第2話 二つのマグカップ
「このコーヒー、おかしい」
西条京子の言葉を聞いて、所沢一はテーブルへ視線を落とした。白いマグカップには半分ほど、黒いマグカップには底が隠れる程度のコーヒーが残っている。近くには小さなシュガーポットがあり、少し離れたところには何も載っていない小皿が一枚置かれていたが、所沢にはそれ以上のものには見えなかった。
「何がおかしい」
「分かんない」
「分からないのに、おかしいのか?」
「うん」
京子は黒いマグカップを見たままだった。所沢は眉間に皺を寄せ、隣にいた孝之へ目を向けた。
「齋藤。説明しろ」
「何をでしょう」
「この女だ」
「幼馴染です」
「それは聞いた」
「二十四歳です」
「年齢も聞いていない」
「西条ジェシカ京子といいます」
「フルネームも聞いていない」
所沢の声が少し大きくなったが、京子は振り返りもしない。孝之は小さく息を吐いた。
「警視、ちょっとだけ待ってもらえませんか」
「何をだ」
「こいつ、こうなると止まらないんです」
「何が止まらない」
「本人にも分かってません」
「それなら帰らせろ」
「それができたら苦労してません」
所沢が孝之を睨んだところで、京子が二人の会話とは関係なく黒いマグカップを指差した。
「これ、触っていい?」
「駄目に決まってるだろ」
「なんで?」
「事件現場だからだよ。見るだけにしろ」
「近くで見たい」
「だったら手を後ろに組め」
京子は素直に両手を背中へ回したが、その右手には食べかけのシュークリームが残っていた。孝之がそれにも気づいて顔をしかめる。
「それも片づけろ」
「まだ食べる」
「今じゃない」
所沢はしばらく二人を見ていたが、やがて声の調子を変えた。
「齋藤。今すぐ連れ出せ。ここは人が一人死んでいる現場だ。遊びじゃない」
その言葉には京子も反応し、マグカップから目を離して所沢を見た。
「ごめんなさい」
小さく頭を下げた京子に、所沢は一瞬だけ黙ってから頷いた。
「分かればいい。齋藤、外へ」
「はい」
孝之に促されると、今度は京子も素直に従った。ただし部屋を出る前に、テーブルの二つのマグカップと小皿へもう一度だけ目を向けてから玄関へ向かった。
◇ ◇ ◇
マンションのエントランスに下りると、孝之はベンチに座った京子の前で腕を組んだ。
「それで、なんでお前はここにいる」
「だから迷ったの」
「どこへ行こうとしてた?」
京子がポケットから出した紙を受け取り、孝之は住所を確認した。念のためもう一度見たが、書かれているものは変わらない。
「京子。ここ、世田谷だぞ」
「うん」
「お前が行こうとしてるの、文京区」
京子は住所を覗き込んだ。
「遠い?」
「遠いとかいう話じゃない。どうやったら間違えるんだよ」
「電車」
「電車のせいにするな」
京子は紙袋からシュークリームを取り出そうとした。
「また食うのか?」
「お腹空いた」
「さっきからずっと食ってるだろ」
「考えるとお腹空くの」
「何を考えてんだよ」
そこで京子の手が止まった。
「コーヒー」
孝之の顔から呆れが少し消えた。
「何がおかしかった?」
「まだ分かんない。でも変」
孝之はそれ以上急かさなかった。京子は、分からないものを分かったとは言わない。そして昔から、何かを「変」と言った時には、本当にどこかがおかしかった。
「どこが変なんだ」
「それ考えてる」
「カップが二つあったからか?」
「違う」
「残ってた量?」
「違う」
「温度か?」
京子が顔を上げた。
「温度、調べられる?」
「鑑識が必要だと思えば調べる」
「すぐ?」
「俺が決められることじゃない」
「孝之、警察でしょ」
「警察なら何でもできると思うな」
京子は少し不満そうな顔をしてシュークリームをかじった。
「二つのコーヒーを淹れた時間が違うと思ってるのか?」
「分かんない」
「じゃあ何だよ」
「だから考えてる」
会話が元へ戻り、孝之は苦笑するしかなかった。
◇ ◇ ◇
死亡した男性の身元はすぐに判明した。高瀬隆一、四十八歳。都内で複数の飲食店を経営する会社の代表取締役で、離婚後はあのマンションで一人暮らしをしていた。
