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幻獣召喚士2  作者: 湖南 恵
第五章 白の反乱
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三 召喚状

「おふうっ! おおおおおぅっ……おっ!」

 何とも間の抜けた呻き声が狭い小屋の中で響いた。


 煙臭い空気が漂う乱雑な小屋の一画に、簡素な木組のベッドがしつらえている。

 褐色に変色した皺くちゃシーツの上で、うつ伏せになっている老人が出した声だ。

 その爺さんは下履き一丁とういう、ほとんど裸の姿である。


 老人の腰の上には若い女性が跨っている。

 黒い綿シャツの袖を肘のあたりまで捲り上げ、うつ伏せになった爺さんの背骨の両脇に親指の腹を当て、体重を乗せて「ぐっ、ぐっ」と押していく。

 その度に老人は「うっ!」とか「おふっ!」とかいう呻ぎ声を上げるのだが、決して苦痛のそれではない。

 むしろ気持ちの良さに思わず洩れる歓喜の声だ。


 指圧の指は、肩甲骨の間から背骨に沿って下へと移動していき、腰のあたりでまた左右に分かれて骨盤まわりの肉をぐいぐいと揉みしだいていく。

 ひととおり揉み終えると、ユニは肉の薄い老人の尻をぺちんと叩いた。「終わったわよ」という合図である。

 小柄な爺さんは「ふう~っ」という満足の溜め息を洩らして、ぐったりと寝そべっている。


「おお、気持ちよかったわい!

 お前ずいぶん腕を上げたな。尻の揉み方なんぞ絶品じゃったぞ――どこの男に仕込まれた?」

 ユニは爺さんの下品な冗談が聞こえなかったふりをして、跨っていた膝を戻してベッドから降りようとした。


 すると老人は「あー待てまて」とそれを押しとどめ、寝返りを打って仰向けになった。

「今度はここを頼む」

 彼はそう言って、膝をついているユニの顔に向かって腰を突き出した。

 下履きの布を持ち上げるように前が膨らんでいる。


 ユニはぴくりと眉を上げると、中指の爪で思い切りその膨らみを弾いた。

「いてっ!」

 思わず声を上げた爺さんの目の前に、彼女は拳を突き出した。

「師匠。どうせ使う当てはないんでしょう? 何ならもう玉ごと潰しちゃいましょうよ。ええ、そうしましょうとも!」

 ユニが迫力のある低音でささやいたものだから、老人は思わず腰を引いた。


「こら、本気になるな! ちょっとしたお茶目な冗談じゃ。

 それに〝使う当てがない〟とは聞き捨てならんな。わしの息子は生涯現役じゃぞ」

 抗弁する爺様の顔めがけて、ユニが投げた衣服が飛んでくる。


 老人は彼女に森での生活や狩りの基本を教えた恩師である。

 ユニは「師匠」と言ったが、この周辺の村人たちは皆「シカリ爺さん」と呼んでいる。もちろんちゃんとした名前があるはずだが、弟子であるユニを含めて誰も本名を知らなかった。

 彼は辺境北部の開拓村、イド村(ユニの長兄が住んでいる村)の郊外の森に小屋を建てて冬は炭焼きを、それ以外の季節は狩りをして暮らしている。

 かつては多くの狩猟仲間を率いてクマを狩っていたという人物であり、〝シカリ〟というのは狩人集団のリーダーを意味する言葉である。


      *       *


 ユニは三月下旬に南部密林から帰還した後、赤城市でしばらく報告と聴取に明け暮れていたが、四月半ばには解放されて辺境へ戻っている。

 ただ、彼女は拠点としているカイラ村へは向かわずに、炭焼きの季節が終わって狩猟をしていた師匠のシカリ爺さんの小屋に押しかけ、夏が近づいてきたというのにそのまま居候をしていた。


 もちろんオーク狩りをしているわけではない。師匠の身の回りの世話――炊事、洗濯、掃除のほか、オオカミたちはシカ、イノシシといった大物を獲ってきて、それなりに楽しそうに過ごしていた(オオカミたちはシカリ爺さんと仲がよかった)。


 爺さんは投げつけられたシャツに袖を通しながら、ベッドの上でぶつくさと文句を言っている。

「ユニ、お前いつまでいるつもりじゃ?

