第11話 回転寿司がやってきた
翌朝、千葉明美は玄関の方から聞こえてくる大きな物音で目を覚ました。西条家で暮らし始めて二日目。時計を見ると、まだ八時前だった。来客があるとは聞いていないし、宅配便にしては人の声が多い。
部屋を出て階段を下りると、玄関には作業着姿の男たちが何人も出入りしていた。長い金属製の部品や大きな箱が次々と運び込まれ、そのままダイニングへ消えていく。
「……何これ?」
明美が立ち止まっていると、リビングの方から京子が出てきた。寝癖のついた髪に、大きめのTシャツ。まだ完全には目が覚めていないらしく、裸足のまま作業員たちを眺めている。
「京子ちゃん、これ何?」
「知らない」
「知らないの?」
「起きたらいた」
「人じゃなくて、運んでる物の話」
「分かんない」
ちょうどその時、二人の前を細長いレーンが通り過ぎた。明美は見覚えのある形に気づき、運ばれていく先を目で追った。
「……これ、回転寿司?」
京子もレーンを見る。
「回転寿司?」
「私に聞かないでよ。昨日、喜一さんに何て言ったの?」
「回転寿司食べたいって」
「それだけ?」
「うん」
明美は昨夜の電話を思い出した。京子が喜一に「明日、回転寿司食べたい」と言い、喜一が「用意しておく」と答えていた。店を予約するか、どこかへ連れていってくれるものだと思っていたが、どうやら喜一の考える「用意」は少し意味が違ったらしい。
「喜一さん、家に持ってきたの?」
「そうなの?」
「たぶん、そうでしょ」
「すごいね」
「京子ちゃんが驚く側なの?」
「初めて見た」
「私もよ」
作業員たちはダイニングのテーブルを避けながら、レーンの組み立てを始めている。京子は少し近づき、邪魔にならない場所からその様子を眺めた。
「回る?」
「回転寿司なんだから回るんじゃない?」
「いつ?」
「今から聞くの?」
「うん」
明美は近くにいた作業員に目を向けたが、さすがに作業中の人を捕まえて聞くほどではないと思い直した。
「完成するまで待ちなさい」
「どれくらい?」
「知らないよ」
「そっか」
京子はそのままレーンを見ていた。
しばらくして試運転が始まると、空の皿が一枚だけレーンに載せられた。スイッチが入ると皿がゆっくり動き出し、京子の前を通り過ぎていく。
「動いた」
「動いたね」
京子は椅子から立ち、皿を見ながらテーブルの反対側へ歩いていく。
「京子ちゃん?」
そのまま皿について一周し、元の場所まで戻ってきた。
「座ってれば戻ってくるよ?」
「知ってる」
「じゃあ、なんでついていったの?」
「見たかった」
京子はまた椅子に座り、次の一周を待った。
「楽しそうね」
「うん」
明美は笑いながら、玄関からまだ運び込まれてくる荷物を見た。
「でもこれ、寿司はどうするんだろ」
「まだないよ」
「それは見れば分かる」
「お腹すいた」
「まだ朝だからね」
「回転寿司は?」
「だから今作ってるんでしょ」
京子は納得したように頷き、またレーンへ目を戻した。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
明美がモニターを見る。
「美弥さんだ」
京子も振り返った。
明美が玄関を開けると、美弥の隣に六十歳ほどの男が立っていた。白髪交じりの短い髪に、日に焼けた顔。美弥は男を中へ招きながら、ダイニングでレーンを眺めている京子を呼んだ。
「京子ちゃん。こちら角倉進一郎さん。今日のお寿司を握ってくださるの」
京子は立ち上がり、角倉に軽く頭を下げた。
「西条京子です」
「角倉です。よろしくお願いします」
角倉が組み上がったレーンの内側へ入る。京子はその姿を見てから尋ねた。
「親父が握るの?」
明美が思わず笑い、角倉も声を上げた。美弥だけが少し困ったように京子を見る。
「京子ちゃん、角倉さんよ」
「お寿司屋さんだよ?」
「そうだけど、親父はどうかしら」
「私は構いませんよ。カウンターに立ったら親父なんでしょう」
「うん」
「じゃあ今日は親父で」
京子は納得して椅子に座った。角倉が準備を始めると、美弥も明美の隣に腰を下ろした。
やがてレーンが動き出した。大間の本マグロ、明石の鯛、関サバ、煮ハマグリ、江戸前の穴子。角倉が握った寿司が一皿ずつ京子の前を通っていく。
京子はすぐには手を伸ばさず、一枚の皿が自分の前を通り過ぎると、その行方を目で追った。反対側を回り、再び戻ってきたところでようやく取る。
「京子ちゃん、さっき取ればよかったんじゃない?」
「戻ってくるか見てた」
「回転寿司だから戻ってくるよ」
「戻ってきた」
「うん。よかったね」
表情はほとんど変わらない。それでも次の皿が流れてくるたびに京子の視線だけが一緒に動いているので、明美には楽しんでいることだけは分かった。
何皿か食べたところで、美弥が角倉に声をかけた。
「角倉さん、お店の方はどう?」
「店は変わりません。ただ、少し困っていることがありまして」
角倉は寿司を握りながら答えた。
「川島奈津子という仲居がいるんですが、最近どうも様子がおかしいんです。十二年になりますから、店のことはよく分かっている人なんですけどね」
「何かあったの?」
「ここ二、三か月、遅刻したり急に休んだりするようになりまして。それまではそんなこと、一度もなかったんです」