発見のきっかけになったのは、会社の専務である長谷川修からの連絡だった。午後に予定されていた重要な商談へ高瀬が現れず、電話にも応答しないため、長谷川がマンションを訪ねた。インターホンにも反応がなかったため管理人へ相談し、そこから警察へ連絡が入っている。
玄関は施錠され、内側からドアガードまで掛かっていた。窓もすべて室内側から施錠され、部屋が荒らされた形跡もなく、財布や現金も残されている。
「自殺という感じでもないな」
現場を確認していた所沢に、孝之が頷いた。
「遺書らしいものはありません。死因はまだ断定できませんが、後頭部に外傷があります」
「転倒した可能性もあるか」
「現時点では何とも言えません」
争ったような目立った痕跡も、凶器らしい物も見つかっていなかった。所沢が最後に高瀬を見た人物について尋ねたところへ、別の捜査員が防犯カメラの確認結果を持ってきた。
「昨夜、高瀬さんが帰宅したのは二十一時十二分です。その時は一人でした」
「その後は?」
「二十二時三十六分に女性が一人、七階でエレベーターを降りています。同じ女性が二十三時八分に一階へ戻りました」
「三十分ほど部屋にいた可能性があるわけか」
「はい。その後、高瀬さんの部屋を訪れたと思われる人物は、エレベーターの映像では確認できません」
孝之は非常階段の出入口について確認したが、そちらにもカメラがあり、昨夜二十時以降に外へ出た人物はいなかった。
「まずその女性を特定しろ」
所沢が指示を出したあと、テーブルに残された二つのマグカップへ目を向けた。
「客がいた可能性は高そうだな」
「そうですね。女性が出たのが二十三時八分で、それ以降の出入りは確認できない。あとは死亡推定時刻がどこまで絞れるかです」
所沢が頷いたあと、孝之もまだマグカップを見ていることに気づいた。
「齋藤。幼馴染の言ったことが気になるのか」
「少し」
「理由は?」
「昔からなんです。あいつ、普段はどうしようもないんですけど」
「それは見れば分かる」
「そこまで言います?」
「言わせたのはお前だ」
孝之は苦笑してから、もう一度テーブルを見た。
「あいつが何かを変だと言った時は、大体、本当にどこかがおかしいんです」
所沢はすぐには何も答えず、二つのマグカップへ視線を戻した。
◇ ◇ ◇
翌朝には、防犯カメラに映っていた女性の身元も判明した。水野沙耶、三十五歳。高瀬の会社で経理部長を務め、高瀬とは交際関係にあった。
「昨日の夜、高瀬さんの部屋へ行ったことは認めます」
水野は疲れた顔でそう答えた。
「何時ごろですか」
「十時半くらいだったと思います」
「何をしに?」
「話があったんです」
「どんな話でしょう」
水野は少し迷ってから答えた。
「別れ話です。私から別れたいと言いました」
「揉めましたか」
「少し。でも最後には納得してくれました」
孝之は手元の資料を確認しながら質問を続けた。
「部屋でコーヒーを飲みましたか?」
「はい。高瀬さんが淹れてくれました」
「どちらのカップを使ったか覚えていますか?」
「白い方だったと思います」
「砂糖やミルクは?」
「私はミルクだけです。高瀬さんはブラックでした。甘いものが嫌いだったので、コーヒーに砂糖を入れているところも見たことがありません」
孝之は現場写真を確認した。白と黒のマグカップ、シュガーポット、小さな皿も、撮影された時と同じ状態で写真に残っている。
「あなたが部屋を出た時、高瀬さんは生きていましたか?」
「もちろんです」
「そのあと連絡は?」
「していません」
「あなたが帰る時、玄関の鍵はどうなりましたか?」
「高瀬さんが中から閉めました。ドアが閉まってから鍵の音がしたので」
「ドアガードも掛けたか分かりますか?」
「そこまでは見ていません」
「高瀬さんの様子に変わったところは? 体調が悪そうだったとか、薬を飲んだとか」
「ありませんでした。私がいた間は何も食べていません」
孝之がその言葉を確認すると、水野は少し不安そうな顔になった。
「あの……私、疑われてるんですか?」
孝之はその問いには答えなかった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、孝之が京子の家へ入ると、玄関のすぐ内側に置かれたゴミ袋につまずきそうになった。