 押しかけてきてからもう一月ひとつき半になるぞ」


 ユニは自分でも気にしていることに触れられてむっとする。

「何ですか? あたしがいちゃ迷惑みたいな言い方じゃないですか。

 毎日〝おさんどん〟をしてもらった上に、山ほど肉と毛皮が手に入っているでしょうに。こんな師匠孝行な弟子なんてそうはいませんよ」

「ばーか、限度というものがあるわい。

 こんな狭い小屋で女臭いのと毎日顔を突き合わせるわしの身になってみろ。

 やらせもしない、乳を揉んでも尻を触っても殴られるんじゃ、お前なんぞ置いとく価値はないわ。

 落ち着いて〝せんり〟もかけんわい」


 ユニは溜め息をついた。

「やっぱりその股間は潰しておいた方がいいんですかね?

 あたしがここにいる理由はお話ししたじゃありませんか」


 シカリ爺さんは軽蔑したように鼻を鳴らす。

「それは聞いたさ。

 辺境を襲うオークが元は人間かもしれないって話じゃろ?

 ふん、くだらねえ! 結局お前は逃げてるだけじゃねえか。

 『じっくり考えたい』とか抜かしていたが、一か月も考えて結論も出せねえ。

 こんな情けない女に『師匠』なんて呼ばれる方が迷惑じゃ」


 ユニはぐうの音も出ない。老人の言うことは正しかったからだ。

 だが、それだけに腹が立つ。

「だったら――。師匠ならどうするんですか!」


 声を荒らげたユニを見て、老人はにやりと笑った。

「なんだ、教えてほしいのか? 珍しく殊勝な態度じゃねえか。

 いいだろう。ちょっとこっちへ来い!」


 ユニはベッドの上で胡坐あぐらをかいている師匠の前に立った。

 今の彼女は動揺していた。この皺くちゃで猿みたいな老人にすらすがりたいほど、心が不安で弱っていたのだ。

「後ろを向いて、両手を上に挙げてみろ」

「それが答えとどう関係あるんですか?」

 彼女は疑わし気な声を出しながらも、素直に〝バンザイ〟をする。


 すると老人は腕を前に出し、いきなり両側からユニの乳房を鷲掴みにした。

「このっ!」

 ユニは振り下ろした手刀で爺さんの腕を叩き払い、振り返って平手打ちを放ったが、相手は老人とは思えない素早さでその手をかいくぐった。


「落ち着け、馬鹿!

 お前、今わしの手を振り払った時、何か考えたか?」

「考えまでもないでしょう! このエロ爺いが……」


 しかし、シカリ爺さんは手のひらを彼女の方に向けて言葉を制した。

「考える前に動く――それでいいんだよ。

 オークを倒すのに、あれこれ考えるだけ無駄なんじゃ。相手が人間かどうかなんざ関係ねえ。襲われたら防ぎ、戦う――そんな単純なことに何を悩む?

 お前が考えるべきは、もっと違うことなんじゃねえのかい?」


「違うこと……?」

 老人は急に真面目な表情になった。

「人間の言葉を喋るオーク……ダウワースとやらが言ったように、辺境のオークの正体が人間の魂の残り滓、成れの果てだとしたらどうだと言うんだ。

 もう奴らは理性のないオークとしてこの世界に生まれ出てしまったんだ。それは確定した事実だ。もう誰であろうと救えはしないんだよ。

 なら、お前にできることは何だ? その憐れな怪物を始末して、一刻も早く残酷な運命から解き放ってやることじゃねえのかい?」


 彼はじっとユニのはしばみ色の瞳を覗き込んだ。

「そのオーク王の言うとおりなら、召喚士とは別に、この世界から結構な数の人間が異世界へ送り込まれているということになる。

 この悲劇の根本はそこにあるんじゃろう? だったらそっちの方を探ってみろ。お前の頭じゃ考えるだけ無駄よ。まず動け!

