第11話 退院の朝
翌朝、悠美が目を覚ますと外はまだ薄暗かった。
(あ、私ったら結局、春ちゃんのお布団で寝ちゃったんだわ)
そう思い、身体を寄せ合って寝ている春彦を見る。
「えへへ。」
春彦は、先に目を覚ましていたようで、悠美を見てニコニコしていた。
「あら、おはよう。」
「おはよう。」
「今日は、早起きじゃない。」
悠美は、春彦に顔を近づけて言った。
「だって、今日は、お母さんが退院する日じゃない。
なんか、わくわくして目が覚めたら眠れなくなっちゃった。」
「ええ?
じゃあ、何時から起きているの?」
「うん、悠美ちゃんの目覚まし時計で、5時30分ごろ。」
「まあ。」
春彦は余程嬉しいのだろうと悠美は思い、顔を上げて枕元の方をみた。
「今何時かな?」
そう言って悠美は目覚まし時計を見ると、時計は6時30分を指していた。
「春吉さんもキクさんも、もう起きているわね。
じゃあ、私達も着替えて、お手伝いしましょう。」
「うん。」
「じゃあ、布団を剥がすわよ。」
「うん!」
「いち、にぃーの、さん!!」
そう言って二人は思いっきり掛布団を跳ね上げた。
すると、深々と冷えていた部屋の空気が、二人を凍えさせる。
「きゃー、寒い。」
「うわ、寒い!」
二人は、そう言うと急いで着替え始めた。
悠美は、春彦の目の前でパジャマの上のボタンを外し始める。
「?!」
同じようにパジャマを脱ぎ始めていた春彦は、大急ぎで悠美に背中を向ける。
悠美は、春彦に裸を見られるのには何も抵抗がなかったが、春彦にとっては悠美の裸を見るのは恥ずかしくてできなかった。
(あら?
春ちゃんも、そういう年頃かぁ)
悠美は、自分に背中を向けて着替え始めた春彦を微笑ましく見ながら着替えをする。
二人は着替えが終わると、布団をたたみ、脱いだパジャマを荷物の中に詰め込み、洗面所に向かった。
廊下は部屋よりも冷えていて、二人の息は白くなった。
「こっちは田舎だけあって寒いわね。」
悠美はそう言って、両手をこすりながら廊下を歩いていると、階段の下で2階の方を見るように立ち止まる。
「どうしたの?」
春彦は、急に立ち止まった悠美を見上げるように尋ねた。
悠美は、春彦の方を振り返り、ニッコリ笑って言う。
「ねえ、春ちゃん。
あとで、繁おじちゃんの部屋に連れて行って。」
「え?
いいけど…。」
春彦は数日前に悠美を春繁の部屋に誘った時、強い口調で拒絶されたことを思い出していた。
「うん、やっぱり、行ってみたいなって。
ね、いいでしょ。」
「うん。」
春彦も春繁の部家はいろいろな物があり楽しくて仕方なかったのと、春繁の匂いがするようで好きだったので、二つ返事で頷いて見せた。
春彦と悠美が洗面所で顔を洗って居間に行くと、すっかりと日が昇り、朝日がさんさんと居間に注ぎ込んでいた。
「今日は良い天気ね。」
悠美はそう言うと居間の障子を開けて外を眺めた。
「本当だ、雲一つない青空だね。」
悠美の横から春彦も顔を出し、外を眺めていた。
そして明るい居間のテーブルの上には、すでに朝食が並んでいた。
「あら、二人とも、早いわね。」
そう言いながらキクが目玉焼きのお皿がのっているお盆を持って居間に入って来た。
「あ、おばあちゃん、おはよう。」
「キクさん、おはようございます。」
「はい、おはようございます。」
悠美は、キクからお盆を受取って目玉焼きテーブルの上にのせる。
「あら?
今日は春吉さんもキクさんも、朝食、まだだったんですか?」
悠美は目玉焼きの皿が4つあることに気が付いて尋ねる。
「ええ、今日は最後だから4人で食べたいって、あの人が言って。」
「まあ。」
「春彦ちゃん、悪いけどおじいちゃんを呼んできてくれる?
たぶん、お部屋で新聞を読んでいると思うから。」
「はーい。」
春彦は返事をし、居間を出て春吉が書斎代わりに使っている部屋に入って行った。
キクの言う通り、春吉は部屋で新聞を読んでいた。
「おはよう、おじいちゃん。
ごはんだって。」
「おう、春彦、おはよう。
今朝は、早起きだな。」
「うん。」
春吉は、新聞を置いて座布団から立ち上がり、春彦の頭を撫でた。
「今日はいよいよ舞さんが帰って来る日だな。
よかったな。」
「うん。」
春吉は、頭を撫でられながら嬉しそうに頷いた。
「おじいちゃんは、今日は、お留守番でお前のところに行かないけど、すぐに、舞さんの顔を見に行くからな。」
「はーい。」
春彦は万遍の笑みを見せた。
「ねえ、悠美ちゃん。
今日の予定なんだけど…。」
朝食を食べる手を止めて、春彦は悠美に尋ねる。
「え?