「おい。昨日まとめたゴミ、なんでここにあるんだ」
リビングから京子の声が返ってきた。
「今日じゃなかった」
「何が?」
「ゴミの日」
「曜日くらい覚えろって言ってるだろ」
返事がなかったためリビングへ入ると、京子は床に座り、周囲に紙や写真を広げていた。その前には二つのマグカップが置かれ、片方にはブラックコーヒー、もう片方にもコーヒーが入っている。そばには牛乳と砂糖、それにシュークリームの箱まで用意されていた。
「何してる」
「考えてる」
「マグカップまで買ってきたのか?」
「うん」
「昨日からずっと?」
「途中で寝た」
「飯は?」
「シュークリーム」
「それを飯にするな」
京子は聞いているのかいないのか分からない顔で、現場写真を見ていた。
「昨日の女の人、見つかった?」
「なんで女だと思った?」
「口紅」
「どこに?」
「白いマグカップ」
孝之は少し黙った。現場で京子がテーブルへ近づけた時間は長くなかった。それでも、カップの縁に残った薄い口紅の跡は見ていたらしい。
「見つかった」
「何飲んでた?」
「そこから先は捜査情報だ」
「ミルク?」
孝之は答えなかったが、京子は白いマグカップへ牛乳を入れてスプーンで混ぜ、一口飲んだ。
「ミルクだけでしょ」
「なんで分かる」
京子は質問には答えず、今度はブラックコーヒーへ目を向けた。
「男の人は砂糖入れない?」
「……入れない」
京子が少し考えるような顔をした。
「やっぱり」
「何が?」
返事の代わりに立ち上がり、リビングを少し歩いてから戻ってくる。
「二人でコーヒー飲んだ」
「らしいな」
「女の人が帰った」
「ああ」
「男の人が鍵閉めた」
「水野は鍵の音を聞いている」
「それから誰も入ってない」
「今のところ、防犯映像ではな」
京子は床に戻ると二つのマグカップを見比べた。
「じゃあ、やっぱり変」
「だから何が?」
「なんで二つとも、あそこにあったの?」
「二人で飲んでたからだろ」
「でも女の人、帰ったんでしょ」
「帰ったあともカップを出しっぱなしにする人間はいる」
「うん」
「高瀬がそうだっただけかもしれない」
「そうだね」
京子があっさり認めたので、孝之は拍子抜けした。
「だったら――」
「でも、これなら?」
京子は箱からシュークリームを一つ取り、一口食べたあとでブラックコーヒーを飲んだ。口元を指で拭うと、指先に白いクリームがついた。
「私、昨日もこれ食べてた」
「知ってる」
「だから変だと思った」
「何が?」
京子は現場写真を一枚取り、テーブルに置かれていた小皿を指差した。
「これ、何が乗ってたの?」
「発見時には何も乗ってない」
「今はね」
写真をよく見ると、小皿の中央には薄い染みのような跡が残っている。
「何か食べ物が載ってたと思ってるのか?」
「たぶん」
「何を食べたかまでは分からないぞ」
「うん。でも何か食べた」
「それがコーヒーとどう繋がる?」
「分かんない。だから調べるの」
シュークリームをもう一口食べた京子は、少し考えてから孝之を見た。
「フォーク」
「フォーク?」
「昨日、小さいの見えた」
「どこに」
「食器棚」
孝之はスマートフォンで現場の記録を確認した。食器類の一覧と写真を追っていくと、食器棚から小さなフォークが一本見つかっている。洗浄済みだった。
「小さいフォークが一本ある。洗ってあるな」
「他の食器は?」
「シンクにいくつか残ってる」
「じゃあ、そのフォークだけ使ったあと洗ったのかな」
「そうとは限らない。いつ洗ったかも分からないし、昨日使われたとも限らない」
「うん」
京子は否定せず、二つのマグカップと小皿、食器棚の写真を見比べていた。
「高瀬は甘いものが嫌いだったそうだ」
孝之がそう言うと、京子は顔を上げた。
「嫌い?」
「水野がそう言ってる。コーヒーもブラック」
京子は自分の手にあるシュークリームを見た。
「じゃあ、これは食べない?」
「普通ならな」
「ふうん」
それ以上は何も言わず、黒いマグカップが大きく写っている写真へ視線を移した。
「昨日のコーヒー、調べた?」
「鑑識が調べてる」
「毒とか?」
「今のところ、コーヒーから毒物は出てない」
「そっか」
京子は写真を置いた。
「じゃあ、コーヒーじゃない」
「何が?」
