四 決起
「陛下、お目覚めでございましょうか」
まだ薄暗い光が厚いカーテンの隙間から射しこむ部屋には、大きなランプが灯されている。
レテイシアがとっくに目覚めていることは明白だったが、お付きの女官は一応、ベッドの天蓋からさがる薄い紗のカーテンの外から伺いを立てる。
「起きておる。何用か?」
分厚いベッドがわずかにきしみ、ガウンを羽織った女王が顔を出した。
「白虎帝がお見えになっていますが、いかがなさいますか」
いきなり天蓋のカーテンから白い生足がにゅっと突き出し、ベッドから滑り出すようにレテイシアが降りてきた。
「客間で待たせておけ。十分で着替える。
それと、熱いコーヒーを頼む――侍従長に運ばせるのだぞ。
お前たちは悪いが遠慮してくれ」
「かしこまりました」
女官はお辞儀をして静かに退出していく。
* *
きっちり十分後、女王は客間に姿を現した。彼女は正装ではないが不作法には当たらない衣服をまとい、簡単だが化粧もしている。
この短時間で身支度を整えた手際には敬服するしかない。
白虎帝エランは片膝をついて礼をとる。
「よい、どうせ私たちのほかには誰もおらんのだ。座ってくれ。
――それで、首尾はどうなのだ?」
エランは豪華な客用ソファに身を沈めると、柔らかな笑みを浮かべた。
「ご心配なく、すべて順調です。
深夜のうちに近衛兵の武装解除は終わっています。
衛兵はすべて私の部下と入れ替わりました」
「近衛は抵抗せなんだか?」
レテイシアは少し不安そうに訊いた。彼女は国軍同士の流血を何より恐れていたのだ。
「ご心配なく。私の部下は優秀です。衛兵にそのような暇は与えませんでした。
彼らは何も知りませんから一時的に軟禁することになりましたが、上官からの説得ですでにこちら側についております。直に私の部下と交替して元の任務に戻るでしょう。
もともと近衛に採用されている連中は陛下への忠誠心が特に強い者ばかりです。その辺は心配いらないでしょう」
「あちら側に通じている者はいないのだな?」
エランは首を横に振る。
「残念ながら……。ごく少数ですが、商人たちに買収された者がいます。
ずいぶん前から泳がせていましたから、そうした者たちはすべて把握していますし、夜が明ける前に急襲して身柄を拘束してあります」
「そうか……」
明らかに安堵した顔で女王は息を吐いた。
まるでそれを聞いていたように、扉をノックする音がした。
銀のお盆を手にした侍従長が静かに入ってくる。
彼はエランに向かって軽く頭を下げると、二人の前にカップを置いてポットから熱いコーヒーを注いだ。
白虎帝は「これはありがたい」と喜んでカップにクリームを注いでいる。
「爺、街の様子は見てきたか?」
レテイシアもコーヒーを啜りながら侍従長に訊ねる。彼女は砂糖も入れないブラックを好んだ。
「陛下、何度も申し上げましたが〝爺〟はお止めください。私は侍従長ですし、カロウという名もあります」
「ああ、分かっておる。それで、街はどうだったのだ、爺?」
カロウ侍従長は小さな溜め息をついて答える。
「まだ六時前で夜が明けたばかりですからな。あまり人は出ておりませんが、市民の様子に異変は見られませんでした。
城の警備も近衛の軍装ですから、議員の方々が気づくようなことはありますまい」
「すると問題は参謀本部だな……」
白虎帝がコーヒーに砂糖を三杯も入れて掻き回しているのを見て、女王は少し顔を顰めながら訊ねた。
「参謀本部の連中は皆軍人だ。見慣れない兵が警備していては不審に思うのではないか?」
エランは肩をすくめる。
「問題ありません。参謀本部の周辺は、陛下の勅命で早くからこちら側になっている近衛の兵が警備に就いてくれています」
女王はその答えを聞いてもまだ不安そうだった。
「そうか……。だが、本当に参謀本部を封鎖できるのか? アリストアの幻獣はミノタウロスだ。あれは手強いぞ」
白虎帝は甘いコーヒーを美味しそうに飲みながら、小さく首を傾げた。
