171話 :(1870年2月/厳冬) 事後是認と通貨への道
横浜の港は厳冬の朝を迎えていた。凍えるような風が吹きすさび、帆船のマストを軋ませる。海霧に霞んだ波止場には各国の旗がはためき、列強の商館の窓からは石炭を燃やす煙が立ち上っていた。街路を歩く人々の吐く息も白く、凍てつく空気にかき消されるようだった。
その日、日本の未来を決する重大な会合が英国領事館で開かれた。台湾・朝鮮統合の事後是認を求めて行われる正式な会談――。これまで不安と猜疑に満ちていた列強の視線を、ようやく正面から受け止める時が来たのである。
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領事館の広間は重厚な雰囲気に包まれていた。高い天井からはシャンデリアが吊られ、分厚いカーテンが外の冷気を遮っている。机の上には国旗と分厚い公文書が整然と並べられ、銀のインク壺が煌めいていた。
陸奥宗光は冷静な表情で席に着いていた。眉間には緊張の皺が寄っていたが、その眼差しは揺らぐことなく相手を見据えていた。傍らには坂本龍馬、岩崎弥太郎らが控え、いずれもこの歴史的瞬間を見逃すまいと息を呑んでいた。
英国領事が静かに口を開いた。
「日本政府が布告した台湾および朝鮮の統合について、我が国ならびに米国・フランスは、一定の条件をもって是認する」
広間に緊張が走った。書記が立ち上がり、文書を読み上げる。
《日本の統治は、検疫・港務・財政・教育において国際基準を満たす。これをもって三国は、日本による統合を認め、東アジアの安定を共に望む》
言葉が終わると、机上のペンが次々と動き、署名が記されていく。インクの匂いが広間に漂い、書き終えられた文書の紙面は白銀のように輝いて見えた。
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陸奥は深く一礼し、低い声で応じた。
「ご承認に感謝いたします。これで日本は孤立の憂いなく、正々堂々と国際社会に立つことができます」
坂本龍馬が横からにやりと笑った。
「これで肩身の狭い思いをせんでもええ。国際の場で堂々と商売ができる。信用は金より値打ちがあるぜよ」
弥太郎は手元の帳簿を指で叩き、声を潜めて呟いた。
「信用が積み重なれば、保険も運賃も下がる。商人にとっては何よりの資産だ」
その横顔には、商魂と国家戦略が重なっていた。
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英国領事は続けて条件を読み上げた。
「ただし、日本側は常時開港を確約し、我が国艦船に対して給炭・修繕の優遇を保証すること」
陸奥は間を置かずに頷いた。
「承知しております。相互利益の下に築かれる関係こそ、永続するものです」
そう言って彼はペンを取り、文書に署名を記した。手首はわずかに震えていたが、その筆跡は力強く、読み返すまでもなく決意が込められていた。
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会談が終わり、外へ出ると横浜の海風が頬を刺した。だが陸奥の顔には、冷たさに負けぬ熱が宿っていた。
「これで……孤立の恐れはなくなった」
彼がつぶやくと、龍馬は大きく肩を叩いた。
「おぉ、やっとやな。これで日本の統治が“国際基準”とやらに認められた。あとは、この信用をどう活かすかぜよ」
弥太郎は港の方を眺め、にやりと笑んだ。
「港の灯が消えぬ限り、商売は続く。今度はこの信用を資本に変えてみせる」
―――
その夜、江戸へと送られた電信が藤村晴人のもとに届いた。
《英米仏三国、台湾・朝鮮統合を事後是認。条件は常時開港と給炭優遇。孤立の懸念なし》
藤村は紙を手に、深く息を吐いた。窓の外には雪が降り積もり、江戸の街を白く覆っていた。
「……これで国は繋がった。だが、繋いだ糸を絶やさぬようにせねばならぬ」
篤姫が茶を運んできて、静かに夫の隣に座った。
