第9話『ステージは、ふたたび久留米』
「おかえり、いぶき」
久留米の空気は、ブラジルの熱気とはまた違う、じんわりと肌になじむような静けさがあった。
祖母の家の引き戸を開けた瞬間、いつものように穏やかな声が出迎える。
「ただいま。ちょっとだけ、遠くまで蹴ってきたよ」
帰国してからというもの、いぶきのスマホには通知が鳴りやまなかった。
SNSで拡散された“くるたびステップ”動画が、日本でも話題になりはじめていた。
そんなある日、いぶきは中学のグラウンド近くで、かつてのサッカー部仲間の一人、ミサキとばったり会った。
「いぶき…やっぱ本物やったっちゃね。リオの動画、見たよ」
久しぶりに顔を合わせたミサキは、少しだけ照れくさそうに笑っていた。
サッカー部時代、何度も「チームで動け」って言われ続けて、いぶきのプレースタイルを一番批判していたのがミサキだった。
「私のドリブル、当時は“いらん”って言われたけど…今はもう、違うかも」
そう返すと、ミサキはまっすぐないぶきの目を見て言った。
「うん。“楽しそう”やった。世界中がそれ見て笑ってた。すごかよ、いぶき」
その言葉に、いぶきの胸の奥で何かがほどけた。
自分を否定していた過去の景色が、やっと色を変えたような気がした。
その夜、祖母と縁側でスイカを食べながら話す。
「ねえ、ばあちゃん。私、久留米で凱旋イベントやってみたい。“くるフェスの帰還バージョン。今度はもっと大きくしてさ」
「おお、ええやん。あんたが世界で蹴ってきたその“型”、町の子らにも見せてあげり」
舞台に選んだのは、高良山のふもとにある広場。
桜の季節になると町の人が集まる場所で、昔はよく奉納蹴鞠も行われていたという。
イベント名は**『くるフェス・凱旋編』**。
いぶきの世界大会帰国を記念して、地域と文化とフリースタイルを融合した一日限りの特別ステージ。
内容はシンプルだけど、濃かった。
・いぶきのリオ大会パフォーマンス再現
・地元中高生フリースタイラーとの交流バトル
・子ども向けの足袋デコ体験ワークショップ
・和太鼓ユニットとのコラボ演出
・絣や足袋、地元飲食店の出店なども並ぶ
準備期間は短かったが、SNSを見ていた町の人たち、そして昔のサッカー仲間、学校の先生まで手伝ってくれた。
迎えた当日、広場には小さな子どもたちからお年寄りまで、たくさんの人が集まった。
「ねえねえ、今日の人が、世界大会に出たんよね?」
「足袋でサッカーするんやろ?おもしろそ〜」
広場の真ん中。桜の枝が揺れるその下で、いぶきはくるたびを履いて、ボールを足に乗せる。
太鼓の音が鳴る。高鳴る鼓動とリズムが、ゆっくり重なっていく。
「……いくよ」
ワン、ツー、スリー。
足袋の裏が土を感じる。跳ねる。滑る。自由に弾む。
久留米の土を、音を、風を感じながら、いぶきのステップは舞った。
トリックのたびに、観客から拍手と歓声が上がる。
誰もが、笑っていた。子どもたちも、大人たちも。
——世界のステージも、足袋の先も。全部、ここにつながってる。
パフォーマンス後、サッカー部時代の仲間たちが駆け寄ってくる。
「いぶき、あんた、もう“うちらの誇り”やけん!」
「私も足袋履いて、なんか始めてみようかな〜」
笑いながら、いぶきは答えた。
「やってみん?足袋履いたら、世界が変わるかもしれんよ」
——この町の土を踏んで始まった、私のステップ。
その一歩が、今、また誰かの一歩に変わっていく。