「多分……どうにかなるでしょう。封鎖の指揮はうちの副官に任せています。
陛下はご存じないかもしれませんが、若いのに肝の据わった女です。幻獣も強力ですから、ミノタウロスに遅れは取らないでしょう」
「そうか……お前がそう言うのなら、大丈夫なのだろうな。
とにかく作戦の成否は参謀本部の封鎖にかかっている。よろしく頼むぞ!」
* *
王都リンデルシアは首都であるだけにそれなりの規模がある。王国の四古都と同様に、城を中心とした巨大な防壁の内部に街をまるごと取り込んだ城塞都市である。
ただ四古都と大きく異なるのは、城壁外に新市街が存在しないことだった。そのため城壁の規模は国内最大でありながら、王都の総人口は白城市の四分の一に満たなかった。
それでも約八万人もの人びとが暮らす街である。整備された大通りには多くの商店が立ち並び、行きかう人も多い。
六月二十五日の朝七時、大通りの石畳をカラカラと軽快な音を立てて馬車が駆け抜ける。
その後ろを、身長四メートルを超す小山のような巨人がゆったりとした歩調でついていく。
ぼこぼことした筋肉の塊りをまとった赤銅色の肉体は半裸で、短いスカートのような腰巻と編み上げのサンダルを身につけたのみである。
その頭部は角を生やした牡牛のそれであった。
そんな怪物が人の行きかう大通りを闊歩していても、誰一人悲鳴をあげる者などいない。
王都の市民にとって、それは見慣れた光景だったのだ。
驚く者がいたとすれば、それは他所から来た〝お上りさん〟の証拠だ。
真っ青な顔をして道から逃れ、がたがた震えて見送っている男に、商店のおかみさんが笑って声をかける。
「あれは参謀本部の国家召喚士様の幻獣だよ。暴れたりしないから心配しなさんな。
あんなだけど意外にインテリでね、図書館でよく本を読んでいるのさ」
ミノタウロスの「ミノス」(この身も蓋もない名前は召喚主が付けたものだった)が従っているということは、馬車の主はアリストアということになる。
四人いる参謀副総長の首席で〝軍の頭脳〟と言われる男は、実質的に参謀本部のトップ、すなわち国軍を掌握する人物だった。
彼は毎日きっかり七時十五分に登城する。したがってこの時間に馬車とミノタウロスが王城に向かうのは、市民にとって太陽が東から登るのと同じように自然なことなのだ。
アリストアの住まいであるスミルノフ伯爵家から王城までは、馬車で二十分ほどである。
その間は、当日決済すべき書類の資料に目を通したり、急ぎの案件がなければ読書をするという、彼にとってはかなり貴重な時間だった。
だがその日、アリストアは窓のカーテンを指で押さえて通りの様子を観察していた。
馬車の狭い窓から見える光景には何も変わったところはない。
それなのに、アリストアの頭脳には「何かが違う」という違和感が、鳥餅のようにへばりついたまま離れようとしなかった。
しかしどれだけ目を凝らして観察しても、街の様子に何ら変わったことはなかった。彼は釈然としない思いを抱えたまま王城へと向かっていったのである。
* *
朝七時半ちょうど、糊の効いた制服に着替えたアリストアは執務室に入る。座りなれた椅子に腰をおろし、目の前の執務机に積まれた書類の山の高さを確認すると、「ふう」と息を吐く。
同時に秘書官室側の扉にノックの音が響き、女性用の軍服を完璧に着こなした秘書官のロゼッタ中尉が入ってくる。
彼女は「お早うございます」と、銀の鈴を転がすような声で挨拶をすると、アリストアの前に淹れたての紅茶とお手製のクッキーが三枚のった小皿を置いた。
秘書官が自宅から持ち込んだ最上級の茶葉は、バラのような芳香で執務室を満たしてくれる。
「ありがとう」
いつもどおりの言葉に、ロゼッタは軽く会釈して控室に戻ろうとした。
「待ちたまえ」
思いがけない上司の言葉に、彼女は足を止めて振り返る。
「何か?」
不思議そうな顔をする秘書官に、呼び止めておきながらアリストアは言葉に詰まった。