 考える前に行動するのが、お前とオオカミたちの流儀だったんじゃないのか?」


      *       *


 辺境の開拓村に対するオークの襲撃は、一時期の激増状態に比べればだいぶ減っていた。

 ゴブリンが獲物の少ない大森林におけるオークの貴重な〝餌〟であることは、今ではよく知られていた。その〝餌〟が南部密林へ大量に流出し続けたことが、飢えたオークを辺境に向かわせた一因だった。

 密林オークとゴブリンの戦いの結果、ヒュドラによって大森林から南部密林への脱出路が塞がれた効果が出てきたのだろう。


 六月の始め、ユニは久しぶりにカイラ村に戻り、オーク狩りへの依頼もこなすようになった。彼女は認めたくなかっただろうが、シカリ爺さんに諭されて気持ちに整理がついたのである。


 いつもの生活に戻る一方で、ユニは旅の商人や召喚士から情報を集めることに努めた。

 「どこかで不審な行方不明者が出ていないか? 人買いの噂は聞かないか?」という聞き込みである。

 しかし、その結果はあまり芳しいものではなかった。辺境は人口が少ない分、人と人との関わりは濃密だった。貧しい枝郷は言うに及ばず、比較的人の多い親郷であっても、誰かの姿が消えればたちまち噂となる。


 もし何者かが、人間を拉致して幻獣界に送り出しているのだとすれば、少なくとも辺境以外の地域で行われていることだろう。

 やはり王都や四古都といった都会――いや、それよりも港町のカシルこそ怪しいのではないだろうか……。

 秘かな調査を進めるうちに、次第にユニはその思いを強くしていった。同時に、この漠然とした問題の解決を一人で行うことへの限界も感じていた。

 ――誰か協力者が必要なのだ。


      *       *


 その日、ユニはまだ日が沈まないうちから行きつけの店、氷室亭でビールを飲んでいた。

 このところ立て続けに三件のオーク退治を請け負ったことで、彼女の懐は暖かかったのだ。

 ユニは辺境において〝オーク狩りの名手〟という評判を確立していた。彼女の幻獣がオオカミで、しかも群れで行動していることが名声の原資となっている。


 多くの召喚士がオークの襲来を待ち構え、それに対処するのに対し、ユニの場合は家畜を襲ったオークの臭いを追跡して、こちら側から攻撃をしかける。

 結果的にユニの方が早く事件を解決するので、二次被害もなく召喚士の滞在費(依頼した村の負担)も節約される。だから多少割高でもユニを指名してくる枝郷が多いのだ。


 今、ユニの頭を悩ませているのは金のことではなく、転生疑惑の調査方法だった。

 問題解決のためには〝協力者が必要〟なのはいい。では誰に協力を求めるのか? ……実はユニの心のうちではとっくに結論が出ていたのである。


 王国参謀本部主席副総長であるアリストア以外に適した人物はいない。彼は人を動かす力を持ち、なおかつすべての事情を知っているのだ。恐らく頼めば二つ返事で協力してくれるだろう。

 分かり切った判断であったが、ユニの気は進まなかった。

「どうもあのお方を頼るのはねぇ……絶対後で何倍も働かされそうだわ。

 でも、……まぁ仕方ないか。

 そうなると、お忙しい方だからやっぱり事前に会う段取りをつけるべきよね。――確実性から言えば、軍事郵便を使うことになるのかしら……」


 ユニは氷室亭のいつもの席に陣取り、カモ肉のローストを肴にビールを飲んでいる。冬の間にたっぷりと脂肪を貯め込んだカモ肉は、甘くて風味が絶品なのだ。

 狩人のような格好の若い女が、まだ明るいうちから一人で酒を飲み、何やらぶつぶつとつぶやいているのは相当怪しい光景だったが、店の者はもちろん、他の客も誰一人として気に留めない。

 そのくらい彼女はこの店に馴染んでおり、半分店の備品のような扱いを受けていたのだ。


 ユニが軍事郵便を依頼するのに軍の出張所の誰を籠絡すべきか考えていると、まだ客がまばらで静かな店の空気を打ち破るように、勢いよく扉を開けてずかずか入ってきた者がいた。