「お疲れさまでございます。これで、皆が安心できるのですね」
藤村は微笑み、頷いた。
「安心は刹那だ。だが、その刹那を積み重ねてこそ、未来になる」
障子越しに子どもたちの笑い声が響いていた。厳冬の寒さの中にも、温かな希望が確かに芽吹いていた。
横浜港の冬は、灰色の雲と海霧に包まれていた。波止場には外国船と和船がひしめき、荷役人夫たちの掛け声が響き渡る。冷えた空気の中に混じるのは、石炭を燃やす匂いと、海水の塩気。だが、その港の喧騒の奥で、この日ひとつの数字が人々を驚かせた。
「海運保険料、さらに〇・二ポイント改善」
この報告に、港務所に居合わせた商人たちがざわめいた。保険会社の代表が公式に告げたのだ。
「日本航路は最も安全で効率的だ。だからこそ、この料率を適用できる」
―――
その場にいた坂本龍馬が、煙草をくゆらせながら大きく笑った。
「ほう! 信用が積もりゃ金よりも価値がある。これでますます商売が栄えるぜよ」
彼の言葉に、隣で帳簿を抱えた岩崎弥太郎がにやりと応じた。
「保険が下がれば、運賃も仕入れも軽くなる。商人は安心して航路に投資できる。信用は目に見えぬが、確実に利益を生む」
港務所の壁に掲げられた世界地図の上で、横浜から上海、シンガポールへと赤い線が伸びていた。その線が、いまや「最も安全な道」として国際的に認められたのだ。
―――
数日前の英国領事館での承認に続き、この保険改善は大きな追い風だった。外国保険会社の代表は、日本航路の帳簿を指で叩きながら、はっきりと言い切った。
「事故件数はここ三年で劇的に減少。検疫・給炭・修繕が統合されている港は他にない。これが効率と安全の理由だ」
陸奥宗光が深く頷いた。
「統合の仕組みは、商人だけでなく国家の信用をも築く。数字の改善は、外交の言葉より雄弁だ」
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その日の午後、横浜商館街では早速商談が始まっていた。布を扱う英国商人が笑顔で叫んだ。
「この料率なら、横浜経由が一番有利だ!」
対する日本の仲買人は即座に応じた。
「では、この契約は次の便で。――検疫証明も同時に付けます」
契約が交わされる音は、まるで港の槌音のように小気味よく響いた。
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夕刻、坂本龍馬は港の高台に立ち、煙草の火を指で弾いた。海は灰色の波を立て、遠くに黒い煙を吐く汽船の姿が見えた。
「なあ弥太郎、思うちょる。金は使えば減るが、信用は使えば増える。人を安心させればさせるほど、また次の商売につながるんじゃ」
弥太郎は深く頷き、港を指差した。
「ほら、もう船主どもが次々に船を寄せている。これが“信用”の形だ。金では買えぬが、積み上げれば国を動かす力になる」
龍馬はにやりと笑い、声を張った。
「これで、アジアの海は日本が握るぜよ!」
その言葉に、冷たい海風が応じるように吹き抜け、港の旗が一斉に音を立ててはためいた。
―――
一方、江戸。藤村晴人の机上にも横浜からの速報が届いていた。
《海運保険、さらに〇・二ポイント改善。日本航路、最も安全と評価》
藤村は書状を読み、胸の奥に静かな熱を感じた。窓の外では雪がちらちらと舞い、庭の木々を白く染めていた。
「数字は冷たい。しかし、この冷たさが国を温める」
彼は帳簿の余白に小さく書き付けた。
「信用は、金に勝る」
その文字が乾く頃、障子の向こうから子どもたちの声が響いた。厳冬の寒さの中にも、未来を信じる灯が確かに灯っていた。
冷たい北風が吹き荒れる二月のマニラ港。白い波頭が桟橋を叩き、椰子の葉を大きく揺らしていた。スペイン統治下の街並みは赤茶けた瓦屋根と白壁の家々が続き、石畳には馬車の轍が深く刻まれている。その喧騒の中、日本とスペインの交渉団が静かに顔を合わせていた。