この二人はプライベートでも付き合っていた。一年以上前、ロゼッタが誘拐されてアリストアが救出に向かった事件がきっかけとなり、それ以前から互いに思いを寄せていた二人が結ばれたのである。
事件が解決して二人は参謀副総長とその秘書官という立場に戻ったが、彼らは人目を忍んで深い付き合いを続けていた。
もっともこの頃には参謀本部で二人の仲を知らない者はいなかった。バレていないと思っているのは当の本人たちだけで、参謀本部の面々は誰もが生暖かい目で見守っていたのだ。
「登城する際、君は何か感じなかったか?」
ようやく捻り出した質問は、情けないほど漠然としたものだった。
「何か……ですか? いえ、特にいつもと変わったことはありませんでしたが……」
冷静で知られる参謀副総長は、珍しくも慌ててしまった。
「ああ、いや……――何と言うか、街の雰囲気、そうだ! 何だか空気が違うような気がしたのだ。うまく説明できないのだが……」
首を傾げる秘書官の顔は、ぞくぞくするほどに美しかった。少しだけ開いた紅い唇に、アリストアはベッドで喘ぐ彼女を思い出して身震いをした。
「そう言えば……」
「何かあるのか!」
自分の邪念を隠そうと勢い込んで言葉を重ねる上司に、ロゼッタは思わず腰を引いた。
「朝、家を出る時に仕入れ担当の者が言っていたのですが、何だか城門の衛兵の態度が変だったと……」
ロゼッタの実家であるファン・パッセル家は王国でも有数の商家である。
「門衛が? どう変だと言っていたのだ?」
「何でも見かけない兵士だったそうですが、妙に緊張していたとか……。新入りなのかと思ったら案外年輩の兵士だったらしくて、『何だったのだ?』と首を捻っていたのです」
「他には何か不審な点があったのか?」
「いえ、それだけのようです。荷物は普通に通過しましたし、手続きに問題はなかったようです」
「……そうか」
アリストアは紅茶を口に含み、クッキーを齧った。いかにも心ここにあらずといった様子で、恐らく味など感じていないだろう。いつもなら「うまい」という短い賛辞を口にするのが、この日は無言だったのだ。
ロゼッタの女心がちくりと痛む。
しばらくして思考の海の底から浮上した参謀副総長は、自分が行うべきことが整理できたようだった。
「今日は貴族院の夏季議会の日だったな。出席の貴族たちの動向に変わりはないのか?」
ロゼッタ中尉も即座に有能な秘書の顔を取り戻す。
「はい、十二侯のうち八侯は昨日のうちに王都に入ったと聞いております。残る四侯も予定変更の情報は入っておりませんから、早朝のうちに到着しているはずです」
「そうか、いつもどおりか……。
ロゼッタ、君は参謀本部からの出張予定者を把握しているかね?」
「はい、一通りは。
今日はラオ大尉ほか三名が白城市で、イムリ少尉が黒城市へ向かう予定になっているはずです」
アリストアは満足そうにうなずいた。打てば響くようなこの秘書官の対応は、彼が最も気に入っているところだったのだ。
「ではラオ大尉、いや待て……イムリ少尉を出発前に呼んでくれ。
それとは別にマリウスも呼び出せ。午前中のうちにだぞ。ああそうだ、彼の報告書にもう一度目を通したいな。すまんが用意してくれたまえ」
「報告書と申しますと、陛下に謁見した時のものでしょうか?」
「そうだ。あとは午後のなるべく早くに情報部長と話がしたい。向こうの秘書官と調整をしてくれ」
「分かりました」
ロゼッタは踵を返すと足早に退出していく。
彼女が「分かりました」と答えたならば、彼の命令は確実に実行されるだろう。
アリストアは目に焼きついている去っていくロゼッタのふくらはぎの残像を脳裏から追い出すと、執務机の引き出しから彼専用の便箋を取り出した。
そして迷うことなくペンを走らせる。
きれいな筆致で書かれた手紙の一行目には、こう記されていた。
――二級召喚士ユニ・ドルイディア殿。
* *
ロゼッタは上司に命じられた仕事を完璧にこなそうとした。それは秘書官として当然の責務であるし、愛する男の期待を裏切るわけにいかないという女の矜持でもあった。