 ユニよりもまだずっと若い娘、カイラ村の掲示板を管理するマリエだった。


「あー、いたいた! 真昼間から呑んでいる不良娘!」

 マリエはユニの席に無遠慮に近づいて当たり前のように隣りに座り、ついでに皿の上からカモ肉をくすねて口に放り込んだ。

「あんたに不良呼ばわりされるようじゃ、世も末だわ。

 なに? また指名依頼なの? 言っとくけどあたし、今月三頭もオークを倒してるんだからね。

 もう働かないわよ」


 あっという間に肉を飲み込み、さらに一切れ摘まもうとするマリエの手をぴしゃりと叩きながら、ユニは予防線を張る。

「ユニ姉さんが忙しいのは半年も姿をくらまして仕事を溜めたせいよ。自業自得じゃないですか。

 違いますよ。あたしはこれを届けにきただけ」


 そう言うと、マリエはエプロンのポケットから黒い封筒を取り出し、ユニの方へ差し出した。

「軍事郵便?」

 マリエに聞くまでもない。あまり紙質のよくない分厚い黒封筒は、軍が使う官給品に間違いない。


 この世界にも郵便制度はあったが民間の中小業者によるもので、届くのが遅く不確実なものだった。そのため大切な手紙は、顔なじみの商人や召喚士に依頼して届けてもらう方が多かった。

 一方、軍事郵便は軍が管理するものなので早く確実ではあったが、中身の検閲があった。原則として一般人がこれを利用することはできないが、受取人が軍関係者であれば例外とされていた。


「一体誰からかしら?」

 ユニは首を捻りながら腰のベルトからナガサ(山刀)を抜いて開封する。

 粗雑な紙質の封筒と真逆に、たたまれている便箋は一目で上質な紙だと分かる。

 軍が支給する便箋は繊維が粗くてペンが引っかかり、インクが滲む悪評高いザラ紙だったから、差出人は上級士官であることが読む前から分かる。


 四ツ折の便箋を広げると、そこにはきれいな筆跡で短い文章が書かれていた。

『二級召喚士ユニ・ドルイディア殿

 七月十日午前十時までに参謀本部への出頭を命じる。

   参謀本部副総長 アリストア・ユーリ・ドミトリウス・スミルノフ

 追伸 本状の到着以前に迎えが来ていない場合、十分に注意せられたし』


「何よこれ?」

 彼女は思わず眉間に皺を寄せた。マリエが呑気な顔をして覗き込んでくる。

「どうしたんすか?」


 ユニはそそくさと手紙をたたむと上着のポケットにねじ込んで立ち上がる。

「何でもないわ。いつもの軍からの呼び出しよ。

 またしばらく留守になりそうだわ。後のことよろしくね。

 ――そのカモ肉、食べていいわよ」

 彼女はビアマグを手にして立ったまま一気に飲み干した。

 つまみは残しても酒を残すなどあってはならないのだ。


 ユニは「だん!」と音を立てて空のビアマグをテーブルに戻し、銅貨を三枚置いて足早に立ち去った。


      *       *


 彼女は自分の借りている小屋に向かって歩きながら考え込む。

 ――おかしい。

 アリストアからの呼び出しなら、それこそ〝いつものこと〟だ。

 だが、彼が召喚状でユニに出頭を命じたのは最初の一回だけで、その後は必ず誰かしら使者を寄こしていた。


 軍事郵便は信頼性が高いとはいえ、相手が民間人の場合は直接配達されるとは限らないのだ。

 ユニ宛てであれば、今回のように掲示板を管理するマリエが窓口になる。彼女はユニに直接手渡してくれるが、それはカイラ村にユニがいればの話である。

 依頼で不在だったり、先日のようにシカリ爺さんのところで油を売っていたりすると、何か月もマリエのエプロンに仕舞われたままになってしまう。


 最近の例からすれば、まず間違いなく使いとしてマリウスが来るはずだ。

 書簡の追伸を見ると、アリストアは使者を向かわせようとしていたことが明らかだ。それが妨害されることを見越して軍事郵便という〝保険〟をかけたのだろう。

 この書状には、当然ながら検閲済を示す検印が押されていた。だが、それは黒城市の検閲官のものだった。

 王都にいるアリストアの書状が、なぜかは知らないが黒城市で出されたということになる。


 監視の目があって王都からは出せないので、誰かに依頼して別の場所から出したのかもしれない。

 それなら、なぜ一番近い白城市ではなく、北の黒城市から出されたのだろう……。


「キナ臭いわね……」

 ユニは声に出して独りちる。

 いつの間にかぴったりと横についていたライガが、ちらりと彼女に視線を走らせた。


『別に……煙の匂いはしないぞ』

 ユニの口もとが思わずほころんだ。

「そうね。火元は王都みたいだから、いくらオオカミでも嗅ぎつけるのは無理だと思うわ」

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