目的はコレヒドール灯台の保守支援と、新設予定の病院棟のための用地賃借。この二つを結びつけた「一石二鳥の取引」を実現するためであった。
―――
会場となった執務室は薄暗く、木の香りが漂っていた。机の上には地図と設計図、そして契約書が広げられている。スペイン側の役人が低い声で言った。
「コレヒドールは太平洋の扉だ。ここを管理する責任は重い。貴国が協力するというのは心強いが、見返りは?」
岩崎弥太郎が前へ進み、分厚い帳簿を開いた。
「我らは灯台の保守を担い、航行の安全を保証する。見返りとしては、病院棟のための土地を年賃借させていただきたい。兵も商人も病に倒れれば国は立たぬ。治療の場を得ることは、互いの利益に通ずる」
相手の目がわずかに細まり、沈黙が流れた。
―――
そのとき、坂本龍馬がにやりと笑いながら口を挟んだ。
「道を照らす灯台と、人を救う病院。両方とも“命を守る”って点じゃ同じぜよ。こっちが片方だけ欲しがっとるんじゃない。両方まとめてやれば、そっちも安心できるやろ?」
スペイン役人は一瞬驚いたように笑い、肩の力を抜いた。
「なるほど……貴殿らは商売の話に見せかけて、人の命を中心に据えているのか」
岩崎は静かに頷き、言葉を重ねた。
「商売も軍事も、すべて人があってこそ。利益と人命を両立させる仕組みこそ、長続きする」
―――
数時間の協議の末、双方は合意に達した。契約書に署名が施されると、窓の外ではちょうど雨雲が切れ、強い陽光が差し込んだ。コレヒドールの海を照らす光が、遠くまで広がっていくのが見えた。
スペイン役人が立ち上がり、手を差し伸べた。
「これで互いに得をする。灯台も病院も、どちらも未来の命を守る」
岩崎はその手を固く握り返した。
「ええ。これが“商人的発想”です。限られた資源で最大の効果を――」
龍馬は後ろで煙草をくゆらせながら笑った。
「そりゃ武士のやり方よりずっと賢いかもしれんぜよ」
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その夜、マニラの宿舎。岩崎は机に座り、取引の記録をまとめていた。灯台保守に必要な費用、人員の配置、病院棟の建設予定地……数字が整然と並び、そこに彼の自信が刻まれていた。
龍馬が湯飲みを片手に覗き込み、感心したように言った。
「弥太郎、あんたのやり方は人の懐にすっと入る。儲けの話に見せかけて、結局は“安心”を売っとるんやな」
弥太郎は筆を置き、笑った。
「安心こそ最高の商品ですよ。金は減りますが、安心は広がる」
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一方、江戸。藤村晴人の執務室にも、マニラからの電信が届いていた。
《コレヒドール灯台保守協定・病院用地賃借契約成立 一石二鳥外交 成功》
藤村は報告を読み、しばし目を閉じた。机の上には地図が広がり、赤い線が台湾からフィリピンへと繋がっている。
「灯台が海を照らし、病院が人を救う。商売と軍事を結ぶのは、結局“人の命”だ」
彼は呟き、余白に一行書き加えた。
「命を守る策こそ、最大の外交」
厳冬の江戸城勘定所は、吐く息が白くなるほど冷えていた。障子の隙間から差す冬の光が、帳簿の墨跡を鋭く照らしている。机の上には分厚い記録簿が積まれ、勘定方や代官、主計官らが背筋を伸ばして並んでいた。その中央で藤村晴人は一枚の報告書を掲げた。
「外貨準備の増加分をもって、一般債務の繰上返済に充てる」
その言葉に広間がざわついた。数年前まで「借金地獄」と呼ばれた幕府の財政は、ついに債務を減らし続ける軌道に入っている。だが、返済の道のりは未だ長い。誰もが数字に目を凝らした。
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主計官が前に進み、詳細を読み上げる。
「今回の外貨準備増分は七万九千ドル、邦貨換算にて四十八万六千両。これを全額、繰上返済へ投下いたします」
その声は厳かで、広間の空気が引き締まった。