「時間」
「コーヒーを淹れた時間か?」
「うん」
「そんなもの正確には分からないぞ」
「分からなくていい。冷めるから」
「そりゃ冷めるだろ」
「うん。当たり前」
京子はそれきり黙ってしまった。孝之が続きを聞こうとしたところでスマートフォンが鳴り、表示された相手を確認して通話に出る。
「はい、齋藤です」
数十秒ほど話を聞くうちに、孝之の表情が変わった。
「間違いないんですか? ……分かりました。すぐ戻ります」
「何?」
「死亡推定時刻が出た。昨夜十一時から午前一時の間」
「女の人が帰ったのは?」
「十一時八分」
「そのあと誰も入ってない?」
「防犯カメラ上はな」
「窓は?」
「施錠されていた」
「玄関は?」
「施錠されていて、発見時にはドアガードも内側から掛かっていた」
京子はしばらく考えていた。
「普通に考えれば、水野が高瀬を殺した可能性は高くなる」
「でも生きてた」
「水野の証言ではな」
「鍵の音も聞いた」
「それも水野の証言だ。殺したあとで、高瀬がまだ生きているように見せかけた可能性だってある。死亡推定時刻には幅があるからな」
京子は写真を見たまま首を横へ振った。
「違う」
「なぜ言い切れる?」
「まだ言い切れない」
「じゃあ違うって言うなよ」
「でも、それだと変なの多い」
「例えば?」
京子は答えず、手元の現場写真を見ていた。
「もし、女の人が帰った時、本当にこの人が生きてたら?」
「そのあと誰も入っていないことになるな」
「窓も開いてない」
「ああ」
「玄関も中から閉まってる」
「そうだ」
京子はドアガードの写った写真を見ながら考えていた。
「じゃあ犯人、ここから出てない」
「窓から逃げたということか?」
「違う」
「ベランダ?」
「違う」
「じゃあどこだよ」
京子は不思議そうに孝之を見た。
「出てないんだよ」
「どういう意味だ?」
「犯人は、あの部屋に入ってない」
孝之はすぐには意味を理解できなかった。
「待て。高瀬はあの部屋で死んでるんだぞ。犯人が一度も入っていないなら、どうやって殺す?」
「分かんない」
「そこは分かんないのかよ」
「そこ考えてる」
京子はシュークリームの箱に手を伸ばし、最後の一個を取り出した。空になった箱を見て少し残念そうな顔をしてから、一口かじる。
「なくなった」
「今それはどうでもいい」
孝之が呆れている間も、京子はシュークリームを見ながらコーヒーを飲み、先ほどまで眺めていた写真へ視線を戻していた。小皿や黒いマグカップ、洗われたフォークが写る写真を何枚か動かしたあとで、ふと孝之を見る。
「冷蔵庫」
「は?」
「昨日、あの部屋に冷蔵庫あったよね」
「そりゃあるだろ」
「中、調べた?」
「当然だ」
「何入ってた?」
孝之はスマートフォンで現場記録を開いた。飲料水やビール、調味料、保存容器、ペットボトルなど、冷蔵庫内から確認された物が記録されている。画面を下へ送っている途中で、孝之の指が止まった。
「どうしたの?」
孝之はもう一度記録を確認し、京子が食べているシュークリームへ目を向けた。
「写真ある?」
「ああ」
冷蔵庫内部を撮影した写真を表示すると、京子はスマートフォンを覗き込み、しばらく何も言わなかった。
「京子?」
「これ、見たい」
「何を?」
「冷蔵庫にあったもの、全部」
「なんで?」
「たぶん、そこにあるから」
「何が?」
京子は答えず、最後のシュークリームを食べ終えて空になった箱を閉じた。
「所沢のおじさんのところ行こ」
「警視だ」
「あ、そうだった」
「お前、何か分かったのか?」
「まだ。でも確かめたい」
「何を?」
「犯人が、あの部屋に入らなくてもよかった理由」
そう言って京子は歩き出したが、玄関とは反対方向へ向かっていた。
「京子、そっちトイレだぞ」
「知ってた」
「嘘つけ」
京子は何事もなかったように向きを変えた。孝之はスマートフォンに残った冷蔵庫の写真を見ながら、そのあとを追った。京子が何を見つけたのかはまだ分からないが、少なくとも彼女はもう、犯人が密室からどう逃げたのかを考えてはいなかった。
ご意見ご感想あればぜひぜひコメントしてください。一言でも構いません。励みになります。
私はいつでもMinority




