第1話 迷子の行き先
齋藤孝之が西条家の玄関を開けると、京子はリビングのソファに寝転がっていた。
「おはよう」
「うん」
濃紺のスーツに白いシャツ、短く整えた黒髪。これから仕事へ向かう途中の孝之は、そのまま洗面所へ寄って手を洗ってからリビングへ戻った。京子はソファから動いていなかったが、戻ってきた孝之を見るなり口を開いた。
「ホットドッグ」
「は?」
「朝ごはん」
「……食ったけど。なんで分かった?」
「ホットドッグ食べた日は、うち来ると手洗うから」
孝之は自分の手を見た。確かに昔から、ホットドッグを食べるとどういうわけか手を汚す。京子の家へ来る時は、そのまま物を触らないよう先に手を洗うのが癖になっていた。
「私もホットドッグ」
「……食いたいのか?」
「うん」
孝之は冷蔵庫に何かあるか確認しようと扉を開け、そこで動かなくなった。電気は点いていて冷気も出ているので故障ではないが、野菜室の隅では半透明の袋に入った何かが液状化し、その隣では白かったはずの保存容器が緑色の斑点に覆われている。奥にはいつ開封されたのか分からない牛乳があり、その横には表面に白い膜の張った何かまで置かれていた。
孝之は静かに扉を閉め、三秒ほど考えてからもう一度開けた。当然だが、何も改善していなかった。
「京子」
返事がないので、孝之は少し声を大きくした。
「京子!」
「なにー?」
「ちょっと来い」
リビングの奥から、裸足のまま西条ジェシカ京子が歩いてきた。短い黒髪は寝癖で片側だけ跳ねている。色白で、顔立ちだけを見れば道を歩けば何人かは振り返る程度には整っているのだが、着ているTシャツには昨日食べたらしいケチャップの跡が残っていた。
孝之が冷蔵庫を指差すと、京子は中を覗いた。
「これは何だ」
「冷蔵庫」
「それは俺も知ってる」
「じゃあ何?」
「中だよ!」
言われて京子はもう一度冷蔵庫を覗き、しばらく眺めてから孝之を見た。
「……冷えてるよ?」
「そういう問題じゃねえ。電源入ってるのに、なんで中がカビだらけなんだよ」
「食べてないから」
「食べろとは言ってない」
孝之は額を押さえた。仕事が忙しく、ここへ来るのは三週間ぶりだったが、それだけで西条家の冷蔵庫には人類がまだ分類していない可能性のある菌類まで繁殖している。
「これ、いつ買った?」
変色した保存容器を指差すと、京子は首を傾げた。
「分かんない」
「賞味期限、去年の十一月だぞ」
「じゃあ食べない方がいいね」
「その判断を去年してくれ」
「なるほど」
京子は素直に頷いたが、たぶん何も分かっていない。孝之はため息をついてゴミ袋を取りに向かった。
幼馴染だからという理由だけで、この家へ顔を出しているわけではない。放っておくと京子は本当にいつか日常生活だけで死ぬのではないかと、孝之はかなり本気で心配していた。そして本人には、その自覚がまったくない。
「そうだ。今日、おばあちゃんのところ行く」
京子が思い出したように言った。
「へえ」
「お使い頼まれてる」
ゴミ袋を広げていた孝之の手が止まった。
「どこへ?」
「知らない」
「お使いだろ?」
「住所もらった」
「それを先に言え」
京子がテーブルの上から小さな紙を持ってきたので、孝之は受け取って住所を確認した。都内で、電車を乗り継げば一時間もかからない場所だった。もちろんそれは、普通に目的地へ向かえる人間なら、という条件付きである。
「一人で行くのか?」
「うん」
「……右と左、分かるか?」
「バカにしてる?」
京子は右手を上げた。
「そっち左」
京子は何も言わず手を下ろした。
「送っていく」
「大丈夫」
「今ので何を根拠に大丈夫だと思ったんだよ」
「子供じゃないんだから」
「子供の方がまだ帰ってくる」
京子が少しだけ頬を膨らませたところで、孝之のスマートフォンが鳴った。画面を確認した瞬間、ついさっきまで幼馴染の冷蔵庫に頭を抱えていた表情が消える。