彼女は総務課でローズという胸と尻の大きな事務員を口説いていたイムリ少尉を見つけると有無を言わさず連行し、始業時間である八時半きっかりにアリストアの執務室に放り込んだ。
同時に百頁を超す分厚いファイルを執務机の上に届ける。それはマリウスの苦心の賜物である女王の分析報告書だった。
参謀本部に登用されるのは、原則として士官だけである。最下級の士官と言えば准尉だが、現実はもっと厳しく実際に採用されるのは少尉以上となっていた。
つまりイムリ少尉は参謀本部の最底辺を構成する下っ端である。副総長(将官待遇)などという雲の上の人から理由も知らされずに呼び出されるなど、彼にとっては死刑宣告のようなものだった。
若い少尉は女教師のような秘書官に引きずられてアリストアの前に立たされると、覚悟を決めて直立不動の姿勢から敬礼をする。
「誠に申し訳ありませんっ!」
緊張した若者の声は裏返っている。ロゼッタは慌てて秘書官室に駆け戻り、タオルで口元を抑えて笑いを堪えた。
「君は何を謝っているのだね?」
アリストアはにこりともせずに問う。
少尉はますます委縮して、甲高い裏声で叫んだ。
「ですからっ、総務のローズを食事に誘ったことであります! まさか副総長殿の〝お手付き〟とは存じませんでしたっ!」
濡れ衣を着せられた副総長殿はうんざりとした声で溜め息をついた。
『これは絶対に隣りでロゼッタが聞き耳を立てているな……』
「いいかね、イムリ少尉。私はローズに手を出したことはない。二度とあらぬことを口走るな!
私の知る限り、彼女は現在三課のギリス大尉と付き合っているはずだ。それに情報部のワイド中尉と〝できている〟という噂もある。
ついでに言えば、どこぞの将官と時々食事に行って小遣いを稼いでいるという情報も耳にしたことがある。
彼女は君の手には負えないぞ。悪いことは言わん、火傷しないうちに諦めることだ」
愕然としている若者の表情を無視して、アリストアは彼に黒い封筒を渡した。
「君を呼んだのは頼みがあるからだ。
黒城市に着いたら、まっ先にその手紙を軍事郵便で出してほしい。簡単な依頼だ。できるな?」
イムリ少尉はうなずいた。
「それは別に構いませんが……王都から出してはいけないのですか?」
「駄目だ」
アリストアは即座に厳しい声を出した。
「必ず黒城市から出すのだ。
これは軍機である。分かっていると思うが他言無用だ。いいな?
分かったら行ってよろしい」
傷心の少尉がふらふらとした足取りで出ていくと、入れ替わるようにマリウスが入ってきた。
「どうしたんですか、今の若者は? この世の終わりみたいな顔色でしたけど」
アリストは不機嫌そうに答える。
「前途ある馬鹿者を蛇の毒牙から救ってやっただけだ。
その代償に私はあれにいらぬ釈明をするはめになるだろう。まったく割に合わん。
――マリウス! そのにやけ顔を今すぐ止めたまえ。それより君に頼みたいことがある。いつもの〝ユニ案件〟だ」
二人はそれ以降、声を落として長い密談に入った。
その間にロゼッタは情報部の部長秘書官と連絡を取ろうとしたが、使いに出した者はいつまでも戻ってこなかった。
『もう十時になろうとしているのに、ミリア(情報部長秘書官)は何をしているのかしら……?』
業を煮やした彼女は、副官室にいたヤン大尉に留守番を頼み、自ら情報部へ出向くことにした。
アリストアの副官の一人、ヤン大尉はロゼッタの頼みを快く引き受け、自分の仕事を秘書官室に持ち込んで報告書の作成にいそしんでいた。
ところがロゼッタが出て行って十五分も経たないうちに、彼女が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
彼女は驚いている副官を無視して真っ直ぐ部屋を突っ切り、ノックもせずに執務室の扉を開け放つなり叫んだ。
「大変です、アリストア様! 参謀本部が封鎖されました! 私には近衛が乱心したとしか思えません!」