明美が角倉を見る。
「体調が悪いとかじゃないんですか?」
「本人はそう言うんですが、その少し前には給料を前借りできないかと相談してきたんです。ところが最近になって、急に羽振りがよくなったようでしてね。事情があるなら無理に聞くつもりもないんですが、ちょっと気になることもありまして」
京子は流れてきた皿を一枚取った。
「何?」
「五年くらい前の酒の伝票を見せてほしいと言ってきたんですよ。それも何枚か、日付まで指定して」
「川島さんがお酒の仕入れをしてるの?」
「いえ。そこは川島の仕事じゃありません」
「お酒飲む?」
「ほとんど飲みませんね」
「伝票ある?」
「店に保管してあります」
「酒屋は?」
「田辺酒店です。昔からずっとうちに入れてもらってます」
「五年前も?」
「ええ。今よく配達に来る田辺浩司も、当時から店を手伝っていました」
京子は少し考えたあと、また流れてきた寿司を取った。
「見たい」
「伝票をですか?」
「うん」
「構いませんよ。ただ、川島が気にしているものですから、先に本人に話を聞いてからにしましょうか」
「うん」
明美は二人の会話を聞きながら、ふと気になって尋ねた。
「角倉さんのお店って、どちらなんですか?」
「銀座です。『鮨 かどくら』という店をやっています」
明美の手が止まった。
「えっ?」
角倉が顔を上げる。
「もしかして、あの『鮨 かどくら』ですか?」
「ご存じですか」
「知ってますよ。予約が全然取れないお店ですよね?」
「ありがたいことに」
明美は角倉を見て、それからレーンを流れていく寿司を見た。
「その大将が、今ここで回転寿司やってるんですか?」
「親父だよ」
京子が皿を取りながら言った。
「京子ちゃんは食べてて」
「うん」
角倉が笑いながら次の寿司をレーンに載せる。
「そういえば、ちょうど明後日の夜にキャンセルが一組出たんですよ。よかったら、その時にいらっしゃいますか。川島が店にいれば話も聞けます」
「行く」
京子がすぐに答えると、美弥が「あら」と声を上げた。
「明後日なの? 私、その日はニューヨークに行かなきゃだわ」
美弥は明美を見る。
「明美さん、私の代わりに京子ちゃんと行ってくれる?」
「えっ? 私が行っていいんですか?」
「ええ。お願いできる?」
「はい。ぜひ」
明美の返事は早かった。
角倉が最後の寿司をレーンに載せる頃には、京子の前にかなりの数の皿が積み上がっていた。それでも京子は最後の一皿が一周するまで目で追い、目の前へ戻ってきたところで取った。
「終わり?」
「今日はこれで終わりです」
「そっか」
角倉がレーンのスイッチを切る。朝から西条家のダイニングを回り続けていた皿の流れが止まった。
京子は止まったレーンをしばらく見てから、角倉に顔を向けた。
「親父」
「はいよ」
「おいしかった」
「ありがとうございます」
「明後日も回ってる?」
「うちは回ってません」
「そっか」
京子はそれ以上聞かなかった。
その隣で、明美はまだ少し浮かれていた。予約が取れないことで知られる銀座の鮨店に、キャンセルが出たその日に入れる。京子についていく仕事を始めて、まだ二日目だった。
◇ ◇ ◇
二日後の夕方、明美は京子を乗せて銀座へ向かっていた。
「京子ちゃん、今日はお店まで私と一緒に行くからね」
「うん」
「途中で一人でどこか行かないでね」
「行かないよ」
「なら大丈夫」
明美はそう答えたものの、京子の「行かない」が本人の意思を示しているだけで、目的地へ正しく着けるという意味ではないことは、この二日でだいぶ分かってきていた。
指定された駐車場に車を停め、二人で店へ向かう。明美はスマートフォンの地図を確認しながら歩いていたが、隣の京子が交差点で立ち止まった。
「こっち?」
「右」
京子が左を向く。
「そっちは左」
「こっち?」
「そう。私についてきて」
「オッケー」
数分後、明美は足を止めた。
控えめな暖簾と、小さく掲げられた「鮨 かどくら」の文字。昨日までなら前を通っても、自分が中へ入ることなど考えもしなかった店だった。
「……本当に来ちゃった」
「着いた?」
「着いたよ」
「よかった」
「京子ちゃんは何もしてないけどね」
「ついてきたよ」
「それは知ってる」
暖簾をくぐると、角倉がカウンターの中から二人を迎えた。
「いらっしゃい。お待ちしてました」
「こんばんは」
「親父」
「はいよ」
明美は思わず京子を見る。
「本当にここでも親父なんだ」
「カウンターだから」
京子は当然のように答えた。
「そういうルールだったね……」
角倉が笑いながら二人を席へ案内した。
「川島はもう来ています。開店までは少しありますから、先に話を聞きますか?」
「うん」
「じゃあ呼びますね」
角倉が店の奥へ声をかける。
しばらくして、着物姿の女性が姿を見せた。四十代半ばほどで、髪をきれいにまとめている。
「川島さん」
角倉に呼ばれ、女性が二人を見る。
「こちら西条京子さんと千葉明美さん。例の伝票のことで、少し話を聞きたいそうなんですが」
川島奈津子の表情が、わずかに引きつった。
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私はいつでもMinority