予定?」
「うん。」
「昨日話したじゃない。
光ちゃんの車で、まずは、春ちゃんのアパートに行って、光ちゃんと春ちゃんで舞ちゃんを迎えに行くって。」
「うん、それは聞いた。」
「え?
じゃあ、その間、私とキクさんとでアパートきれいにしておくって。」
「それも聞いた。
そうじゃなくて…。
その後、悠美ちゃん、どうするのかなって…。
お家に帰っちゃうの?」
春彦はもじもじしながら聞いた。
「あら、今日は春ちゃんの家に泊まるつもりよ。
舞ちゃん、退院したばかりで疲れちゃうでしょ。
だから、明日までお手伝い。
ちょうど、明日は私の学校、お休みなのよ。
だから、帰るのは、明日の午後かな。」
「そうなんだ。」
春彦は今晩も悠美と一緒にいられると聞いて、顔をほころばせた。
「あら、甘えん坊?」
「違うよ!」
春彦は悠美にからかわれ、むっとした顔をしたが、すぐに笑顔になってご飯を食べていた。
「でも、春ちゃんは、学校あるでしょ?」
「え?
そうだった…。
ねえ、明日、学校休んでもいいかな?」
「さあ、それは、どうだか。
舞ちゃんに相談しなさい。」
「はーい。」
春彦と悠美の話を聞いていて、キクは横から口を挟んだ。
「まあ、悠美さん。
大変じゃない?
大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。
春ちゃんのアパートは、結構、泊りに行ってるので、勝手がわかるので。」
「そう…。」
(そうじゃなくて、あなたの身体を心配しているのよ。
大丈夫かしら?
慣れないところで1週間ずっと春彦ちゃんの面倒を見て、また私たちにも気を使って…)
キクはそう聞こうとしたのだが、悠美の横で嬉しそうにご飯を食べている春彦の顔を見たら、それ以上は口に出せなかった。
朝食が済み、持って帰る荷物の用意が終わり、あとは光一の到着を待つだけになったころ、春彦が悠美の手を引いた。
「ねえ、悠美ちゃん、お父さんの部屋に行く?」
「うん、行く行く、連れてって?」
「え?」
横で聞いていたキクが悠美の顔を見る。
悠美はキクに笑い返し
「繁おじちゃんの部屋に行っていいですか?」
と尋ねる。
「え?
ええ、それは構わないけど…。
春繁の部屋は、毎朝あの人が窓を開けて換気しているから、綺麗よ。」
「はい、ありがとうございます。
じゃあ、春ちゃん、行こう行こう。」
「うん。」
そう言って悠美は春彦の後に付いて2階に上がる階段を上がっていった。
「……。」
キクは、二人の後姿を感慨深げに見送った。
階段を上がり、春繁の部家の扉を開けると部屋の窓から朝日が入り、明るい部屋だった。
悠美は、春繁の部家に一歩入り、部屋の中を見渡す。
朝日が当たる窓の元には、春繁が使っていた机が置かれていて、その横の棚にはオーディオと思える機器が所狭しと置かれていた。
音楽が好きな春繁は、エレキベースを演奏していて、その機材も混じっていた。
(繁おじちゃん、ベースやっていたから、その機械かしら。)
そのはす向かいの壁には、本棚や洋服ダンスが置かれていた。
また、扉のすぐ横の壁には大きいソファアが置かれていて、棚の下にあるスピーカーが真向かいになるように置かれていた。
(これが、舞ちゃんが言っていた繁おじちゃんの特等席ね。)
舞から、春繁はスピーカーから流れる音楽を聴きながら、丁度正面の窓から見える外の景色を眺め、音楽を聴くのが好きだったと聞いていた。
悠美は、そっと、そのソファに座ってみた。
ソファアはクッションが利いていて身体が優しく包み込まれるようだった。
そして晴天のもと正面の窓から遠くの綺麗な山並みを眺めている。
(繁おじちゃん、何を夢見て音楽を聴いて景色を眺めていたのだろう)
ふと見ると、春彦は机の椅子に座って、引き出しを開けて何かを触っていた。
「こら、春ちゃん、勝手に触ったらだめよ。」
悠美が春彦に近づき、引き出しを覗き込むと、つまみがたくさんついた長方形の箱の様な機械があり、春彦はそのつまみを盛んにいじり、まるで飛行機を操縦しているような振りをして遊んでいた。
(まあ、これなら大丈夫か…。)