藤村はゆっくりと頷き、言葉を重ねた。
「借金返済は最優先事項だ。数字を誤魔化せば国の信用は瞬く間に失われる。だが、数字に正直であれば必ず信頼は積み重なる」
壁際の若い書役が、手にした筆を強く握りしめるのが見えた。
―――
その場に居合わせた陸奥宗光が低い声で口を挟んだ。
「透明性を保つため、返済のKPI(主要指標)を公開するのが肝要かと存じます。借金が減る過程を誰もが確認できれば、商人も外国も安心するでしょう」
藤村は目を細めて陸奥を見た。
「その通りだ。数字はただ役所に眠らせるものではない。人々に見せ、共に担ぐことで力となる」
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広間の隅に控えていた岩崎弥太郎が、手元の算盤を鳴らした。
「信用は商売の命。貸した金が返ると分かれば、次はもっと安く貸してくれる。――利息が下がるというのは、何よりの利益です」
その声に商人たちがうなずき、重臣たちの表情にもわずかな安堵が浮かんだ。
藤村は広間を見渡し、静かに言葉を結んだ。
「借金は恥ではない。返さぬことが恥なのだ」
―――
会議が終わった後も、勘定所の空気は熱を帯びていた。若い役人たちが帳簿を抱え、雪の舞う庭を行き来する。冷たい風が吹き抜けても、その顔には緊張と同時に確かな誇りが宿っていた。
藤村は縁側に立ち、白い庭を見下ろした。足跡が縦横に伸び、まるで数字の線が雪に描かれたようだった。
「――数字は冷たい。しかし、この冷たさこそが国を温める」
彼の言葉に、傍らで控えていた小四郎が深く頷いた。
「はい。誤魔化しのない数字は、民を安心させます」
―――
その夜、藤村邸。書斎の机の上には返済進度表が広げられていた。横に並ぶのは「残債高」「返済額」「利息圧縮率」――無機質な数字の列である。だが藤村の目には、それぞれが農民の安堵の笑顔や、兵の受け取る俸給に重なって見えていた。
篤姫が湯気の立つ茶を運んできて、微笑んだ。
「今日はまた難しい顔をなさって」
藤村は苦笑し、茶を受け取った。
「数字ばかり見ていると、人の顔を忘れそうになる。だが、この数字は確かに人の暮らしを映している」
彼は筆を取り、返済進度表の余白に小さく記した。
「借金を返すとは、未来を軽くすること」
墨痕はすぐに乾き、厳冬の夜にわずかな温もりを放った。
江戸城西の丸。まだ夜明け前の冷気が残る広間に、分厚い畳と煤竹の柱が厳めしく並んでいた。そこで、前代未聞の会談が開かれていた。
正面に座すのは、征夷大将軍・徳川慶喜。対面には軍政長官・藤村晴人。その脇に陸奥宗光や勘定奉行小栗忠順らが控えている。蝋燭の炎が小さく揺れ、金屏風に映る光はまるで時代そのものの震えのようだった。
「藤村殿――」
慶喜の声は低くもよく通った。
「わしは、通貨政策への関与をそなたに打診したい」
広間の空気が一瞬止まった。
―――
通貨――。それは265年にわたり幕府が独占してきた権限である。金座・銀座が鋳造を担い、貨幣は幕府の威信そのものであった。藩士である藤村がその領域に触れることなど、本来ならばあり得ない。
藤村は驚きを隠せず、深く息を吐いた。
「……御一新を目指すこの時に、通貨を私に」
慶喜は頷き、静かに言葉を続けた。
「幕府は長きにわたり、通貨を独占してきた。しかし、いまや国は変わりつつある。台湾も朝鮮も統合し、国際社会の承認も得た。残る課題は、この国の“信用”を根から支える通貨なのだ」
―――
陸奥宗光が横から口を開いた。
「通貨こそが国家信用の源泉。貿易においても、軍政においても、すべては貨幣の安定にかかっています。いまの小判制度は、すでに限界を迎えている」
藤村は黙って頷いた。頭の中では、近代国家の基盤となる通貨の姿が鮮明に浮かび始めていた。
――通貨は血液だ。血が濁れば体は病む。だが、清らかに流れれば体は強くなる。
藤村は視線を慶喜に戻した。
「この重責……受けるべきか否か、迷いはございます。ですが、避けては通れぬ道でもある」