「齋藤です」
仕事の連絡だった。短いやり取りをして通話を切った孝之は、時間を確認するとゴミ袋を置いた。
「悪い。行かなきゃならなくなった」
「うん」
「本当に一人で大丈夫か?」
「孝之は心配性だね」
誰のせいだと言いかけたが、何十回も繰り返した会話なのでやめた。
「着いたら連絡しろ。分からなくなったら地図を見る。知らない道に入らない。あと、人の後ろについていくなよ」
「子供じゃないってば」
「そこだけは本当に頼むから覚えとけ」
「はいはい」
孝之は靴を履いて玄関を出たが、最後まで不安は消えなかった。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、京子も家を出た。黒いパーカーに細身のパンツ、白いスニーカーを履き、ベースボールキャップを深めに被っている。耳には大きめのヘッドホンをつけ、祖母から預かった紙袋を片手に駅へ向かった。
二時間後、京子は知らないマンションの前にいた。
ヘッドホンを首へずらしてスマートフォンに表示された住所と目の前の建物を見比べると、特に迷う様子もなく中へ入っていった。本人はここが目的地だと思っているが、住所どころか区まで違っている。
祖母から預かった紙袋にはシュークリームが入っていた。家を出た時には六個あったが、ここまで来る途中で一個食べたため、今は五個になっている。
エントランスの先には左右に廊下が延びていた。京子は左へ進んだが、本来この建物で目当ての部屋へ行くなら右だった。もっとも、このマンション自体が目的地ではないので、どちらを選んでも正解にはならない。
しばらく歩いた末に管理人室を見つけ、京子は中にいた初老の管理人へ住所を書いた紙を差し出した。
「あの。ここ、どこですか?」
「はい?」
管理人は紙を確認し、それから京子を見ると、もう一度紙へ視線を戻した。
「……ここじゃありませんね」
「え?」
「こちら、○○区ですよ。この住所は△△区です」
「はい」
「かなり離れてます」
京子は紙と管理人を交互に見た。
「違います?」
「かなり」
少し考えた京子は紙袋から二個目のシュークリームを取り出した。
「食べるんですか?」
「考えるとお腹空くので」
「はあ……」
管理人が困ったように返したところで、室内の電話が鳴った。
「はい。……ええ。はい……またですか?」
電話の内容を聞くうちに管理人の表情が変わり、「分かりました。すぐ伺います」と答えて受話器を置いた。壁に掛かっていた鍵を手に取り、京子へ頭を下げる。
「すみません、少し席を外しますので。外へ出るなら、こちらを出て右です」
「右」
「はい。右です」
京子は頷いた。管理人が歩き出すのを見送りながらシュークリームを食べ、少し迷った末、その背中についていった。右がどちらだったか分からなくなったので、人についていけばどこかへ出られるだろうと考えたのである。
◇ ◇ ◇
七階でエレベーターを降りると、廊下にはスーツ姿の男や制服警官が数人集まっていた。その中心には四十代くらいの長身の男がおり、精悍な顔立ちと無駄のない立ち姿から、京子にも周囲の人間が彼の指示を待っていることくらいは分かった。
「お待たせしました」
管理人が頭を下げると、男は玄関の方へ目を向けた。
「鍵は?」
「あります。ただ、先ほども申し上げましたが――」
「分かっています」
京子は少し離れたところでシュークリームの残りを食べていた。管理人は警察関係者だと思い、警察は住人か関係者だと思ったらしく、誰も彼女に声をかけなかった。京子自身も自分が何階にいるのかよく分かっていない。
管理人が玄関の鍵を開けてドアを押すと、十センチほど開いたところで止まった。
「やはり……内側からドアガードが掛かっています」
長身の男が隙間から室内を確認した。
「呼びかけは?」