悠美は夢中になって遊んでいる春彦をそのままに、反対のはす向かいにある窓から外を眺めた。
その窓からは立花家の玄関の方を向いており、反対側の山並みとの間の平地が遠くまで見渡せた。
「わー、ここは山に囲まれていたんだ」
悠美は今更ながらに立花家の立地がわかった。
立花家は、左右両側に山がある谷間の集落のようで、その山裾を縫うように平地が遠くまで広がっていて、その先には悠美たちの住んでいる都心部が続く。
窓を開けていると、遠くの方から鳥の鳴く声が聞こえる。
「春ちゃん、鳥の鳴き声が聞こえるよ。」
「うん。
おじいちゃんが言ってたけど、この近くに池があって、渡り鳥が冬になるとやって来るんだって。
その鳥の鳴き声じゃない?」
確かに、鳴き声はよくテレビとかで耳にする白鳥や鴨の声のようだった。
すると遠くの方で二羽の鴨の様な鳥が飛んでいくのが見えた。
(あの二羽は番かしら…)
そんなことを考えながらぼーっと外を眺めていると、遠くから1台の車が近づいてくるのが見えた。
立花家の玄関の前の道は車1台が通れるくらいの細い道で、近所の人が買い物で通ったり、農作業の機器が通るくらいの車通りの少ない道だった。
車は立花家の玄関のところにある窪地に入り停車し、中から見覚えのある光一が降りてきた。
「春ちゃん、光ちゃんが来たわよ。」
悠美は振り向いて春彦に声をかけた。
「本当?」
春彦は、光一の車に乗るのを楽しみにしていたので、眼を輝かせて顔を上げる。
「春彦ちゃん、悠美さん、光一さんが見えましたよ。」
すぐに階段の下からキクが二人に声をかけた。
「本当だ!」
そう言いながら、春彦は椅子から飛び降りると急いで階段を降りて行く。
「こら、春ちゃん、そんなに急いだら危ないから。」
悠美が走っていく春彦に注意する。
「平気、平気!!」
春彦はそんな悠美の心配を吹きとばすように、トントントンと階段を駆け下りて行った。
「ちょっと、引き出しも開けっ放しで…。」
悠美は「まったくもう」と呆れた顔で、開けっ放しにされた春繁の机の引き出しを閉め、階段の方に一歩踏み出した、その時だった。
“悠美…。”
背後から悠美を呼ぶ春繁の声が聞えた気がして悠美は机の方を振り返った。
今しがたまで春彦が座っていた椅子に、悠美が知っている笑顔の春繁が座っていた。
正確に言うと、座っている気がした。
“悠美、いつもありがとう。
悪いけど…。
もう少し、頼むな。”
悠美はそう言う春繁の言葉が確かに聞こえた気がした。
「繁おじちゃん…。」
悠美は春繁の方に一歩踏み出したが、胸が一気に熱くなり、涙で前がぼやけてしまう。
そして涙を拭うと、椅子はもぬけの殻だった。
「繁おじちゃん…。」
悠美は、そう呟き、そっと椅子に近付いて行った。
「悠美ちゃん、何しているんだろう?
もう、光ちゃんが来ているって言うのに。」
「ん?
悠美はどこにいるの?」
光一が春彦に尋ねた。
「うん、さっきまで二人でお父さんの部屋にいたんだ。
光一兄ちゃんが来たので、僕だけ先に下りてきたんだけど…。」
春彦はそう言いながら二階の方を見上げた。
「ぼく、見て来るね。」
「ちょっと、春彦ちゃん。」
二階に上がろうとする春彦をキクは後ろから肩に手を置いて押しとどめた。
「え?」
なんで?という顔でキクの方に振り向いた春彦に、キクは優しく首を横に振った。
「悠美さんが自分で降りてくるまで、待ってあげましょう。」
春彦は何となくわかったような、わからないような顔をしたが、頷いてキクの傍に立っていた、
二人の会話を聞きながら、光一は二人の荷物を車に運び込む。
「春彦、荷物を運ぶの手伝ってくれ」
光一が、そう言うと春彦は「はーい」と返事をして光一の方に走って行った。
キクは、春彦を見送ると、また、心配そうな顔で2階を見上げている。
「どうしたんだ?」
いつの間にか、春吉がキクの傍に来て、話しかけてきた。
「わかったわ。
繁おじちゃん。
大丈夫、任せてね。」
悠美はそっと人差し指で机を撫でながら、つぶやく。
「私もいつか次元の狭間に落ちていく。
そうしたら、誰が見つけてくれるかな?
