金座は二百六十五年、このやり方を守って参りました」


 座人頭の声には誇りと、同時に不安が混じっていた。

 「しかし……時代は変わりつつあります。世界は品位の統一を求め、偽造防止の技術を導入しつつある。従来のやり方では、国際社会に通用せぬ時が来るでしょう」


 藤村は頷き、鋳造されたばかりの小判を手に取った。冷たい重みが掌に伝わる。その輝きの裏に、この国の命運が刻まれているように感じられた。


 「品位の向上、重量の統一、そして偽造防止……この三つを柱に、新たな制度を立て直す必要がある」


 職人たちが顔を見合わせる。伝統を守り抜いてきた彼らにとって、それは誇りを揺るがす言葉だった。だが同時に、未来への道を開く言葉でもあった。


―――


 その場にいた年配の職人が、刻印を押す手を止めて藤村を見つめた。

 「……我らが受け継いできた技を否定なさるのですか」


 藤村は静かに首を振った。

 「否定ではない。伝統の上に、新しい信用を積み重ねるのだ。そなたらの技を活かさずに、どうして未来の通貨を築けようか」


 言葉に、職人たちの眼差しが少し和らいだ。


 「確かに……この新制度は、これまでにない精密な改鋳作業になるでしょう。だが、やれと申されれば、やってみせます」


 座人頭の言葉に、工房全体が小さく揺れた。緊張と誇りと、未知への不安が入り混じる。


―――


 その時、背後から声が響いた。

 「君に託すのが最善だ」


 振り向けば、慶喜が立っていた。氷のような空気の中でも凛とした姿で、眼差しは真っ直ぐに藤村を射抜いていた。


 「通貨こそが国家の根幹。この権限を誰に託すか、私は迷っていた。だが……君しかいない」


 藤村は息を呑んだ。これまで数々の事業を任され、戦も統治も乗り越えてきた。だが、通貨――それは比べ物にならぬ重さを持つ。国の血液そのものを、自らの手で扱う責任。


 「……重すぎる任でございます」


 思わず口を突いて出た言葉に、慶喜は静かに頷いた。

 「重くあってよい。だが、君なら背負える」


―――


 藤村は再び小判を握りしめた。冷たいはずの金は、次第に掌の中で熱を帯びるように思えた。その熱は、自らの心臓の鼓動と重なっていた。


 ――通貨は、国家の信用そのもの。


 外貨管理の二重輪を描いた図表が脳裏に浮かぶ。次に回すべきは、内貨の秩序、そして人々の生活を支える信用の根だ。


 藤村は深く息を吐き、工房に響く槌音を背に、心の中で誓った。

 「必ずや、この国の通貨を、未来に耐えうるものへと変えてみせる」

春浅い江戸。藤村邸の書院には、障子越しに淡い光が差し込んでいた。庭では梅がほころび始め、赤と白の花がまだ寒さを残す風に揺れていた。その静かな空間で、義信は机に向かっていた。


 まだ幼いその手に握られているのは算盤ではなく、筆と小さな板。板には父が書きつけた三桁の掛け算が記されていた。


 「三百四十二掛ける二百七十九」


 教育係が声を上げた瞬間、義信はじっと目を閉じた。小さな唇がわずかに動き、瞳は鋭く宙を見つめる。ほんの十数秒の沈黙の後――


 「九万五千三百一十八」


 即座に答えが返った。


 書院にいた侍女や学者たちがどよめいた。筆算どころか、算盤を使わずに瞬時に答えを出すその姿は、幼子のものとは思えなかった。


―――


 「……まことに正しい」


 教育係の老学者が、計算を確かめながら驚嘆の声を上げた。

 「三桁掛け算を暗算で瞬時に解くとは、百年に一人の才子でございます」


 藤村は畳に座したまま、静かに息を吐いた。父としての喜びと同時に、財政官僚としての眼差しが義信の姿を見つめていた。


 ――これは、ただの早熟ではない。数の理を本能で掴んでいる。


 「義信、この計算はどうやって導き出したのだ」


 問いかけに、義信は子どもらしい声で答えた。

 「……分けて、集めて、あわせただけ」


 指を三本立てて、簡単に説明しようとする。その仕草に、老学者は顔を赤らめて笑った。

 「いや、これを“簡単”と呼べるのはこの子だけですな」


―――


 さらに試すように、教育係は利息計算を示した。


 「千両を年利一割で三年運用したら、幾らになるか」


 義信はまたしても瞬きの間に答えを出した。

 「千三百三十両」


 「複利を含めたのか?」

 「はい」


 即答に場が静まり返った。複利という概念を、教えたことは一度もなかった。だが義信は直感でそれを掴み、答えに織り込んでいたのだ。


―――


 藤村は膝の上に手を置き、胸の奥にじんと熱が広がるのを感じた。


 「……この子は、数字で未来を見ている」


 老学者が感嘆の眼差しで頭を下げた。

 「義信様は必ずや財政を担う御器量。父君を超える逸材となりましょう」


 藤村は笑みを浮かべつつも、内心では冷たい重さも抱いていた。

 ――この才をどう導くか。強すぎる光は、時に影を落とす。


―――


 その一方で、書院の隅では久信が筆を握っていた。小さな口で文字をなぞりながら、

 「あ・め・り・か……ろ・し・あ……」


 ぎこちないが確かに新領土の名を書いていた。兄が数を掴むなら、弟は言葉を掴む。二人の幼子が、異なる道で未来を担い始めていた。


 篤姫がそっと二人を見守りながら微笑む。

 「父上のお働きが、この子たちの心にそのまま映っているのですね」


 藤村は小さく頷き、障子の向こうに咲き始めた梅を見やった。


 ――数と文字。二つの才能が芽吹いている。この芽を守り育てることこそ、我らの責務だ。


 その思いを胸に、彼はゆっくりと立ち上がった。

江戸城奥の書院に、まだ幼い将軍家御嫡男・慶明が座していた。すでに初の参内を果たし、将軍家の正統な継承者としての立場を確立しつつある若君であったが、その未来を形作る教育計画は新たな段階へと進もうとしていた。


 その場に現れたのは、藤村の強い推薦で任じられた教育係――福沢諭吉である。


 「若君様。学問というものは、ただ古き書を読むことにあらず。世の理を知り、人の生き方を考えることにございます」


 福沢は、従来の侍講のように形式ばった礼法を並べず、目の高さを合わせて語りかけた。周囲で見守る侍講や家臣たちは一様に目を見張り、さざめきが広がる。


 だが藤村は静かに言葉を添えた。

 「今は礼より理を学ぶべき時代だ。若君に必要なのは、未来を導くための目と耳だ」


 慶明は瞳を輝かせ、小さな声で「もっと聞きたい」と洩らした。その幼い一言に、場の空気は一変した。


 福沢は頷くと、懐から一枚の地図を取り出し広げた。そこには日本列島と台湾、朝鮮、さらには大陸と太平洋が描かれていた。


 「これが世界の舞台にございます。若君様が学ばれることは、この国の未来に直結いたします」


 慶明は身を乗り出し、まだ小さな指で地図の島々をなぞった。その仕草に藤村は、確かな未来の芽吹きを見た。

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