「何度もしました。電話にも出ません」
「窓からは?」
「七階です。隣室からベランダも確認してもらいましたが、窓は閉まっているそうです」
やがて応援が到着してドアガードが外されると、長身の男は管理人に廊下で待つよう伝えて室内へ入った。京子も特に疑問を持たず、その後ろについて中へ入った。
リビングには男性が仰向けに倒れていた。長身の男がすぐに近づいて首元へ指を当てたため、京子は入口でシュークリームを持ったまま足を止める。
「……死んでる?」
男が振り返り、そこで初めて京子を真正面から見た。ベースボールキャップの下から短い黒髪が覗き、飾り気のない服装をしているが、よく見ればかなり整った顔立ちをしている。
「……誰だ、君は」
「西条京子です」
「そういう意味じゃない。なぜ君がここにいる」
京子は少し考えた。
「こっちだと思って」
「何が?」
「出口」
男の眉間に皺が寄った。
「君はこの部屋の関係者じゃないのか?」
「何の?」
「この部屋のだ」
「違います」
「では、なぜ入った」
「おじさんが入ったから」
「おじ――」
男が何かを言いかけたところで、玄関から別の声がした。
「警視」
京子が顔を上げる。
「孝之」
「……は?」
齋藤孝之がリビングへ入ってきた。朝と同じ濃紺のスーツ姿だが、今はネクタイまできっちり締まっている。床の遺体と上司、そしてその横で食べかけのシュークリームを持っている幼馴染を順番に見たあと、ようやく状況を理解した。
「なんでお前がいるんだよ!」
「迷った」
「どこからどう迷ったら殺人現場に入るんだよ!」
「齋藤」
長身の男――所沢一警視が低い声で呼んだ。
「知り合いか?」
「……幼馴染です」
「連れて出ろ」
「はい。すみません」
孝之が京子を連れ出そうと近づいたが、京子は室内を見たまま動かなかった。床に倒れている男やテーブル、窓、開いたカーテンにゆっくり視線を動かし、やがてテーブルの上へ目を戻す。
そこには二つのマグカップがあった。白いカップには半分ほどコーヒーが残り、縁には薄く口紅の跡がついている。黒いカップには底が隠れる程度のコーヒーしか残っておらず、縁には乾いた白い汚れがわずかについていた。近くにはシュガーポットがあり、二つのカップから少し離れた場所には何も載っていない小さな皿が一枚置かれている。
「京子、行くぞ」
返事がない。孝之は幼い頃から、何かが気になった時の京子がこうなることを知っているので、もう一度少し強く名前を呼んだ。
「京子」
ようやく京子が顔を上げた。
「孝之。この人、一人暮らし?」
「知らない。俺も今来たばかりだ」
「ふうん」
京子がまたテーブルへ目を向けたので、所沢もその視線を追った。
「何を見ている」
「コーヒー」
「それがどうした」
京子はすぐには答えなかった。黒いマグカップを見たあと、手に持っているシュークリームを一口かじり、口元についたクリームを指で拭ってからもう一度カップを見る。
「おい、こんなところで食うな」
孝之に止められ、京子はシュークリームを持った手を下ろした。
「このコーヒー、おかしい」
所沢は黒いマグカップを確認したが、見たところ普通のブラックコーヒーにしか見えない。
「何がおかしい」
「分かんない」
「分からない?」
「うん。でも、おかしい」
所沢は納得できない様子だったが、孝之は何も言わなかった。京子がこういう時、本人にもまだ答えは見えていない。それでも何かが噛み合っていないことだけは、昔から何度も当ててきた。
孝之がもう一度促すと、今度は京子も素直に玄関へ向かった。ただ、部屋を出る直前に一度だけ振り返り、テーブルの上の二つのマグカップを見た。
朝、自分の手の洗い方だけでホットドッグを当てた女が、今度は理由も分からないまま、一杯のブラックコーヒーをおかしいと言っている。
孝之には、その違いの方が少し気になった。