慶喜は力強く言い切った。
「藤村殿以外に任せられる者はおらぬ」
―――
会議が終わると、藤村は小栗忠順に伴われて金座を視察した。冬の冷気の中、炉の熱だけが赤々と燃え、鋳型に流し込まれた溶けた金が眩しく光っていた。職人たちの額には汗が滴り、木槌の音が石壁に反響していた。
「これが……265年続いた伝統の音か」
藤村は溶けた金の光を見つめながら呟いた。金貨一枚に込められた重み。それは単なる貨幣ではなく、国家そのものの信用を象徴している。
小栗が横で低く言った。
「この権限を動かすということは、国の心臓を預かることと同じです。武力や外交以上に難しく、危うい」
藤村は深く頷いた。
「承知している。だが、これを避ければ日本の未来は開かれぬ」
―――
その夜、江戸邸に戻った藤村は書斎に灯をともした。机の上には山積みの帳簿と海外からの経済報告書。窓の外では雪がしんしんと降り積もり、街灯の明かりをぼんやりと白く染めていた。
筆を手に取り、余白に書き記す。
「通貨こそが国家の背骨。改革を恐れるな」
墨の文字は鮮やかに浮かび上がり、やがて冬の夜の静けさに溶けていった。
藤村の胸には、重圧と共に新しい時代への扉が確かに開いたのを感じていた。
雪は朝から絶え間なく降り続き、江戸の町を白く包んでいた。江戸城から少し離れた金座と銀座――二つの鋳造所の門前も、雪解け水が石畳を濡らし、靴の下でぐしゃりと音を立てていた。
藤村晴人は裃姿のまま、勘定奉行小栗忠順と共に門をくぐった。炉の熱が一歩足を踏み入れた途端、顔に押し寄せる。外の厳寒とは対照的に、内部は息苦しいほどの熱気に満ちていた。
「これが、265年続いた金座の炉です」
小栗の声に頷きながら、藤村は赤く燃える溶融金を見つめた。職人たちが長い柄杓を操り、慎重に鋳型へ流し込む。その金色の液体は、まるで国家の命そのものが形を変えて流れ出しているように見えた。
木槌で打ち固められた小判が台の上に並ぶと、刻印師が一打一打、紋を打ち込んでいく。澄んだ打音が工房全体に響き渡り、藤村の胸にまで震えを伝えた。
「これが国の信用を支えてきた“音”だ」
藤村は低く呟いた。炉の熱と槌音が胸の奥で重なり合い、彼の背筋を冷たくも温かくもさせた。
―――
続いて銀座へと足を運ぶ。そこでは白く輝く銀が細やかに鋳造され、重さを量る天秤の針が繊細に揺れていた。秤の傍で若い職人が、緊張で額に汗をにじませながら量目を確かめる。
「誤差が出れば、国の信用そのものが揺らぐ」
小栗の言葉は冷徹でありながらも真実だった。藤村はその光景を目に焼き付け、言葉を飲み込んだ。
――通貨は血液。金と銀はその赤と白。流れを乱せば国は病む。
彼の胸に刻まれたのは、誰もが軽々しく扱ってはならぬ国家の根幹だった。
―――
夕刻、江戸城の一室。炉の熱の余韻がまだ頬に残る中、藤村は慶喜の前に膝をついた。机の上には、今日視察した金小判と銀貨が並べられている。蝋燭の灯に照らされ、揺らめく光が室内を黄金と白銀に染めた。
慶喜は静かに小判を手に取り、藤村の前へ差し出した。
「この鋳造権を、そなたに委ねたい」
その声は重く、だが迷いがなかった。
「藤村殿以外に、この国の通貨を任せられる者はいない。剣も軍も大切だが、国を真に支えるのは“金”と“信用”だ。そなたならば必ずや改革を成し遂げるだろう」
藤村は息を呑み、小判を両手で受け取った。その重みは金そのもの以上に、265年の歴史と未来の責任を背負わせるものだった。
「……この責任、必ずや果たしてみせます」
彼の声は震えていたが、瞳は揺らぎなかった。
―――
会談の後、藤村は城の廊下に立ち、冬の夜空を見上げた。雪は細くなり、月明かりが瓦屋根を照らしていた。遠くで除夜の鐘のような工房の槌音が微かに響いてくる。
「通貨こそ国家の背骨。いま、その骨を鍛える時が来た」
藤村は深く息を吸い込み、胸に静かな熱を宿した。
冷たい夜気の中で、彼の心には確かに未来への扉が開かれていた。