春ちゃん?
佳奈ちゃん?」
そう独り言を言うと悠美は部屋をもう一度見まわし、部屋を出て階段を降りて行った。
階段の下では、キクに加え春吉も心配そうに悠美が降りて来るのを待っていた。
トントントン
悠美が階段を降りて来る音が聞えた。
「あ、降りてきたわ。
悠美さん…。」
そう言いかけてキクは悠美を見て言葉を失った。
階段を降りてきた悠美をキクの傍にいた春吉も思わず目を見開いて魅いってしまう。
その姿は、今までと違い一段と強く光り輝くようなオーラを纏い、まるでさなぎが蝶に変わるよう、少女から大人の女性に変貌した様だった。
「悠美ちゃん、どうかしたの?」
光一の手伝いで荷物を運んでいる春彦も傍に来て、悠美の雰囲気が変わったことに気が付いていた。
「え?
何が?」
「うーん、何か変わったような…。」
「何よ、もう。
変な春ちゃん。
それよりも、光ちゃん着ているんでしょ。
早く支度しなくっちゃね。」
悠美はそう言うと、春吉とキクに笑顔で会釈し、春彦の手をつなぎ客間の方に歩いて行った。
「び、びっくりした…、な、おい。」
春吉は悠美達の後姿を見送りながら口走った。
「ほんとう…。
女の子って、ある時、急に少女から女性へと劇的に変貌することがあるって聞いていましたが、まさか、眼も前で、こんなに…。」
キクも唖然としていた。
「一体、春繁の部屋で何があったのだろう。」
春吉とキクは、階下から二階の春繁の部屋の方を見上げていた。
だだ、キクは心に不安が渦巻いていた。
(悠美さんの光って、自らの命を削っているみたい…。
何か、怖いわ…。)
「おーい、悠美―!
荷物は、これで終わりか?」
光一が玄関から客間の方に向かって声をかけた。
「聞こえているかしら?
私、行ってくるわね。」
キクがそう言うと、客間の方から悠美と春彦が手荷物を持って戻って来た。
「あ、光ちゃん、ありがとう。
大きい荷物、もう運んでくれたんだ。」
悠美がにっこりと笑って言った。
「ああ、待っている時間がもったいなかったからな。
あれ?
悠美、お前、どうかしたか?」
光一も悠美の変化に気が付いたが兄妹のためか、そんなに気にはしていなかった。
「何か、いいもの食べたか?」
「え?
なんで?」
「いや、なんか肌が綺麗かなって。」
「あら、珍しいこと言うのね。
うーん。
あっ、昨日の夕食で春菊食べたわ。」
「あ、それか!」
(そ、そんな…)
キクは、そんな光一と悠美のやり取りを、今度は半ば呆れたように聞いていた。
「キクさんも、車に乗って行かれんですよね?」
「はい、すみません。
よろしいですか?」
「ええ、大丈夫です。
ただ、狭いので、しばらく我慢してくださいね。
支度はいいんですか?」
「ええ、私は泊まったりするわけではないので、これだけです。」
キクはそう言って、ハンドバックを見せた。
光一は、それを見て頷いた。
「それじゃあ、そろそろ行きましょう。
春彦は助手席かな。
悠美と立花さんは後ろの席でお願いします。」
そう言って、光一は車に向かって歩き出した。
「じゃあ、あなた、行ってきます。」
キクは春吉に向かって言った。
「ああ、じゃあ、舞さんに会ったら、何でも手伝うことがあったら遠慮せずに言うように伝えてくれ。」
「はいはい。」
「悠美さん。」
「はい?」
悠美は、急に春吉に名前を呼ばれ、慌てて春吉の顔を見た。
「一週間、ご苦労様でした。
また、いつでも遊びに来てくださいな。
そうだ、今度は舞さんと一緒にいらっしゃい。
お風呂や美味しいご飯を用意しておくから。」
「はい。
ありがとうございます。」
悠美はにっこりと笑って返事をした。
「春彦は、また、すぐに会えるからいいな。
お母さんのお手伝いするんだよ。」
春吉は眼を細めて春彦に向かって優しく言った。
春彦は、「はーい」と元気よく返事をする。
そして、春彦と悠美は声を揃えて「お世話になりました!」と挨拶をして車に乗り込んでいく。
光一の車が出発すると、春吉は名残惜しそうに4人の乗った車が見えなくなるまで、玄関の外で見送っていた。
無事に退院した舞。
春彦と舞と悠美。
新しい生活がスタートします。




